第三話 力
その声を聞いて俺はとっさに窓から外を眺めた。
人々が口々に何かを叫びながら逃げ惑っている姿が見えた。
「奴らがもう来たんだわ」
アネッサがそう言うなり、宿屋の外へ飛び出していく。ハンナと共に俺はその後を追う。
まるで戦争じゃないか。宿屋から出て見渡した光景は、そう言う他のないものだった。
大勢の群衆がまるでサメに追い立てられる魚の群れのようにして逃げ回り、時折呆然とする俺の肩にぶつかる。
迷宮から生還できたからもう安全だと思っていた。しかし現実はあの迷宮から続いていて、そこから這い出した魔物が今すぐそこまでやってきているのだ。
俺はぶるっと身体を震わせた。
「ぼっとしてないで! 早く逃げるわよ!」
後ろからアネッサの声がして、振り返ろうとしたときだった。
視界の端に何かが写ったのだ。
それは明らかにこの町の景色として異質な異物。だから俺はそっちに気を取られた。
人の1.5倍ほどの背丈と全身を覆う薄汚れた被毛。その目からは敵意と殺意しか感じさせない。人狼、と呼ばれる魔物だった。
その人狼が踏み込まれればこちらに届く距離まで忍び寄っていたのだ。
「う、うわああああ!」
俺は突然の出来事に混乱し、生まれて初めて腹の底から叫び声を上げた。
逃げる? だめだもう懐に入り込ま──。
殺られると思ったそのとき、空気を切り裂くような鋭い音が起こった。
それは一本の矢だった。矢は人狼の太い首の中央を正確に刺し貫いていた。
驚きと苦しみの声を上げて崩れ落ちる人狼。そして矢が飛んできた方向を振り返ると、弓を構えたアネッサがいた。
「なにしているの!? とにかくここは逃げるの!」
「あ、ああ、わかった──」
そのときだった。
人混み、そして悲鳴の中から確かにこう聞こえたのだ。
「──りくちゃん?」
その言葉を聞いた時、俺は飛び上がりそうになった。
陸広という名の俺を”りくちゃん”と呼ぶのはこの世でただ二人。おかんと、そしてあの子だけだったから。
そして聞き間違えようの無いその声。細く、高く、澄み渡るような美しい声。
俺の大切な人、想麻あかりの声に違いなかったのだ。
「──あかり!」
彼女の声がした方を見る。そして目を皿のようにしその姿を探す。
すると、確かに見たのだ。
逃げ惑う群衆の波に飲み込まれるようにして、それでも必死にこちらへ伸ばそうとする一人の女性の細い手を。
「あかり!」
俺は群衆に飲まれたその女性の姿を追った。もはやそのことしか頭の中になくなっていたのだ。
「あ! こら、また勝手な行動を──」
静止しようとアネッサが言いかけたが、ハンナがため息を吐きながらアネッサの腕を引いた。
「もう二度も命を助けてやったんだ。これ以上してやる義理はないだろ」
「むう……」
「あれであの歳までどうやって生き延びたんだか。ま、うちらには関係ないけどね。さあ、行こう」
「……そう、ね」
恐慌状態に陥った群衆をかき分けるようにして走る。
人々は我先にと逃げ、他人を押し倒しそれを踏みつけて町からの脱出を図る。パニックがパニックを生み出し、もはやこの人間の集団には理性などかけらもないようだった。
思うように身動きが取れず、彼女に追いつくことができない。
そうしているうちにも左右あるいは背後から獣の唸り声が響き、その度に誰かの悲鳴がした。
突然の出来事だった。
完全な不意打ち。俺の右半身に何かがぶつかり、大きく吹き飛ばされたのだ。
「う、お……」
受け身を取ることができたのか、地面に身体を叩きつける羽目にはならないですんだ。
なぜこの程度で済んだんだ? 俺は自分の無意識の行動に驚いたが、しかしそんなことを考えている場合ではないことは目の前に現れた怪物を見て理解した。
緑色の怪人。子供ほどの背丈で鷲鼻をした半裸の魔物。ゴブリンだ。手には血塗られた棍棒を手にしている。
魔物としては最も多く見かける存在で、俺がこの世界に来てからすでに何度も見かけている。
しかしこうやって対峙し、まるで一騎打ちのような状態になったことがあっただろうか?
俺は胃液が込み上がるのを感じた。
だめだ、逃げようにも背後は群衆と魔物の群れ。前にはゴブリン。左右には獣たちの吠え声。
逃げ場がない。
早くあかりを探さないと。
殺るか? 戦れるのか?
俺は片手剣を取り出し、握りしめながら自問した。
戦えるか? この魔物と命の奪い合いを? やらなければ殺られるだけじゃないのか。そうだ、戦わないと──。
そう考えるたび、自分の正直すぎる本心がこう訴えてくる。
無理無理無理寄りの無理。だって俺剣なんてまともに触ったこともなければ喧嘩すらしたことねーもん絶対無理。
ああそうだ、良かった冷静になったな俺。そうだ無理だ。ここは全力で前に逃げる。こいつと戦うふりして脇をすり抜け逃げるしか無い!
よしタイミングを──。
そこまで考えた時ゴブリンがけたたましい笑い声を上げながら襲いかかってきた。
うわぁやっぱ無理だ身体が硬直してまるで動け──
動けた。
あまりに突然で、あまりに自然すぎて、俺はただ驚くしかなかった。
まず、襲いかかるゴブリンの動きが、まるでスローモーションのようにはっきりと、そしてゆっくり見えた。
それのどこに隙があるのかも。どこに注意しなければならないのかも。まるで身体がそう覚えこんでいたように、素早く認識できた。
そして片手に持っていた剣を、細い木の棒きれでも振るかのように軽やかに薙いだ。
すると次の瞬間には、ゴブリンの首が地に落ちていたのだ。
「は?」
俺は剣を振った体勢のまま、そう口にした。
何が起きた?
視界に端に二つの影。新手のゴブリン。
より近いのは左側のやつ。獲物は短剣。しかしその背後のゴブリンは短弓を引き絞っており脅威度がより高い。
俺は手前のゴブリンを左手で殴りつけ、身体をその勢いで捻って一気に距離を詰め、返す刀で短弓のゴブリンの首を刎ねる、
そして顔を殴打され悶絶しているゴブリンの頭部へ剣を振り下ろした。
この間三秒も立っていないだろう。俺の足元には三体のゴブリンの死体が転がっていた。
待て。
何が起こった、いや起こしたのだ?
俺ははっと我に返り、辺りを見回した。
周囲には変わらず逃げ惑う人々の姿と、そしてそれに襲いかかる魔物たちの姿。
自分を助けてくれたような人物はいない。やっぱり、俺がやったんだ。
なんでそんなことができたのだ?
……あんな動き、当然俺はしたこともなければ学んだこともない。
だが今、俺はそれをやってのけたのだ。
しかもこの禿かかった中年の身体で。階段ですらハァハァ言いながら苦労しそうなワガママボディなのに。
俺は剣にわずかについたゴブリンの緑色の血液を眺めながら、あまりの出来事に愕然とした。
そして精一杯思考する。やがてある仮説にたどり着く。
まさか。
まさか、これはこのおっさんの身体に備わった力なのだろうか?
時代劇で見る殺陣よりもずっと無駄がなく、殺しは手慣れたものと言わんばかりの動き。
全ては、この名もわからぬおっさんが身につけていた力なのか?
どうして俺の身体がこうなったのかはわからない。でも、これだけははっきりと感じている。
この身体は俺の身体じゃない。
だとすれば、何者かの身体に俺の魂が?
そんなオカルトなこと……いや、この世界を見ればオカルトまみれじゃないか。
この正体不明のおっさんの身体に俺は憑依している。
そして、これははっきりした。
このおっさんは只者ではない。
今の感覚を思い出してみる。
例えるなら運転初心者が時速200キロで高速道路を爆走し、わけのわからぬうちになぜだが目的地についてしまったかのような感覚。
いや、もっとふさわしい例えをするならばこうだ。
ロボットものの主人公機をうっかりモブが操縦してしまった件。
名付けるならこんな感じの現象だ。とんでもなく高性能な身体に俺の魂が追いついてない。それでも適当にガチャガチャやってたらなんか敵が全滅していた。
そう、そんな感じだ。って納得できるかド畜生。
急にドキドキしてきた。
俺は考えに考えすぎて、気がついたら下唇を強く噛んで匕○キンみたいな顔をして立ち尽くしていた。正確にはそんな顔をしたおっさんが、だが。
「何者なんだよ、このおっさん……」
剣に写った自分の老け顔を見てそう呟いたとき、背後から声がした。
「……意外とやるのね、驚いた」
振り返るとアネッサとハンナが目を丸くしてこちらを見ていた。
「あ……見てたの?」
「……うん。いや、やっぱり見殺しは夢見が悪いなと思って来たんだけど。ほんとびっくりしたわ。あなた、どうしてそんな力を隠してたの?」
「……わかんない」
「は?」
「わからない……」
頭がすでにショートしてしまっていたのだ。俺は放心状態の老人のようにか細い声でそうつぶやくのが精一杯だった。
「……とにかく、今のうちに逃げましょう」
アネッサに手を引かれて、俺は引きずられるように町から脱出を図り始めた。