そして全日本選手権へ
翌日、放課後の部室に郷田はやってきた。
「郷田さん、いいんですか?」
何が、とは言わない。だが、全員にその意味するところはわかっていた。
「ああ、着替えを届けに行っていただけだからな。大丈夫だ、青山」
メンバー全員に、安堵の小さなため息が漏れた。
すぐに監督兼神崎高校理事長の神崎秀文がやってきて、ミーティングが始まった。
「まず、7月上旬の全日本選手権のコースが決まった」
全日本選手権は、全国を持ち回りで行われており、今年は北海道で行われる予定になっていた。
「ひがしもこと芝桜公園から能取湖までの、111kmのコースだ。途中からずっと平坦だが、序盤に藻琴峠と美幌峠の2つの山岳がある」
冬希は、うげっと思った。
「うげっ」
「青山、心の声が漏れているぞ」
船津が苦笑する。
「青山君と船津君、どちらのエースを出すかというと、大体どちらでも良いんだけど、今回はゴールが平坦なので、青山君を出そうと思っています」
「喜んで!」
冬希が言うが、柊から、今更遅いんだよ、と頭を叩かれる。
「青山君は、ヒルクライムの練習をしておくように」
二人の様子を見て神崎が苦笑しながら言った。
「なので、全日本選手権は、青山君エースで郷田君。インターハイは、船津君エースで、潤君と柊君という体制でいこうと思います」
神崎は方針だけ告げると出ていき、残りは選手たちだけでミーティングとなった。
「全10ステージで総合優勝を決める全国高校自転車競技会に比べ、全日本選手権は、1日で優勝を決める、いわばワンデーレースだ」
潤がホワイトボードに書きながら、冬希に説明していく。
「冬希、ステージレースとワンデーレースで、どういった違いが出てくるかわかるか?」
「うーん、今説明してもらったこと以外は特に思い付きません」
「そうか」
潤は、整った唇にホワイトボード用のペンを当て、少し考える。
「冬希、俺が全国高校自転車競技会で、レース前によく言っていた言葉を覚えているか?」
「えっと、柊の言うことは聞き流しておけ、でしたっけ」
「そんなわけないだろ!」
柊が冬希の首を後ろから締める。
「確かにそれも言ったが、それじゃない方」
「言ったのかよ!」
柊が驚きのあまり顔を上げる。
「無理せずにゴールまで帰ってこい、ですか?」
「そうだ。ステージレースでは、第1ステージでリタイアすると、残り9ステージは出場できなくなる。チームにとっては、1名欠けることは大きな痛手になるので、アシストの選手も、走れなくなるほどの無理まではしない」
「あー、ワンデーレースの場合は逆に、アシストが死ぬ気で仕事するんですね」
「正解だ。1日限りだから、チームの誰かを全力でサポートして、それが終わったらリタイアしてしまうことも出来る。なので多少の無茶は当たり前になる」
潤は、あえて冬希に考えさせようとしている。潤は教師に向いているのではないかと、郷田は思った。
「それだけじゃない。これはエースに関わることだが、わかるか?」
「今のアシストの話でなんとなく。ステージレースはその日に失敗しても、次のステージで挽回することができるけど、ワンデーレースは、その日に勝たなければ次はないから、みんな凄い勝ちを意識するのかなと思います」
「まあ、いいだろう」
潤は及第点を与えた。
「しかも、全日本選手権は、その後に出場するすべてのレースで、ナショナルジャージの着用が許される。この名誉は、高校生ロードレーサーの全てが憧れる」
「坂東さんが着てたやつですね」
冬希は、坂東が着用していた白地に日の丸があしらわれたジャージを思い浮かべていた。
「坂東は手強いぞ、冬希。ステージレースでは慎重なレース運びをするが、ワンデーレースでは猛獣のように襲いかかってくる。恐ろしい男だ」
船津が言った。船津にとって同じ学年の坂東は、意識せずにはいられない存在だった。
「ああ、去年の主要なワンデーレースで坂東が出場したレースは、露崎が出たレース以外は全て勝っている」
「そんなに凄いんですね。というか、その露崎さんて人は誰なんです?」
冬希は、良く比較されているので名前はだけ知っているが、どんな人なのかわからなかった。
「露崎は、去年の全国高校自転車競技会で、最初のスプリント3ステージ、そして山岳の第4ステージも圧勝して、国内に敵が居なくなってしまったことで、そのまま棄権して海外に行った、とんでもない選手だ」
「……凄いですね」
「まぁ、1年生で同じく4勝を挙げたお前も十分凄いが、あれはスプリントも山岳もどちらも無敵な、フィジカルの化け物だった。尾崎も丹羽も、四大スプリンターと言われた松平たちも、みんな手も足も出なかった」
船津が遠い目をしながら言った。
「身体能力がずば抜けていた。ワンデーレースで無敵の強さを誇っていた坂東も、露崎には完全に子供扱いだった」
郷田も当時を思い出したのか、難しい顔をしている。
「まあ、露崎が全日本に出てくることはないだろうから、戦う機会はないだろうな」
海外で活躍している露崎は、国内のレースに出ていないため、全日本選手権の出場資格を満たしていなかった。無論、高校も辞めているわけであって、インターハイに出てくる事もない。
「まあ、レースで遭わないことを祈ってます」
冬希が手を合わせて南無南無と拝む。
「だが、露崎が海外に行ってからは、坂東もワンデーレースで無敗だ。強敵には違いない」
船津の一言に、流石に冬希も背筋を伸ばす。
「はい、あの人何仕掛けてくるかわからないから怖いんですよね」
「ああ、それもそうだが、ある程度は山に登れるようになっておかなければ、最初から勝負にならないぞ」
「練習……します」
冬希は、床に大の字になってぼんやりと部室の天井を眺めた。