青山冬希、ハイケイデンス事件
優勝が決まった後も、次々と選手たちがゴールしてくる。
ルールによっては、先頭の選手に周回遅れにされた時点で、失格とされるものもあるが、今回は新人戦ということで、先頭の選手がゴールするまで、走ることを許されていた。
集団スプリントに参加できた選手たちは、幸運だった。彼女たちは、何度もゴールシーンを思い出しながら、自分がゴール前でどう動けば優勝できていたかを考え、そのために必要な力を身につけるべく、努力することができる。
かといって、ゴールスプリントに絡めなかった選手は、何も得るものがなかったかというと、そういうわけでもない。彼女たちは彼女たちで、せめて集団に残れるぐらいの持久力を身につけるという課題が課せられることになる。
「青山、今日はありがとう。選手たちも本当に楽しんでレースをすることができた。途中でリタイアを申し出る子がいなかったのは、今回が初めてだそうだ」
今崎は、少し嬉しそうに冬希に言った。毎年新人戦では、1番最初に集団からちぎれた選手が、心が折れて序盤で棄権したり、落車して怖くなって、レースを途中で辞めてしまい、場合によってはそのまま退部してしまう選手も居た。全てが冬希のおかげかどうかはわからないが、大きく影響したことは間違いないと、少なくとも今崎は思っていた。
「それに」
今崎の後ろから、上品そうな可愛い女子選手が顔を出した。
「今日はありがとうございました。おかげさまで3位に入れました」
「あ、はい。えっとこちらの方は?」
冬希が、しどろもどろになりながら聞く。
「俺の妹だ」
「今崎雪乃です」
「あ、どうも、おめでとうございます」
冬希は、突然のことに何と返事をして良いのか分からなくなり、自己紹介に対して3位入賞のお祝いを言ってしまった。
「青山君、時間があるかね?」
少々気まずい気持ちになっていた冬希に、救世主が現れた、と冬希は思った。おゆみ野高校の顧問の先生だ。新人戦の幹事は毎年持ち回りで、今年はおゆみ野高校が幹事となっており、その関係上、今崎がサポートライダーとして招集されたということだった。
「せっかくなので、表彰式のプレゼンターを君にやって貰いたいんだが」
救世主じゃなかったー、と冬希は心の中で叫んだ。
「私が賞状を渡すことになっていたのだが、私のようなおじさんが渡すよりも、君の方が選手たちも喜ぶと思ってね」
近年、例を見ない程の成功だった新人戦に、幹事として胸が一杯なおゆみ野高校の顧問は、感謝の気持ちも込めて、表彰する栄誉を冬希に与えようと思ったようだ。
「わかりました」
そこまで言われたら、断ることはできない。そもそも冬希自身、全国高校自転車競技会では、選ばれた地元の女子生徒から各賞のジャージを着せてもらっていたりした。ここで断るのは、そういった人たちも侮辱する行為のように思えたのだ。
1位、大津幸子。2位、大島百合子。3位、今崎雪乃。
冬希は、おゆみ野高校の顧問のアナウンスに従い、順番に表彰状を渡し、握手していく。握手までするつもりは無かったのだが、3位の雪乃から握手を求められた為、その流れで全員と握手することになった。
優勝した幸子が、なかなか冬希の手を離さないといったトラブルがあったが、冬希は無事に表彰式の役割まで終えることができた。
表彰式の後は、冬希は一緒に写真を撮って欲しいと言う女の子たちに囲まれ、写真撮影に応じていたが、流石に人数が多すぎるため、おゆみ野高校の顧問が、「1校1枚まで」という制限を設けてくれたおかげで、各校の記念撮影に冬希が混ざる、といった形式で落ち着いた。この時ばかりは、冬希はおゆみ野高校の顧問に感謝した。
「お待たせ、帰ろうか」
「随分モテモテだったねぇ」
春奈の、じとっとした視線にたじろぎながらも、冬希は自分の自転車にまたがる。
「あれ?」
「どうしたの?」
春奈が心配そうに聞く。
「ギアが変わらない」
冬希は、焦りながら色々なところを覗き込む。
「あ、電池切れかも」
「電池切れ?」
冬希のロードバイクは、電気信号でギアチェンジを行うdi2というモデルだった。
「自転車のハンドルの中に、ジャンクションAっていう機械があるんだけど、電気がつかない」
「いつから充電してなかったの?」
「覚えてない……」
冬希は、頭を抱えた。電池はかなりもつということだったので、もしかしたら全国高校自転車競技会の前から充電していなかったかもしれない。
「ギアを変更しなくても、走れるんじゃないの?」
「走れるには走れる」
冬希は、涙目になりながら春奈を見上げた。
「じゃあ、何が問題なの?」
「ギアが、超低いところに入ってるんだよ」
冬希は再び頭を抱えた。
今、チェーンが入っているところは、前後のギア合わせて22段あるうちの、下から2番目だった。
「上の公民館で、コンセント借りれば?」
「充電器がない……」
「じゃあ、どこかの学校の充電器を借りるとか」
「電動コンポを使ってる選手は今日居なかった」
「あー、じゃあだめだ」
春奈は、お手上げだと、小さくバンザイした。
会場では、選手や自転車を乗せた、ハイエースなどの大型のワゴン車が次々に動き出そうとしていた。
「もう、これで帰るしかない」
冬希は、意を決して自転車を漕ぎ出した。しかし、なかなか前に進まない。
「うおおおおおお」
冬希は、必死にペダルを回す。
「冬希君、すごい。漫画みたいに足がくるくるってなってるよ!」
春奈は、漫画のキャラが走る時にぐるぐるで足を表現するのを思い出していた。
冬希の自転車の、ハンドルに取り付けられているサイクルコンピュータのケイデンスの値は、120を超えていた。ケイデンスとは、1分間にペダルを回す回数のことで、通常のトレーニングでもレースでも、大体80を目安にすることが多く、冬希が全国高校自転車競技会でステージ優勝した時の、スプリント時のケイデンス数でも100を少し超えるぐらいだった。
大津幸子が春奈の近くまで来て言った。
「青山選手、これが光速スプリンターのトレーニング方法なの?私も取り入れようかしら」
「多分違うから、やめといたほうがいいよ」
春奈は、すぐに冬希に追いつき、二人で再び自走で学校を目指した。di2用の充電器はそこにある。
冬希は、ひたすらペダルをくるくる回す。どんなに回しても時速20km以上は出ない。
結局冬希は、平均ケイデンス100前後、平均時速20kmで2時間かけて学校に帰る羽目になった。
帰りに利根川沿いのサイクリングロードですれ違う自転車乗りたちから、指を差されて爆笑された。
以上が、千葉県の女子自転車競技部に語り継がれることになる、「青山冬希、ハイケイデンス事件」の顛末であった。