葛西臨海水族園④
葛西臨海公園を、冬希と春奈は並んで歩いていた。
駅を出てから、会話らしき会話はない。
一度改札から出ようと言い出した冬希としても、何かプランがあったわけではない。ただ、あのまま電車に乗って、駅で降りてさようならというのは、よくない気がしていた。
改札を出るとき、冬希達は駅のホームへの入場料を払おうとしたら、事情を知っているので要らないと言われた。改札の窓口に居たのは、車椅子を押していた駅員さんだった。
その後、特に行き先を決めるわけでもなく、なんとなく公園の方向にぶらぶらと歩き、汐風の広場と呼ばれる海が見える広場まで来てしまった。
海は美しいが、もはや冬希はレースのことなど思い出したりはしなかった。
ただ、春奈は太陽の光が反射した海を見て
「綺麗」
と一言呟いた。
汐風の広場の向こうには、ガラス張りの美しいレストアハウスがあり、春奈の一言を受けて、冬希はそちら側に歩き出した。春奈もついてくる。
最短距離を通ろうと、木々の中を通ろうとした時、木の影で抱き合っている男女が居た。
冬希達からすると、死角から突然現れたように見え、二人ともほぼ同時に
「あっ!」
という声が出てしまった。
「ああ?」
派手な服を着た女性を離し、坊主頭で和柄の服を着た男が立ち上がった。身長は冬希より少し低いが、体のボリュームは3倍ぐらいある。
「なんだお前ら」
逢瀬を邪魔された男は、怒気を孕んだ声で冬希達を威嚇しながら向かって来た。
地面に落ちた大量のタバコの吸い柄が、男のサンダルで踏み潰されていく。
普通の高校生ならば、恐怖と動揺で泣き出したくなるような状況だった。
しかし、冬希は泰然自若として、春奈を自分の後ろに庇いつつ、真摯に
「気分を悪くされたなら謝ります。すみません」
と謝罪すら口にした。
数々の勝負の場を潜り抜けてきた冬希にとって、ただの太った男の威嚇など何の意味も持たなかった。
冬希からすれば、ゴールスプリント直前のピリピリした雰囲気の中の坂東や、北海道の土方、山梨の柴田の方が余程恐かった。
冬希の態度には微塵もそんなところはなかったが、一方的に、舐められた、と思った男は、怒りを増長させて冬希に向かってきた。
会話が通じないと見た冬希は
「電車の時間があるので失礼します」
と言って、春奈の手を握り、走り出した。
春奈は、少し驚いた顔をしていたが、ニヤリと笑った冬希の顔を見ると、走りながら小さく頷いた。
「おいこら、待てっ!」
後ろからドタドタと追いかけてくる足音がする。春奈の手を引きながら、冬希が春奈の顔を見ると、「あはは」と笑っている。追い付いてきたら、冬希はもう少しスピードを上げるつもりだった。
冬希は、特別に足が速いというわけではなかったが、自転車ロードレースに参加するようになって、心肺が強化され、ある程度の負荷なら長時間走り続けられるスタミナが備わっている。それに付き合って、毎週土日に一緒に走っていた春奈も、同様だ。
いざとなったら、我慢比べだ、と思っていた冬希だったが、後ろを振り向くと、かなり遠くの方で四つん這いになってバテている男の姿が見えた。
「えぇぇぇぇ」
冬希は、拍子抜けしたように春奈と顔を見合わせる。
履物がサンダルな上に、無駄な脂肪の多い体型だ。最初の20mぐらいまでは勢いがあったかもしれないが、走り出してすぐに息切れし、50mもするとすぐに走れなくなっていた。
冬希が呆れたように
「鍛錬が足りないなぁ」
というと、春奈は、声に出して明るく笑った。
ふと、冬希は春奈の手を握ったままだということに気がついた。だが、春奈も手を振り解こうとしたりはしなかった。
「帰ろうか」
「うん」
冬希は、気づかないふりをして、手を繋いだまま駅に向かって歩き始めた。
二人は、改札を通る直前まで手を繋いでいた。
改札を通るときは、流石に手を繋いだまま通るわけにはいかなかったので、どちらからともなく、手を離した。
改札の窓口の駅員さんは、冬希達の顔を見ると、無言で改札内に通してくれた。
二人は、そのまま電車に乗り、冬希が西船橋駅で降りるまで、特に会話を交わすことはなかった。しかし、先程までの気まずさとは、真逆の静けさだった。
冬希は、電車を降りた後、自分の掌を見つめ、今日のこの感触は、生涯忘れることはないだろうと思った。




