三日目 体育祭
つま先で地面を強く蹴りだし、同時に腕を前へと大きく振って、走り出す。
緑色のピッチの上、ディフェンダーの死角から突然加速して裏抜けする、そんなイメージで。
もちろんオフサイドにはギリならない、絶妙なタイミングで脳裏にいるオレは裏抜けする。で、抜け出したオレの足元にまたまた絶妙なエロいパスが水瀬から飛んできて、オレはもちろんキーパーとの一対一をよゆーで制して、ゴールを決めるんだ。やっほい!
前後に振る腕につられるように、現実の俺の足の回転も速くなる。最高速度にまで達したまま、走って、走って、走りまくって、ゴール地点に定めた道路の白線まで走り切る。
はあはあ。息が切れる。
まだ走り始めてたった数本しか走ってないのにもう肺がオシャカだ。やっべ、咳が止まらねえ。
スタート地点に戻るためにまた引き返す。
なにこの足? アンクルウェイトでもつけたっけ? 部活を引退した衰えを露骨に感じる。オレの足じゃないみてえだ。脳裏にいるオレはもっと速く、もっと長い距離を走ってもよゆーなのによ。
スタート地点に決めた道路の白線まで戻ってくる。右を見れば学校を囲むように建てられたフェンスがある。反対に左には田んぼがずーっと広がっている。のどかだなあ。
車も人も通らない学校脇の一本道で朝早くこうして走るようになって、一週間が経つ。トントン、とシューズの先を地面に軽くぶつける。部活を引退して数か月。なんでもっと早い段階から準備してこなかったんだろうなー。
嫌なイメージが頭をよぎりそうになって、慌てて走り出す。イメージを置いてきぼりにするように、ガムシャラに走り続ける。
走るたびに頭の中のオレとはかけ離れているのを感じる。頭の中では、いま走っているもう一歩、二歩先にいるはずなんだ。どんどん離されて、ゴール地点になると頭の中のオレが遥か先にいた。
たった数か月前のオレと、引退して足にアンクルウェイトがついている今のオレ。
まだ個人百メートルの予選はたぶん大丈夫。けどさー、こんな走りでいいのか。決勝まで進んだらきっとアイツが出てくるはずで。ホントに大丈夫っすか、こんなんでよ。
右腕についた時計を見る。七時三分。て、もうこんな時間かい! 体育祭が始まっちまう。あーもー、なんでもっと前から準備してこなかったんだ。そうすればこんな嫌なイメージは浮かんでこないのによ。…ダメだ、ダメだ、ダメだって! もっと走らねえと。
ふと、視界の隅で何かが動いた気がして、慌ててフェンスの方を見る。
そこには誰の姿もない。気のせい、か? ふうー、と息を整えて、地面に目を向ける。
──ゴールだけ見てろ!
ビク、と反射的に背筋が伸びる。懐かしい声が背中に聞こえた気がした。気のせいだけど。その声につられるように嫌なイメージがよぎりそうになって、ブンブンと頭を振る。
もう一度、息を整えて、トントン、とシューズの先を地面に軽くぶつけて、シューズを完璧にフィットさせる。こうでもしないと、オレは不安でしょうがない。でも何度ぶつけても、シューズの中に石ころがいつまでも入っている気がするのはなんでだろう。
ふうー。その場でピョンピョンと飛び跳ねながら、体中の感覚を確かめる。
足にアンクルウェイトがついているみたいに重い。相変わらず背中に追い風は吹いてくる気配はない。もうずっと追い風が吹いていない、無風状態。話にならない。
ダメだ。体も心も返ってくる反応は、オールグリーンにならない。おかげで気分も上がんねえ。でも心臓だけは体育祭が近づいているのを感じ取って、バクバク、と暴れている。なんだか行き場をなくしたように、オレは空を見上げた。
あー、快晴だなーこりゃ。どんな雨乞いをしたって、雨は降らないくらいに憎たらしく快晴だよ。雲一つ見えないんだから、誰だって快晴だってわかる。
仮に雨が降ったとしても、体育祭は延期になるだけで、中止になるわけじゃない。学校のスケジュールにはご親切なことに体育祭の予備日というものが設けられているからだ。延期になるだけでも滅多にないのに、予備日まで設けられてるんだもんなー。なにその二段構え! マルディーニ、ネスタ、カンナヴァーロの3バックに、キーパーがブッフォンだった頃のイタリア代表くらい硬いよなー。だから、今日ぜってえ中止になることなんかねえよなー。てか、あのころのイタリアマジ最強だったな。
八時には教室に戻らないといけないからそれまでが勝負ってことで、俺はスタートラインに立ち、脳裏にかつてのオレがフォワードとしてピッチ上を駆け抜けていたときの映像を流しながら、走り出す。ずっと思い出しそうになる嫌なイメージをただ振り払いたくて。
まあ、結局やらないといけないとしても延期でも先送りでもいいから今からネズミ色の空になって雨でも雹でも降っちゃってさ、そんでもって運動場がぐちゃぐちゃになってさ、
…体育祭、なんとか中止にならねーかな。
教室に入ると、真っ先にたくさんの赤と黒のストライプが目に飛び込んできた。それは雁峰祭の為に作ったクラスタオルだ。くぅー、何度見てもカッケーなおい、赤黒のストライプ。まさにハイクオリティ。ロッソネロ的な? ネラッズーロ的じゃないのがポイントだ。青色と黒色のストライプなんて闘争心が駆り立てられないし、なにより目立たない!
やっぱなんでもさ、特にイベント事なんて、目立ってなんぼでしょ。
「おっせーぞ、小林ぃ。ちゃんとタオル持ってきただろうな?」
ノリノリな様子で片眉だけ上げた楠木が、オレの目の前でクラスタオルを目いっぱい広げた。相変わらず消費カロリーが無駄に多そうな動きだな。でも、バカっぽくて行動も表情もわかりやすくてオレは好きだ。逆に何のリアクションもなくて表情もないような、わかりにくいヤツは苦手だったりする。やっぱなんでもシンプルイズベストってことよ。白ティーにジーパンみたいにさ。
「あったり前だろ。このタオル、誰がデザインしたと思ってんだよっ」と、オレはバックから同じクラスタオルを取って、楠木に見せた。で、肩にタオルをかける。
このクラスタオルはオレがみんなに提案して、強引に決めたデザインだ。反対意見も少しはあったけど、そんなん関係ない気にしない無視するに限る。こうして見てみれば、みんな満足そうにしてるし、結果的にオレの判断正しかったっしょ。褒めて欲しいくらいだ。
「そういや小林だったか。おい、見ろよ。みんな、気合十分だぜ?」
周りを見ると、サイドの髪を編み込んでいるコーンロウみたいな髪型の男子とかお団子ヘアの女子とか、ちゃんと染めたのかスプレーなのかわからないけど金髪や茶髪のヤツもいる。あ、赤色に染めてるヤツもいる。オレも金髪にしてくりゃよかった!
と、楠木がニヤニヤと眉毛を上下に動かしながらオレを見ているのに気づく。なんだそのウザえ動きはよ。て、よく見りゃ、楠木もちゃっかり茶色に染めてやがる! 裏切られた気分だ…。染めんならオレも誘えよ! このおバカさんめ…。恨めしい気持ちのまま、楠木の右から左にキレイに流れる、まるでいい波来た! みたいな逆立った前髪と綺麗なおでこを見つめる。あ、見つめていたら少し落ち着いてきた。波みたいなアホな髪型だと思ったら、なんか許せる気がした。
いつの間にか担任の山口が教室に入ってきていて、昨日と様変わりした生徒の様子を見て、
「なんだお前らその恰好は!」
と驚いて小言を並べている。いま山口に近づくとめんどくさそー、離れよ。しかししかし、これはやっちまったなー。こんなお祭りみたいで全てが無礼講でパーリナイな日にオレは何が悲しくてこんな真面目なカッコーしてんの。髪をツンツンに立てるだけじゃ、あの茶髪や金髪や赤髪には勝てねえ! 誰かスプレー持ってないっすかね? 今日ほど目立たないといけない日はないっていうのによー! あー萎えるわー。薬局、行こうかな。遠すぎて無理だけど。
「しょうがないなあ。優勝したら、一人一つ購買で好きなもの買ってやるよ」
うおおっ、さすが先生! 優勝するしかねえな、男子もっと気合入れてよね、絶対優勝するんだからね、なんて山口の粋な計らいにみんなのテンションが最高潮だ。
さっきまで小言を並べていたと思ったのに、もうそんなところまで話が進んでいるとは。
しかしこんなことを言うなんて、山口もやるじゃん。テンションの上がったオレも頃合いだとみて、ルンルンスキップで山口に近づいていく。
おい小林、と山口が急に声を低くして、オレを呼んだ。え、なんすかなんすか?
「ピアスは取れ。危ないだろう?」
マジっすか! 茶髪とか金髪はよくて、さらに赤髪も大丈夫なのに、ピアスはダメなんすか。えー。やべ、山口の顔が鋭くなった。ピカ、と心のレッドランプが灯る。
怖っ、オーケー。外しまーす。オレはリングの形をしたピアスを外して、バックに仕舞う。この人、顔面の圧が凄まじいんだよ怖いんだよ仁王像かってーの!
すると山口が曇りのち雨だった機嫌を直して、晴れのち快晴になった。山口の機嫌、オールグリーン。オーケー。
そのままオレの右肩にグローブみたいなギッシリした手をドンと置いて、
「お前には期待してるからな!」
と教室中に響くバリトンボイスで言った。その声に、オレは飲み込まれそうになる。
だから、ウーッス! と山口の二倍は大きい声で返した。うるせー、耳痛いんだけど、なんて声が飛んでくるけど、気にしない。声の大きさだけでもファイティングポーズを取らないとダメだろうよ。だって、スウェーデンリレーでも八百メートルリレーでもアンカーを任されて、個人競技でも百メートルを走るオレの責任は重大で、
つまり、負けられないってことだから。
山口に続くように、クラス中の視線がオレに傾くのがわかる。嫌な予感がした。そして予感通り、クラスメイト達から声を掛けられる。
「頑張れよ!」やめてくれ。「お前にかかってんだからな!」やめてくれ。「アンカーは任せたぜ」やめてくれ。「優勝して山口の財布をカラにしてやろうぜ!」やめてくれ。やめてくれ。やめてくれ。やめてくれ。
期待の声が掛けられる中で、おう! なんて期待の声を全部飲み込むような大きさで返しながらオレは頭でその声を拒否する。そんな声を掛けられると思い出しそうになる。
あの日の、じっとりと体を包んだみじめさを。
そんな映像を脳の隅に向かって黄金の右足で強く蹴っ飛ばす。思い出せなくなるように。
もう少しで、体育祭が始まるのか。やべ、緊張してきた。いまだに声を掛けてくるクラスメイトたちの言葉が頭に入ってこない。とりあえず元気に頷いてみせる。それでも隠しきれない不安が外に漏れ出る。トントン、とスリッパを履いた足を軽く床にぶつける。
「おー、おまっ足痛いのか?」
楠木がオレの足を見た。少しな、とオレは痛そうな顔を作る。すると、クラスメイトたちが心配そうな視線と声をかけてくれる。ホントは痛くなんてないけど、痛そうな顔でいる。そんな自分に吐き気を覚えながら、トントン、と床にぶつけるのをやめない。
またこうして言い訳を作ろうとしていることに、オレは目を背ける。
と、今まで目に入ってなかったけど、教室の端の方でこんな日でも勉強をしている男子を見つけた。萎えるわ。もう体育祭だぜ? どんちゃん騒ぎできるお祭りだぜ? 体操服に着替えてタオルはロッソネロでミラニスタ気分でクラス一丸となって優勝目指しましょーってなってるときにそんな現実に引き戻してくれるような行動やめよーぜ、名前なんだっけ、菅野? 菅原? いまだによく覚えてないけどさ。
でもまあ、こういうときだけは、そんな自由なことできるのがちょっぴり羨ましい。
普段はそんな行動を見ても気にならないのに、いま気になる原因はわかっている。
先週返ってきた模試の結果が良くなかったからだ。
学年二百人中六十位。第一、第二、第三希望の大学全て、判定はD。
サッカー部を引退してからずっと変わらない。毎日、何時間も勉強して夏休みもみっちりやったのに成績が伸びていない、もう九月なのによ。なんてネガティブな気分になると脳裏の隙間を縫ってあの日の映像がどうしようもなく流れ込んでくるから、反射的にもっと奥に蹴飛ばそうと試みる。
いやいやみっちりやったけど、集中できてなかったとき多かったし、休憩中もマンガとかゲームに手を出しちゃって勉強できなかったことも割とあったからなー。
脳裏に緑色のピッチが強制的に広がっていく。マズい。コーナーからボールがオレに向かって飛んできてしまう。これはマズい。…だから、だからさ、もっともっと集中しないといけねーんだよな! もっともっともっと! 頑張りが足りないだけでさ、頑張ればオレだってちゃんと上手くいくはずで、
脳裏にいるオレがヘディングでシュートを打ってボールがゴールポスト右に逸れていく。
ああ、もう、止められな──
ピーッ。ピーッ。ピーッ
体を切り裂くような笛が耳の奥深くから響く。どっと汗が噴き出てくる。クーラーの効いた部屋にいるのに、体操服の中がいつの間にか熱気を孕んでいる。
まーた、思い出しちまった。
「運動場に行くぞ」
山口が気合の入った声でそう言って、教室を出て行く。続くようにみんなも高いテンションのまま、教室を飛び出していく。優勝するのは自分達だと信じて疑わない、自信のみなぎった顔をしたまま、飛び出していく。その自信の一端にオレの存在があるってこともしっかりと伝わってきて、やめてくれって思う。勉強をしていた菅野だったか菅原だったか、さっきの男子も気づくといない。
「ほら、俺達も行こうぜ」
と、楠木がオレに声を掛けて教室を出て行く。いつのまにか教室にはオレ一人だけだ。
さっきから、嫌なイメージが浮かんできて仕方がない。
個人百メートル決勝で、水瀬にブッチぎられて負けるオレ。来年の大学受験で、志望校の合格発表で不合格になっているオレ。サッカー部の引退が決まった試合、ラストワンプレーで託されたシュートを外してしまったオレ。
おーい、早く、と廊下から楠木の声が聞こえる。やべ、早く行かねえと。行きたくねえなあ。足にアンクルウェイトがついている気がするしよ。どっちだ、こりゃ? なんて考えて、いやどっちもだろ、と即座にオレは、自分にツッコんだ。
早く終わってくんないっすかねー、暑っちいし。
全校生徒が集合し、整列した運動場。空からはジリジリと焼けるような太陽の光が容赦なく降り注ぎ、どこからか空気を読むことなくセミの鳴き声が絶えず聞こえる。
朝礼台の上で開会式の挨拶をダラダラと続ける校長を見上げることにオレはもう飽きてきていた。オレの周りには一年から三年まで全てのクラスの級長が朝礼台を囲むようにして、クラス旗を掲げている。あれ、水瀬って三組の級長じゃなかったっけか。三組の代表としてクラス旗を掲げているのは鈴本で、水瀬の姿がない。そのことに安心している自分を見なかったことにして、頭の隅に向かってトーキック!
「──生徒諸君には優勝を目指してもらいながらも、是非ともクラスの仲間とともに真剣勝負における緊張感を楽しんでもらいたいと思います」
そんな笑顔で言われてもなあ。緊張感なんて、楽しいもんじゃねえんすよ。
「最高の体育祭を目指し、三年生はリーダーシップを発揮して下級生を引っ張り、また二年生と一年生は本校体育祭の長き伝統を先輩の姿から引き継ぐことを期待して、開会の挨拶とします」
ザザ、とノイズが流れて、スピーカー越しにアナウンスが入る。
『次に、誓いの言葉』
「はい!」
その堂々とした声が、グルグルと考え込んでいたオレの意識を運動場に引き戻した。
地面を踏みしめ、ざ、ざ、ざ、と近づいてくる。やがてオレの横を通りすぎ、全ての級長が円になって囲む朝礼台の前に一人の男子がやってくる。オレ達級長が掲げる旗の先にその男子は立つ。そしてハガネみたいな身体をピン、と真っすぐにして、さらに快晴の空に向かって右手を伸ばした。
「宣誓っ!」
ビリ、運動場の空気がと痺れる。力強く、毅然と水瀬はそう宣言した。水瀬の放った言葉は運動場に残り、みんなの体をビリビリと浸食していく。その間も水瀬は見上げるように校長を見つめて動かない。ピン、と真っすぐ大地に根を下ろして、校長を見つめる横顔は神々しい。オレ以外の級長達も観に来た親達も目を奪われたように水瀬を見つめている。
全ての視線が、水瀬に向かって集約する。それが当然であるように。
ああ、と思う。こんなときほど、残酷な差を感じることはない。アイツにあって、オレにはないモノ。それをこの場がハッキリと表しているような気がするんだ。
才能、ヒーロー、主人公、才能、ヒーロー、主人公、才能、ヒーロー、主人公。
そんな言葉が脳裏で、花火みたいに光っては消えていく。オレが決して持てなかったモノ。そう思うのと同時にため息が漏れる。数か月前まで、オレはこの声を、この視線を背中で受けていたんだな、このオレの背中で。
──ボールほしいって要求しろ。セルフィッシュになれ。ゴールだけ見てろって。
背中で受けた言葉が蘇ってくる。自然と、アイツのことを一つ一つ思い出している。
キャプテンで、チームの中心で、司令塔で、ポジションはトップ下。エースで背番号十番。オレがずっと蹴りたかったフリーキックを三年間蹴っていた。たぶんアイツが望めば、センターバックだってサイドバックだってアンカーだってボランチだってウイングだって、そして、そしてそしてセンターフォワードにだってなれた。ただチームを一番勝たせられるとアイツが思ったのが、トップ下だったってだけで。足が速いくせに、ディフェンスが複数いる密集地帯でドリブルするときはやたらヌルヌルした動きで相手を抜けるし、でもサイドでドリブルすればスピード爆発させるし、アイツの出すパスはやたらエロいしさ。
でも、守備から攻撃に切り替えるとき、アイツは必ずオレを探すんだ。ボール持っていなくても、ボールを持ってディフェンスをヌルヌルしたドリブルでかわしている間も、ちゃんとオレの姿をとらえている。オレの動きを把握してくれている。だからセンターバックとの駆け引きに勝って裏抜けしたときは全速力で走るオレの足先に寸分の狂いもなく、ディフェンスの合間を縫ったようなエッロいパスが飛んでくる。オレと水瀬の間にどれだけディフェンスがいてもパスコースがなくても、誰も思いつかないコースを見つけて、必ずパスを通してくれた。
オレのことを信じてくれる水瀬の目と期待の言葉を背中で受けて、オレはずっと前へ、前へと進んでいけると思った。試合を決定づけるシュートを決めて、圧倒的なモノを持っていなくたって、水瀬みたいにオレだってヒーローになれるんじゃないかって。
なのに、最後の最後の、最後の瞬間までオレはアイツの期待に応えられなかった。
「──生徒代表、水瀬将生!」
ハッと現実に戻る。オレは、旗の先にいる、堂々とした背中を見つめる。
アイツの声と視線を背中で受けていたはずなのに、なんで今はオレがアイツの背中を見てんだ。白い体操服姿なのに、いつかの十番という背番号が見えてくるようだ。
快晴で、雲一つない中で太陽の光と人の視線が最高密度でアイツの背中に集まる。このために快晴になったんじゃねえかってくらい、あの背中に集まって眩しくてたまらない。
オレの目の前には、影が伸びている。暗くまとわりつくように鬱陶しく影が伸びている。
水瀬はもう、あの試合のことを気にしてねえんかな。あの試合の、最後の最後。きっと一秒にも満たないあの瞬間が、影のように纏わりついているのはオレだけなんかな。
ふうー。全力で走り切ったあとだから、なんとなく体の深くに溜まっていた空気を全部吐き出して、ピョンピョン跳ねて出し切って、身軽になりたくなる。思ったより体は重たくねえ! まだ予選とはいえ、一位で通過できたしよ。やっぱ、オレ才能あるわー。
パン、と空気が割れるようにピストル音が聞こえた。
音の方へ目を向けると、百メートル個人予選二組目が始まっていた。お、先頭を走っているのは水瀬だ。あれ、でも一番内側のレーンってスタートは一番後ろの位置からだよな。
なのにアイツはもう先頭を走っている。二位以下を引き離して、スイスイスイ、と圧倒的な差をつけてゴールする。しかも、ラスト数十メートルは明らかにペースを落として、余裕を出してゴールしてやがる。なんだよ、最後まで全力で走り切れよなー。予選ぐらいじゃ本気出さないってか。まったく、けしからんことだ。
運動場内で割り当てられたクラスの待機場所へ戻りながら、オレはトラックの内側を見つめる。そこではひっそりと走り高跳びや走り幅跳び、砲丸投げの個人競技が粛々と行われている。あれって人の目に入ってんのかな。見ててなんだか切なくなってしまうのはなぜだろう、と思う。もっと応援してほしいし、もっと注目されたいよなー。
午前中は個人競技も団体競技も予選しかないからそんなに緊張しない、午前中は。
運動場の隅に設置された各クラスの得点表を確認する。順調に点数を伸ばして、やっぱ当初の予想通り、三年三組と三年五組がトップを争っていた。だから、午後から始まる各競技の決勝の結果次第で負けることもありえるわけだ。
この段階で点差があればそれを言い訳にできるのによ、と一瞬浮かんだその考えを慌てて頭の隅にトーキック! なんだか嫌なイメージが浮かびそうで、でも浮かばないようにギリギリの攻防が脳内で続いている。
水瀬にあって、オレにはないモノ。
筋書きとかシナリオとか、よくわからないけど、そうしたものが次第に、必然的にアイツ中心になっていくような気がしてならない。アイツを主人公にして、周りのヤツらがアイツを引き立てるコマでしかなくて、その仕上げのコマがオレっていう劇的な筋書きが。
背後から馴れ馴れしい感じで、
「見たぞ師匠。相変わらず足だけは速えな~」
ドン、と肩に手を置かれてオレは振り返る。あれ、誰もいねえ。手は肩に乗ってんのに。
「…幻聴、か?」
「わざとらしく見えてねえフリしてんじゃねえよ。目線少し下げろ。泣くぞオラ」
「おお中村じゃねえか! わりいわりい、チビすぎて見えなかった。また背ぇ縮んだ?」
舌をペロッと出して、演劇部顔負けのオーバーリアクションでオレは驚いてやる。改めて中村を見ると、コイツもこのお祭りにかこつけて茶色に髪染めてやがる! ムカつくからワックスで立てられた髪の毛を両手でグジャグジャにする。「おいっ、やめろっ、バカ!」うるさい! その髪型が台無しになるまで、グジャグジャにするのをやめねえ! と、少しずつささくれだった気持ちが落ち着いてくる。ああ、いい気味だ。オレより目立とうとするんじゃない、このおバカさんめ…。ああオレも頭真っ赤に染めたいぃ…。
今更ながら思い出したようにオレは言う。
「てかよ、相変わらずってなんだよ!」
「ずっと足だけは速かったじゃん、足、だ、け、は」
地面に伸びる影でなんとか髪型をもとに戻そうとする中村が嫌味ったらしく言う。
あれあれ? これ、煽られてるオレ?
「まるで足の速さ以外はダメダメみたいに聞こえるけど、そんなことないよな!」
「そう言ったつもりなんだけどもしかして国語苦手? 文脈って知ってる? 足元の技術も上手くないし、せっかく相手の裏に抜けて水瀬から決定的なパス来て、調子乗ってキーパーとの一対一をドリブルでかわしてまで置きにいったのに無人のゴールにシュート決められないような絹ごし豆腐メンタルだし」だからこそ師匠なんだけど、とこのチビはオレの古傷を平気でエグってくる。
なに、お前に優しさとか気遣う心とかないの? 共感性欠如なの? サイコパスなの?
オレが無人のゴールにシュートして外してしまったのは二年の頃だ。その頃から、オレはサッカー部の連中から『師匠』と呼ばれるようになった。オレの醜態を見て、中村が爆笑しながら、師匠じゃん! トーレスじゃん! と言ったのが部内で浸透してしまったのが始まりだった。今考えれば、トーレスじゃんって、トーレスに失礼だろっ!
俺はこの『師匠』というあだ名が好きじゃない。だって、これはゴールを決められないフォワードにつけられるあだ名だからだ。ゴールを決めないことに関しては師匠クラス。ノーゴール師匠。元はネットで使われてた言葉らしい。汚名じゃねえかって反論すると、「ただシュート決めないヤツにはつけられないから」とか「お前が愛されてないとつけられないあだ名なんだぞ! ありがたく拝命しろ!」とかって言われた。
けど、センターフォワードをやっていたオレからしたら不名誉なあだ名に変わりない。そういえばサッカー部の先輩も後輩もオレのことを『師匠』と呼んだけど、水瀬だけは一度もそう呼ばなかった。きっと信じてくれてたんだ、オレのことを、最後まで。
「そういえば、さっきの水瀬の走り見た? 予選で水瀬と被んなくてよかったなー」
個人百メートルの予選は四組に分かれて行われ、各組の一位だけが自動的に決勝進出でそれ以外は二位以下の選手のタイムの上位三人だけが決勝に上がれるようになっている。
三年で一番速いのは水瀬か太田だろう。今回はなぜか太田は個人二百メートルの方に参加しているからいないけど、水瀬はオレと同じく、個人百メートルに参加している。中村と話しながらも第三組と第四組の個人百メートルの予選を見た感じだと、二年や一年にも水瀬より速そうなヤツはいなかった。つまり全校でも一番速いってことだ。オレだって下級生達には負ける気はしていない。
でも足の速さにおいて、オレは一年の頃から水瀬に勝ったことがない。
「俺は個人競技に出ないからいいけどさあ。師匠は一緒に走らないといけないもんなー。ま、そこそこ応援してるから頑張れって」
オレは水瀬に勝てるのか、せめていい勝負を繰り広げることができるのか。
ああ、そういえばよ、と何かを思い出したように中村がオレの肩をバンバンと叩く。
「聞いてくれよ。オレ、前に返ってきた模試の成績めっちゃ上がったんだよ」
へえ、と中村の言葉を頭の表面だけで聞きながら、「何位だった?」と聞いてやる。中村は勉強できる方じゃないし、学年順位もちょうど真ん中ぐらいだったと思う。だからコイツの言う、上がったってのはオレの少し下ぐらいの順位なんだろう。
「四十位! すごくねえ? サッカー部内でバカだバカだって言われてたオレがだよ? なんだかんだ、やれば出来る子なんだよなオレ。志望大学の合格判定もCになったぜ!」
力を入れていない腹を思いっきり殴られたような気がして、上手く頭が回らない。
え、コイツは夏休み前までオレよりかなり成績は悪かったはずだ。
「師匠は何位だった?」
成績が上がったことがよほど嬉しかったのか、満面の笑みを浮かべてオレに聞いてきた。
友達だけど、こういう考えは好きじゃないけど、オレよりコイツの成績が下だという事実に、オレは頭のどこかで安心していたのに。
「中村と同じくらいだって! いつの間に、お前そんなできるようになってんだよ!」
大袈裟にオレは中村にツッコむ。お前は勉強できないキャラじゃないとダメだろ! なんて喚いて、何かを誤魔化す。グラつきそうになる足元を固めたくて、頭の中にある学年順位六十位という事実を何度も蹴って、形を変えてウソをつく。
受験勉強に取り組む前からちゃんと計画して授業後だって自習室で勉強して休日だって家でずっと勉強しているのに、オレは少しも成績が伸びていない。コイツはそんな素振りすら見せていないのに。
「さすがにオレもやらないとやべえと思ってさ。最近は二時間は勉強するようにしてる」
オレは、お前の何倍もやっているのに。なんでだ、なんでだよ。
脳裏で、嫌なイメージばかりが浮かんでくる。このまま成績が伸びずに、受験当日を迎えてしまうオレ。志望大学に合格できないオレ。そして、ゴールポストの右に逸れていく、ヘディングで打ったボールの軌道。
ピーッ。ピーッ。ピーッ。
「おっと、そろそろスウェーデンリレーの予選が始まるな!」
クラスの方に戻るわー、と言い残して、中村は歩いていく。その後ろ姿を見つめる。
さっきのウソが今になって、じっとり、と体を包みこむみじめさに変わっていく。せっかく楽しめていたのに中村の余計な一言を聞いたせいで、オレの足元がグラつく。
背中に当たる日差しが暑い。ジリジリと暑く、時間とともにより暑くなっている。頭がボーっとする。オレの目の前に伸びている影がぐにゃりと、右回りに歪んでいく。
朦朧とした意識の中で、心の底にある暗い感情に引きずられるように思う。
家で、自習室で、勉強しているとき、ちゃんと単語も文法も方程式も頭に入っているんだ。復習したときでも忘れずに暗記したことを正確に思い出すことだってできている。
でも本番になるとその頭に入っていたはずの単語も文法も方程式も上手く出てこない。
サッカーをやっていたときだってそうだ。練習中のオレは水瀬からどんなに厳しいパスが来ても追いついて、ゴールを決めていた。隣でディフェンダーがプレッシャーをかけてきても、キーパーが距離を詰めてきても、瞬時に判断してシュートを決めることができた。
でも公式戦や練習試合になると、途端にシュートが入らない。パスが来ても上手くトラップすることができなくて、ドリブルもおぼつかなくて簡単にロストしてしまう。
なんでだ。なんでオレはこんなに結果が出ない。
練習中、オレは自分が無敵だと思えた。誰にだって負けない。オレは最強だった! そしてオレの背中には、追い風が吹いていた、ちゃんと吹いていたんだ!
…だから。
ありえない話だけど練習中に急に何かの拍子で、今すぐワールドカップの舞台でプレーしてくれって言われても、活躍できる気しかしなかった。水瀬にだって負けていないって本気で思っていたし、ディフェンダーとの駆け引きだって上手くいったし、オフサイドにはならないギリギリのタイミングで飛び出すことができた。
…だから。
練習中なら、水瀬からのエロいパスにちゃんと届くし、オレの足元に収まる。キーパーがどう動くか、ディフェンダーがどう止めに来るのか、手に取るようにわかる。シュートを外すイメージなんて浮かんだことはない。ゴールネットに収まっているイメージしかないんだ。
オレがこのチームを勝利に導くんだと、真っすぐに思えた。練習ではそうなんだ。家で勉強しているときだって、サッカーの練習のときと同じだけの自信があった。いや、実際にできていたんだ、それが本番で出来ないだけで。
だから、本当はできるはずなんだ、勉強だって、サッカーだって。
いつの間にか、オレの背中には追い風が吹かなくなった。
特にこれが原因だっていう出来事は思い当たらない。それまで練習中のオレは誰にだって負ける気がしなかった。体格が一回り大きな先輩にも負ける気がしなかったし、いつも脳裏に広がるイメージ通りに動くことができた。面白いようにディフェンスの裏を抜けて、チャンスを作り出せた。
だからオレには追い風が吹いている。そう思っていた。おかげで体もかっるいかっるい。気分も最高。楽しくて仕方がない。まさしくシステム、オールグリーンって感じで。
全て順調だったはずなのに、と思う。気付いたら、オレの中で何かが変わってしまった。
レギュラー争いでオレに敗れて泣き崩れる先輩の姿や、先輩を押しのけて初めて出場した公式戦で感じた、想像もしていなかった殺伐とした空気や、ベンチから送られる期待や、勝ちも負けもオレの活躍次第で変わってしまうという重圧。
そうしたことを経験していくうちに、いつの間にかオレに追い風は吹かなくなっていた。
二年になって初めてスタメンで出場した公式戦、オレは何も出来なかった。フリーでボールをもらって入れる確率を百パーセントに近づけるためにドリブルでキーパーまでかわして、無人のゴールの中にボールを蹴り入れるだけだったのに、それすらも外した。
ひどく体が重い。追い風が吹いていたときに感じていたオレを包み込む躍動感がない。いつもシューズの中に石ころが入っているような違和感が付きまとっている。だからか、その後も公式戦や練習試合があると、オレはミスをし続け、シュートも入らなくなった。
ちょうどこの頃だ、オレが『師匠』なんて呼ばれ出したのは。
こんなはずじゃなかった。もっと上手くできるはずだった。脳裏にいるオレはミスなんかしたことなかった。スムーズにディフェンスを交わしてシュートを決めていた。脳裏ではいつも試合で一番活躍するのはオレで、いつだってオレはヒーローだった。
なのに、現実では一番足を引っ張っているのはオレで、一番活躍するのは水瀬だった。
そうした日々の中でようやく、少しずつだけどオレは気づいていく。いつも脳裏に浮かんでいた自分の活躍するイメージ。そこには都合のいい結果だけが切り取られていて、空を飛びたいと夢想するときに現実には重力があるように、本当はその結果までに必ず存在するものをオレは見えてなかった。脳裏に広がるイメージはオレの願望が百パーセントの割合で作られているからただ楽しくて、興奮する映像ばっかりだった。でも本当は違うんだ。現実は、レギュラーに選ばれるヤツがいれば、選ばれなかったヤツがいて、ユニフォームすらもらえないヤツもいて、緑色のピッチの上に立てば肌が痺れるような緊張感が待っていて、顧問や仲間からの期待や責任が体に絡みついてくる。
これは、誰だって通る道なんだろう。そうして現実を知って、そうして自信ってヤツをつけていく。水瀬だって、きっとこの道を通ってきたはずだ。そして誰にも、どんな状況にも、惑わされない自信ってヤツを身につけた。
だからオレが何もできなかった試合でも、アイツはトップ下として決定的なチャンスを作り続けることができた。何度も最高にエッロいパスをオレに出してくれた。
オレは覚えている。チームが劣勢の最中、プレーが止まり、水瀬はふいに呟いたのだ。
「ふう〜。オッケ、面白いね。やっぱこうでないと。すげえ燃えてきた」
あの試合、オレは自分の無力さで動けなくなりそうだった。だからだろう。動じずにいつものプレーをし続ける水瀬の姿は狂おしい輝きを放っているように見えたのは。
その姿を見て、体の毛穴という毛穴からあふれ出しそうなくらいの嫉妬を感じた。
どうしても水瀬には負けたくないって思った。
オレは水瀬のことを強く意識していたけど、水瀬はそんなことを気にすることなく、オレによく声をかけてきた。「ボールほしいって要求しろ」とか「セルフィッシュになれ」とか「ゴールだけ見てろって」とか。耳にタコができるほど、同じことを言われ続けた。
そしていつも最後に、アイツはこう言うんだ。
「このチームのフォワードはお前だからな。点取る役割は任せたぜ」
嬉しそうに期待を込めてそう言っていた。その言葉を背中に受けて、嬉しいような、悔しいような、そんな複雑な気持ちでオレはプレーをし続けた。
練習では自分の思い通りのプレーができた。ディフェンスをかわすことだって、水瀬からのエッロいパスに追いつくことも、しっかり足元で受けることもできた。シュートだって難なく入れることができた。だから練習中は追い風を感じるんだ。でも練習試合や公式戦になると上手くいかない。途端に追い風が吹かなくなる。
その状態は、長く続いた。いつか返上させてやると密かに思っていた『師匠』という不名誉なあだ名も返上できないまま、二年の冬、結果の出せないオレに監督はしびれを切らせ、センターフォワードをオレから水瀬に変えようとした。トップ下のくせにオレより得点を取っていた水瀬をセンターフォワードに据えようとしたわけだ。ある日のミーティングでそう発表した監督のその決断にみんな、戸惑いを見せていた。もちろん、オレも。悔しいよりもショックが大きくて、でも監督のその決断もわかってしまうくらい、情けない成績しか残せていないオレは何も言えなくて、みんなも黙っていて、
「俺は反対です」
でも、水瀬だけは、監督のその決断に反対した。その声は怒っていた。
「今のフォーメーションがチームにとっていい形なんです」
誰よりも早く、誰よりも強く、誰よりも激しく反対した。このチームのセンターフォワードは小林しかいない、と何度も何度でも直訴していた。コイツが怒った声を出すのを初めて聞いた。みんなもそうだっただろう。監督も初めてだっただろうから、水瀬の主張に押されていた。
その結果、オレはセンターフォワードとしてやっていけることになった。コイツには負けたくないと思っていたのに、いつかオレがこのチームの中心になってやるんだって思っていたのに、一番負けたくない相手に庇ってもらって、なんて色んな気持ちがごちゃごちゃとしてバランスが取れなかった。でも考えてもどうにもならなくて、とにかく結果が欲しくて、考え込まないようにオレはより激しく走り続けた。いつでも、どんなときだってまた追い風を感じられるようになるようにオレは走った。
その後も本番ではゴールという結果が出せないことが続いて、その度に水瀬に励まされて背中を叩かれて、他の部員達からは相変わらず『師匠』と呼ばれ続けて、あっという間に最後の大会を迎えていた。一回戦は勝った。でもオレはまだ相変わらずシュートを決められず、この試合も水瀬のフリーキックの一点でなんとか勝つことができた。
そして、二回戦。試合が開始してわずか数分で相手に点を入れられたことで、オレ達は動揺し、勝利するために考えていたプランを崩され、早く同点にして自分達のペースにしなきゃと思いながら、一点が入れられない。相手は一点を入れている安心感からか、冷静にプレーが出来ているようだった。オレ達のプレスを難なくかわしていく。
後半に入っても、流れは変わらない。相手に攻められていても、オレはフォワードだから自陣のゴールから一番遠くにいることが多い。ディフェンスしている時間が長いからオレは前線で孤立していた。我慢できなくなって、オレも自陣に戻ろうとするけど、すかさず水瀬がオレを見てジェスチャーで、そこにいろ、と伝えてくる。もしボールを取ったら速攻に繋げるつもりだから、水瀬はオレに自陣に戻ることを許さなかった。
オレが一番生きるのが速攻のときみたいにスペースが広くて、足の速さで勝負できる場面だったからなおさらだった。数少ない攻撃のときは中盤にいる水瀬を中心に、しっかりと確実にボールを前へ運んでいく。その間にも水瀬はオレの動きを常に把握していて、オレがディフェンダーと駆け引きをして後ろへ抜け出したときには必ずパスが飛んでくる。しかし、オレの飛び出しが早いせいでオフサイドを取られたり、水瀬のパスにオレが追いつけないといったことが続いて、同点にできないまま、アディショナルタイムに入ってしまった。表示された時間は三分。その間に決めないといけない。
オレは水瀬の動きを注視していた。この三分の間に必ずアイツからボールが来る。オレをマークする相手センターバックの隙を伺いながら、水瀬がドリブルで密集地帯と化した中盤をヌルヌルと抜けようとしていた。
ここで、オレは勝負をかけた。右サイドに張っている状態からゴールに向かって全速力で走る。オレの動きに相手センターバックがワンテンポ遅れてついてくるのがわかる。よし! このまま突き進む。
アイツを見なくてもわかってんだ、水瀬は必ずオレにパスを出してるってな!
ちょうどオレの進む一歩先にボールが飛んできていた。相変わらずエッロいパス出すなあ! ボールを足元で受けて、ドリブルで右サイドからゴールに向かってオレは斜めに進んでいく。オレのすぐ後ろにセンターバックがついてきているのがわかる。やがて追いついてきた。そのまま並走したまま、ペナルティエリアに入る。
相手センターバックはコースを絞るようにポジショニングをとっていて、正面にはキーパーがいる。どうする? キーパーの隙間を狙ってシュートを打つか、左に切り返してより広い方向へドリブルをするか。刹那の思考で左に目を向けて、目に入ってしまった。
水瀬がフリーでゴールに向かって走りこんでいる!
反射的にオレは右足でマイナス気味のクロスを上げた。
「あっ」
オレの上げたクロスはついてきたセンターバックの足に当たった。でも運よくゴールラインを越えたからオレ達のコーナーキックだ。ヒヤリ、とした。冷や汗が止まらない。
ホッとしたのもつかの間、ものすごい勢いでオレに向かってくる人影が目に入った。
ぐりん、とオレの視界がものすごい勢いで揺れる。
「なんでパスなんだよ! ボールもらったらシュート! ずっとそう言ってるだろうが!」
今まで見たことのない剣幕で水瀬がオレの肩を思いっきり掴んでいた。強い握力だった。
「お前がチームのフォワードなんだぞ! お前が点取らなかったら誰が取るんだっ!」
大きく開いた瞳孔が、迸る感情の発露が、オレを貫く。貫いて、飲み込んでいく。あまりの激しさに圧倒されて、ごめん、ごめん、という言葉しかオレは出せない。
「…ゴールだけ見てろって」
最後に吐き捨てるように言って、水瀬はオレから離れる。
体の中ではまだ水瀬の言葉が雷鳴みたいに轟いていた。
シュートを打つには厳しい場面だった。パスを選択したのも悪手だったとは思えない。でも、それでも、オレはさっき、シュートを選択しないといけなかった。だって、このチームのフォワードはオレで、ヒーローになれるかもしれなかったし、そしてずっと応えられていなかった水瀬の期待に応えるチャンスだったから。
直前のやり取りから切り替えられないまま、オレはセットポジションにつく。アディショナルタイムはもう過ぎているからこれが最後のプレーになる。どうにかして挽回しないといけない。ペナルティーエリアの中は無数の人で溢れている。もう最後のプレーってことで、味方のディフェンス陣もエリア内に入ってきている。
このプレーで取り返すんだ、取り返さないと、オレが取り返さないと。
そう思いながら、さっきの水瀬の言葉は胸の中で雷鳴みたいに轟き続けていた。
コーナーアークにボールを置いて中村がオレ達に手を挙げて、そのままボールを蹴った。
ボールはオレに向かってきている。キーパーの位置を確認しようとゴールに目を向ける。
また、水瀬がフリーでいるのが見えた。見えてしまった。どうする? アイツの位置はオフサイドでもない。アイツにパスを通せば、オレより確実に、どうする?
──ゴールだけ見てろって。
オレはヘディングでシュートを選択した。胸の中の雷鳴のような轟きを無視することができなかった。ヘディングの振動からか、飛んでいくボールの動きがスローモーションに見える。ボールはキーパーの右側に向かって飛んでいく。
でも嫌な予感が、あっ、どんどんボールが右に逸れて、待ってくれ。なんとかそのまま入ってくれ。祈りは届かず、ボールはゴールポストの右を通過してゴールラインを超えた。
ピーッ。ピーッ。ピーッ。
試合終了の笛がオレの胸を貫いて、頭を真っ白にする。何も考えられない。じっとり、と何かが足元から包み込んでくる。はあ、はあ、はあ。周りを見渡すことができない。
オレはしばらく顔を上げることができなかった。
購買で昼メシを買ってからクラスの待機場所に戻ると、ブルーシートの上で足を伸ばすように座る楠木が「牛丼あったー?」と訊いてくる。だから、ほらよっ、とアホそうな面した楠木の頭に牛丼を乗せてやる。
「ちょっ、落ちる落ちる落ちる落ちる落ちる、はいでも落ちなーい! 俺てんさーい!」
オーバーに反応しながらも、楠木は器用に頭の上に乗った牛丼をキャッチする。そして、
「お使いご苦労、小林君。これはお駄賃だよ」
とオレの掌に五百四十三円を乗せた。内訳は五百円玉一枚、十円玉四枚、一円玉三枚。牛丼代で五百円だから、お駄賃は四十三円ということになる。せめてあと七円くれよ… 受け取ったオレの表情で察したのか、楠木が、いやあさ、と弁明する。
「今、財布がパンパンでよ。ちょうどいいからそれはお前にやるよ」
「ジャラジャラして邪魔じゃねえかこれ…まあもらうけど」
隣から牛丼のいい匂いが漂ってくる。オレも買ってきたビビンバ丼を食べることにする。
「やっぱ予想通り、三組が勝ち上がってきたなー。なんかアクシデントとかで少しでも差をつけられたら楽々優勝できたのにさ」
うまうま、と美味そうに牛丼を食べながら、楠木の目は得点板に向いていた。
「個人二百メートルに出るんだっけか?」
「そうそう。太田と一騎打ちになりそうなんだよなあ」
オレが訊くと、少し憂鬱そうに楠木は言った。
「頑張れよ」
「いやー全力出すけどさー、相手は太田だよ? さすがに厳しいって。だから、俺の代わりに小林の活躍に期待してるんだからな。頼んだぜ」
なんだろう。急に食欲がなくなってきた。ビビンバ丼、意外と重いよなー。
「そういえばさ、お前ってどこ志望だったっけ?」
話題を変えたくて、そう口にする。すると、憂鬱そうな顔をしていた楠木がさらにげんなりとした様子を見せた。
「こんな時に勉強のこと思い出させるなんて、おまっ、受験生ぶってんじゃねえよ」
「いや、受験生じゃんオレら…」
「今だけはただの三年生なの! 受験生は明日から!」
「はいはいわかったわかった。それで? 志望校は?」
「名古屋のD大」
「お、オレもそこ受けるわー。もしかしたら来年同じキャンパスにいるかもな」
と言うと、楠木が同意する。そして、少し上を見つめて妄想に浸るように、
「だなー。同じ授業取って、同じサークルに入って、同じとこでバイトして││」
「おまっ、彼女かよ! きもちわりい」
はは、と楠木は笑って、
「冗談だって。実際、うちの学校からだと名古屋の大学に行くヤツがほとんどだもんな。たまに東京の大学に行くヤツもいるけどよー。水瀬とか太田とか」
と二人の名前を出し、続けて具体的な大学名を二、三個挙げる。楠木が挙げた大学はどれも有名で難関とされている大学ばかりだった。それを聞いていると、次第にビビンバ丼の味がわからなくなっていく。ただ噛んでいるだけだ。ソースの絡んだ肉やもやしを口に運んでも脳にまで味が到達しない。
少しずつ意識が頭の中の考え事に支配される。
そんな先に進んでいるのか、と思った。成績が伸びなくて、志望校は水瀬達よりも簡単な大学のはずなのに、それでもオレは合格圏内にすら入れていないというのに。
じっとりとしたみじめさが再びオレを包む。視界がどこかぼんやりとして、どこにも焦点が合わない。意識が離れていくような感じだ。
と思ったら、スーッと焦点が急速に定まっていく。ハッキリとした視界の中心には太田がいて、隣には山本早織がいた。二人は肩をピッタリとくっつけて、仲良さげに昼メシを食べているようだった。
「…山本が太田と付き合ったって話が回ってきたけど、あれマジなん?」
オレが言う前に、息荒げに楠木がそう訊いてきた。
「あの様子見るとマジそうだよな。オレも昨日聞いてたけど、ラブラブやん」
えー、マジかー、と楠木は悔しそうな声をあげる。
「けっこー狙ってたのに。連絡しても反応よくなかったのはそういうことかい…」
と意気消沈している。おまっ、狙ってたの? これは友人を代表して、励ましてやらねばならないな。
「ドンマイ」
「もっと、ちゃんと、オレが元気出るように、自己肯定感高まるように慰めてくれよ…」
「ドンマイドンマイ」
「気持ちこもってねー」
懸命に励ましながら、オレは違うことで頭がいっぱいだった。オレが見つめる先では、山本が箸でウインナーを掴んで太田に食べさせようとしている。最初は嫌がる様子を見せるけど、観念したのか、口を開いて太田はウインナーを食べる。そして咀嚼しながらも、照れたように笑う。頬がリンゴみたいに赤い。
オレの知っている太田じゃない。脳裏に、以前の太田の姿が浮かんでいる。
暗い雰囲気を影のようにくっつけて、光のない目。笑ったりするところを見たころがない。常にイヤホンをして他人を遮断しているような、そんな印象だった。
それは、ある日突然、バスケ部を辞めてからだ。
その噂は学年の間で瞬時に広がりを見せて、オレの耳にも入り、例に漏れず驚いた。
サッカー部といえば、真っ先に水瀬の名前が上がるように、バスケ部といえば太田ってイメージがあったからだ。そんなイメージがあるってことはたぶん、太田はバスケ部内で圧倒的に上手かったんだろう。水瀬がそうだったように。なのに、辞めたという。
その噂を聞いた時、こう思った。そんなに上手かったのに、お前は自分の武器だったはずのバスケをいとも簡単に捨てられたんだなって。そして次に、オレはなんだか安心した。すごく遠いところにいたようなヤツが自分のところまで転げ落ちてきたみたいで。ひどく安心してしまった。
なのに、だ。なのに、もうお前はそんな暗い雰囲気を取り払って、芸術鑑賞会では前座のくせに物凄く盛り上げて、なんでもう今はそんな顔してられんだ。すんなりと元のすごく離れた場所に戻っていけるんだ。オレの背中にはもう追い風が吹いちゃくれないし、ずっと嫌なイメージが浮かんで仕方ないっていうのに。
「さっき、足痛そうにしてたけど、大丈夫そうか?」
楠木の言葉で我に返る。生返事をして、ビビンバ丼をブルーシートの上に置く。足先をさすって確かめる。
「…まあなんとか」
オレは答える。
ああ、もう何も考えられなくなるぐらい走り続けたい。ジッとしていると落ち着かない。頭が空っぽになるまで走って、走り続けて、この嫌なイメージをなんとか振り切りたい。
でもさっき楠木たちに見せた、醜い保険のせいでそうするわけにもいかない。
階段を駆け上がり、テニスコート隅の受付で自分の名前を告げる。ここが各種目の集合場所なのだ。グラウンドよりも高い位置にあるテニスコートはどこか隔離されているように静かで、体育祭の喧騒も別世界の出来事のようだ。
各競技ともに事前にここに集まって、受付で参加者全員を確認してからグラウンドへと出ていくことになっている。これで受付はよし。周りを見渡すとまだオレ以外の選手は集まっていないようだ。
他にすることもないから、体をほぐすためにストレッチをする。
テニスコートに設置された時計灯に目を向ける。十二時四十五分。決勝は十三時十分からだから残り二十五分。個人百メートル決勝がいよいよ始まってしまう。
脳裏で嫌なイメージが浮かんで、消えて、また浮かんでは消えて、浮かんで、浮かび続けて、ああ、やっぱりもっと真剣に短距離の練習をしておけばよかったよなあ。
しばらく待っていると、決勝進出者達が一人、また一人と集まってくる。そしてやはりというべきか、最後に水瀬が姿を現わし、受付へと向かっていった。主役とかシナリオとかそんな文字が脳裏でチカチカと光ったけど、オレはそんな水瀬を視界に入れないようにして、準備運動をしていく。周りの選手もオレと同じようにアップを始めている。
どうにもさっきから落ち着かねえ。トントン、とシューズの先を地面に軽くぶつける。そしてテニスコートの中で、軽くダッシュをする。やっぱ落ち着かない。トントン。走るたびに一瞬だけ振り払えるけど、すぐに嫌なイメージが何度もまとわりつく。
中途半端にしか練習してこなかった短距離走。トントン。勉強しているのになかなか上向かない模試の結果。トントントン。クラスメイトから集まる期待の視線。トントントントン。個人百メートル決勝で水瀬にぶっちぎられて負けるオレ。トントントントントン。
ゴールポストの右へと逸れていくサッカーボール。
トントントントントントントントントントントン。
ピーッ。ピーッ。ピーッ、と試合終了を告げる笛の音。
トントントントントントントントントントントントントントントントントントントン。
何度もつま先を地面にぶつけてみても、いつのまにか、いつまでもシューズの中に小さな石ころが入っているような気がして、ひどく落ち着かねえ。
「久しぶりに見るな、それ」
その声にオレの背中が過剰に反応する。ああ、せっかく話さないでおこうと思ったのに。振り返ると、水瀬が昔と変わらない飄々とした顔をして、オレを見ていた。やっぱコイツは何考えてんのか、わかんねえ。表情も感情も考えもわかりにくくて、苦手だ。
「それって?」
「そのつま先トントンするヤツ」
オレが訊くと、水瀬はオレの足に目を向けた。
コイツと話すのは、引退試合のとき以来だった。
「ああ。こうすんの癖でさ」
足が痛くて、という言葉がつい出そうになる。けど、それは死んでもコイツだけには言いたくないから我慢する。コイツにまでそんな保険をかけたら、もう、足に力が入らない気がするんだよな。
オレが言ったことを水瀬はうん、と受け止めて、少しの間、オレの足に目を向けたまま動かない。その沈黙が気まずさを助長させる。やがて水瀬は口を開いた。
「試合中、小林を探す時はいつもその仕草を目印にしてたんだよな」
他の決勝進出者がアップをしているというのに、コイツだけは一切そうした動きを見せない。脳裏にコイツが予選で見せた圧倒的な差でゴールテープを切った映像が浮かぶ。
…アップなんかしなくてもいいってことかよ。
「…引退して、もう五か月も経つんだな」
遠い目をしたまま、水瀬はそう言い放った。どこか実感のない口調で。でもすぐにいつもの飄々とした雰囲気に戻って、
「やっぱ何度思い返しても最後の試合は惜しかったよな。…ホント、いい試合だった」
と言う。最後の言葉は思わず漏れた、という感じだ。
そんな懐かしむ感じで言うなよ、と思った。オレには、まだ過去になってない。
するとだんだん思い出してきたのか、「あの試合もそうだったけどさ、小林はバカで単細胞なんだから、難しく考えずにプレーすればもっと活躍できたのになあ! だから俺ずっと言ってたろ。ボールだけ見てろって」茶化すように水瀬は爽やかに笑う。
その笑顔には嫌味がない。だからムカついてくる。うるせーんだよ。バカで単細胞だってな、考えてプレーしてんだ。お前にとっては簡単なプレーに見えるもんでも、オレには簡単じゃねえんだよ。
いつも簡単そうになんだってこなしちまうお前には、わからねえよ。
「…それ、最後のシュートを外したオレへの嫌味のつもりか?」
ビックリした。
自分の声を自分の耳で聞いて、ようやくオレは自分がそう言ったことに気が付いた。オレと同じように水瀬も驚いたように目を丸くしている。が、すぐに飄々としたものに戻る。
「そうじゃない。そうじゃなくて」
「はっきり言えばいいじゃねえか。お前が決めてたらもっと試合できたのにって」
「そんなこと思ってねえよ」
刺々しいオレの物言いにもかかわらず、水瀬はあくまでも冷静だった。
「負けたのは悔しかったけどさ、あの試合が今までのオレたちのベストだったよ」
「でもお前がフォワードやったほうが勝てたんじゃねえかってみんな思ってた、ずっと」
「お前もか?」
オレを見る目が細くなり、少し水瀬の声の温度の下がった。
その問いにはオレは答えられない。だから目を逸らす。答えられないし、答えたくない。
「…あれが俺たちの実力だったよ、誰がなんと言おうとさ。俺はチャンスメイクすることでこのチームを勝たせられるって絶対的に信じてたし、お前の適正は絶対にセンターフォワードだと思ってた」いつの間にか水瀬を覆う飄々とした空気は剥がれていた。何も隠していない顔がオレを見ている。
「…あの試合の最後のセットプレー。お前がシュートをして外れたならそれがうちのチームの実力だと納得できたよ。悔しかったけどな」
そう言って、力なく水瀬は笑った。
「個人百メートル決勝進出者の方は、こちらに集合してくださーい!」
受付のそばで体育祭実行委員の女子がオレ達にそう声をかけた。
そのタイミングでなんとなくこの話は流れてしまって、水瀬が話を切り替えた。
「最近、運動してなかったから、体重たいよなー。もう現役の時のように走れなさそうだ」
「オレも運動してこなかったから、体が重てえよ」
そう同意すると、だよなー、なんて水瀬がだるそうに笑う。
「水瀬クン」
突然、聞きなれない声がする。振り向くと、そこには一人の女子がいた。走ってきたのか、頬が赤い。息も上がっている。体操服についたゼッケンがオレと同じクラスであることを示している。同じクラスで美術部の、確か佐倉だ。佐倉智香だったかな?
「やあやあ。決勝、もう始まるよ?」
水瀬も佐倉と顔見知りらしく、親しげに応じる。
一瞬、佐倉はオレに目を向けた。でもすぐに水瀬に視線を戻す。え、オレには挨拶なし? 教室では普通に話しかけてくるのに。地味にショック。コイツもあれか、水瀬を狙ってるクチか? うわー萎えるわー。まあでも、そういうことなら黙ってようと思う。
佐倉は服の襟のあたりをちょいと摘まんでパタパタと扇いでいて、暑そうだ。
「水瀬クン、いつも人に囲まれてるんだもん。今しかないと思って、急いで来たんだよ。あれ? 水瀬クン、もしかして緊張してる?」と面白がるように下から覗き込んだ。
「まさかあー。いつも通りだよ」
飄々と返す水瀬に、佐倉も、だよねーっ、なんて明るく笑う。
佐倉は気合の入った髪型をしていた。ショートヘアの横髪がコーンロウで髪はうっすらと茶色。おお。体操服の袖も肩までクルクル巻いて、ファンキーだ。実にファンキー。
佐倉は胸の前で手を合わせて、
「昨日はイチゴオレ買ってきてもらっちゃってごめんねー」
と言うと、茶目っ気の含んだ雰囲気が霧散して、声を低くして言った。
「…ところでさ、マンガ、どうだった?」
佐倉の質問が空気中に漂う。二回瞬きをしたあと、水瀬は答えた。
「もちろん面白かったよ」
違う違う、と佐倉は大きく顔を左右に振った。そうして水瀬の顔をじっと見つめた。
「…気づいたよね? さすがに」
獲物を逃がさない鋭さを孕んだ視線が水瀬に向けられる。下から覗き込む鋭い視線をしばらく見つめたのち観念したようにふう、と水瀬は苦笑いを浮かべた。
「…まあ、ね」
すると佐倉はにっと笑って、二本の八重歯が露わになった。そして、楽しそうに言う。
「さすがにわかるよねー。あれだけ似てたらさ。ホクロの位置も一緒でさ!」
そういうところが唯のカワイイとこなんだよね、と佐倉はウットリした表情を浮かべる。
「それで、水瀬クン言ったの? まだ私、唯から何も聞いてないんだよね」
「…もちろんそのつもりだったんだけど、向こうから呼び出されてさ」
「えっ! 唯が? 自分から?」
パッと大きく目を見開いて、佐倉は驚いて見せる。クリクリと大きな目はチワワみたいだ。「いつ! いつ会うの! 教えて! 私も見届けるから!」と体操服を掴んで、水瀬を前後に揺すっている。
「えーとね、後夜祭の最後だよ。花火の時間──って見に来ないで! やりづらいから!」
揺さぶられながら、水瀬が慌てた様子を見せた。いつもよゆーそうにしているから、いい気味だ。いいぞもっとやれ、とオレは佐倉に細やかなエールを送り続ける。もっとそのよゆーそうな面を剥がしてくれ。佐倉はニタァ、と笑って、
「え~、やりづらいとか水瀬クン、エッチだあ。高校最後の雁峰祭のシメに一生に残る思い出でも作るつもりなの~? 唯、そういうのに慣れてないんだから、しっかりリードしてあげてねっ!」
キラン、と星が飛びそうなポップなウィンクを決める。
水瀬が珍しくよゆーのない顔がオレに向いて、
「アホみたいな顔してないで止めろよ、小林! これ、お前のクラスの野良犬だろ!」
「え?」オレは明後日の方を向いて、耳に手を当てる。
「え? じゃねえよ! 早く止めてくれ!」
「野良犬って失礼しちゃうな~」頬を膨らませる佐倉。「冗談はこれくらいにして、と。…これは訊こうと思ってたんだけど、なんで唯なの? 他にも言い寄られてただろうに」
体操服から手を放して、佐倉は落ち着いたトーンで水瀬に訊いた。胸のあたりを数回さすりながら水瀬は深呼吸して斜め上に視線を向けたまま、こぼすように言った。
「ある朝、教室に入ったら彼女は机で寝てて、そのそばにあったノートにさ、俺のスケッチがたくさん描かれてたのを見たんだ」
「…唯」
あちゃー、といったような顔を手で覆う佐倉。
「…ビックリしちゃってさ。他のページも覗いてみたら見事に俺のスケッチばっかなの。横顔だったり、後ろ姿だったりね。しかもめちゃうめーし。いっつも真剣に勉強している風なのにこんなことしてたのかって、なんか意外だった」
そう語る水瀬にはどこか微笑ましい雰囲気があった。
「…なかなか壮大にやらかしてるね、唯」
苦々しい表情で佐倉は独りごちた。それには反応せずに、水瀬は続ける。
「いつもイチゴオレを飲んでた彼女にカフェオレを勧めたこともあって。すげえ苦そうに飲んでて、ああこれは失敗したなあなんて思ってたんだけど、次の日から毎日カフェオレ買ってくるようになってたんだよね。飲むときはいつも苦そうに飲んでるんだけどさ」
「だからなんだ。イチゴオレしか飲まなかったのに、急にカフェオレ飲み始めてたから」
「かわいいなって思っちゃったんだよな、そういうの。昔からバカみたいに素直で実直に頑張れる人が好きなんだ。応援したくなる人って言うか」
だからかな、と水瀬はスッキリした顔で締めた。佐倉はニッと笑って、
「ごちそうさま~、大変美味しいお話でした」
と舌をペロっと出した。
それを見た水瀬は苦笑いを浮かべる。
どうやらやりづらい相手なんだろう。水瀬が振り回される姿を見たことがなかった。
そんなことをボーっと考えていると、
「あ、小林クン」
用事でも思い出したかような態度で佐倉がオレを見た。なんだ、とオレは目で返事をする。クリクリとした大きな目がオレを見ている。
「決勝、頑張ってね! 応援してるから」
八重歯が顔を出した、気持ちのいい笑みでそう言われるもんだから、
「おう!」
ついオレも力の入った返事をしてしまった。すると、佐倉は予想外のことを言い始めた。
「今朝だって、走ってたもんね!」
「あっ…」
喉から声が漏らすのが精いっぱいで、オレは佐倉の口を止めることができなかった。
「学校のそばの道でさ。今日だけじゃなくて、ここ最近はずっと走ってたよね。私、小林クン頑張ってるなーっていつも思ってたよ」
アレを見られていたのか。つまり、今朝感じた視線はコイツだったってことなのか?
どうにもバツの悪い気持ちになる。そうやって応援してくれるのはありがたいけどよ。そんなの、水瀬の前で言われてしまうとな。さっき、ウソをついてしまったばかりなのに。
「だから頑張ってね! 水瀬クンなんかに負けちゃダメだよ!」
佐倉はゼロ距離まで近づいてくると両手でオレの胸を小突いた。そうして離れていく。その後ろ姿を見ながら、オレは最後まで佐倉の目の縁が赤かったのを思い出していた。
「…ふうん。オレはオマケか」
水瀬が意味ありげに笑みを浮かべて呟く。
「なんだ、そりゃ」
オレは訳もわからず、そう訊く。
「いやあ、ちゃっかりしてるなって思って」
「はあ? 何がだよ」
「なんでもないなんでもない」
水瀬の言葉に釈然としないものを感じながらも、受付から集合がかかって、水瀬との会話は打ち切りになった。と同時に緊張した空気が肺に入ってきて、オレは筋肉や心臓が委縮するのを感じた。
受付で順番に並んで、アナウンスがかかり、いよいよグラウンドへと行進する。
グラウンドへ出ると、四方から声援が飛んでくる。この場にいる全ての人々の視線がオレ達に集まっているのを全身でピリピリと感じる。無責任に飛んでくる声援の中で声が大きい訳でもないのに、水瀬くーん! 行けー、小林ー! 水瀬にぜってえ負けんなああ! 水瀬ーファイト! 小林ぃー! 小林ぃー! そんな言葉だけが器用に耳の中を通って、脳みそを痺れさせていく。
いつのまにか自分のスタート場所であるレーンにまで来ていた。一番内側のレーン。他の出場者はしゃがんで、スターティングブロックを調整している。オレはもうちゃんと立っているのかどうかすら、よくわからなくなっていた。自分の顔が真っ青になっているんだろうなと思う。トントン。足先を地面にぶつけるのを止められない。強くぶつけすぎたのか、少し痛みが生じて、顔が歪む。小林ぃー気合入れろぉー! ああうるさいな。歪んだ表情のまま、オレは自分のクラスの方を見る。トントン。オレへの声援に、手を上げて応じる。歪んだ表情のまま。
ズルいヤツだ。こんな直前にもなって、痛そうな顔をして、クラスメイトに見せつけて、
ホントにズルいヤツだ、オレは。なのに、保険をかけずにはいられない。
隣のレーンはよりによって水瀬だった。オレと同じようにクラスメイトの方を見て、手を振って応えている。その横顔はやっぱり飄々としていて、よゆーそうで、トントン。オレはイライラしてしまう。脳裏で、嫌なイメージが濁流のようにもう止まらない。
水瀬にぶっちぎりで負ける映像が流れて、また流れて、繰り返しリピートされる。
その映像にいちいち心が反応して疲れる。なんとか深呼吸しようと深く息を吸う。
「…なあ、知ってるか?」
気が付くと、水瀬がオレを見ていた。
「深呼吸ってさ、吸う時間より吐く時間を長くした方が落ち着くらしいぞ」
今から本番だっていうのに、水瀬は普段と何も変わらない顔をしている。だから、
「ふうん…いつもよゆーそうだなお前は」
そんな言葉がポロリ、と出た。冗談っぽく言えればよかったのに、尖った言い方になってしまった。オレがそうぶつけても、水瀬の表情は少しも崩れない。
「水瀬くーん!」
一瞬、静かになった声援の隙間を縫って聞こえてきた。大きな声を出すのに慣れていないのか、どこかか細くて、でも懸命に出したであろう女子の声だ。見てみると、ツインテールの女子が顔は真っ赤にして、あまり声援を送ったりとかしなさそうな、地味目な女子だった。どこかで見たことあるな、あ、佐倉といつも一緒にいる女子だと遅れて気づく。
隣に目を向けると、水瀬もオレと同じ女子を見ていた。ん? なんだ、その顔は…。
水瀬はオレが今まで見たことのない、優しい表情をその女子に向けていた。そして、一度頷くといつもみたいに堂々とした表情に戻る。
それを見て、脳裏で断トツの差をつけてゴールテープを切る水瀬の姿が浮かんでいる。決勝を走ったあとでもよゆーそうな表情は崩れないで、三百六十度全ての方向から声援を受けて手を上げる水瀬の姿が。トントントン。それを消したくて、足先が勝手に動く。不安で不安で仕方なくて、足先が絶えず動く。
「余裕そう、って言ったよな」
その女子を見たまま呟いた。そして、続ける。
「そりゃ、好きな子の前だしさ。そりゃ誰だっていいとこ見せたいでしょ」
あまりにも予想外なことを言い出すから、ガチガチに固まっていた表情がアホみたいに緩んでしまった。それを見て、水瀬がプッと噴き出して、なんて顔してんだよ、と腹を抱えだした。「相変わらずだなー」と言って、ようやくスターティングブロックを調節し始めた。他の出場者はもう準備を終えているようで、深呼吸したり、目を閉じたり、空を見上げたり。ピリピリとした空気で、スタートの号令をいまかと待っているように見えた。
思わずきゅ、と体の奥の方が縮んだ気がしたけど、そんなことを隠すように俺もスターティングブロックを調整する。が、なかなかブロックがはまらない。カチャカチャ、とやけに音がすると思ったら、さっきまであった声援がなくなっているからだと気づいた。
スターティングブロックの調整をようやく終え、オレは立ち上がる。静かになった空気の中って、なんでこうも動きづらいんかな。この空気は…。
──あの日の試合と同じ空気だ。
そう肌で感じ取った。だから自然と、あの日の最後のシーンが脳裏に浮かぶ。
あのシュートを入れることができていたら、オレの背中に追い風がまた吹いていたのだろうか。影のようにピッタリとくっつく嫌なイメージなんて浮かばないのだろうか。
もうすぐ始まる。もう数分もしないうちに残酷な結果が出てしまうんか。
水瀬にぶっちぎられて負けたり、トントン、負けて残念そうにするクラスメイトの顔だったり、トントン、あの日の最後のシュートがスローモーションで外れていったり、トントン、その直後に鳴った試合終了を告げる笛の音が、トントン、今もずっと、脳裏に。
それらが、かわるがわる浮かんで、浮かんで、浮かんで、
ダメだ、
ダメだ、
もう、始まる。
ダメだ、
オレ、少しも集中できてない。
「…怖え」
突然、あまりにもオレの内面を搾った言葉が漏れ出たのかと思った。
快晴で雲一つないグラウンドで、ふと、それはオレの右耳に引っかかった。
聞き覚えのある声なのに、どうしてもその声に似合わない、とても弱弱しい言葉。
「怖え、怖えなクソ」
その声はすぐそばからだった。視線を声の方へ、ゆっくりと向ける。
「怖え、怖え」
オレは、
「怖え、怖え、怖え、怖えな」
信じられないものを見た気がした。目を見開いて、何度も何度も確かめる。
そんな弱弱しい言葉を発していたのは、水瀬だった。
「…ふう。なるほどね。オッケ、面白え」
準備を終え、水瀬は立ち上がる。たまに上下する胸が小刻みに震えていて、水瀬は深く深呼吸をし始めた。さっきまで聞こえていた弱弱しい言葉はもう聞こえてこない。
「燃えてきた。やっぱ、こうでないとな」
次第にその横顔はかつてピッチ上でオレが見てきたものと同じものになっていく。
今でも信じられない。オレの脳裏にいる水瀬と目の前の水瀬が上手く噛み合わない。
…お前でも怖いって思うのか。あんなに圧倒的な実力を持っているお前でも。
トントン、とぶつけていた足先が止まる。
水瀬の様子を一部始終見て、オレは散々苦悩し、のたうち回った末にこう思う。
そんなお前とオレ、いったい何が違うんだ? と。
だからこそ、水瀬らしからぬ言葉と堂々とした表情が、オレの弱さを浮き彫りにする。
薄々わかっていた。全力で取り組んでシュートを外してしまったあの日から、勉強だって短距離走の練習だってなにかと保険をかけて、失敗してもオレの本気はこんなもんじゃないってどこかでバランスを取るようになった。どうしても怖かった。じっとり、と体を包み込んでくるようなあのみじめさをまた体験することに。あの日から何をやるにも嫌なイメージが浮かんで止まらなくなった。
でもこのままの状態じゃいつまで経っても、オレの欲しい結果は出ないんだ。
──ゴールだけ見てろって。
そうか。やっぱオレって、バカで単細胞なんだなー。こんな時になって、水瀬の言葉の意味をやっと理解した。ごちゃごちゃ考えすぎてしまうオレのために、集中できるように、
──深呼吸ってさ、吸う時間より吐く時間を長くした方が落ち着くらしいぞ。
ずっとそう言ってくれていたんだ。
ふうー、と息を長く吐いてみる。何秒やればいいんだ? とりあえず肺に入っている空気を全て出してみた。落ち着くのか、これ。よくわっかんねえ。背中から涼しい風が吹い抜けた。体操服の隙間をスルスルと入り込んで、少し汗ばんだ体を冷やす。
息を吸う。そして長く息を吐く。ついでに目を閉じて、呼吸だけに集中する。その間に何度も風が吹いて体操服がはためき、太陽の光に当てられ、汗がしたたる首筋をサラリと撫でていく。少しずつ、意識がクリアになっていく気がする。
その動作を何度も、何度も繰り返す。何も見えない暗闇の中で、オレは冷静に考える。
水瀬にぶっちぎられて負ける、とか、クラスメイトの期待や応援、とか、なかなか伸びない成績、とか、あの日の最後のシュートを外したこと、とか、一旦置いておこう。
目を開ける。目の前のレーンを見つめる。隣にいる水瀬でも、ずっと先にあるゴールテープでも、応援席にいるクラスメイト達でもなく、目の前のレーンを。
その場でピョンピョン跳ねて、心身の状態をチェック。なんだか体が軽い気がする。やっぱ軽い。ふんふん。足にアンクルウェイトは? …そんなもんついてねえじゃねえかよ!
数秒前までのオレにセルフツッコミをかましてみる。
背中に吹いていたはずの追い風は? …やっぱまだ感じない。相変わらずの無風状態。
ふむ、なるほどね。でも脳裏にずっとあった嫌なイメージはもうない。脳裏はすっからかんだ、清々しいくらいに。見えるのは目の前に広がるレーンだけってか。
いいね、シンプルでわかりやすいじゃん。
オーケー。…ま、今のオレにはそれだけでオールグリーンっしょ!
「位置について──」
朝礼台の方から、聞こえてくる。その声を合図に選手はみな、スターティングブロックに足をかけてしゃがむ。オレもしゃがむ。
すう、と息をすい込む。視線は数メートル先の地面。真っすぐに、そこだけ。一点だけを見つめる。もう一度、深く息を吐く。
とにかく全力で走ればいい。どうしたってどれだけ考えたって、オレにはそれしかできねえ。
勉強もそうだ。とりあえずはそうだな、ひたすら勉強に打ち込んでみようか。今こうして数メートル先の地面を見つめているように、ただただガムシャラに目の前の問題を解き続けてさ、来年落ちる、落ちたらどうしよう、ばっかり考えるのは止めてさ。ガムシャラに取り組んでいたら、ある日突然、自分でもビックリするくらいできるようになって、オレ才能あんじゃん! ってなってるかもしれねえしよ。そうだといいよな。
ま、オレってバカで単細胞だから未来のことなんか考えても、どうせわかんないんだし。
出たトコ勝負って嫌いじゃねえし、そのほうがオレっぽいってことで。
だから、今はただ数メートル先の地面を見つめて、あ、そうだ、
「よーい──」
あの時みたいに、ピッチ上、ディフェンダーの裏を抜けていくときみたいに、
パンッ
ピストルの音と一緒に、オレは走り出した。