最終日 後夜祭
地平線からじんわりと鈍く焼けるように光るオレンジ色と、夜を知らせる暗い紺色の空が混じり合う。
空をまじまじと見つめることはなかったから初めて気が付いた。夜へと変わっていく空ってこんなに綺麗なんだ。あたしは図らずも心を掴まれる。
純粋な感動が通り過ぎて、一日中着ていた体操服の汗の気持ち悪さが気になり始めた。
はやく着替えに行こうかな。
紺、臙脂、緑。それぞれの学年の色を表す体操ズボンを履いた生徒達が絶え間なくあたしを通り過ぎ、オレンジ色に光る空の方角へと消えていく。
その先には、校舎があるのだ。
あたしの所属する三年四組のクラスメイト達も校舎へと向かっている。
この後のことを考えてクラスシャツに着替えるのかな。あたしとすれ違っていくクラスメイト達の横顔は楽しそう。
夕焼けにして染まったその横顔はとても印象的で、あたしの心にじんわりと焼き付いていく。焼けたようなオレンジ色に染まるグラウンドを見つめる。
そこにいるのは実行委員や先生達だけで他は誰もいない。先程までの喧騒が、余韻が嘘のようだ。
さっき終わったばかりの体育祭を、ふいに思い出す。
雲一つない快晴に、ジリジリと肌を焼く日差し。空気が歪んで見えるほどの暑さなのに、それを凌駕するほどの、全校生徒から発せられる躍動したエネルギー。滝のように流れ続ける汗。若く、跳ねる楽しそうな歓声。脳が揺れるほどの地響き。
そしてそんな中、あたし達三年四組の順位は学年十五位中、六位だった。
この順位は去年よりも悪い。例年、三年生は上位独占するはずなんだけど。
それでもクラスメイト達は全てを出し切ったという表情をしていて、そしてあたしも全力を出していたはずなのに、なんであんな表情ができないんだろう。
ふと、校舎に戻っていく人並みから少し外れたところに見知った三人組を見つける。
手を繋いでいる男女と、その二人の周りで茶化している男子。手を繋いでいるのは早織と太田君だ。
そっか、あの二人付き合ったんだった。
──あのね亜希。知ってるかもしれないけど、耕輔君と付き合うことになったの。
今朝、校門前で早織がこう言った。両手を後ろに組んで、すらりと綺麗な足を交差して、
──亜希にはちゃんと言っておきたくて。
恥ずかしそうに、でも嬉しさがあふれ出した笑みを浮かべて。
──だから次は亜希の番、かな?
早織とは一、二年と同じクラスだった。三年では惜しくもクラスは離れてしまったけど、早織から太田君のことはよく聞いていた。
大田君が早織を好きなことは一年のときから知っていたからやっとかとあたしは安心して、最後の雁峰祭という舞台で沙織が告白されたことが、ドラマチックでいいな、と羨ましく思う。
そんな幸せいっぱいの二人を茶化しているのは、将生だった。
肩が露出するようにくるくると半袖をまくって、程よく日焼けした肌が露わになっている。
体操服の胸と背中に付いている『三ー十七』と白地に緑色で、組と名簿番号が書かれたゼッケンは今日一日しか見ていないはずなのに、もうすっかり将生のものだと認識できるようになっていた。そのゼッケンを目にするだけで鼓動が速くなるくらいに。
ああやってずっと茶化しているのは、きっと嬉しくて仕方がないんだと思う。一年のときから一緒にカラオケに行ったりして、ずっと二人をくっつけようと行動していたのは将生だったから。
──俺もそろそろ彼女作るの頑張ってみようかなー。雁峰祭もあるしさ。
いつだったかの昼休み、将生が好きなバンドのCDを貸しに三組に行ったときのこと。
会話の流れで将生がそう言ったのを思い出す。
冗談っぽく軽く言っていたから、本気じゃないかもな。でも、あの言葉はあたしの中に残って、この夕日のように光っている。
そろそろ本格的に体操服の汗が気になって、あたしも校舎へと向かう。
教室に入るとすでに雁峰祭のために作ったクラスシャツに着替え終えた憂佳、奈々、夕莉の三人があたしを待っていた。なんでも、夕方のうちに四人で写真を撮りたいらしい。
「ねえねえ亜希。どこで撮るのがベストかなー?」
やけに甘ったるい声を出して、憂佳が訊いてきた。
「中庭の奥の方はどう? 人もいないし夕焼けが差してるからいい感じに撮れると思う」
「それは盲点だった! さすが亜希〜いつも頼りになるなあ〜」
抱きついて来ようとするから、着替えてすぐ向かうから先に行ってて、とあたしが先手を打つと、三人が先に教室を出て行く。
去り際、夕莉が二人に見えないように、くすくす、と小さく笑っていた。でも特に何も言ってこない。
なによ、と夕莉に思いながら、汗かいてて気持ちが悪いし服がピタッとくっつくの嫌なのわかんないかなー、と心の中で思う。
「きゃー見て! 見て夕莉! 夕陽が超キレイ!」「ヤバイ! とにかくヤバイ!」
廊下に出ても憂佳と奈々の声は割れるように響くし、すぐにわかる。奈々はいつもヤバイしか言わないし。
甲高い二人の声に、夕莉の澄み切った笑い声が重なる。こうすると苦すぎるコーヒーにミルクを入れたみたいにちょうどよくなる。そんな声をBGMにトイレであたしは着替える。
教室に戻って時計を見るとまもなく六時を指そうとしていた。もう数時間も経てば、雁峰祭は終わりとなる。三日間もあると思っていたのに、本当にあっという間だ。
──こんなものなのだろうか、何か物足りない。
この三日間、ずっとあたしはそう思っていた。
いや以前から、もうずっと長い間、あたしは期待していた。ううん、今この瞬間だってあたしは期待していて、一秒ごとに絶望の度合いが強まりながらもやっぱり期待してるの。
うまく言えないけど、さっきふと感動した、オレンジ色に光る夕陽のような何かを。
少しそんなことに囚われていると、スカートのポッケに入れた携帯が急に震えだした。きっと憂佳か奈々からかな。
「電話って相手の表情が分からないから得意じゃないんだ」
困ったように笑って口癖のように夕莉はいつもそう言うから。
でも今は電話に出たくなくて、ポケットの中で懸命に、そして健気にあたしに反応してもらおうと携帯が振動しているけど手に取ってあげない。
一分が経った頃には、携帯はうんともすんとも言わなくなる。右ポッケの中がこんもりと温かい。
電話に出ない代わりに、あたしは急いで中庭に向かうために廊下に出た。
窓の外に目を向けると、オレンジ色をわずかに残した紺色の空へと変貌していた。この時間の移り変わりはとても速い。気付かない間に、スイッチを切り替えたように、空は表情を変える。
あたしの横をたったった、と急ぐように走って行く二人組の男子。秘密めいた笑みを浮かべて、弾んだ声で、急げ急げ、と言っている。
思えば憂佳達も、他の四組のクラスメイト達も、今が楽しくて仕方がないという顔をしていた。楽しさが溢れだした表情を浮かべていた。
けどあたしの心は、あたしの表情は、この紺色の空のように暗いままだ。どこか置いてきぼりにされたような気分だ。
でも誰も、この空でさえあたしのことを待ってはくれないし、先へ先へと無慈悲に進む。あたしは玄関でローファーに履き替えて昇降口の外を見る。
そこには青暗い世界が目の前に広がっている。ライトの灯りさえあまり届かない、辺りの景色を曖昧にぼかしてしまう不思議な世界。
昇降口を出て、その中へとあたしは足を踏み入れた。
そして今から、いよいよ後夜祭が始まるのだ。
朝礼台前に十メートル四方の空間ができる。
四方の境界線にはカラーコーンがいくつか置かれ、その空間を囲むように生徒が群がっている。
最前列に座る生徒達は後ろの人達のことを考えて座り、後ろの人達は仲のいい人同士で写真を撮ったり、大声で喋ったりしている。
あたし達はギリギリ座らなくてもいい前方四列目を陣取ってクラスシャツを着てタオルを肩に掛けて目の前の劇を観ている。
そして劇の主役は、やっぱり将生だった。
海賊みたいな衣装を着て、冒険に出るお話のようだ。他には小林君と、太田君と彼とよく一緒に見かける三人組、今下君と鶴見君と鈴本君も将生の仲間として出ている。
桃太郎のお話のように、劇は進んでいく。
正直、お話はいい出来とは言えないけど、将生や鈴本君達の観客を飽きさせないアドリブのおかげで楽しく観ていられる。
毎年、後夜祭の始まりは、三年の有志による寸劇をやることになっている。
特に決まりはないみたいだけど、この寸劇に参加するのはだいたい学年でも目立つ男子ばかりだ。人前に出て、体を張って笑いを取れそうな性格をした人だったり、ノリのいい人ばかり。
だから毎年、この寸劇は野球部やサッカー部、ソフトテニス部、バスケ部の面々が顔を揃えることになる。男子の世界の、ちょっとしたヒエラルキーを感じる。
少しして劇が終わる。
すぐに有志によるバンドメンバーが機材を持ち込み、準備に取り掛かる。
数メートル先にいる将生と目が合う。そしてあたしに向かって手を振ってくる。だからあたしも手を振り返すと、右隣にいた憂佳と奈々が「そうやって見せつける~」とか言ってニヤニヤしてくる。
そんなんじゃないって、とあたしが言っても、そろそろ付き合っちゃうんじゃないの、とキャーキャー勝手に盛り上がっている。
うーん。
二人のこういうところを見ると、なんかなーって釈然としない気持ちになる。いつも一緒にいるけど、この二人にそのことで茶化されるのは好きじゃないし、会話のネタにだってされたくない。
もういいやってほっといていると、
「くすくす。相変わらずだね」
と左隣の夕莉が笑う。
「え、なにが?」
「素直になっちゃえばいいのに」
あたしが訊き返すと、夕莉は隣にいるあたしだけに透き通った声でそう呟いた。
そっと横に目を向ける。
薄暗い景色の中に、肩まで軽くウェーブしたボブカットの髪の毛とすっきりとしたラインを描く鼻筋と口許に浮かぶ笑みがある。そこには、十八歳の女の子の幼さと可愛さと仄かに香る大人っぽさが全て詰まっているように見えた。
「あたしは素直だよ。いつだってね」
対して、あたしはどうだろうか。肩に乗っかる地面に向かって真っすぐ伸びている髪の毛を触る。
自分では似合うと思ってこの髪型にしているけど、果たしてこの子のような複雑な魅力をあたしは持ち合わせているだろうか。自分ではなんともわからない。
この子はいつも笑っていてふんわりとした雰囲気でどこか実体がない。だからこの子の表情の奥にあるものをあたしは掴み切れない。それでもこの子といるのはいつだって居心地がいいから困る。
「くすくす。ならいっか。あ、もうバンド始まるよ」
夕莉が前方を指さすと挨拶もそこそこに、バンドの演奏が始まった。ボーカルが歌い始める。
と、バンドメンバーに誘われて将生が前に出てきた。無理無理、と将生は拒否するけど、一緒に歌おうぜ、とバンドメンバーに言われて、客席からも、歌って! と囃し立てられてもうやらざるを得ない雰囲気が出来上がる。
しょうがないな、なんて顔して、将生も歌い始めた。
あたしはいつも思う。
こうやって将生は自然とみんなの中心にいて、やがてみんなを巻き込んで、将生の、将生だけの、将生を紡ぐ物語を作ることができるんだ。
そう、あたしの姉みたいに。
嵐のように激しい、真夜中のジェットコースターのような、予想もしない日々。
ああ、なんて美しいんだろう。なんでこんなに鼓動が激しく騒ぎ出すのだろう。
……だからこそ、なんだろうな。
凪いでいるあたしの人生を、少しも動き出さない物語を紡がしてくれるのはこの人なんだっていつも思うんだ。
「くすくす。よかったね」
と夕莉が笑うから、うん、とあたしが頷くと
「くすくす。今度は素直だ」
と言われた。夕莉の笑顔は気持ちよさそうで反発する気持ちも失せてしまう。
将生の歌も終わり、毎年お決まりのバンド演奏のシメに校長が前に出てきた。
校長がリンダリンダを歌うためだ。
演奏が始まって、いつものかっちりしたスーツ姿でなく、ラフなポロシャツで登場した校長は年齢に見合わない激しい動きでリンダリンダを歌う。
それに乗って、あたし達も頭を上下に振りながら一緒に歌う。どうしていいのかわからなさそうな一年生を尻目に、二、三年生はリズムに乗って、校長と一緒になって頭を上下に振って、周りのみんなを巻き込みながら笑顔でリンダリンダと叫ぶ。
校長からマイクを奪って、目的もなく、ただこの瞬間を叫ぶために男子が前に出ていく。
もう客席とステージという境界線はなくなって、みんなごちゃ混ぜになる。一人一人熱い蒸気を上げて、のぼせてしまうような熱い空間ができる。
将生が太田君とマイクを取り合いながら、いつになく叫んでいる。
それを見て、あたしはくすっと笑えてくる。あたしもいつの間にかこの空気に酔っているみたいだ。
言葉ではなく、態度で、この熱い空気で、一年生に教えてあげるのだ。こうやって先輩から後輩へと引き継がれていく。
もうここまでくると、ずっとリンダリンダと叫び続けるだけとなる。終わるタイミングはよくわからない。強いて言えば、みんなが疲れて飛び跳ねることができなくなったときが終わり時だ。
少しずつ、少しずつ、みんなの元気が失われていくのがわかる。終わりの匂いが少しずつ強まっていく。
あたしの頭も冷静になって、このあとのことを考え始める。
弓道部による火矢の点火式があって、
そしてそして──。
ぴた、と飛び跳ねていた身体が止まる。
みんなとリズムが合わなくなる。
ふとこの三日間のことがフワッと思い出される。
芸術鑑賞会の演劇のことは正直何も覚えていない。
古典劇で話が難しく、登場人物もカタカナで誰が誰だか最後まで把握することが出来なくて、数分おきに船を漕いでいた。
でもその前の、オープニングアクトのことはよく印象に残っている。
沙織の彼氏である太田君が吹っ切れたように熱くて歌っていたからだ。それまでずっと暗い雰囲気で早織がずっと心配していただけに、その変貌ぶりにはあたしも驚いた。
それにたった一曲だけだったけど、ライブみたいに盛り上がっていたし、もう演劇なんていいからそのまま彼らのライブにした方が良かったんじゃないかと思ったくらいだった。
二日目はとにかく色々な教室を回った。
といってもほとんど何かしらを食べていただけだけど。
たまに体育館に行っては有志のバンドを見て、演劇部の公演を観たりした。三年間で初めて演劇部の劇を観たけど、劇術鑑賞会で観た劇団より面白かったことに少し驚いた。その前にこの高校に演劇部があることを初めて知った。
そして体育祭。
結局、優勝したのは三年三組だった。途中まで三年五組と僅差で競っていたけど、個人競技の男子百メートル走、二百メートル走で三組が一位だったことが勝因をなった。男子二百メートルを走った太田君は独走状態でゴールした。
けど、男子百メートル走はそうはならなかった。
こっちも将生が圧倒的な差をつけて勝つと思ったけど、五組の小林君が最後の最後まで将生といい勝負でコンマの差で将生が抜け出して決着。
間違いなく今日のハイライトだった。
三日間を振り返って、楽しかった、とあたしは素直に思う。
楽しかった。間違いなく楽しかった。
でも、足りない、そう思う。
あたしの想像していたものとはどうも違うと感じる。あたしの周りは今もリンダリンダと叫びながら飛び跳ねている。
こんな熱く、盛り上がっているときでさえ、違う、とあたしは絶望している。
──後夜祭の最後、花火が上がったと同時に彼がついにね、告白してくれたの。
五つ上の姉の口から出てくる言葉はいつだって嵐のようだった。
あたしの色んな所に爪痕を残して、今では宝石のように光り続けている。
この高校に来れば当たり前のように手に入るのだと、高校に入る前のあたしは信じて疑っていなかった。高校生活を想像するだけで、胸いっぱいに宝石みたいな輝く想いで満たされていた。
──あのね亜希。知ってるかもしれないけど、耕輔君と付き合うことになったの。
あたしはうつむき、薄暗い地面を見つめて、姉と早織の言葉を思い出しながら思う。
でもそんなもの、本当はなかったのかもしれない。
最近になって唐突に、そして痺れるように、思い出す。
五つ離れた姉のことを。
──亜希は正確で堅実で、それでいていつも正しいね。これってすごいことなんだよ。誰にだってで
きるわけじゃない。目の前にある問題から正解を取り続けることは私にだってできる気がしない。けれどね、後悔だけは残しちゃダメだ。後悔ってのは取り除くことも消すこともできない。いつになっても残り続けるの、鍋の底にこびり付いたコゲみたいに。とてもね、とても厄介なものだから。それを忘れないで。
嵐のように激しかった彼女が、あたしにいつも言っていた言葉を。
姉の名前は真綾。
まず思い浮かべて思い出すのは意思を主張しそうなぱっちりした瞳で、次に情緒豊かな表情。
そしてなにかあるたびに大胆に変わる髪型と右耳に増え続けるたくさんのピアス。
──ほら、亜希ってば。こう、ニッて笑ってみて。せっかく可愛い顔してんだから、怒って泣いて悲しんで、そして笑わないともったいないよ。
姉は失敗するとわかっていてもためらいなく、どれだけ傷つくことがあっても当然のように限界まで手を伸ばすロマンティストだった。
──ふふ私はね、たった一人だけでいい。私だけをずっと好きになってくれる、私にしか見つけられない運命の相手を待ち続けているの。
手を伸ばした先に何があるかなんてわからないのに、嬉々として伸ばしてしまう。
──心がこんなに望んでいるのに、無視することなんてできないでしょう? 限界まで手を伸ばしたら、きっと素敵な何かが待ってる。私はそう思うの。
いつでも夢見ずにはいられない。快活で積極的でダイナミックな理想家。
それでも棘のような危うさも彼女は持ち合わせていた。
「真綾と亜希は、二人でちょうどバランスが取れるようになってるんだねえ」
あたしと姉を交互に見て、よくお母さんはそう言った。
だからなのか、姉の激しい反抗期を間近で見続けたあたしには反抗期と呼べる時期がなかった。何にでも挑戦してやりたいことが多かった姉と特にやりたいことのなかったあたし。
バランスが取れている、と言ったお母さんの言葉はその通りだと思った。
そんな姉は、あたしには何でも話してくれた。
活動的な姉と違い、絵本や小説、ドラマなどを見て過ごしてきたあたしには姉の話はとても新鮮で好きだった。あたしが頼まなくても、姉は持ち前の強引さで「聞いてよ亜希」なんて言いながら勝手に話し始めるんだけど。
嵐のような人だった、まるで、まるで。
いつも嵐のような激しさで、嵐のような日々を過ごしていた。
そして姉の話してくれるお話は、真夜中のジェットコースターのようだった。いつも先が見えなくて、でもぐるぐると思いもよらない方向へと物凄いスピードで進んでいく。
最初、姉の話は楽しく聞いていられた。
でも、ある日を境に変わってしまった。
今でも忘れられない。初めて明確に、嵐の中に引きずり込まれた瞬間を。
あたしが中学一年のときだ。
当時高校三年の姉はまだ反抗期が抜けきっていない不安定な時期で、両親に包丁を向けるほど激しさを見せていた中学三年のころほどではないにしろ、それでも飴細工のように脆く、軽く触れただけで崩れてしまう危うさがあった。
そのとき、どんな状況だったか。
確かなのは姉の言葉と表情だけ。あたしを見て、たった一言。
──運命の王子様を見つけちゃったの。
唐突だった。
でも、まるで闇空にピンク色した一筋の稲妻が輝かしく走ったように、最も鮮烈で焦がれるほどあたしの中に焼き付いて、忘れられない姉がつけた爪痕。
──最初は大っ嫌いだった。こんなにクズで愛想も悪くて、何やっても癪に触るヤツはいないって。顔を合わせるたびにケンカして、意見も考え方も合わないのに、気がつくとアイツがいる。あたしのそばに。傷ついてるときも、泣いているときも。
初めて姉が見せた女の子の表情に、あたしは雷に打たれたようにどきっとした。
──助けてほしいときにいつも偶然そばにいるなんて、そんなのもう運命でしょう?
恋する姉の表情は、凪いでいたあたしの心を嵐のように乱した。
なぜ? どうしてこんなにも揺さぶられるんだろう? よくわからない。
漫画や小説を読んでいる時、映画を観ている時でさえ、ぼんやりとした温かみのようなものしか感じたことがなかった。
なのに、姉の言葉と表情で間違いなく、初めて私の心が熱く灯った。
それからも姉の話は続いた。
それは、自分に振り向きもしなかった男子にアプローチをかける女の子と少しずつその女の子に心の距離を近づけていく男子のお話。
美しく起、承、転と進んで、あとは結を残すのみとなった。姉は、言った。
──後夜祭の最後、花火が上がったと同時に彼がついにね、告白してくれたの。
姉から溢れ出した笑みは、閃光だった。
豪雨と突風で激しく乱れた雨雲の隙間から走った、痺れるような一縷の光。
あたしはこんな美しい光に出会ったことがない。
限界まで手を伸ばして掴み取った姉の話のエンディングがこれだった。
それはまるで一冊の物語のようだった。
あまりにも非日常的で、痺れるほど眩しくて、焦がれるくらい憧れずにはいられない。
そして最後に姉は潤んだ瞳で、感動したようにこう言った。
──綺麗だった。濃紺の空に上がる鮮やかな花火も、花火の輝きできらきらとした彼の瞳も、緊張で震えた告白の言葉も温かさも。こんなにも鮮明に脳裏に焼き付いてる。…素敵。とても素敵だった。こんなことあるんだね。ずっと手を伸ばしてて、信じててよかった。あんなに美しい瞬間を私はきっと、ううん、ずっと忘れない。
感情的に話す姉の表情は、きっとその花火以上にあたしには眩しすぎた。眩しくて、その全てを受け止めきれなくて、溢れて、あたしまでうるうると涙が出てきてしまった。
そうして姉は最後の雁峰祭から付き合い始めた男子と一緒に大学へと進学していった。
嵐のような激しさで、嵐のような日々を過ごして、また新たな物語を紡いでいく。
そう、姉は紡いでいけてしまうんだ。
なんて、美しいんだろう。
大違いだ、あたしとは。
高校に入学してから、あたしは勉強でも部活動でもそれなりに上手くやってきたと思う。
仲良い子だってたくさんいる。一年のときに早織と仲良くなり、二年からは憂佳、奈々、夕莉と仲良くなった。
学校にいる間、あたし達はいつも一緒だ。教室でも廊下でもトイレでも移動教室でも購買でもどこだって。いつまでもくだらない話をして、たぶん誰よりも楽しそうに笑って。憂佳と奈々の甲高い笑い声に澄み切った夕莉の笑い声が合わさって、あたしは静かに笑って、いつの間にか放課後を迎える。
放課後は教室に残って、数時間勉強して家に帰る、そんな毎日。
なんて穏やかで、曲がり道なんてない、さざ波一つ立たない凪のような日々。
けど、あたしの欲しかったのはそういう日々じゃない。耳の内側で姉の声が蘇る。
──ねえ。
でもたった一度だけ、あたしも姉のように自分の限界にまで手を伸ばしたことがあった。
それは姉が通っていた真城高校へ入ることだった。
たぶん、普段のあたしならもっと違う選択をしていたと思う。
真城高校よりもレベルの高い高校はいくつかあったし、そうするのが当たり前だった。両親にも友達にも、そしてそしてあたし自身そう選択することが正しいと思っていた。
それでも、この高校に来れば、凪いでいたあたしの日常が変わると思った。
唐突に風が吹き始めて、雨が降り雷が落ちて、やがて嵐のような激しい日々になって、色んな所に爪痕を残して、それが宝石のように輝きだすんだ、ときらきらした気持ちでいっぱいだった。
なのに高校に入り、学年が上がっていき、その間に経験した修学旅行もクラスマッチも雁峰祭でもあたしは物足りなさを感じ続けた。
そして、少しずつ砂時計の砂がさらさら溜まるように少しずつ、あたしはようやく理解した。あたしの日常はきっと嵐のような輝きの日々にはならない──。
なぜなんだろうという焦りとああこういうものなのかという静かな諦観をあたしの中の大半を占めるようになったころ、大学に入学してから家に一度も帰ってない姉から久々の、ある連絡が来た。
それは、完結した物語のあとがき、エピローグのように思えた。
──ねえ、亜希の心はどこにある?
いつも言っていた言葉の最後、姉は必ずそう問いかけてきた。
その問いかけが胸の中でずっと残響している。そう問われていたときはよく考えもしなかったのに、検討することもなかったのに、今になってそのことばかり考える。
あたしの心はどこにあるのだろう。
お姉ちゃん。
あの日、あなたが初めて女の子の顔を見せた日。
嵐の中に引きずり込まれた時からもう自分の心がどこにあるのかわからないの。
ずっとあなたが作り出した嵐の中にいる。嵐の中で迷子になってしまって、あなたが紡いだ恋の物語に囚われている。あなたの日々に起きていた嵐の激しさにばかり憧れる。
自分の日々にそうした激しさや爪痕、そして痺れるような閃光を見つけられない。なんて、つまらないんだろう。心が熱くならない。
無味無臭で乾燥した灰色の毎日。
なんであたしの日々は少しだって輝き出さないんだろう──。
そんなあたしとは対照的に五つ上の姉は──嵐のような日々を送っていた彼女は、最後の雁峰祭で告白してきた男子と来週、結婚する。
ぼんやりとした闇夜にジー、と心地いい虫の音が聞こえる。夏の宵が静かに過ぎ去っていこうとしている。ついさっきまでの喧騒が幻だったようだ。
緩やかに流れる夜風が体の熱を連れ去って、とても気持ちがいい。
空を見上げれば、霞みがかった夜空に爛々と煌めく満月。神秘的でいて、どこか落ち着くこの空間の中に自分がいることがなんだか信じられない。
非日常的。
そんな言葉が自然と出てきた。
今も周りにいるはずのクラスメイト達の顔がぼんやりとして、現実なのか夢なのかよくわからないような心地でふわふわとする。
毎日見ているはずの学校なのに、今は違う場所にいるようでひどく高揚する。
パッと、突然グラウンドの中心がオレンジ色に優しく灯った。
はかま姿の弓道部員が足を広げ、矢を番えた状態で弓を引いている。矢の先端に火がついていた。
今から火矢による点火が行われようとしている。
弓道部員から数十メートル離れた位置に的がある。細長い木が山なりに積まれ、そのすぐ上に今年の雁峰祭のテーマである『愛』と大きく書かれた四角い紙が立てかけられている。この的に向かって火矢を放って、点火させる。
少しの沈黙、そして放たれた。
火矢は『愛』に向かって真っすぐ向かっていき、一瞬で火がつく。
おおっ、と色んな所から歓声が上がる。
少しずつ火は大きくなっていき、やがて巨大な火の塊になっていく。メラメラと燃えているオレンジ色がここにいる全ての人の瞳に温かく焼きついていく。
火を囲むようにペットボトルが等間隔で置かれている。これは安全のためで、これ以上は入ってはいけませんよの目印だ。
そしてすかさず全学年、各クラスの級長が自分達のクラス旗を持って、火を取り囲むようにして立つ。
合図とともに旗を火の中へと入れる。十五個ものクラス旗はなんの抵抗もなく、燃え散っていく。
この光景を見ると、しっかりと実感する。ああ終わっていくんだな──。
『三年生は火に一番近いペットボトルのラインに集まってください。二年生はその外側にあるペットボトルに。一年生は一番外側のペットボトルのラインにお願いします。──それでは両隣の人と手を繋いで、大きな輪を作りましょう』
実行委員の掛け声でスピーカーからポップなメロディが流れ出した。
この曲は確か『マイムマイム』だ。
音楽に合わせて、内側から三年、二年、一年、と三重の輪になって回り始めた。
あたしは右にいる憂佳と左にいる夕莉と手を繋ぐ。夕莉の向こうには奈々がいて「ヤバいヤバいっ」と楽しそうに言っていて、いつものように何がヤバいのかわからない。
マイム、マイム、マイム、マイムのタイミングでみんなが火に一斉に近づき、
「キャー! ちょっと! めっちゃ引っ張られるってこれ!」
憂佳が右手を大きく前方に向かって引っ張られている。ずっと遠くからやってきたその波状はすぐにあたしの元にまで届いて、「キャーッ」とあたしも思わず声が出る。その勢いのまま、左にいる夕莉も巻き込んでいく。
「ついに始まったねー」
霞みがかった闇夜の下、夕莉の透き通る声があたしに向かってくる。
「あーいつまでも続いてほしいな」
いつもよりも熱っぽく夕莉が言った。
でも次のマイム、マイム、マイム、マイムのタイミングになり、三重になった輪がそれぞれ後ろに下がっていく。あたしは後ろに引っ張られて、しなるように前後に位置が入れ替わったから夕莉がどんな表情をしているのか見ることができなかった。
それからずっとメロディは終わることなく、リピートして流れる。あたし達は同じ動きをしていても飽きず、どんどん熱くなりながらも踊り続ける。
ゆらゆら、と輝く炎が闇夜に手を伸ばすように真っすぐ燃え盛っている。物凄く熱いのに、喜々として生徒達は炎に近づいて、あちちち、なんて言いながら、汗をかいては踊りをなお止めない。
三重の輪が所々形を乱しながらも炎に近づいては離れるを繰り返す。
すごい、と思った。
全校生徒からあふれ出すエネルギーがこのグラウンドに集まって、躍動感と高揚感であたしの胸の中がいっぱいになる。
オレンジ色の光に照らされた生徒達には今この瞬間を楽しむ、というそれは当たり前のことでその中にいるときは気づけない、とても澄んだ心持ちでいることが各々の表情でわかる。
きっと、学生時代を振り返って思い出す瞬間だったり、美しいって感じる一ページっていうのは、こういう瞬間なんだろうって、同じ瞬間を過ごしているはずのあたしは思う。
でもなぜかその中に、今この瞬間を楽しむ、という心持ちにあたしはきっとなれていないと仲間外れされたように思う。
「もう動けないよ~」
夕莉がふらっと輪から外れて、グラウンド脇の階段に座り込んだ。あたしもついていこうと輪から外れると、「夕莉をよろしく」「あとでねー」憂佳と奈々の声が聞こえてきた。
夕莉の隣に静かに座る。
「くすくすくす。喧騒から外れると途端に寂しくなるんだよね。なんだかひどくめんどくさい子みたいで嫌だけど」と夕莉は笑った。
あたしもそう、と返すと、
「亜希はそう言うと思った」
と当然のように夕莉は言い切る。
「ちょっと休憩しよ。あんな激しく踊りまくってたら疲れて帰れなくなっちゃう」
いつもなら絶対しないことなんだろうけど、夕莉はだらっと足を伸ばした。
育ちの良さを感じさせる上品さが夕莉の特徴だ。
「中級階級出身ですけど何か?」とよく言うけど、でも両親に愛されてすくすく育ってきたんだろうってわかる器の広さと余裕と柔らかな雰囲気を持っている。
炎から遠ざかると、暗闇がすぐそこにあるのがわかる。まるで一つの世界を縁取るように暗闇が周りを覆っている。
そしてその暗闇とオレンジ色に光る場所とのちょうど境目にあたし達はいる。世界の中心とはよく言うけど、今の場合はきっと世界の隅にいる、だ。
そのことがなんだか信じられない。
幻想的だ。
何もしていないのに楽しくて、特別だと思えてしまうのは、なぜだろう。
「あ、水瀬君」
その言葉に、あたしの心が反応した。
夕莉があごをくいっとするのでその方向を見てみると、少し離れた所に将生がいた。将生を挟むようにして、その両隣には太田君と早織がいる。
くすくすくす、と独特の笑い声が横から聞こえる。 夕莉の笑い声だ。
「今日ってか、雁峰祭の間、水瀬君ってずっとあの二人といるよね。そういえばあの二人ってくっついたんでしょう?」
太田君が早織に近づこうとすると、ドン、と胸のあたりの突いて将生がそれを邪魔する。
「もう俺の彼女だぞっ」
「なんかくっつけたはいいものの、見せつけられるとムカつくから全力で邪魔するわ」
「てか、早織の手ぇ握んなよ」
「もう彼氏気取りか」
「いやいやいやいや昨日から彼氏だし」
じゃれあうような太田君と将生の会話が微かに聞こえる。
「…くすくす。たまにチェックしてはいるけど、水瀬君の隣、誰もいないね」
透き通った声が、あたしの心をスルッと抜けていった。
夕莉があたしを見つめる。
爛々と輝くオレンジ色に照らされながら、上目遣いでガラスのように綺麗な瞳があたしの目を注意深く見つめている。
「どう? 彼って今は彼女いないんでしょう?」
「今日はやけにその話題を出すね」
「くすくすくす。うん、今日は絶対に亜希に言おうと思ってたもん。私はね、恩には最大限で報いるって決めてるの。それが当たり前。どれだけ報いたって足りない。あなたは私の恩人、この学校生活が色づいたのも亜希のおかげなんだから。この先、ずっとその事実は変わらないの。もしかしたら一生の恩人になるのかもしれない」
以前、あたしは夕莉の恋愛を手伝ったことがある。
手伝ったといってもお互い両想いなのが丸わかりで、でも関係が進展していないような、いわば歯車がうまく噛み合っていなかったのをちょっとずらして噛み合うようにしただけの話だった。
でも夕莉はそのことをあたしが思っている以上に恩を感じてくれているらしい。
「それに亜希と私ってきっと似てる。勘違いでも過信でもなんでもなく、等しく私達は似てるの。だからあなたが何を考えているかわかるし、今度は私が背中を押してあげないとと思って」
「なにそれ」
ふっとあたしはつい笑った。
「でも、ありがと」
そして夕莉にお礼を言う。夕莉の気持ちが素直に嬉しかった。
しかし夕莉は珍しく目を細め、不満げな様子を見せた。聞こえるかどうかの声で「こぼれたミルクを嘆くことはできないんだよ」と傷ついた表情で言った。
そんな夕莉の様子を横目に、あたしはもう一度、将生を見る。
するとさっきまではいなかったけど、鈴本君達も太田君と早織を茶化している。
とても、とても幸せそうな雰囲気に差し込む焼けるようなオレンジ色の光。
なんて暖かそうなんだろう。
将生の隣は誰もいない。
もうずっと彼の隣りには誰もいないことをあたしは知っている。
──俺もそろそろ彼女作るの頑張ってみようかなー。雁峰祭もあるしさ。
あの言葉は本気だったんだろうか。
自分の中でまた確認したくなって、過去の記憶を引っ張り出す。もう何度も何十回も思い出して、その記憶を引っ張り出すのが上手くなった。
前に一度だけ、あたしの試合を将生が応援に来てくれたことがあった。
今から数ヶ月前、あたしが部活を引退することになった大会だ。
三年生になり、将生と違うクラスになって、何かと理由をつけて将生と話をしていたとき、「応援しにきてよ」なんて毎度のようにあたしが誘って、いつもみたいに来ないかなと思ったら「今回は行く」って将生が言い出して突如として実現したのだった。
大会当日の朝、移動中の電車の中、大会の行われる会場でアップしているとき、部員が集まって顧問の先生の話を聞いているとき、あたしの意識は全てあのすらっとした体型でマッシュヘアの男の子に向いていた。口の右下に目立つホクロをくっつけて、飄々とした雰囲気を出している男子を探していた。
でもその男子の姿が見えなくて、どこか集中しいれていない状態の中、あたしは試合をする時間になった。それなりに勝ち進んでいたものの、次の相手は強豪校の有名な選手だった。
きっと勝てないな、と達観した気持ちのまま、試合は始まった。最初はお互い緊張していたのか、交互にポイントを取り合った。
しかし、試合の緊張感に体が慣れ、本来の実力を発揮しはじめた相手選手のサーブを見た瞬間、あ、ここまでだな、とあたしの中の緊張の糸は穏やかに切れていった。どこに打っても打ち返され、あっけなく負けた。
負けた悔しさはなく、気持ちは緊張の糸が切れたときから少しずつ整理され、まあ三年間それなりに頑張ったかな、と納得した気持ちでいられた。
試合が終わり、テニス部指定のジャージに着替えて、外へ出たときだった。
「お疲れさん」
ビックリした。目の前に半袖の白シャツに緑の七部丈のズボンを履いた将生がいた。
「試合、観たよ」
そう言って将生は神妙そうな顔をした。
「相手の女子の打つ球ヤバかったなー。予想を超えすぎて絶句した」
「速かったね。あれ見た瞬間、もうここまでだなーって納得できたかな」
「…ま、負けちゃったけど、面白い試合だった。亜希もいい動きしてたんだけどな、相手がさらに上回ってたな。上には上がいるんかね、どこの世界でもさ」
最後の言葉を発したときの将生は、いつになく寂しそうに見えた。
「とにかくお疲れさん。試合終わったばっかりだし、悔しくてたまらないだろうけど、亜希は頑張ってたと思うよ」
「ありがと。でも大丈夫。もう気持ちの整理はできてるから。今は悔しさとかはないかも」
そう言うと、将生は何度か頷いてみせた。
「そんなもんかね。俺のときは悔しすぎて次の日まで引きずったけどな。亜希は強えよ、俺と違ってさ。じゃ、俺は帰るから。また学校でな! 今度借りてたCD持ってく!」
上半身だけこちらに向けて、将生の満開の笑顔が夕焼けの光の中へと消えていく。
その笑顔が輝いていて、今も鮮明に覚えている。
思い出すたびに鼓動が速くなるくらい、覚えついてしまっている。
今、将生に彼女はいない。
それは間違いない。将生に近い男子に聞いても、沙織に聞いても、将生本人に聞いても、そう言っていた。よく三年三組の教室を訪れるから教室内の空気はわかるし、誰が将生のことを狙っているかもある程度把握している。そして、その上で将生に一番近くて、一番仲のいい距離にあたしがいるのは確信できている。だから、可能性があるのは…。
今まで将生の隣には色んなタイプの女の子がいた。
フワフワした雰囲気の女の子に、モデルみたいにスタイルのいい子。ボーイッシュでさっぱりした女の子。どの子もタイプは違うけど、顔立ちがハッキリしていて、綺麗で、目立つ女の子達ばかりだった。
いつも将生の隣の椅子に誰かが座っていて、あたしはその椅子を眺めているしかなかった。
でも、今は違う。
座ってみたかったその椅子には誰も座っていない。
──俺もそろそろ彼女作るの頑張ってみようかなー。雁峰祭もあるしさ。
胸の内側がとくとくと脈打つ。
ファイヤーダンスが終われば、もう花火しかイベントは残っていない。それが終われば三日間にわたる雁峰祭が終わる。最後の雁峰祭が終わる。
あたしと夕莉が座る目の前でまだ踊りは続いている。将生は鈴本君と鶴見君にベッタリとくっつかれながら、笑って、踊っている。
この一瞬はきっと、これからあたしの人生に待ち受けているイベントやトラブル、そういったものよりもきっときっと濃密な一瞬だ。
このまま終わって欲しくない。
ずっとオレンジ色に燃える光の中にいる将生の楽しそうな姿を眺めていたい。
たとえいつか終わりが来るとわかっていても、終わりという文字に目を逸らして、この幻想的で神秘的で、一種の可能性が残るこの瞬間が続いて欲しいと思う。
爪が掌の肉を強く抉るほど、両手を握り続けていたことにふと気づく。
指の力を解くとどくどくと血の巡りが活発になるのがよくわかる。抉っていた部分がじんじんと痛い。
濃く掌に付いた爪の痕。
どこかまだ筋肉の緊張が解けなくて、震えて、疲れ切った両手。
それを見てはっきりと、ようやく自分の想いの深さを思い知った。
体が汗ばむように熱い。
気温のせいでなく、色んな想いと焦りが混ざったせいだ。高揚した体のまま、あたしはマイムマイムの曲が終わるまでこの光景を見続けていた。
「じゃあ、私はそろそろ行くねーん」
ファイヤーダンスが一段落して、グラウンドに静けさとほんの少しの鈴虫の音が戻った頃、すすす、と体操ズボンについた砂を手で払って、憂佳が立ち上がった。
「蒼汰君でしょ?」
「そうそう。蒼ちゃんから連絡きたからそろそろね。最後の花火は一緒に見るって約束しっちゃってて~」
奈々の問いかけに、憂佳が甘ったるい声で答える。
すると奈々はニヤニヤして、へえー、と撫でるように呟く。
「その割には三人くらい他の男と連絡取り合ってるみたいだけど?」
「高校最後の雁峰祭だよ? しかも花火! 彼氏と見るでしょ。他の男子はまた別の話!」
急に眼を見開いて、憂佳がまくし立てる。
奈々はニヤニヤした顔を崩さずに、
「誰もダメなんて言ってないでしょ」
「面白がってる顔してるから! アンタもどーせ達っちゃんと観るんでしょーが!」
「観るに決まってるじゃん。この四人で観るのもアリだなーって思ったけど、達っちゃんが何度もねだってくるんだもん。一緒に観るしかないっしょ。そんなウチだけに一生懸命なところが可愛くてぇー好きなんだけど。そんでね可愛いといえば──」
「惚気るの止めてくださーい。私すでに胃もたれ起きてまーす」
奈々の口が止まらなくなる前に、うげぇ、と憂佳がうんざりした様子を見せる。そして示し合わせたようにくるっと二人ともこっちを向いて、
「ま、そういうわけなんで彼氏のところ行ってきまーすっ」
この日一番いい笑顔で言った。
「あー……うん」
あっけに取られたのか、夕莉が気の抜けた頷きを返す。縦に揺れて一つにまとまるように綺麗な形をしているボブカットがわずかに崩れた。
そして一呼吸の間にそれぞれの髪の毛は元の位置を覚えているとでもいうように戻っていく。
「花火終わったら学校前のコンビニに集合しよ! で、もう彼氏は放っておいてこの四人でファミレスで打ち上げ! めっちゃいい提案じゃない? 天才じゃなーい? どう?」
憂佳が甘ったるい声を出して上目遣いで、両手をスリスリと擦りながら、あたし達を見つめる。
露骨なまでのそのあざとさに、あたしと夕莉はため息を同時に吐く。
そして、くすくす、と笑い声。
「オッケ、わかった。二人ともあんまり遅くならないようにね」
夕莉がそう言うと、うん、と仲良く二人は返事を返して軽い足取りで去っていた。
二人の姿が焚火の近くから闇夜の中に消え、少し時間が経った。
この日最後のイベントである花火が始まるまでの僅かな余白。
グラウンド隅の階段に、無数のスクールバックが置かれ、少しの間隔を空けて学年性別関係なく、多くの生徒が座っている。
そしてその中央あたりであたしと夕莉は隣り合って座っている。
憂佳と奈々が去ってから、なんとなく二人とも言葉を発しなかった。でも気まずいわけじゃなく、程よい居心地の良さで夜風が優しく肌を撫でる。
左右どちらを向いても生徒はたくさん座っているのに、あたし達の周りはなぜか人気がなかった。
なんとなく憂佳と菜々、二人が消えていった方向に目を向ける。
憂佳が彼氏の蒼汰君と付き合い始めたのは去年の修学旅行からで、奈々に彼氏ができたのは今年のクラスマッチだった。
二人とも誰もいないようなところに呼び出されて、告白されたらしい。その時のことを二人はとても嬉しそうに「きゃー! やばい! ドラマみたいじゃない?」なんて騒いでいた。
憂佳や奈々でさえ、あたしの日常にはない嵐が起きている。なんでなんだろう。
あたし達は四人で話をして、大きく笑って、バランスのいい関係を作り上げている。
それは二年で同じクラスになったときから変わらない。でもそれは四人だからだ。一人でも欠けたらダメ。バランスを気にせずに気楽にいられるのは夕莉だけで、憂佳や菜々とはどうしてもバランスが取れそうにない。居心地のいい状態になれない。
だから、なんとなくうっすらと、大学に入った瞬間からあたしは、憂佳と奈々とは会わなくなる。
もうずっと、そんな寂しい予感がしている。
「くすくすくす」
唐突に笑い声が聞こえた。
深く、沈み込んでいた意識が現実に帰ってくる。
「今、憂佳と奈々のこと考えてるでしょう?」
夕莉があたしの心の内を言い当てた。
「え、なんで」
くすくす、と夕莉は笑い、
「えーだって。だってね、私とあなたは等しく似ているから」
グラウンドを真っ直ぐ見つめ、落ち着いた様子で夕莉は言い切った。そして続ける。
「初めて顔を合わせたとき、この子目立つなー自分に似てるかもなーって心のアンテナに引っ掛かったから私達は友達になったじゃない? いざ友達になってみると、私達って好みも考え方も主義も違うんだけどね。でももっと話してみて、深く話し続けてみると傾いて見えてもバランスが取れるようになっていくものなんだよね。四人揃っていなくても」
「……そうは思えない。あたし達は四人じゃないと。それは正解じゃない気がする」
「うん。バランスは悪いよね。だって憂佳と奈々って、私と亜希とはやっぱり決定的に大事にしているところの価値観が違うんだもの。だから私達はどちらかが欠けたまま、憂佳や奈々といるとどこか取り繕ったような関係になる。どこか傾いてて、いつも危なっかしいような、ね。でもそれならそれで最初は歪で危なっかしくても、少しずつ慣れていって最後にはバランス取れるようになるものだよ。それぞれがバランスを取ろうと修正して、なんとなく居心地のいいものになっていくと思うの。私はそう信じてるよ。……四人じゃないと絶対にいけないわけじゃない。それだけが正解じゃない」
だからね、と夕莉は一度言葉を切った。
「卒業して離れ離れになっても私達はまた集まるよ。それが四人じゃなくてもね。その中には当然、夕莉がいて私がいなくても憂佳と菜々と三人だけになっても仲良く、楽しくやっていけるようになるの。大事なのは、どう思おうが実際にやってみる、行動してみるってことなんだよね」
あーそろそろ始まるねえ、とやけに気の抜けたように夕莉は言うのでグラウンドに目を向けると、ちょうど、ピュー、と音が鳴って、パン、と闇夜に光の花が鮮やかに咲いた。
「きれい…」
思わず、漏れた。
「うん、綺麗。でも最後だからかな? 最後の雁峰祭だからか、この瞬間がやけに惜しい」
そう言って、唐突に夕莉の両目から涙が溢れた。
「え、どうしたの?」
「ごめん。そんな大したことではないの。ただ、たぶんこの高校生活で一番大切で、かけがえのなくて、濃密な時間である今が終わり始めているのが悲しい。あれだけ待ち望んでいた時なのに、もう終わっちゃうんだってことばかり考えちゃう」
鼻筋を両手で軽く覆って、夕莉は少しずつ流れ落ちてくる涙を指先で受け止めている。
そんなあたし達のすぐ頭上には、赤、紫、青、ピンク、と花火が咲き乱れている。
その一瞬だけ煌めくためだけに咲き続ける光は、あたしの心に次々映り込んで、くっきりと刻まれていく。そのことに何らかの意味なんて見出せない。
漏れ出すように、花火の美しさと儚さだけがあたしの心に残って、余韻となっていく。
「最後の雁峰祭の花火を亜希と見られて良かった」
夕莉は整った顔立ちを少し歪ませて涙を流したまま、次々と打ち上がる花火を見ていた。
「……あたしとでよかったの?」
彼氏の奥山君とじゃなくて、と言外に匂わせるようにあたしは言った。
「もちろん、翔太君と最後に花火を観る約束はしてる。今も電話が鳴り止まないし」
困ったような表情で、夕莉は体操ズボンの右ポケットを押さえる。
「じゃあ──」
「でもその前に、この花火が終わる前に、雁峰祭が終わる前に、どうしても言いたくて」
そう言って夕莉はあたしを真っすぐに見た。
さっきまで流れていた涙はもう綺麗さっぱり消えていた。ずいっと、あたしに近づいて、
「水瀬君に告白しないの?」
いつもみたいにさらっとした感じではなく、真剣な様子でそう聞いてきた。
力強い視線をあたしに合わせている。そこには教室で見せる夕莉のフワッとした空気はない。
非日常的で現実感のない、神秘的な空間の中にいる夕莉はどんなときよりも真剣な空気を醸し出していた。
「あたしは──」
そう言いながら、あたしはなんて言おうとしているんだろう。
一度合ってしまった視線は磁力のようなものが働いていてどうにも離せない。特にこう、真剣に訴えかけるような目をされた時は。
でも一呼吸を終える頃には言うことは決まっていた。
「仲いいけど、将生のこと好きな訳じゃないよ」
冷静に、やや頬を上げて、平坦に努めて言った。相手の目に失望の色が見える。
「今しかないんだよ? きっかけになる瞬間なんてもう私たちにはないよ?」
珍しく、夕莉が感情的な様子を見せた。
「それだけじゃない。相手は男女問わず人気者で、常に注目されていて、いつもいつも彼女がいるような人なんだよ? ようやく、たまたま、その隣に誰もいない状態で雁峰祭を迎えているの。その意味がわからないなんてことはないよね?」
──俺もそろそろ彼女作るの頑張ってみようかなー。雁峰祭もあるしさ。
「他にも彼のことを狙っている女子達がこの三日間の間に行動を起こすの。一昨日も昨日も体育祭の間だって何度も彼が呼び出されて告白されたのを見たし、たくさん聞いた。幸いにもまだオーケイしていないみたいだけど。でもそれだってずっと続く保証なんてない」
将生の声がリピートしている。ずっと。ずっと。
やっとあたしの日常にも嵐が起きるんじゃないか。そう期待している自分がいる。
校舎裏、後夜祭もクライマックスで花火が咲き乱れている夜空の下、将生に呼び出されて、どうしてもあたしは将生に──。
「今がその最後で、一度しかない最高のチャンスなんだよ? 亜希はこのままでいいの?」
パン、と絶え間なく上がり続けた花火の音がちょうど止んだ。パチパチパチ、と花火の光の粒達が頭上で小さく、儚く散って、白煙が辺りをゆっくり覆っていく。
第一陣の花火が全て打ち上がったようだった。
次、第二陣の花火が打ち上がり始めて、その音が止んだとき、後夜祭もとい高校最後の雁峰祭が終わりを告げる。
白煙で夕莉の顔が少しずつ霞んで、霞んで、でもその視線の強さは霞まず、あたしをしっかり離さない。
ブー、ブー、と夕莉の携帯の震えはいつまで経っても止まらない。
「……さっき、亜希と私は等しく似ているって、私は言った。だからこそ亜希の考えていることがわかるし、こうしてずっと一緒に過ごしていれば亜希の好きな相手が誰かもわかるの。亜希はモテるし、色んな男子から告白されて選べる相手が多いはずなのに、誰も選ばなかったのは……ずっとこの時を、彼の隣が空くのを待っていたからでしょう?」
あたしは夕莉の瞳を見つめたまま何も反応をしない。
でもね、と夕莉は一拍置いた。
「似ているのであって、同じじゃないの。亜希はいつも正しい選択ができるけど、私はいつも正解を選ぶことはできない」
「あたしだって間違えることはあるよ」
「そう? 私の知る限り、何かを求められた時に、他の人に何かを期待された時に、亜希が選択を間違えたことなんてなかった。そうした正しい選択ができるおかげで私は一生かかっても返しきれないものをあなたにもらってるもの」
「そうだったかな」
「そう、私は知ってるの。いつも見てたから」
例えば、と夕莉は一拍置いた。
「憂佳の時は修学旅行で沖縄に行って、蒼汰君に彼女がいないことを憂佳に教えてあげてたじゃない。蒼汰君にも憂佳が彼のことを気にいってるのをそれとなく話していたし…」
「…そんなお節介焼いたかな」
「亜希にとってはそれぐらい、何でもないことだったんだろうね。でも憂佳と蒼汰君が付き合うきっかけを作ったのは亜希だよ」
「大袈裟。たまたまそうなっただけで、あたしはくっつけようとは思ってなかったもん」
「そこが亜希の凄さなの! それに奈々だってそうなんだから」
奈々も? とあたしが問うと、なんで覚えてないの、と夕莉は呆れた。
「今年のクラスマッチだよね、奈々と達っちゃんが付き合ったのは。達っちゃんが持ってたタオルが奈々の好きなマイナーなバンドのグッズだって亜希が気づいて奈々に教えてあげたじゃん。それで奈々が興味持って達っちゃんに話しかけたのが始まりだったよ」
そして私だって、と夕莉は遠い目をした。
「去年の雁峰祭の時期、翔太君とギクシャクしてるときに亜希は私達の間に入ってくれた。翔太君と裏で連絡を取り合って、私達が出来るだけ鉢合わせするように動いてくれてたんでしょう? 一日目の芸術鑑賞会から最後の後夜祭の時まで。チャンスがあれば私達を引き合わせて、慣れてきたら二人っきりにするようにしてくれたよね。…実はあのとき、決めてたんだ。去年の雁峰祭が終わるまでに翔太君との関係がまだギクシャクしたままだったら、もう彼のこと諦めようかなって」
夕莉がそう決めていたのは、あたしにも伝わっていた。だからこそ去年、あたしは夕莉のために動こうと思ったのだった。
「うん。知ってたよ」
あたしがそう言うと、夕莉は驚いた表情をして、さすがだね、と言った。
「雁峰祭が終わって少ししてから翔太君から聞いた。翔太君も亜希から私がそういう状態だってことに半信半疑だって言ってたけど、でもそれどころじゃないと思って後夜祭のときに告白することにしたって言ってた。改めて、ありがと亜希。あなたのおかげで、最高にドラマチックな体験ができた」
そう言って夕莉はあたしを見た、力強く。
大したことしてない、とあたしは返す。
「本当に亜希は、判断を間違えないね……でも今度は、私があなたに言わないと」
最後の言葉は今から夕莉が言おうとしていることの前置きのように感じられた。
「亜希に目の前にある選択肢の中から落ち着いて正解の選択をすることができるね。でもそれはいつも他人事で亜希が冷静なまま判断することができたからだと思う。でも水瀬君のことはどう? いつもいつも正しい選択を選ぶことのできた亜希だけど、今まであなたが選択した行動はちゃんと正解なのかな? ううん冷静じゃない。とっても大事だから冷静な判断が出来てない。亜希は頑なに認めないけどずっと好きだったんでしょ? 二年の時から私は一緒にいて亜希が水瀬君のいるクラスに時々行ってCDの貸し借りしたりしてるのを何度も、何度も見てた。亜希が自分のことであれだけ積極的に行動するのは珍しいから私は驚いたの。何かに強く執着しない性格だって思ってたけど、この子にもそうなれるものがあるんだなって。私ね、嬉しかった。そして願わくば、その想いが報われてほしい」
力強い視線をしていた夕莉の瞳がふと不安定に揺れる。
「このままじゃ手遅れになるかもしれない。正直、上手くいくかわからない。でも、今以上に告白するチャンスなんてないと思うの」
夕莉はすぐに力強くあたしを見つめ直して、だから、と言った。
「亜希には、今すぐにでも彼に会いに行って来て欲しい」
そう言われて、じっと見つめ続けて、とても長い時間そうしているような気がしたけど、実際は数秒だったと思う。そろそろ言おうとしたときだった。
ひゅー、と頭上の闇夜に笛のような音が昇って、一拍の余韻ののちに、パン、と弾けた。
闇夜に再び十分咲きの赤い光の花が咲いた。第二陣の花火の始まりだ。
「行かなきゃ.……」
そんな声が漏れるように聞こえたのは、それと同時だった。
「私もそろそろ行くね」
夕莉が立ち上がった。うん、とあたしが頷くと、口元だけで薄く笑って夕莉は歩き出した。
その背中は何か勝負に負けたときのように寂しげに見えた。
でも彼女は何と勝負して、負けたんだろう?
けど数歩だけ歩くとゆっくりと足は止まり、振り返る。夕莉の表情が花火に照らされて、赤、緑、青と光る。だから夕莉の表情がよくわからない。
「覚えてる? 私と翔太君が去年の後夜祭で付き合ったときのこと」
忘れるわけがない。
あたしは思い出す。
誰もいない裏庭で対峙する二人を校舎のそばから見守った時のことを。
十メートルほど離れているあたしにも伝わってくる緊張感。体の熱を連れ去っていく静かな夜風。遠くから漏れ聞こえてくる楽しげな声。ついに口を開いた奥山君の硬く、震えた声。うん、うん、と隙間を埋めるような夕莉の頷き。そして最後を締めくくる、奥山君から夕莉への愛の告白。涙を流しながら、よろしくお願いします、と頭を下げる夕莉。
「亜希はその瞬間を見届けてくれたよね? 翔太君が私に告白してくれた瞬間を。そのあと私が亜希に報告しようと近づいていったとき、あなたは独り言のようにこう言った」
あの時の二人にはいつか姉の話を聞いていたときによく感じていた、
「『嵐が起きている』って」
思っていたことを、心の中を夕莉に覗かれたような気がして、びっくりする。
「面白いこと言うなと思ったの。でもこうも思った。亜希はこれを求めているのかなって」
花火の光が弱まり、あたしを見る夕莉の表情がようやく見えるようになる。
その表情はどこかぐったりとして、かつて失恋をしたときに見せたものと同じだった。
「亜希が去年、私と翔太君が付き合う瞬間を見てそう思っててくれるのなら、ねえ亜希。亜希にとっての正解って何? ……嵐はね、きっとそこに座ってるだけじゃ起きない。自分の理想の形にならなくても、不本意でも、惨めでも、動かなきゃ。ごめん、本当は引っ張っててでも水瀬君と亜希を二人っきりにしたかったけど、もう時間切れ。奥山君との約束を破ることになっちゃう。私にできるのはこれぐらい。だから最後に一言だけ」
一度だけ目を伏せて、夕莉は再びあたしを見た。
「後悔はしないようにね……まだ終わってないんだから」
そう言うと、もう彼女は振り返ることなく、やや小走りで消えていった。
頭上には相変わらず美しい光の花が咲き乱れ、その鮮やかなな空の下では同じ体操服を着た数百人の生徒がその景色に心を奪われている。
あたしもその一人だ。
ただ鮮やかに咲いては散っていく光の花に心を奪われて、美しくて、儚くて、なんて綺麗なんだろう。
そんな生徒達をぐるりとあたしは見渡す。
友達同士で空を見上げている女子二人、花火なんて見ないで喋って笑っている男子のグループ、グラウンドで一人、誰といるわけでもなく空を見つめる下級生の男子。花火と自分達を上手くフレームに入れて写真を撮ろうとしている女子四人組。
他にも色々な人達がこの空の下、同じ空間同じ時を過ごしている。きっとここだけじゃない。
体育館や教室、生徒会室なんかでも秘密のやりとりが行われているのかもしれない。
この瞬間も、きっとどこかで、例えば人気のないところで愛の告白が行われているのかもしれない。それとも今から行われようとしているのかもしれない。
ひゅー、と音がして、パン、とまた光の花が立て続けに三発咲いた。
そしてまた一発撃ち上がる。少しずつ、少しずつ終わりが近づいている。
この瞬間は、無限じゃない。
有限だ。だからこそこんなに心は焦りを感じている。
──あのね亜希。知ってるかもしれないけど、耕輔君と付き合うことになったの。
結局のところ、あたしの日常には嵐が起きなかった。姉の日常に起きていたあの嵐をあたしも経験することができたなら、どんな感じだったんだろう。ちくり、と細やかな痛みが胸に走る。
諦めと絶望が入り混じった今の心境の中、そんな希望は似合わない。胸が痛むだけだ。
パン、とまた光の花が咲く。
──あのね亜希。知ってるかもしれないけど、耕輔君と付き合うことになったの。
なんであたしにだけ嵐は起きないんだろう。憂佳や奈々にもそうした瞬間があったっていうのに。
──後夜祭の最後、花火が上がったと同時に彼がついにね、告白してくれたの。
こんな穏やかで、曲がり道なんてない、さざ波一つ立たない凪のような日々にしかならないんだろう。
絶望的な気持ちは体の中を暗く染めてしまう。
真っ暗だ。重苦しく、真っ暗な闇が体中に広がっていく。
そして何度思ったかわからないけど、再び納得する。ああ誰だって、この一度しかない青春で、そして高校時代っていうのは、こういうものなんだな──。
姉の話を聞いていたとき、今まで生きていた中で感じたことのない心の高鳴りを感じた。
自分の人生には存在しない嵐のように激しい何かと、貫かれるほど強い閃光があった。
あたしはずっと、ずっと求めていた。
毎日がつまらなかったから。どうしても欲しかった。あたしの日々は少しも輝いてくれないから。
その気持ちは時間が経つごとに強く、大きくなっていた。だから姉のあとを追うように、この高校に入学して、姉の話にあったような嵐のような日々が来るってどきどきした。
でも、そんなことはなかった。
あたしの日常はいつだって穏やかで曲がり道がなく、凪のような静かな日々だった。
そんなことない、まだ大丈夫、時間はあると思っていたらすでに高校三年生で、こうして高校最後の雁峰祭を終えようとしている。高校時代で最も楽しくて、心躍るような印象的な瞬間が過ぎ去ろうとしている。
もしかしたら人生で最も濃密な瞬間なのに。
でもきっと、こういうものなんだろう。そう思う。
きっとあたしはこれからも今までと同じように生きて凪のような静かな日々が待っているんだろう。
大学に入ってもその先の生活でも、きっと、きっと。特別やりたいことも焦がれるほど好きなものもない。そんなあたしの人生には嵐のように激しい日々も、貫かれるほどの強い閃光もありはしない──。
そうやってほとんど確信するように絶望して、諦めて、凪のように静かな日々を受け入れていけばいい。もう、そのような日々にしかならないから。
頭上に見えるこの闇夜のような、暗い絶望が胸の中で広がったとき、パン、と頭上でピンク色の光の花が咲いた。
美しい光が、鮮やかに心にまで眩しくはっきりと映る。
さらに二発、パンパン、と赤と緑の光の花が咲いて、同じように心に映り込んで、綺麗で、切なくなるほど綺麗で、暗く広がった胸の中の絶望を照らして、絶望の奥底に隠れていた気持ちを露わにする。
──後悔はしないようにね……まだ終わってないんだから。
それでも、こんなに諦めているときでさえ。
まだあたしは期待している。闇夜の中、鮮やかに輝く花火のような希望を。
──ねえ。
ぽつん、と一滴の雫が溢れ落ちるように体のどこかから響いてくる。
──ねえ、亜希の心はどこにある?
姉の言葉が血液に溶け、心に届き、その中で花火のような強い光が灯った。
瞬間、嫌だ、とあたしは強く思った。
その場で立ち上がり、周りを見渡す。
大して動いていないのに急に出てきた汗をそのままに、どこに行こうか決めるわけでもなく、動き出す。パンパンパン。
頭上で光の花が咲き続ける中、その鮮やかな光の空の下、あたしは生徒達の間を駆け抜ける。
何気ない笑い声と、花火の美しさに漏れる感嘆の声と、連続で切られるカメラのシャッター音の間を抜けて、三百六十度全ての方向に目を向けて、探す。
まだ終わっていない。
はあはあと焦る心臓に酸素を送り届けながら、そう思う。どうしてこんな終わる頃になって。自分に舌打ちしたくなる。でも終わっていない。
何度も諦めようとして、その度に諦められなくて、こんな最後の、最後の最後になって、必死に、惨めに、あたしは足掻こうとしている。探しても姿は見当たらない。
そのとき、一人の女子の姿が目に入った。急いで近づいていく。直前まで近づいてようやくその女子はあたしに気がついた。あたしは言う。
「将生見なかった?」
食いかかるようなあたしの様子にその女子──沙織はたじろいだ。
「え、どうし──」
「将生がどこにいるのか、教えてほしいの」
あたしの様子を見て、すぐに沙織は状況を理解したようで真面目な顔つきになった。
「あっち。今さっきトイレに行くって言ってたから」
西側、体育館と校舎を繋ぐ渡り廊下にあるトイレを指さす。ありがと、とだけ言って歩き出すと、走って、と後ろから沙織の声が聞こえてきた。その声色は真面目そのもので、背中を押してくれているようだった。あたしは可能な限り走って、渡り廊下の方へと行く。
そのときだった。ちょうどトイレを出てくる将生の姿を見つけた。将生はグラウンドの方へは向かわず途中で曲がって北側、裏門の方へと進んでいく。
どこへ行くんだろう。
釈然としない気持ちのまま、あたしも後を追う。やがて校舎を超えて左に曲がり、将生の姿が見えなくなる。その先には裏庭が広がっている。
あ、この場所は去年、夕莉が奥山君に呼び出されて──。
パンパンパンパン。
花火の上がるペースが速い。クライマックスが近いってわかる。じわりと焦る気持ちのまま、将生が曲がっていった校舎の近くまであたしも到着する。
そしてその角を曲がろうと、
「こんな時間に、この場所に来てくれてありがとう」
突然、自信無さげな声が聞こえてきた。
ぴたっとあたしの足が止まる。
その声が女子のものだとわかるのに時間はかからなかった。うん、と緊張したような声が続けて聞こえてくる。その声は将生だった。
それだけで、一瞬で状況を理解した。
この状況で、こんな最後の最後で、将生が告白される場面に遭遇してしまった。去年そうだったように、夕莉と奥山君が対峙しているのをこの場所から見守った。
あたしはゆっくりと恐る恐る壁際に寄って、その先の光景に目を凝らした。
「それで、話ってなにかな?」
花火の音も光もどこか遠くに感じてしまうほどグラウンドから切り離されたような裏庭の中央あたりに、おさげ髪の女子と将生が向き合っていた。
パンパン、となお打ちあがる花火の光を浴びて、将生のたくましい背中と女子の顔がそれとなく見える。
だけどその女子の顔も名前もあたしは知らない。
夜空は鮮やかで煌びやかに輝き、最高潮に達した花火の音が鳴り止まない。
「……私の描いたマンガ、誰をモデルにしたのかわかったよね?」
「……うん。わかったよ」
パンパンパンパンパン。
おさげ髪の女子は今にも泣きそうな表情を浮かべて、でも将生から目を離さない。
「水瀬くん」
パンパンパンパンパン。
「ずっと、ずっとあなたのことが好きでした。……私と付き合ってください」
パンパンパンパン。
ああ、花火の音がうるさい。
あたしはなにをこんな不安になっているんだろう。
告白を受けて、将生の顔が下を向く。すぐに顔を上げると息を吸って背中が膨らむのがわかった。
「……本当は昨日、文化祭の段階でそうなってるはずだった」
「え?」
おさげ髪の女子と同じ言葉があたしの中から出そうになった。イエスでもノーでもないその答えはあたしの頭の中を真っ白にした。
本当は昨日、文化祭の段階で──?
あたしに背を向ける将生の声が一層弾む。まるで照れているように。
「ほら。渡辺さんを誘ったでしょ? 本当はあのタイミングでね」
「え?」
おさげ髪の女子は目をはっきりと泳がせている。
パンパンパンパンパン。
「……俺から、渡辺さんに告白しようと思って」
パンパンパンパンパンパンパンパン。
だから、と一度切ってすぐに、
「こちらこそよろしく」
と将生は頭を下げた。
パンパンパン……。
闇夜を鮮やかに彩った光と音が、唐突に止まった。
『……以上をもちまして、第四十五回雁峰祭は終了となります。全校生徒及び関係者の皆様は気をつけてお帰りください』
打ち上がり続け、闇夜に留まっていた花火の残煙が風に運ばれてこの学校中を覆い、白く染めていく。
その煙があたしの鼻を通ったとき、終わりの匂いを強烈に感じた。
グラウンドを出て、正門の方へと歩いていく生徒達。どこか疲れていて、確かな充実感とまだ続く高揚感を表情に張り付けたまま帰っていく、雁峰祭が終わってしまったことを受け入れながら。
──ねえ、亜希の心はどこにある?
あたしはまだ、少しだって受け入れられていないのに。
「……終わったね」
おさげ髪の女子が照れたような声を出す。
「……せっかくだからさ、一緒に帰ろうか」
「……え、うん。もちろんこちらこそお願いします」
将生がそう言うとおさげ髪の女子が頷く。
地面を踏み、こちらに近づいてくる音が聞こえてきて、あたしは慌てて足音をたてないように移動する。校舎の壁沿いを進んで、右に曲がる。
そして一、二年生がいつも使う二階昇降口への階段の踊り場に身を隠す。
足音がどんどん近づいてきて、あたしは踊り場から顔を出して真下に目を向ける。
さっきまであたしがいた場所をおさげ髪の女子と将生が一緒に歩いていた。二人の背中が少しずつ遠のいていく。
そして気づく。
二人は、手を繋いでいた──。
あれ? 視界が急にぼやける。
慌てて目元に手を伸ばして自分が泣いていることを知る。
……好きだったの。
胸が痛い。すごく将生のことが好きだったの。
すごくすごく好きだった。
最後の雁峰祭、校舎裏で後夜祭もクライマックスで花火が咲き乱れている夜空の下で、将生に呼び出されてどうしてもあたしは将生に告白されたかった。
将生から告白される相手はあたしがよかった。
でも違うんだよね。
本当はあたしがしなきゃいけなかった。
勇気を出して、絶対成功するとは限らなくても、将生に気持ちを伝えないといけなかった。
『告白されたい』じゃなくて、『付き合いたい』をあたしは求めないといけなかった。
胸が痛い。涙が止まってくれない。
夕莉が言っていたことは、お姉ちゃんが言っていたことはこういうことだったんだ。ずっと、ずっとずっと言ってくれていたのに、あたしは気づくことが出来ずに、全てが終わってから、張り裂けるような後悔をしてからやっと気づいた。
手を繋ぐ二人の遥か先、正門付近には人が溢れかえっている。終わりを受け入れて、笑顔で、この瞬間でさえも思い出にしようとしている。
なんて眩しくてたまらないんだろう。
このままで終わってほしくない。
こんな後悔でいっぱいのまま終えるなんて、ダメだ。
そのとき、ブー、とポケットに入れたままの携帯が震えた。取り出すと、画面には
『いまどこ? 打ち上げ行くよー!』
と夕莉から連絡が来ていた。
ひっく、と鼻をすする。
きっとあたしはひどい顔をしている。誰にも見せたことのないような痛々しい顔をしていることが容易にわかる。
ダメ、泣いている姿なんて絶対に見せられない。
泣くな泣くな泣くな泣くな泣くな──。
ブー、ブー、ブー、ブー。
今度は着信が来て、携帯が震え続けている。次第に機械が熱を持つ。
表示されている名前は夕莉だった。
夕莉、電話は苦手だって言ってたのに。
早く出ないといけない。
でもきっといま出たら声で泣いていることがわかってしまう。
何もできなかった後悔がいっぱいで、あたしの理想の通りにならなくて、暗い思い出になってしまいそう。でもまだだ。終わっていない。
まだ、ロスタイムのはずだ。
最後の最後くらい、楽しい瞬間であってほしい。
明日からは受験一色しかない毎日、今日は高校最後の雁峰祭。最後の雁峰祭なんだ……。
正門に向かっている無数の背中が、この瞬間を楽しい瞬間になっているように、あたしもせめて楽しい瞬間にしてあの集団に溶け込んで帰りたい。
後悔でいっぱいの最後の雁峰祭──そんな思い出にまだ抗えるはずなんだ。
手の中の携帯がいまもなお震え続けている。
きっと夕莉は心配してくれている。本当にいい子だ。今すぐにでも出てあげたいけど、どうしても涙が止まってくれないからそうすることが出来ない。
止まらないなら、涙も悲しい気持ちも後悔も全部全部流しきろうか。
あたしは体操座りをして、ひざと両手で作った暗闇の中に顔を埋めた。
笑顔で夕莉や憂佳や奈々に会おう。
ごめん、ちょっと遅れちゃった、なんて言いながら打ち上げをするんだ。どうせ奈々がお金なくてファミレスとかになるんだろうけど、きっと楽しい。
…手の中でいまも眩しい震えを感じる。
写真だってさ、いっぱい撮ろうかな。
そして後から見返して、楽しかったねー、なんて四人で言い合って、大したことでもないのに盛り上がって、大声で笑って、将生とおさげ髪の女子の手を繋いだ姿に涙が出てきて、雁峰祭終わっちゃったよ、なんて涙の理由を誤魔化して四人で泣いて、そうやって蓋をする。もうこの際、終わりよければすべて良しってことにして、ファミレスを出るころには四人で笑ってさ、きっと楽しい思い出になるよ。
きっときっと、絶対に楽しいに決まってる。
携帯がいつまでも明るいままだからか。
隠そうとしても、自分がどんな顔してるのかわかってしまう。
……もうさ、今だけでいいから。
もう少しで落ち着いていつものあたしになるから。
お願い。
静寂に包まれたこの暗い場所にいさせて。
くるり、といまも眩ゆい光を放ち、震え続ける携帯をあたしは裏返した。