葛西臨海水族園③
食事を終えた冬希と春奈は、ペンギンの所まで戻り、続きを見て回ることにした。
「お、昆布だ。すごいデカい昆布が浮かんでる!」
「そこなの!?黒い硬そうな魚とかいるよ!」
「クラゲだ。可愛いな」
「綺麗だね」
「エトピリカだって、見て見て、なんかペンギンに似てるね」
「どれどれ、うぉ、急に水槽のガラスに滝のような水が!!」
二人は、次々現れる展示一つ一つを、大いに楽しんだ。各々、過去に来たことがあるとは言え、かなり前の話なので覚えておらず、実質初めて来たようなものだった。非日常を楽しんだこと自体に嘘はなかった。
しかし、春奈の心の中に、先程の女子3人組とのことが、小さな影を落していた。
冬希に、一緒に写真を撮ってあげることを勧めておきながら、落ち込んだ態度を取ってしまい、冬希に気を使わせてしまった。楽しみにしていた食事に誘ってくれて、元気付けようとしてくれた。
彼は優しい、と春奈は思う。彼のそんな性格は姉の教育の賜物だと、彼は笑いながら言った。一緒に居て思うのは、それは誰か特定の人にだけ向けられるものではないということだ。自分の気に入った人にだけ優しくするのは、本当の優しさとは言わないというのは、真実だと思った。そういう人は、気に入らなくなった瞬間、その優しさが向けられなくなるということだ。
冬希は、最初に3人の女の子の申し出を断った。私が居なければ、きっと普通に申し出を受けていただろう。受けなかったのは、他者の都合を優先して春奈を待たせるのは筋が通らないと判断したのだろう。
だが春奈は冬希に、自分が理由で嫌われてほしくなかった。だが、春奈は自分が思っていた以上に、冬希が他の女の子と接するのが嫌だったようだ。そのことに春奈は、ショックを受けていた。
「春奈、可愛いぬいぐるみがあるよ」
お土産コーナーで冬希が声をかけてきた。春奈は思考を中断し、冬希の方を見る。
「マグロっ!!」
「うん、すごいマグロ」
冬希が、今釣り上げたかのように、マグロの尾の根元を持ち、春奈を向いて立っている。
「可愛いかなぁ」
「クロマグロって書いてある。見てよ。この厚みと質感」
確かに、マグロのボリューム感を見事に再現している。
「でも、マグロをぬいぐるみにしようと思うのが凄いよね」
「ちょっと欲しいんだけど、今日は姉のお金なので、今度自分のお金で来たときに買おう」
「買うんだ」
冬希は、名残惜しそうにマグロのぬいぐるみを置いた。
建物から出ると、葛西臨海水族園の出口は、チケット売り場とは別のところにあり、そこからさらに、散歩道のようなところで、水棲生物に関するクイズがあり、二人で解きつつ一喜一憂しながら、入園前に通った広場まで来た。
そこでは、先程準備をしていた大道芸人が芸を行なっており、家族連れやカップルを楽しませていた。
「あ、観覧車が動いてるよ」
「え?」
冬希は立ち止まる。
「本当だ」
朝、来る時には動いていなかった観覧車が動いている。立ち止まったのは、観覧車が大きすぎて動きがゆっくりで、自分も止まってみないと本当に動いているか判断がつかなかったからだ。
「丁度いい、乗って行こうか」
「何が丁度いいの?」
「お金がべらぼーに余ってる」
冬希が苦笑しながら財布の中身を見せてくる。そこには、まだ1万円の半分以上の金額が収まっていた。
「マグロのぬいぐるみをうちのねーちゃんのお土産にすればよかったかな」
「そういうの喜んでくれる人?」
「多分、笑いながらマグロでぶたれる」
冬希は、2人分のチケットを購入して春奈の元に戻ると、二人で階段を上がっていく。
「お写真を撮らせていただいています」
そういうルールならと、冬希の身長ぐらいの高さのある観覧車のオブジェの前で、二人で写真に収まる。
そして乗り場まで行くと、丁度見知った人物に遭遇した。
「生徒会長だよ」
春奈が、冬希に耳打ちする。
生徒会長は女の子連れで、冬希と春奈の顔を見つけると、気まずそうに視線を逸らしてそそくさと歩いていく。
冬希達は、係員の誘導に従って黄色いゴンドラに乗り込んだ。
「学校で付き合ってるって人と違う女の人だった」
「本当に?生徒会長、わんぱくだなぁ」
「言い方!」
春奈は、ケタケタと笑っている。
冬希たちの乗るゴンドラは、徐々に高度を上げていく。
「スカイツリーだ」
「あ、本当」
冬希は海側、春奈は陸地側を向いており、お互い向かい合って座っている。
冬希は、観覧車から見える海を見て、全国高校自転車競技会のことを思い出していた。
第1ステージの前後に宿泊した施設からも、博多湾が見えた。第2ステージは、本土最南端の岬だったり、屋久島に至っては、走っている間、ずっと海を見ていた気がする。
第10ステージでは、横風の中、海の中道を立花やチームメイトたちと激走した。
大会が終わってから、レースに出ない生活が続いており、冬希はずっと何か寂しさを抱えてきた。
3日後には全日本選手権だ。再び戦いの中に身を置けることを、冬希は心から楽しみにしていた。
春奈は、冬希をじっと見つめる。
冬希は既に春奈を見ていない。春奈には、はっきりとその事がわかった。だが、そのことに寂しさはない。男の人というのは、そういうものなのだ。
「冬希くん」
「なに?」
「無事に帰ってきてね」
冬希は、キョトンとした。自分が全日本選手権のことを考えていた事を、なぜ分かったのか、という顔だ。
だが、口に出しては
「善処するよ」
とだけ言った。
観覧車を降りた後、冬希は観覧車に乗る前に撮られた写真を購入した。2枚購入して1枚ずつ、と思ったが、1枚しかないということと、QRコードでダウンロードできるということで、写真は冬希が持って帰り、春奈はQRコードを読み取って写真をダウンロードした。
冬希と春奈は、葛西臨海公園駅まで戻ってきた。
二人とも乗る電車は武蔵野線で、冬希の降車駅は西船橋、春奈は南流山だ。
「冬希くん、電車あと10分で来るね」
長い時には、20分待ちなので、二人ともそれほど長いとは思わなかった。
冬希と春奈の待つ駅のホームに、京葉線の電車が入ってくる。
扉が開いた電車に乗り込む列に、冬希と一緒に写真に収まった、3人組のうちの一人の子がいることに気がついた。他の二人の姿はない。おそらく方向が違ったか、一本前の武蔵野線に乗って行ったかのどちらかだろう。
その子は、小さな歩幅でフラフラと電車に歩いていく。
「冬希くん、あの子」
「うん、どうしたんだろ」
電車に乗り込み、扉側を向く、が直ぐに膝をついて座り込んだ。
目の前の車両の車内が、騒然とする。
冬希が京葉線の電車に乗り込み、春奈が後に続く。
「立てる?」
冬希が声をかけるが、意識が朦朧としており、返事がない。
「一旦降ろそう」
冬希の判断は早かった。このまま電車に乗せていても、彼女の面倒を見てくれる人は居そうにない。そもそも今のままでは、電車自体が出発できないだろう。
春奈と冬希は、両側から支えて彼女を電車から下ろすと、駅のホームのベンチに向かう。
春奈の反対側で彼女を支える冬希を見て、近い、という言葉が春奈の脳裏に蘇る。
春奈は小さく頭を振り、その言葉を追い払う。今は緊急事態なのだ。そんなことを考えること自体がどうかしている、と春奈は思った。
二人でホームのベンチに彼女を座らせた。
電車は扉が閉まり、何事もなかったかのように発車する。
冬希はしゃがんで、ベンチに座らされた彼女に話しかける。その姿を春奈は、一歩下がった位置から見つめている。
冬希は、座らせられた姿勢が辛そうな彼女を、横に寝かせようと手を伸ばした。
「えっ?」
冬希は、袖を誰かに握られた感覚に驚き、振り返る。
春奈が、冬希の袖を握っていた。
「あ、ごめん・・・」
春奈は、怯えたような目をしたまま冬希の袖を離し、おぼつかない足取りで2、3歩下がった。
動揺したのは冬希も同じだった。
しばらく固まると、
「駅員さんを呼んでくる」
と言ってその場から走り去っていった。
春奈は、呆然としていた。自分の取った行動が信じられなかった。
冬希は、善意で彼女を介抱しようとしていた。あろうことに、自分はそれを止めようとしたのだ。
理由は自分でもわからない。咄嗟に体が動いていた。いや、理由はわかっていた。冬希が、これ以上彼女に触れるのが耐えられなかったのだ。
自分はなんということをしようとしたのだろうか。春奈は動揺した。
ふと、目の前に自販機があることに気がついた。
あ、と思い出し、春奈は自販機の前に立つ。自動的に利用者の年齢や性別を判断し、おすすめの商品を提案して来るタイプだった。
優雅にミルクティーなどを勧めてくるのを全て無視し、水を選択する。
買った水のボトルを手に、ベンチに戻りながらキャップを外す。
「飲める?」
春奈は彼女に聞いた。
彼女は小さく頷くと、ペットボトルの水を飲み始める。
4分の1ほど飲んだところで、冬希が駅の職員2名を連れて小走りに戻ってきた。そのうち1名は、空の車椅子を押している。
駅員は、水を飲んで少し元気を取り戻した彼女に、色々と話しかけている。
春奈と冬希は、それらを少し下がったところから見ていた。
武蔵野線の電車が到着し、冬希たちを乗せないまま発車していく。
駅員は彼女と話をし、駅員室で休ませることになった旨を伝えてきた。歩けるので、車椅子は不要ということで、一人が支え、もう一人が空の車椅子を押したまま、ホームのエレベーターに向かって行った。冬希と春奈は、それを見送った。
「春奈、水を飲ませてあげたの?」
「うん、貧血の時には、水を飲むと良いってお母さんが言ってたから」
「貧血ってよくわかったね」
「女の子の事情です」
春奈は、駅員たちの後ろ姿から目を逸らさないまま苦笑する。
「電車、行っちゃったね」
春奈が言った。
「うん。次は20分後だね」
冬希が、ホームの電光掲示板を見ながら言った。
少し気まずい雰囲気だ。冬希も、先程の春奈の行動に動揺したままだ。
「一旦改札を出て、ちょっと公園を散歩しようか」
気まずいまま別れると、そのまま元の関係に戻れなくなるのではないか、冬希は経験的に心配していた。
「うん・・・」
二人は、ホームから改札に向かって歩き始めた。