第二話 目覚め
柔らかい。
どうして女の子というのはこんなにも柔らかくていい匂いがするのだろう。
夏のデートの帰り道、日が落ちかけた田園のあぜ道で初めて彼女を抱きしめたときのことを俺は思い出した。
そういえば誰かの顔をこんなに近くで見たことはなかった。まつげ、長いな。あ、目が茶色い。頬に薄っすらと生えた産毛、初めて気づいた。そりゃ同じ人間だもんな。
肌も、同じ人間とは思えないほど綺麗だな……。
そうだ、俺はこの時彼女の肩に手を触れたんだ。なぜかって? もちろん、しようとしたんだ。健全なる求愛行動というやつを。
思い出してきたぞ。そのときだった。あれが起きたのは──。
「起きた?」
突然他人の声がして俺は心臓が止まる思いで我に返った。
ベッドに寝かされいた身体を、反射的に起こそうとして激痛が走る。俺はうめき声をあげて身を強張らせた。
「だめだよそんなに急に動いちゃ」
声の主が俺に駆け寄り、身体をゆっくりと再び横に寝かせた。
「あんたは、誰……?」
「私はアネッサ、傭兵だよ。あっちにいるのは相棒のハンナ」
アネッサと名乗る女性が指差す先には、ローブを着た長身の女魔道士がこちらを見ていた。
「ああ、俺は……」
「だから動かないでって。おじさん。本当に運が良かったね」
「ここは……?」
「都近くの宿場町。っても迷宮が近いから、みんなもうすぐ夜逃げするところ。軍が戦に負けたからこの国はもうおしまいだしね。私たちもここからはもう手を引くつもり」
「みんな、は……」
500人はいたはずだ。そう、彼女によく似たあの子も。
「全滅。と言っていいわね。生き残りは私たちとあなた含めて十数名。大軍に取り囲まれてどうしようもなかったから。ハンナの魔法でなんとか脱出できたの。おじさんはその時目の前にいたから、ついでに助けたってわけ」
「そ、か……」
包帯で巻かれた頭がひどく痛む。それだけじゃない。
この世界に来てからなんとなく”なあなあ”にしてきた気持ち。
考えなくちゃいけないんだろうけどとても理解が追いつかなくていったん見ないことにしていた現実。
それらがいっぺんに腹の底からこみ上げるように湧いてきて、この頭と身体の痛みが全て直視しなければならない現実だと訴えてきて。
彼女によく似たあの少女剣士の顔が浮かんで。
次にこの言葉を思い出した。
迷宮の入り口にある糞塚を見なかったか? その材料は人間。迷宮に迷い込んだ奴とか、お宝狙いの奴とか、ともかく奴らに負けた者の成れの果てがああやって積み上げられるんだ。
「うぉえっ」
「うわ!? どした!? ちょっとハンナこのおじさんいきなり吐き出したよ!?」
「……戦慣れしてないやつだと珍しくもないだろ」
「魔法でいける?」
「無理。治癒魔法は専門外だって知ってるでしょ」
アネッサが鼻をつまみながら背中を擦ってくれている。
涙がこみ上げてきたが、この涙はあの少女剣士を想ってなのか、それとも己の不幸を嘆いてなのか、今の俺にはそれすらわからなかった。
二十分ほどしてようやく気持ちが落ち着いてきた。
俺は改めて二人を見ながら考えた。
二人とも若い。自分と同じか、やや歳下くらいだろう。
アネッサと名乗った女性は小柄で茶色い髪の美しい子だった。部屋に立て掛けてある弓は彼女のものであるらしい。
ハンナと呼ばれたショートヘアの女性は長身と大人びた顔が特徴だった。彼女は魔道士であるようだ。
魔道士であるようだ。こんな言葉をさらっと思いついてしまうくらい、俺はこの異世界に毒されつつある。
トリックの類いだと疑うには無理がある。あの熱、光、それらを直接肌で感じてしまえばなおさらだ。
俺は自分が置かれた状況を知るために彼女たちに質問をしてみることにした。
「ここは、安全なのか?」
そう問われると、アネッサは吹き出すように笑い声をあげた。
「全然、まったく。むしろすぐにでも脱出したほうがいい。さっきも言ったけど、もうこの国はおしまい」
「それは、どういう……?」
「知らないの? その歳で何も?」
怪訝そうに見つめられて俺は狼狽した。
だからとっさに「田舎でずっと引きこもってたから……」と誤魔化すと、アネッサは「ふーん」とひとまず納得した様子だった。
「この国はね、負けたの。だから迷宮から奴らが這い出してくるのをもう止められない。この国の土地に人間はもうすぐ住めなくなる。だからそうなる前に安全なところへ避難しなきゃ。また仕事をするにしても体勢を整えないと」
「奴らって、あの化け物どものことか?」
「そう。あなたも初めて奴らを見たときは驚いたでしょうけど、あんなもの昔はいなかった。全てここ数年で姿を現すようになった。世界各地の古い遺跡跡や洞窟の奥から、まるで大昔からそこにいたのが溢れ出すかのように」
「え、この世界に昔からいたんじゃないのか?」
「当たり前でしょ、ファンタジーじゃあるまいし。ともかく奴らはああやって住処を迷宮化して兄妹な巣穴を作り上げる。そうやって力を蓄えて一気に襲ってくる。そうなってからでは遅いから討伐隊を出すのだけれど……今回は負け。ここにいる人たちにとってはこの負けが全てかもしれないけど……私達は傭兵だからね、まだ抵抗を続けてる他の国にでも行くわ」
剣を振り回し魔法をひねり出すのはファンタジーとは言わないのか……。俺は彼女の言い回しに唖然とした。
「それで、あなた動ける?」
アネッサに言われて俺は身体をもう一度起こそうとしてみる。
「な、なんとか……」
「そう、じゃ悪いけどすぐに支度をしてくれる? さっきも言ったけど本当に時間がないの」
どうやら街中が夜逃げの準備の真っ最中というのは本当らしい。
「わかった……!」
アネッサの切迫した雰囲気に飲まれるように俺は起き上がると、痛む身体に顔を歪めながら支度を始めた。
ぼろぼろのチェニックに泥だらけのズボン。それに革でできた胸当て。いずれも兵士になったときに(半ば無理やりだったが)支給された物だ。
盾はどこかにいったようだ、とすると残りはこの剣のみ……。
再びその剣を鏡代わりにして自分の姿を見てみる。
信じられないがこれが現実だ。このおっさんは間違いなく俺自身。
剣を近づけておっさんの顔をよく見てみる。
二十年後の俺の姿……ではない。自分が老けたとしてもこの顔にはならないだろう。そう、別人。明らかに別人の顔だ。
誰だお前……。
そう放心気味に問いかける度に「お前だよ」ともう一人の自分が語りかけてくるようだった。
その別人の顔は俺の感情と同期して表情を替え、なんと俺の声で喋るのだ。
なぜ声だけは本当の俺のままなのかわからなかったが、この顔から俺の声が出てくるのは違和感の塊でしかなかった。
だがアネッサたちはそういう奴なのだろうと思っているかのように、何も口にしない。
「……なに自分の顔に見惚れてるの?」
と、アネッサに突っ込まれて俺は我に返った。
「ああすまん、すぐに支度するから──」
そう言いかけたとき、部屋の外で悲鳴が聞こえた。