二日目 文化祭
どきっと心臓が驚いて、ひどく射貫かれた。
だってだって、突然、感情をむき出しにするように歌い始めたから。
え、急にどうしちゃったの。歌が始まってから途中まで、まるで隠れるみたいに他の三人より一歩引いた位置で早く終われって表情をして俯いていたのに。なのに、途中から控えめながら三人と同じように手を振ったりしてみて、そうかと思ったら最後のサビに入った途端、急に変わった。私の席の方へ体を真っすぐ向けて、両足を広げるように立って、両手でマイクをぎゅっと握って、叫ぶように歌っている。人が変わったみたいだ。普段はもっとクールな性格で、そんな熱血漢みたいなことする人じゃなかった。
だから、すっかり盛り上がっている会場の中で私の席の周りだけが少しだけ騒ついて、その空気がだんだんと他の席へと広がっていく。戸惑いを含んだような、私の心が思わず冷や汗をかくような、冷たい空気。ステージ上にいる四人の中でただ一人、振り付け通りに踊ることを止めて熱く歌い上げる彼の姿にそんな空気が少しだけ流れる。
それでも客席全体としては、そんなの関係ないと言いたげに、もう止められないんじゃないかってくらい盛り上がっている。ステージの下で四人を見上げるようにして集まっているハンド部や野球部や剣道部の人たちが野太い声をあげて、ステージにいる四人を茶化しながらも会場全体の盛り上がりをさらに煽っている。人がぐちゃぐちゃと入り混じったスクランブル状態で、まるでライブハウスにいるみたいな盛り上がり方だ。
鈴本君や鶴海君や今下君は今も振り付け通りに踊って息を合わせながら、マイクを客席に向けたり、マイクを持っていない手を頭の上で左右に振っている。だけど三人と違って、彼だけは真っ赤なリンゴみたいな顔のまま、最後のサビを熱く歌っている。
そんな姿を見せられてなぜか私は体を動かせない、まるで金縛りになったみたいに。彼の姿が何度も私の心を揺さぶられて、急に平衡感覚がなくなったみたい。感情をむき出しにして歌う彼の姿に、圧倒されている。
とくん。とくん。とくん。
なんだろう、太鼓を叩いたみたいに大きく脈打っている。体の内側がじんわりと熱い。
とく。とく。とく。とく。
太鼓を叩いたような鼓動が速くなって少しずつ私の体温を上げていく。彼の視線が、表情が、感情のこもった声が、すっかり空っぽだった私の、紙パックみたいな心に熱い液体のようなものを注いでくれる。
いつぶりになるんだろう、こんな気持ちになるのは。
いまこの瞬間も彼は熱く訴えるように歌い続けている。必死に、必死に、会場を盛り上げるでもなく、鈴本君達と歌うでもなく、ただ懸命に感情をむき出しにして歌い続ける。
眩しい。感情をむき出しにして熱く歌う彼の姿はとても眩しくて、空っぽだった心に熱い液体のようなものを注がれて、私はとても甘い気持ちになる。
瑞々しくてとても甘い、紙パックのイチゴオレを飲んでいるみたいだ。
「行ってきまーす」
空気に触れたらすぐに溶けて消えてしまうような声で、私は玄関から扉の向こう側へと飛び出す。自転車にまたがって、私は駅へと向かってペダルを漕いでいく。
今日はこんなに早く家を出ていつもみたいに一番乗りで教室に入ろう、なんて思っていなかった。でもなんでだろう。どきどきしている。昨日からずっとどきどきし続けている。た、た、た、と勝手に走り出す心が私の体を追い抜いてどこかにいこうととするから、追い抜かれて見失わないようにグッと強くペダルを踏み込む。
両耳を塞ぐイヤホンから、甘い恋の歌だけで固めたお気に入りのプレイリストの曲たちが流れてくる。シャッフル機能をオンにしたプレイリストは曲が終わると、いちいち私が聴きたい曲を再生してくれるから私の心がさらに走り出して、楽しくなってしまう。
ぐんぐんと加速を続けた自転車はあっという間に私を駅まで運んだ。駅までの十五分の距離がとても短く感じる。少し待つと、電車がやってきて私はその中へ足を踏み入れる。
ドアそばの二人席に座って、スクールバックから古文単語帳を取り出す。電車の中で毎日三十個覚えるとノルマを決めて今では全て頭に入っているから、さらさらとページをめくってちゃんと頭に入っているかを確認するだけでいい。ノルマはノルマでも古文単語はちゃんと覚えられたんだけどな、なんてチク、と思う。
電車が茶臼山駅に着いた。たん、と勢いよく電車から茶臼山のホームに降り立って、足の裏からじんわりと受け止めた衝撃を感じる。茶臼山駅から真城高校までは十分もかからない。未だにどきどきが止まらない心は私の足を速めて、ずんずんと前に進んでいく。進んでいる間も両耳から流れてくるドラム音がとんとん、と優しく私の心を叩いてくれて、私の身体はだんだんリズムに乗る。リズムに乗った体はスキップするように飛び跳ねて、ホップ、ステップ、ジャンプと軽やかで大きな一歩を刻み続ける。そんな調子で歩いていると朝日を浴びている最中の学校が姿を現わすのはあっという間だ。
そして、いつものように学校の向かいに建っているコンビニに行く。
私に気づいた自動ドアが静かに開いて、汗ばんだ私には寒すぎる空気が中から漏れ出てくる。なんで夏のコンビニってこんなに寒いんだろ。まるで冷蔵庫みたいだ。中に入って、飲食品売り場の方へ足を向ける。そして、紙パックの飲み物が陳列されている場所の前に立つ。つい、イチゴオレに手が伸びそうになって、その度に彼の顔が浮かんで、ぴた、と手は止まる。そして結局いつもと同じように少しだけ甘くて、とても苦いカフェオレに手が伸びる。
イチゴオレに手が伸びなくなってしまったのはいつからだろう。こんなに甘くて、瑞々しくて、幸せな気分になれるのに。紙パックみたいな私の心には、まだ塞がらない穴がある。この穴が、泣きたくなるような苦い気持ちと彼の顔を思い出させる。
──え、イチゴオレなんて甘すぎるよ。俺は絶対、カフェオレ派。いや飲んでみて、絶対こっちの方がおいしいから!
ライトグリーンみたいな、爽やかな声を思い出す。そう言って、本当に購買まで買いに行ってくれたんだっけ。
はにかんだ笑み。そこから見える白い歯。口の下でちょこん、とくっついたほくろ。
もう随分前のことだけれど、くっきりと思い出すことができる。ずっと飲み続けているけれど、彼のお勧めのカフェオレは私にはとても苦くて飲み慣れない。それでも私は今日もカフェオレを買う。
コンビニを出ると、モワッと生ぬるい空気が待っていたかのようにぴたっと肌にくっつく。制服の隙間という隙間から遠慮なく入りこんで私は汗をかく。
校門を通り、裏門までまっすぐに続く道の上を歩いていく。一歩踏み出すたびに足から伝わってくる振動で心が揺れて、鼓動が大きくなっていく。せっかく気分を上げてくれていた曲よりも心音が耳の中で大きくなってきて、私は慌ててイヤホンの音量を上げる。するとまた、恋の歌がさらさらと身体の中を流れ出して、私の心を少しずつ満たしていく。
校門そばの野球部のグラウンドには、誰もいない。今が雁峰祭の期間だからだろうか。左側に見える体育館からも人気がない。学校全体がどこかひっそりとしていて、物静かだ。まるで眠っているみたい。そんないつもと違う顔を見せる学校に気分が弾んでいく。でも、やがて弾んだそれは私の身体の中で暴走するようにバクバク、と脈打つようになる。
どきどき、する。
裏門の近くまで歩いていくと、裏庭が見えてくる。裏庭には誰の姿も見えない。完成した各クラスのマスコット達はブルーシートに覆われているけれど、私たちのマスコットである船だけがブルーシートに覆われることなく、寂しそうに佇んでいる。もう完成しているのかな。よく目を凝らすように見ても、やっぱり、誰の姿も見えない。
誰もいないけれど、ここにいないだけなのかもしれない。
どきどきする。まるで、駆けていくように。
早く教室に行きたいって急かされるようにそう思う。校舎の玄関でローファーからスリッパに履き替えて、三年生の教室がある二階に向かう。お気に入りのプレイリストの曲で紙パックみたいな心を満たして、瑞々しくて甘い気持ちのまま、跳ねるように私は進む。
どきどきする。もう自分でも抑えられないくらい、暴れ出している。
三組の教室にたどり着く。勢いに任せて、私は扉を開けた。
誰もいない。教室の中には、誰も。
中には、準備された飾り付けや色んな種類の衣装が掛けられたハンガーラックや男女別で窓際に設置された更衣室、写真館へようこそ! と書かれた黒板があるだけ。一度、廊下に目を向けてみる。廊下には誰の姿もない。ふらふら、と私は教室の中を歩き回ってみる。そして、男女の更衣室の中を覗いてみたり、窓から玄関の方を眺めてみたり。
やっぱり、確かに、誰もいない。
そっか、やっぱり来てなかったか。苦い気持ちが身体中に一瞬で広がっていく。
もしかしたら、なんて思っていた。クラスのマスコットは完成してないし、もしかしたらもう学校に来てるかもって。そうしたら私は「マスコット大丈夫?」とか「よかったら私も手伝うよ」とか話すことができた。そう、話そうって考えていた。
とんとん、と優しく私の心を叩いてリズムに乗せてくれたドラム音も、恋の歌だけで固めたプレイリストも、なぜか、急に身体の中を流れていってくれない。なんでこんなに響かなくなってしまうんだろう。ちゃんとイヤホンも耳に収まっているのに。
いったい私は何に期待して、勝手にどきどきしていたんだろう。
すごく高いところからどすん、と落ちたような沈んだ気持ちになる。
紙パックみたいな心はもう空っぽだ。紙パックにあいたままの穴から、どきどきするような何かはすっかり漏れ出して、心の中は空っぽ。だから今、ここは私だけの世界であるはずなのに、この教室はどこかつまらなそうにモノクロだ。
黒板の上方に掛けられた時計は、七時ちょうどを指している。スクールバックの中には英単語帳が入っているけど、どうしてもやろうと思えない。朝早く教室に来るようになって、HRまでの時間に覚えると決めたはずの英単語は結局覚えられていない。おかげで模試の結果だって、英語だけボロボロだ。他の教科は順調に点数が伸びていっているのに。
あと数時間もすれば文化祭が始まって、この教室も賑やかになる。私たちの教室の出し物はコスプレ写真館。来てくれた人に好きな衣装を着てもらって、写真を取る。そして撮った写真はその場でプリントアウトして、来てくれた人にあげるのだ。私の担当時間は午後からだから他のクラスを回ったりするなら午前中に行かないといけない。智ちゃんと二人で作った漫画は漫画部に置かせてもらっているし、智ちゃんが一日中売り場を担当してくれているから、なにか差し入れもしないとな。空っぽの心で教室を出る。なんとなく廊下の窓枠に両腕を乗せて、窓から裏庭を眺めて、
突然、ふいに、唐突に、急に、思いがけず。
とくん、と私の心がはっきりと反応する。
視線の先に、水瀬君の姿を見つけて。
空っぽの紙パックみたいな心がどきどき、と急に元気よく動き出す。私たちのマスコットである船のそばに、カッターシャツ姿の水瀬君がいる。甘い気持ちがふわーっとたちまち広がっていく。彼のシルエットとその周りの景色だけがはっきりと温かく色づき出す。
あ。
しまった。そう思っても、もう遅い。
朝日を浴びて茶色く光る髪。太ももがほとんど露わになるくらい短いスカート。
彼のそばに山本早織さんがいるのを見つけて、せっかく色づいたのに、しっかり色づいたせいで、余計に二人の世界が強調されて、私の心に飛び込んでくる。ああ、痛いな。
隣り合うように座って、楽しそうに話して、笑った二人の肩が上下に揺れて。
私に背を向けている二人の、肩と肩が触れそうな距離に、ひりひり、と心が痛い。
お似合いだ。同じクラスの目立つ男子と目立つ女子。当たり前のように自然に話せて、すぐに仲良くなれちゃって、きっと付き合っていてもおかしくない。
付き合っていても、おかしくない。
当たり前にそう思いそうなことなのに、どうしてこんなに泣きたくなるんだろう。心にあいたままの穴が痛い。苦い気持ちが体中に広がっていく。お似合いの二人から、水瀬君から目を離してみても、何も見なくていいように窓枠にもたれさせた両腕に突っ伏してみても心に空いた穴から彼の顔が見えてしまう。
やっぱり勘違いだった。昨日、芽生えてしまった小さな希望が霞んでいく。
崩れそうな足取りで教室の中に戻る。扉を閉めて、そのまま扉に身体を預けるようにもたれる。私は苦い気持ちのまま、買ってきたカフェオレにストローを挿して飲む。
こんなに苦いのに、いまだに飲み慣れないのに、でも飲み続けてしまうのはなぜだろう。本当はカフェオレじゃなくて、イチゴオレが飲みたいのに。英単語だってちゃんと覚えたいのに。
律儀にカフェオレを飲み続けて、体の中にできた茶色くて苦い海に私の心が浮かんだまま揺られて、ゆらゆら揺られて。
相変わらずここはモノクロな教室で、私にとって冷たい世界のままだ。でも、もともと朝の教室は、一人っきりの教室は、私だけのものだった。教室の中はなんでも私の思い通りになって、紙パックみたいな心もいっぱい満たされていたのに。なのに、今はもうこの教室はカラフルに色づくことはなくて、私の言うことを聞いてはくれない。
「もう受験は始まっているんだぞ。始めるうえで、国語と英語、この二つは成績が上がるまでに時間がかかる。手遅れになる前に取り組んだほうがいい」
担任の先生が言ったこの言葉にどき、とさせられたのが最初だったと思う。三年生になってみんな、人が変わったように勉強し始めた。授業後の多目的室はぎっしりと人で埋まって、かつかつ、とシャーペンが紙の上を走る音だけが室内で響く。文系なのに国語も英語も苦手だった私は、先生の言葉と、ぎっしりと人で埋まった多目的室と、かつかつ、と響くシャーペンの音によって、焦るように朝早くに登校することにした。
そして、三年になったら漫画作って文化祭で売ろう、と同じ美術部の智ちゃんと約束した漫画制作もこのころに動き始めた。文化祭で売ったお金でケーキバイキングに行こ、と智ちゃんの言った言葉が決定打となって、私も参加をすることに決めたのだった。好きな漫画を描いて人に読んでもらえて、そのお金で好きなケーキをいっぱい食べられる。え、素敵すぎる。なんて素敵なんだろう。漫画を描くにあたって、私が作画を担当して智ちゃんが漫画のストーリーを担当することになった。どんなのがいいー? と智ちゃんに言われて、恋愛ものって私が答えると「出た! この恋愛脳が!」と智ちゃんが胃もたれしたような表情を浮かべる。そのあとも私のことを茶化していた智ちゃんだけれど最後には、「わかった! その方向で考えてみるね」と言ってくれて、三年生に上がるときにはきちんと私の希望通りに恋愛ものでストーリーを完成させてくれた。だから、今度は私ががんばる番だ。智ちゃんの考えた文章だけのストーリーはすんなりとネームにすることができたけれど、登場人物のキャラデザがなかなか決まらず、私は苦心していた。
こうして受験勉強と漫画制作の二つをこなしていくことが私の日常になっていった。
早く登校すると決めてから、初めて入った朝七時の教室は誰もいなかった。まさか誰もいないなんて思ってもいなかったからなんだか意外な気持ちのまま、私は廊下側一番後ろの席に座って、コンビニで買ってきた紙パックのイチゴオレにストローを挿しておく。
朝早くに学校に来ると決心したときから、行きの電車の中で古文単語を三十個、教室に着いたら、HRの時間までに英単語を五十個覚えるというノルマを作った。もう古文単語は電車の中で覚えてきたから今から英単語を覚えることになる。
英単語帳を取り出して、真っ白のノートを机の上に広げる。イチゴオレを飲んで、両耳のイヤホンから聴こえてくる恋の歌を身体の中に流し込んでいく。すると、カチ、と身体のどこかでスイッチが入った音がすると机の上の英単語帳にピントが合いはじめる。朝が早くて頭も体もうまく働いていないけど、両耳から流れるドラム音が体の中を巡り巡って、内側からトントン、とほぐすように起こしてくれる。だんだん手先や足先がリズムを取り始めて、自然と口ずさむようになる。気分も高揚していって気持ちよくなってくると、私の心から溢れたイチゴオレが教室中に広がって、モノクロだった教室がカラフルに色づき出す。ノルマにしていた英単語五十個はすっと頭の中に入ってくれる。
一人っきりの教室で、誰の目を気にすることなく、甘い恋の歌で耳を塞いで、甘い甘いイチゴオレを心に流し込んで、教室がカラフルに色づき出すこの時間が私は好きだ。単語を頭に染み込ませるためにノートにシャーペンを走らせて伝わる振動も、一つのリズムになって、さらに私の心を走らせてくれる。眩しいなって感じていた窓から差し込んでくる朝日だって、私を迎えて優しく抱きしめてくれているみたい。
教室でいる中で、朝の一時間だけが私が楽しく、穏やかに、快適に過ごせる時間だった。
ガラガラ、と引き戸が開いて、突然魔法が解けるみたいに私の世界が崩れていく。
八時を過ぎるとクラスメイトが続々と入ってきて、引き戸の開いた隙間からイチゴオレが漏れ出す。私を迎えてくれていた教室が冷たくてモノクロな世界に変わってしまう。途端にイヤホンから聞こえる音楽が身体の中に流れなくなる。こうなるとただ騒音のようにうるさいだけだから、私はイヤホンを外す。そして、教室中をゆっくり眺める。
モノクロなこの教室は、まるで戦場みたいだ。クライメイトたちが楽しそうに話す言葉は私には弾丸みたいに速くて、様々な色に光る弾丸が飛び交っているよう。その戦場でクラスメイトたちの話す弾丸についていけない私はじっと小さくなっているしかない。
ずずず、とストローがこんなときに振動を立てて、紙パックの中身がないことを教えてくれる。もう中身のないイチゴオレの紙パック。なんだか、まるでいまの私みたい。空っぽの紙パックのような私の心は、もうすっかり元気を失くしてしまっている。
でも翌日の朝、一人きりの教室になってしまえば、冷たい世界だった教室もたちまちカラフルに色づいてくれる。イチゴオレを飲むと、自然と水瀬君の顔が浮かんでしまうのはなんでだろう。彼の顔が浮かぶと、とても甘い気持ちになる。
気がつくと、私は水瀬君を目で追うようになっていた。
目立つ男子だったからかもしれない。三年になった初日から水瀬君は自然と目に入った。爽やかで、でも私を安心させてくれるライトグリーンみたいな彼の声は自然と心に浸透した。どこにいても彼を見つけると彼の周りがはっきりと色づいて見える。ライトグリーンみたいな声はどれだけ騒がしい場所でもちゃんと私の耳に届いて、心にまで届いた。
気がつくと、私は水瀬君を目で追うようになっていた、どきどきと心を震わせながら。
どきどきした心がわたしの身体を温めていく。私の平熱より少しだけ熱い、三十六度四分くらいまで身体は熱くなっていく。勉強をしながら、英単語を覚えながら、きっと恋に味なんてあるんだとしたら、こんな甘さなんだろうなって思う。どこまでも甘くて、思わずとろけてしまうような。普段、教室にいる私に色はついていない。
でもきっとこの瞬間の私は、この瞬間の私だけ、桜みたいな色をしているんだろうなって思う。強烈ではっきりとした濃さではないけれど桜みたいな淡いピンク色をしている。
そうだといいなって勝手に思ってしまう。そんなことを考えると、身体が熱くなって気持ちが高揚してしまう。
たん、たん、たん、と絶妙なタイミングで、耳から流れてくるドラム音が私の心をリズムよく叩いて、つられるように手先や足先がリズムを刻むようになる。手先や足先で刻んだ振動がさらに私の心を走らせて、ふわ、と私の心が宙に舞うように浮き上がる。
その心地よいリズムに誘われて両耳に流れてくる恋の歌を思わず口ずさむ。気持ちよく、リズムよく英単語が頭の中に染みこんでいく。そして、いつしかこの教室は桜のような、淡いピンク色に染まって、完全に私だけの世界になる。私の心が元気よく身体から離れて、思いのままに宙を舞って、ピンク色の染まった教室の中を飛び回るように跳ねる。
とても気持ちがいい、まるで踊っているみたい。
私だけの世界が崩れるのは、突然だった。
引き戸を開けた瞬間、教室中央の席に座った男子が、くる、と上半身を後ろにひねってこっちを向く。そこには潤んだ瞳からあごに向かっていく一筋の濡れて輝く線が見える。
それを見て、この人は誰にも見つからないように泣いていたんだ、と気づいた。
すぐにその涙を拭うと、「あ、おはよう…渡辺さん? だよね確か」両耳に流れる恋の歌の隙間からライトグリーンのような声が入り込んだ。引き戸を開ける瞬間まで、両耳に流れる恋の歌に乗せられて踊っていた私の心が、びく、とざわついて冷たい汗をかいた。
泣いていたその男子は、クラスの人気者にして目立つ存在でもある水瀬君だった。
あの水瀬君が、私を見ている。もうその瞳は濡れていない。
「なんかご機嫌だね。朝からいいことでもあった?」
昨日までと違う、半袖の白いカッターシャツ。あ、今日から衣替えなんだった。
ただのカッターシャツ姿でこんなにかっこいい人を、私は見たことがない。
「…ううん」
首を横に振る。心臓が暴れて、勝手に歩き出して体のどこかで迷子になってしまった。
「実は昨日、試合に負けて俺らの引退が決まってさ。サッカー部なんだ俺。で、引退したら勉強に集中しようと思って早く来たんだ。渡辺さんはいつもこんな早くに来てるの?」
目立つ男子。飛び出すライトグリーンの弾丸。口の下にちょこん、とついたほくろ。
まっすぐ見つめてくる彼の視線の強さに負けて、目を逸らして、私はなんとか頷く。
「それは早いね。俺もこれからそうしよっかなあ。今日来てみて思ったけど、朝から勉強するのって集中できるしいいね。…ってあんまり話してると時間なくなっちゃうよな」
じゃあ、お互い頑張ろ。そう最後に言い残して彼は前に向き直って、イヤホンを付け直して勉強に集中し始める。カツカツ、とシャーペンがノートを上を走る音。シャンシャン、と少しだけ彼の耳から漏れ出す朝から元気なイヤホン。カッターシャツの白の中から透けて見える緑色のTシャツ。大きな背中。七分丈のようにくるくるまくられた黒のズボン。
つい、吸い寄せられるように後ろ姿を見つめ続けていた。さっきの涙した姿が思い出される。引退が決まってしまったという最後の試合が悔しかったのだろうか。
少しすると身体の熱が外に出ていって、勝手に迷子になっていた心臓がようやく元の位置に帰ってきた。ひどく暴れていた心臓はもう落ち着きを取り戻しはじめる。
立ち尽くしていた私もひっそりと席に着く。机の上に英単語帳とノートを広げて、買ってきたイチゴオレにストローを挿しこむ。いつも通りの手順で、考えなくても自然と身体が動く。とくん、とくん、とくん。元に戻ったはずなのに、落ち着きを取り戻したはずなのに、身体はいつもの体温に戻ってくれない。心臓がいつもより少しだけ速く動いたままだ。イチゴオレを飲んで、紙パックのような心にピンクの液体を注ぎ込んでいく。あれ、こんなに温かかったっけ。さっき買ったばかりなのに。ちくり、と感じる小さな疑問を放置したまま、私は英単語の暗記を始める。
なのに、いくらノートに書いて覚えようとしてみても新しい英単語は頭の中に染みてこない。イチゴオレを飲んでみても、カチ、といつもみたいにスイッチが入って、目の前のノートと英単語帳にピントが合ってくれない。
なんでだろう。なんでだろう。なんでだろう。なんでだろう。
ただ気が付くと私は暗記をするために動かしていた手を止めて、白くて大きな背中に目を向けている。なんだかさっきからイチゴオレが温かい。温かくていつもより甘く感じる。その甘さに、私の意識まで溶けていってしまいそうになる。慌てて目の前の英単語帳とノートに目を向けて集中してみる。イチゴオレを飲み続けて、スイッチが入るまで集中してみる。ピントが目の前のノートと英単語に合うまで集中してみる。
ダメだ、やっぱりふとした瞬間にまた白くて大きな背中を見てしまう。
なんだか目が離せない。ううん、目を離したくない。ずっと、このまま見ていたい。
温かく感じるイチゴオレが紙パックみたいな心に溜まって、私の意識が溶けていく。
この日の朝、初めてノルマの英単語五十個を覚えることができなかった。
それから水瀬君はいつも先に教室にいて、一人っきりの教室は二人っきりの教室になった。私が教室の引き戸を開けると、くる、と振り返って、おはよう、と水瀬君は必ず挨拶してくれる。でも会話に発展することなく、水瀬君はすぐに体を戻して勉強に集中する。
カツカツ、とノートの上で踊るシャーペンと、シャンシャン、と元気の良さを主張するイヤホンはいつ来ても変わらない。あのイヤホンからどんな音楽が流れているんだろうか。彼は本当に、ちゃんと、真面目に集中しているんだろうな。あ、今日も白いシャツの中に緑色のTシャツを着てる。緑色が好きなんだろうか。ライトグリーンみたいな色の声を出す彼に、その緑色のTシャツはよく似合っている。
イチゴオレを飲みながら、私も水瀬君を見習ってノートと英単語帳を机の上に広げて勉強する。それでも、最終的に私の目はやっぱり彼の横顔や背中を見つめている。そして、こんなにもどきどきしている。シュッとして見えるけどよく見るとがっしりしていたり、あんなに爽やかな声なのに喉がボコッと出ているところがやけに男子だったり。
カチ。
あっ、なぜかこんなタイミングで唐突に、体のどこかから聞こえた。
無機質な音を立ててスイッチが入ったのがわかった。でもこれはきっと、勉強のスイッチじゃない。違う。全然、違う。そんな予感がする。それだけはわかっている。
喉を通っていくイチゴオレがなんだか熱い。暗記がはかどらなくなると、ふと彼の姿をノートに描いている。背中姿だったり、横顔だったり。英単語を暗記する為に広げているノートには、英単語よりも彼の姿を描いたスケッチが多くなっていく。
喉を通っていくイチゴオレがとても熱い。次第に心に溜まって、甘ったるい匂いを放つ。
毎朝、二人っきりの教室で、私はひっそりと彼を見つめる。すらっと長い指。夏の日差しに焼かれた茶色い肌。机の下で必ずクロスされる足先。襟足を刈り上げたマッシュヘア。口の下に見えるほくろ。黒のくるぶしソックス。こんなにもカッコよく感じてしまう。
湯気が出るほど熱くなったピンク色の液体に私の意識が少しずつ溶けて、とろとろ、と溶け込む。すら、とした体型なのに、意外と太い足はサッカーで出来たものなのかな。もう引退しちゃったらしいけど、サッカーをしているところ見てみたかった。きっと水瀬君のことだから上手かったんだろうなって勝手に思う。きっとフォワードとかで、すいすい相手を抜いちゃって、カッコよくシュートを決めたりしてたんだろうな。
喉を通っていくイチゴオレがとても甘ったるい。私の意識はその甘ったるさに引きずり込まれていく。どっぷり、と底の見えない沼のような甘ったるさに落ちていって、なんだか、もう抜け出せない気がする。
あれだけ悩んでいた漫画のキャラデザは、気がつくとあっという間に完成した。それだけじゃ足りなくて、甘ったるさの中から抜け出せないまま、私は智ちゃんに漫画の設定を少しだけ変えてもらった。私が考えた漫画のキャラデザを見せると、智ちゃんは、この王子さまって誰かに似てない? と言う。でもすぐに、まあいいか、このキャラデザいいねこれでいこっか、と言ってくれてようやく下書きに取り掛かることができるようになった。
学校でも家でも、勉強より漫画を描くことに費やす時間が少しずつ増えて疲れが溜まったのだと思う。七月に入ったある日、朝の教室で私は眠ってしまった。ひどくまぶたが重たくて、教室に入って水瀬君におはよう、と言い、いつものように英単語帳とノートを広げたまま、ノルマの半分を消化したころで限界を迎えて眠ってしまった。
そんなとき、ふと、周りの空気が動いた気がした。突っ伏したままの手にふわ、と動いた空気が触れて、微睡んだような意識で、どこか寝ぼけているように私は上半身を起こす。
びく、と私の心臓が一瞬で驚いた。驚きすぎて、胸がちぎれるみたいに痛い。
目の前に、水瀬君がいる。紙パックのカフェオレを飲んでいる水瀬君が私を見ている。
とっさに、さっ、と両腕で机の上に広げているノートを隠す。これ、見たのかな。そう思っただけで、ぶわっと冷たい汗が全身から噴き出る。そのくせ、身体が燃えるように熱い。顔にも熱が集まって、うまく頭が働いてくれない。
「…ごめん。びっくりさせちゃったかな」
私は横に首を振りながら、慌ててイヤホンを外す。
どくどく、とものすごい速さで血液が身体を流れているのがわかる。
「なんか疲れてるね。大丈夫?」
寝起きのときすぐには意識がはっきりしないことが多いけれど、もう身体の芯まではっきり起きている。水瀬君の顔が見れない。ノート、見られちゃったのかな。
「…昨日、遅くまで起きてたので」
なんとか絞り出すように答える。すると、ははっ、と水瀬君が笑う。
「敬語じゃなくてもいいって、クラスメイトなんだし。仲良くやろ。せっかくの朝勉仲間なんだからさ。遅くまでって、勉強でもしてたの?」
飛び出てくる言葉が弾丸みたいに素早くて、あ、あ、あの、と頭が真っ白になった。
「…昨日さ、勉強でもしてたから、遅くまで起きてたのかなって」
焦らなくてもゆっくりでいいよ、何回でも言うから、と水瀬君はさっきと違って落ち着いた口調で話すペースを落としてくれる。私がちゃんと聞き取れるように。
私が、ちゃんと聞き取れるように。
とくん、とその事実に大きく心が跳ねた。
「…えっと、あの、漫画を、描いてて」
このことを誤魔化そうかと思ったけど、他にいい言い訳が見つからない。
「え、マジで?」
急に、生き生きとした声が私に届く。その声に釣られて、私は顔を上げてしまう。渡辺さん、漫画描けるんだ! とちょうどそのとき、楽しそうに水瀬君は笑った。
満開に咲いたような笑顔と、白い歯が、私の瞳の中に飛び込んでくる。燃えるように熱いのに、今だってうまく頭が働かないのに、彼の笑顔と白い歯は一瞬で紙パックみたいな心に入り込んで、しまった、と私は思った。
まるで、爆弾が入り込んだみたいだ。
頭と身体がちゃんと噛み合ってないような、ふわふわした感覚に襲われて苦労する。
「…友達に誘われて。話はその友達が考えてくれて、私は漫画を描くだけなんだけど」
心の中で、彼の笑顔と白い歯がピンク色の液体の中に混ざる。すると、化学反応を起こしたように急に液体は熱を上げ始める。混ざってからも笑顔と白い歯はピンク色の液体の中に溶けてくれない。でもなにか、予感がする。もう手遅れになっていく予感がしている。
「すごいね!」
教室中に散らばっていた小さな光の粒を全て吸収した水瀬君の瞳が、きらきら光る。
きれい。きれいだ。なんて、輝いた瞳をしているんだろう。
「俺も漫画好きで毎週色んな雑誌、欠かさず読んでるよ。一回、漫画描こうって思ったことあったけど、絵が下手なのを絶望的に思い知って断念したんだけど」自分の周りで漫画描いてる人がいるなんて、と興奮したように言う。「描いたのって文化祭で出すんだ?」
「…漫画部で、置いておいてもらえる、ことに、なっていて」
燃えるように身体が熱くて、のどがすっかり乾いてしまっている。机の隅に置かれている飲みかけのイチゴオレを飲む。飲んだイチゴオレはいつも以上にとろとろで、とても熱かった。あまり飲んでいる気がしない。でも甘い。飲んでいると、どんどん喉が乾いてくるのがわかる。それでも、とろけるような甘さを感じるから飲むのを止められない。
紙パックみたいな心に、とろとろ、と熱いイチゴオレが溜まっていく。
てかさ、水瀬君が私の紙パックを指し示した。私はストローから口を離す。
「いつもそれ飲んでるよね。甘すぎない? 俺、初めて飲んだ時、胃が持たれたもん」
水瀬君はお腹をさすって眉毛を寄せる。飲んだ時のことを思い出したのかもしれない。そんな表情すら、どきどき、と心が甘く反応してしまうのはなぜだろう。
私がいつもこれ飲んでいたの、知ってたんだ。
ああ、爆弾が溶けていってくれない。
「…私はこれがいいかな。甘くて美味しいし」
と、またストローに口づける。すると、水瀬君は首を横に振って、抗議した。
「え、イチゴオレなんて甘すぎるよ。俺は絶対、カフェオレ派。飲んでみて、絶対こっちの方が美味しいから!」
とん、と持っていた紙パックのカフェオレを私の机に置いて、ぴゅーっと水瀬君は教室を出て行った。廊下を駆ける彼の足音がどんどん遠くなる。だんっ、あ、いま、階段を勢いよく飛び降りていった。そして彼の足音は聞こえなくなる。
久しぶりの一人っきりの教室はひどく静かで、やけに広くて寂しいような気持ちになる。なのに、まだ心臓はどきどき、と忙しく動き続けている、私はまた飲みかけのイチゴオレを飲む。とろとろ、と甘いイチゴオレは私の心に溜まり続けてもう入らないくらい、いっぱいになる。心の中にあるイチゴオレは蒸気を上げながら、どんどん熱を上げている。いまだに溶けずに残っている二つの爆弾はきっと、まだかまだかと爆発の時を待っている。
たったったった、とリズミカルに駆ける足音が教室に近づいて、私の心を跳ねさせる。
「お待たせ!」
軽く肩を上下させながら、水瀬君が帰ってきた。そのまま私の席まで来て、はい、と私の机に紙パックのカフェオレを置いた。今来たばかりのカフェオレは表面に水滴がついていて、本当に買ってきたばかりなんだなってわかる。ふわっ、と彼から少し汗を含んだ柑橘系の匂いが鼻に届いて、パチ、と心の中に小さな小さな火花が入り込んだ。
「飲んでみて」
あちあち、とシャツの胸あたりを摘まんでぱたぱたしながら、水瀬君は私の前の席に座った。パチ。そしてさっき置いた飲みかけのカフェオレを飲む。うま、とホッとしたように笑う。パチ、パチ。言われるままに私もカフェオレにストローを挿して、口を付ける。
もう、ダメだ。そんな予感がしている。パチパチ、といちいち火花が飛んでしまう。
「どう?」
弾んだ声で、ずい、と顔を突き出すようにして、キラキラした瞳で私を見つめる。
白い歯。弾んだ声。キラキラした瞳。カフェオレ。ライトグリーンの弾丸。
火花たちが一気に私の心に入り込んで、心の中にある二つの爆弾とぶつかる。
バン、と小さな爆発音が聞こえた、体の中から。
紙パックみたいな心に、穴があいたのがわかった。その穴からそれまで満たされていた熱くて、とろとろと甘いイチゴオレが漏れ出す。私は咄嗟に口を塞ぐ。
「はは、その表情ぜったい苦いって思ったでしょ」
私の表情を見て、水瀬君が笑う。私は口を塞ぎながら苦笑いを浮かべて、そんなに顔に出てたかな、と言った。誰が見ても同じこと言うと思うよ、と水瀬君はまだ笑っている。そうかなあ、と言いながら、私はまたストローに口をつける。このカフェオレは少しだけ甘くて、あとはとても苦い。いつも飲んでいるイチゴオレとは大違いだ。
でも、そうじゃない。私がそういう表情したのはそうじゃないんだよ。
漏れ出してしまいそうになった、イチゴオレと一緒に、水瀬君への甘い気持ちが思わず漏れ出してしまいそうになった。水瀬君のことが好き、なんて言ってしまいそうになった。
「まだ渡辺さんには早かったかなあ。これも十分、甘いと思うのに」
私は苦いって顔をしながら、ストローから口を離さない。少しだけ甘くて、とても苦いカフェオレを飲むのを止めない。茶色い液体を飲み込んで、飲み込んで、飲み込んで、何度でも飲み込んで、紙パックみたいな心にできた穴からイチゴオレと一緒に漏れ出してしまいそうになる彼への甘い気持ちが、言葉が、漏れ出してしまわないようにする。
そんなに無理して飲まなくてもいいんだよ、と水瀬君が少し困ったような顔をするけど、ぶんぶん、と私は首を横に振って飲み続ける。本当に大丈夫? と水瀬君が言うから今度はしっかり水瀬君の目を見て、大丈夫、と私は言った。こういうときに限ってちゃんと、大丈夫そうな態度が取れるんだもんな。溜まったイチゴオレが漏れ出して彼への気持ちが漏れ出すたびに、じわりと心が愛おしく痛む。
そんなことをしている間に、もう時間は八時を回っていた。おーっす、と教室に鈴本君が入ってくる。おーっす、と水瀬君も反応すると、鈴本君のそばに近づいていく。「のど乾いたわ~。将生、ちょいそれ飲ませてよ」と鈴本君が水瀬君の右手にあるカフェオレを見つめると、飲もうと手を伸ばす。やだよ、と水瀬君は本当に嫌そうな顔をする。
「お願い。のど乾いてんだって。ちょっとでいいから」
「前もそういって、半分以上飲んでたやん」
お前にやるくらいなら俺が全部飲みまーす、と水瀬君が残りのカフェオレを飲み干す。おまっふざけんなよ、と自分の物でもないのに鈴本君が本気で怒る。「もういい! 自分で買ってくる!」「じゃあ、俺の分もよろしく」「は? いま飲んでたやん」「今度は炭酸飲みたい」「おい、まず人の話聞けや」鈴本君と水瀬君がそんなやりとりをしていると、ぞくぞくとクラスメイトは中に入ってきて、いつもの教室に戻っていく。そんな間にも紙パックにあいた穴からイチゴオレが漏れ続けている。心が痛い。いちいち痛くて、彼の顔が穴から見える。気づけば、教室中に様々な色に光る弾丸が飛び交っている。まだHRまで時間があるのに、ノルマも半分しかやれていないのに、私は目の前に広がる英単語に向き合えない。なかなか減らないカフェオレを少しずつ飲んでいるしかない。
「おはよーっ」
私の頭上から可愛さをぎゅっと詰め込んだような声が降ってくる。顔を見なくてもその声が誰なのかはすぐにわかる。山本さんだ。私の二つ前の席に座る、クラスで一番目立つ女子。彼女が私の横を通り過ぎる。そんな彼女にいろんなところから、おはよー、と飛んできて、そのたびに山本さんもどの角度から見てもかわいい笑顔で挨拶する。
この瞬間に、イヤホンで耳を塞いでいたらよかった、と思う。
「将生、ちょっといい?」
そうしたらこの言葉を聞くことはなかった。彼女の言葉は私の心をざわつかせて、異物のように引っかかる。なに早織、と水瀬君が山本さんの名前で呼ぶ。恥や照れがまったくなくてもう何度もそう呼んで言い慣れたんだろうなって感じさせる、さりげなさでそう呼んだ。そのまま、すたすたと山本さんの机に向かっていく。
名前で、呼んでるんだ。
「で、なんかあった?」
水瀬君は山本さんの正面に回ると、しゃがんで机に両腕を乗せてさらにその上に顎を乗せて、正面の山本さんを見つめる。他の誰を見るときでも、さっき私といた間でも見たことのない、夕莉とした表情。口に含んだカフェオレの苦さに、泣きそうになる。
「実はさ」
と彼女の声が聞こえて、私は慌ててイヤホンで両耳を塞ぐ。息が掛かりそうな距離まで近づいて、山本さんは正面にいる水瀬君を真っすぐ見つめる。目立つ男子と、目立つ女子。二人の姿はとてもお似合いで、心に入ってくるカフェオレがたまらなく苦い。さっきまでイチゴオレがあれだけ甘い気持ちにしてくれたのに、なんて思う。
HRが始まるころには、紙パックみたいな心は苦いカフェオレしか残っていなかった。
なんでこうなっちゃったんだろう。
一番後ろの席から二人を見つめながらそう思う。二人っきりの教室はあっけなく終わりを告げた。名前で呼んでるんだ、と二人の親しい関係に気づいたと思ったら、朝の教室にも山本さんは現れるようになって、ついに三人っきりの教室になってしまった。教室に入っても水瀬君は私に目を向けることなく、真剣な表情を浮かべて山本さんの話を聴き込んでいる。その瞳に私は映っていなくて当然のように山本さんもこっちを向くことはない。
たぶん、イヤホンから聞こえる恋の歌を止めれば、二人の会話はこの耳に入ってくる。聞きたいんだけど、どうしても止められない。耳に入れたくない。早織、なんてあの時のようなさりげない声を聞いてしまったら、もう私はここにはいられない。
親しげに話す二人から目を離すことができないまま、ストローに口づけてカフェオレを飲み続ける。もうずっと、口の中も私の気持ちも茶色く濁って苦いままだ。
水瀬君が勧めてくれた日から、コンビニに行っても私の手はイチゴオレに伸びない。どうしても、じんわりと彼の白い歯と弾んだ声とキラキラした瞳がリフレインして、苦いってわかっていてもカフェオレを手に取ってしまう。カフェオレを飲むようになってから、あれだけ私を乗せていたドラム音も恋の歌も耳の中を流れてくれない。だからこの教室はモノクロのままで、そのくせ、カフェオレの苦味だけはしっかり感じる。
もうどれだけ、そんな朝を過ごしてきたんだろう。飲み続けて、カフェオレが心に開いた穴から漏れ出すたびに、そんな近い距離で瞳いっぱいにお互いを映して話なんてしないでよ、と言ってしまいそうになる。そんな誰にも見せたことのない真剣な瞳で山本さんを見つめないでって、何度苦いカフェオレで飲み込んできたのだろうか。
穴から漏れ続けたカフェオレは、身体の至る所に広がっていつしか身体の中で茶色い海ができる。ゆらゆら、と私の心が茶色くて苦い海に浮かんで、揺れている。どこに流されるかもわからないまま、自分でもどうしようもなく揺られ続ける。
夏休み前になって、私のクラスでも雁峰祭に向けた話し合いが始まった。
「マスコット班の班長は耕輔と早織ね! 文句ある人ー? 耕輔以外でー!」
雁峰祭の話し合いの時間、隣のマスコット班からライトグリーンみたいな声が聞こえてくる。その声につられて様子を伺ってしまう。すると、太田君だけが不満げに手を上げる。
「俺は耕輔以外って言いましたー。耕輔には反論する権利も人権もないから黙っててね?」
水瀬君の楽しそうな声が聞こえる。そんな声が耳に届くたびに、心に開いた穴が愛しく痛む。
クラス発表用のポスターやクラス旗を作る班に入った私は、水瀬君を中心に盛り上がるマスコット班の話し合いを眺めているしかない。
クラス旗やポスター作りが始まると、スペースの広い廊下で私は作業をすることが多くなって、風通しのために開けられた窓からは色んな色に光る弾丸がぽんぽんと廊下に流れ込んでくる。窓から見える裏庭には各クラスのマスコット班がそれぞれの場所で作業している。いつしか私は窓枠にもたれて裏庭で作業している自分のクラスの様子を見ている。
そんなときに限って、水瀬君の隣にはいつも山本さんがいて、楽しそうに話をしている。
私は、そんな彼女をじっと見つめる。
校則を軽く違反している滑らかに揺れる茶髪。太ももがほとんど露わになったスカート。
それだけじゃないんだ。そんな一部分だけじゃない。彼を見つめる姿も髪に触れる仕草もただ立っているってことでさえ、なんであんなに可愛くて絵になるの。どんなに頑張ったって私は彼女のようにはなれそうにない。私がどれだけ努力すれば彼女のようになれるのかわからない。なれる、だなんて少しも思えない。
…そう思ってるんなら、もう諦めちゃえばいいのに。なのに、紙パックみたいな心が彼への気持ちを少しも手放そうとしてくれない。
ゆらゆら、と茶色い海に紙パックみたいな心が浮かんで揺れている。諦めたいのに諦められない。
ゆらゆら揺れて流されたまま、何も決められず時間だけが加速して過ぎていく。
「…最近、元気ないね」
着々と進んでいる漫画を美術室で描いているときだった。私を覗き込むように智ちゃんが言う。私は沈んだ気持ちで大丈夫そうな表情を作れないまま、いつも通りだよ、と返す。
「…無理しすぎちゃダメだよ」
なにも事情を訊かずに智ちゃんはそう言って、私の作業が終わるまでいつもそばにいてくれる。ありがと、と私が言うと、唯に元気がないと私は面白くないからね、と智ちゃんはにっと笑ってくれて、少しだけ気が晴れた。
夏休みは加速的に訪れる。その間もクラス旗やポスターを作ったり、漫画を描くことで時間は過ぎ去っていく。裏庭には目に向けないようにして、私は作業に明け暮れる。ゆらゆらと茶色い海に揺られてじんわりと心が痛むけれど、私は盲目的に作業に没頭する。そうして夏休みの最終日までに漫画もクラス旗もポスターも作り上げることができた。
夏休みが明けても朝早くの教室には、私と水瀬君と山本さんの三人しかいない。二人はいつも真剣に話し込んでいて、ときどき二人して笑い合って、じゃれるように山本さんが水瀬くんの肩をこつん、と叩いたりする。私はそんな二人を苦しく眺めているしかない。
カフェオレを飲んでは二人の姿を見つめて、気づくとノートに彼の横顔を描いている。
もう諦めきれたかなって、踏ん切りついたかなって、そう思ったのにな。不覚にも彼がふと見せる笑顔にどきっとして、やっぱり好きだなって思ってしまって、苦い気持ちが広がる。心が痛い。愛おしく痛んで、ほろりと泣きそうになる。
水瀬君に話しかけることも、山本さんとの関係を確かめることも、気持ちを伝えることも、この恋を諦めることもできない。だから、どうしようもなくて私は机に突っ伏する。
もう何も見たくないし、何も聞きたくない。なのに紙パックみたいな心に開いた穴から彼の顔がどうしても見えてしまうから手に負えない。どきどきしながら、苦い気持ちだけが身体の中に広がっていくんだ。心が愛しく痛む。ああ、痛いな。毎朝早く、この教室に来ては私は机に突っ伏することになる。そして机に突っ伏してできた両腕の内側、真っ暗で何も見えない小さな世界の中で、HRの時間まで私は祈り続けることしかできない。
もう何も見えないように、せめてこの穴だけでも塞がってくれればいいのに。
文化祭の始まりを告げるオープニングセレモニーも無事終わった。
パンフレットを眺めながらどこを回ろうか考える。私の自由時間は午前中だけだし、行きたいところを早く決めて回った方がいいよね。そうは思ってもパンフレットを開けば気になる場所が多くてなかなか決められない。優柔不断さがこんなときでさえ出てきて、なんだかもどかしい。
結局、他のことだって何も決められてないんだよね。勉強だって、彼への気持ちだって。
どうしたいんだろう、私。ゆらゆら、と茶色い海に浮かんで私の心は揺られ続ける。
あ、智ちゃんに頼まれたお使いもしないといけないんだった、とお使いのことを考えて、私はさっきのやりとりを思い出していた。
オープニングセレモニーが始まる前、私は漫画部に顔を出した。部屋にはいくつか並べられた長机の上に大量の本が積まれている。よく見ると、『カレント』という文字とともに可愛い女の子の絵が描かれている。あ、これ漫研の部誌だったっけ。イラスト集みたいな内容で去年、買った気がする。あんまり内容は覚えてないけれど。部屋の隅でショートカットの女子が忙しそうに動いている。その女子は智ちゃんだった。鬼気迫る様子で智ちゃんは私と二人で作った漫画を長机の上に並べていた。予想よりも高く積まれている本の数に私は声をかける。そういえば、そういった細かなこと訊いてなかったな。
「…智ちゃん、これ何部作ったの?」
「え、五十部だけど」
あっけらかんと智ちゃんが言う。
「でも大丈夫だよ。もうすでに四十部分は予約取ってあるから」
売り上げでケーキバイキング行こーね、にっと歯を出して笑うと智ちゃんの特徴的な八重歯が露わになる。どこか中性的なその笑顔はかわいいし、こんなにボーイッシュな雰囲気なのにかわいいってずるいよなってちょっぴり思う。うん、と私は頷いて、ずっとここにいてもらうの申し訳ないよ、と言った。すると、ねえ唯、と智ちゃんが私の肩に手を乗せる。
「私が好きでここにいるんだから、唯は気にしなくていいの。ほらそれに私たち、親友じゃん。こんなことぐらいで申し訳なく思わないでよ」
優しくそう言ってくれる智ちゃんに、私は感動してしまう。素敵だね、友達って。
「智ちゃん…じゃあせめて、智ちゃんのお昼ご飯おごるよ~」
こう言うと、んー、と考える様子を見せて、やがて智ちゃんはため息を吐きながら言う。
「…じゃあ、焼きそばとうどん」
焼きそばとうどんね、と私は復唱するように呟く。お安い御用だよ、と言おうとすると、
「…と焼き鳥とフライドポテトとお好み焼きとたこ焼きとフランクフルトとみたらし団子と五平餅と白玉全種類をお願いね。あ、フライドポテトはカレー味と塩味で、お好み焼きはプレーンとカレーチーズと目玉焼きの三種類で焼きそばは塩とソースの二種類ね」
気持ちのいい笑顔でそう言い切って、「ん、どうしたの唯?」と智ちゃんが下から私を覗き込んでくる。放心したまま、私は机の上に置いてあるパンフレットに目が向く。そのパンフレットには様々な色の付箋がついていて、私はなんだか嫌な予感がした。ぱらぱら、と付箋が付いているページを確認して、一拍置いて言う。
「…いまの、模擬店で出してる食べ物全部だよね」
「うん。それがどうしたの?」
チワワみたいな澄んだ目で見つめられて、猫なで声で言われるから背筋がかゆい。
素直に感動に浸っていたかったな、智ちゃん。
「あれ? あれあれ? 唯、私たちってなんだったっけ?」
え、と何が言いたいのか飲み込めずに訊き返すと、
「し、し、しん、しんゆ、あれ、なんだっけ、ねえ唯?」
と智ちゃんがチワワな目をしたまま、私の顔を覗き込んでくる。
「…親友だね」
こうなった智ちゃんはもう止められないからそう言うしかなかった。呆れていると、いいからはや買ってこい、と急に命令されてしまう。圧倒されながらも、でも悪いなって思ってたからいっか、と納得して私は部室を出たのだった。
智ちゃんに買っていく食べ物の時間を計算しながら、なんとか回る場所を決めた。朝から飲み終わらないカフェオレを手に持って、私は回ると決めたところを巡っていく。
まず三年二組のお化け屋敷に入った。教室全体が迷路のように入り組んでいて、中は薄暗い。背筋が涼しくなりそうな不気味な音楽が淡々と流れて、絶妙なタイミングで全身血みどろのゾンビが襲い掛かってきたり花瓶ががたがたと震えたり悲鳴が聞こえたりとすごく怖くて一人で入ってしまったのを後悔する。
お化け屋敷を出て、二年生の教室がある階に行く。「次いこーぜ」と聞いたことのある声が聞こえた気がして、どき、として私は振り返る。見ると、数人の男子がふざけながら二年五組の教室に入っていくところだ。でも、私の知らない人たちだった。
なんだ、勘違いかあ。
こうしている瞬間にも時間は過ぎていく。私の都合なんて構うことなく時計の針はくるくると回り続ける。私の心はまだ茶色い海に浮かんで、ゆらゆら流されながら。
廊下を歩きながら、いろんな教室を眺めながら、心のままに私は探している。
二年三組のメイドカフェでパンケーキと紅茶を頼んだ。パンケーキ何枚も重ねられていて、上にはいちごとバナナと生クリームが乗せられていてとてもカラフルで予想以上にかわいいし、素敵。パンケーキを食べながら、私は教室の中を見渡す。メイド服を着て接客する後輩の女の子たち。ちゃんとメイド服を着こなしていて、かわいくて羨ましく思う。
パンケーキを食べ終わったあと、私は廊下に目を向ける。廊下には校内だけでなく、保護者や他校の制服を着た人たちが行き交っている。私の視界に入る人たちはみんな笑みを浮かべていて、色とりどりの弾丸が飛び交い、本当にいまこの瞬間を楽しんでいるんだってわかる。きっと今日の出来事全てが素敵な思い出の一ページになっていくんだろうな。
なのに、なんで私にはそれらがモノクロに感じてしまうんだろう。せっかく楽しもうとしているのに、目の前のことや景色にピントが合わなくて、目の前で起きている出来事が他人事のように感じられてあまり楽しめない。
きっと私の意識がどこかに行ってまた迷子になってしまったんだ。どこに行ったのかな。空っぽの身体でそう思う。そのくせ、私の瞳は強く何かを探そうと廊下に向いたままだ。
もうすぐ十一時、か。時間が加速して過ぎ去っていく。時間が過ぎていくのは本当に早い。もうすぐ観ようと思っていた演劇部の劇が始まる時間だから会計を済ませ、飲みかけのカフェオレを持ったまま、私は体育館へと向かっていく。体育館までは特別棟の方へ向かってさらに渡り廊下を通らないといけない。歩いていると少し先の化学室からふいに鈴本君や鶴海君が出てきた。どき、と迷子だった心が戻ってきて、一瞬で目の前の景色にピントが合いはじめる。ぴた、と私は立ち止まる。
どき、どき、どき、どき。
熱くなった血が全身を巡って、体温を上げていく。鈴本君たちから目を離せない。二人に続いて、今下君も出てくる。じっと目を凝らす。でもその次に誰も出てこない。三人はそのまま渡り廊下を通って、一般棟へ向かっていった。失望した私の心はまた一瞬でどこかへ行ってしまって、身体だけが廊下に取り残される。
諦めるなんて思いながら、文化祭が始まってからずっと探していた。廊下を歩いていても、どの教室を通っても、私の瞳は、彼のあの大きな背中を探していた。彼を見つけたところで、このカフェオレを飲んだときみたいに苦い気持ちになるだけなのに。
ゆらゆら、とまだ揺れている。優柔不断で何にも決められないまま、何も変えられないまま、文化祭まで来てしまった。そしてこれからも、なのかな。茶色い海に浮かんでゆらゆら揺られて、揺れ続けて何も変えられないまま、私は過ごしていくのかな。
ふら、と壁にもたれて崩れるようにしゃがみ込む。腕を組んで、その中へ顔をうずめる。
もう、本当に終わりにしようよ。昨日、突然起きたあのどきどきは、きっと太田君に当てられただけ。きっとそう。当てられて舞い上がっちゃって、それで気持ちが高揚してしまっただけで、本当はもっと早く、こうしないといけなかったんだよね。
雁峰祭は明日で終わり。体育祭をやって、そのあとに後夜祭だ。
有志による寸劇とバンド演奏が後夜祭の始まりを告げて弓道部による着火でクラス旗を燃やして焚火をして、キャンプファイヤーをして踊って、最後に花火を見て終わりを迎える。
…ちょうどいいな。明日の後夜祭を機に今度こそ私の元に帰ってこられないように、この気持ちを焚火の中に捨ててくるの。そうして、ちゃんと受験に集中しよう──。
あっ、そう考え込もうとしているのに、ほらまた…。
心に開いた穴から見える彼のはにかんだ笑顔に、どきどきしちゃうんだもんな。
息すら止めて泣きそうになりながら、私は強く目を閉じてみる。
それでも大丈夫だよ。雁峰祭が終わって、受験に集中しているうちに気づいたら痛くなくなる。時間が少しずつ癒して、心に開いた穴だって塞がってくれてるよ。
「なーんか暗い顔してるね、唯」
智ちゃんとお昼ご飯を食べていると、ふいにそんなことを言われた。そうかな、と私は窓の外に目を向ける。どこかへ行ったきりの意識はまだ戻ってこないから空っぽの身体のまま、まだ飲み終わらないカフェオレを飲み続ける。なんだかお腹も空かない。意識がどこかへ行っていても、このカフェオレはやっぱり苦い。
「…唯、もうずっとカフェオレ飲んでるね。苦いの好きじゃないって言ってたのに」
その言葉に、どき、とする。目を向けると、智ちゃんは私の手にあるカフェオレを見ていた。
「…最近好きになったんだよ」
一瞬だけ口を離して、そう言ってみる。
「ふうん。その割にはずっとしかめっ面なんだけど。まあいっか。てか、お使いありがとね、こんなにたくさんさ。もちろん、唯も食べるでしょ?」
私一回やってみたかったんだよね、模擬店の食べ物全て制覇! と机の上に並ぶ食べ物たちに智ちゃんはキラキラと目を輝かせる。それに対して、うん、と私は頷いた。
「漫画どう?」
ちょうど朝から半分ほど減った漫画の山が目に入り、気になって訊いてみる。
「調子いいよ。もう結構売れたしね。全部行けるんじゃないかな。まあ私の渾身の作品だからね! 唯のおかげで少し変わっちゃったけど」
う、と私は思わす唸る。一瞬であのときの自分のことを思い出して恥ずかしくなる。
そっか。あのとき、とても恥ずかしいこと考えてたんだな、私。「でもちょっとだし…」と反論すると、まあね、と智ちゃんはうどんに手を付け始めた。私はお腹空いてないけれど、みたらし団子に手を付ける。その間に智ちゃんはうどんと五平餅を平らげてしまった。智ちゃんの細い身体のどこへ食べ物たちは入っているんだろう。
「ケーキバイキング、行けるといいね」
私がそう言ってみると、行けるって、と智ちゃんがたっぷりとタレのかかった焼き鳥を口にした。四本ある焼き鳥も智ちゃんの手にかかれば、数十秒で残り一本になっている。もう焼き鳥も食べ終わるなと思って見ていると、智ちゃんはその最後の一本になかなか手をつけない。気になって智ちゃんの様子を伺うと、智ちゃんは窓の外に目を向けていた。どうしたの、と言おうとした瞬間、「…せっかく行くなら笑顔の唯と行きたいな」そう優しく智ちゃんは呟いていた。外に向けていた目をゆっくり私に合わせる。
「さっきは茶化しちゃったけど、唯に言われて変えたとこ、私は好きだよ。登場人物を地味目な女の子とクラスの人気者の男子に変えたじゃん。定番な設定かもしれないけど、やっぱいいよね。唯に言われて追加したデートのシーンとかもさ、こんな高校生活送ってみたいなーって感じだったし。まさにベタ甘って感じで」
唯らしいなって微笑ましかった、と智ちゃんは笑う。いつもみたいにからかう感じを一切出さないで笑ってくれる。恥ずかしくて誤魔化すように私はカフェオレを飲む。少しだけ甘くて、でもとても苦くて、思わず顔をしかめる。ねえ、と智ちゃんが私を呼んだ。
「細かいことなんだけどさ、このクラスの人気者の男子ってバスケ部って設定だったけど、サッカー部にしなくてよかったの?」
迷子だった私の意識が戻ってきて、瞬時に冷や汗をかいた。驚いたように私は顔をあげる。智ちゃんがにっこりと笑って、私の視線を受け止めた。
「キャラデザを見せてもらったときから誰かに似てるなあって思ってたんだけどね」
智ちゃん、気づいてたんだ。顔が真っ赤になっているのがわかる。智ちゃんは私の手に握られていたカフェオレを取って、ゆーい、とじれったそうにする。
「…飲めもしないカフェオレばっかり飲んでても、暗い顔にしかならないよ」
顔が熱い。じんじんと熱い。恥ずかしくて、死にそう。
「昨日はすっごい笑顔だったじゃん。ほら、芸術鑑賞会が終わったあと。何があったのか知らないけどさ、久しぶりに唯の笑顔が見れたっ、と思ったんだけどな」
そういえば、と智ちゃんの声が明るくなる。「昨日のオープニングアクトすごかったねえ。鈴本君だっけ? すごい熱唱で! 今下君も鶴海君もノリノリで見てて楽しかったよね! なぜかオクターブ下げて歌ってたけど!」思い出したのか、お腹を抱えて笑い出した。「最後の方とか私も客席の前の方にはしゃいでる男子の群れに混ざって鈴本君けなしまくったもん。彼はそれすら嬉しそうだったけど」と言うと智ちゃんの様子も落ち着き始めた。一度咳払いをして、いい? 唯、と智ちゃんの真面目な声が聞こえる。
「明日の後夜祭が終わったら受験一色になるんだからね。私も唯も、他のみんなも」
他のみんな、という部分だけ強調して、智ちゃんはにっと歯を出して笑っている。
「はい、だからこのカフェオレは私がもらうね! 代わりにこれでも飲んで、元気出して」
唯にはこっちのが似合うよ、とイチゴオレを顔に押し付けられる。押し付けられたそれは買ってきたばかりのように冷たい。
「…ねえ智ちゃん」
「ぬる! うまいけど、ぬる! 余計のど乾いちゃったよ」
智ちゃんの大袈裟な反応のせいで、イチゴオレ好きじゃなかったよね、なんで持っていたの、という私の言葉がかき消されてしまった。ほれ、冷たいうちに唯も飲みなよ、と勧められて、久しぶりにイチゴオレを飲んでみる。
甘い。瑞々しくて、とてもとても甘い。紙パックみたいな心がピンク色の液体で満たされていく。溜まっていたカフェオレが穴から漏れ出して、じんわりと痛い。でも、今はそんなに気にならない。
忘れていた大事ななにかが返ってきたように、少しずつ身体の芯から元気を取り戻していく。どきどきどき、と瑞々しく心臓が動き始める。
あれ、なんだっけ?
昨日も少しだけ、感じた気がする。この甘くて瑞々しくて、どきどきする感じ。
いったいどこで、と考え始めたときには思い当たっていた。瑞々しくて、甘いイチゴオレに私の意識が溶けていく。
ピンク色に溶けた意識の中で、私はあのときのことを思い出していた。
どきっ、としてしまった。
リズムよく元気に動いている中でさらに大きく心臓が跳ねる。
あれ、いま何が起きたんだろう。わからない。けど心臓が大きく跳ねた。ステージの上では相変わらず、太田君が真っ赤なリンゴみたいな顔をしたまま歌い続けている。会場は最高の盛り上がりを見せていて、もうすぐ最後のサビも終わりを迎えようとしている。
私はいまも感情をむき出しにするように歌う彼の姿を受け止めるだけでせいいっぱいで、彼の姿に当てられて、いまも太鼓を叩いているみたいな強さで心臓が鼓動を速めている。
空っぽだった心に熱い液体のようなものを注がれて、私はとても甘い気持ちになる。
瑞々しくてとても甘い、紙パックのイチゴオレを飲んでいるみたい。
ああ、もうすぐ歌も終わってしまう。いつまでも続いてほしいと思いながら、一瞬一瞬を私は噛みしめる。感情をむき出しにするその姿から目を離さない。
演奏が終わる。客席から大きな拍手と歓声が聞こえた。私も拍手をする。ステージ上の四人もバックで演奏していた吹奏楽部の人たちも一列に並んで頭を下げている。
どこかぼんやりとした心持ちでその光景を見て拍手をしながら、そうしているときにもふいに、気のせいかもしれない、と私は何かを誤魔化している。期待しないようにしている。イチゴオレを飲んでいるみたいな甘さが心を満たしたからどきどきしていただけで、そんな一瞬だけ跳ねた心臓のことなんて気のせいだって。
でも、それでは説明できない違和感がいまも私の心に残って少しずつ大きくなっている。
ステージ上でどこかぎこちない笑みを浮かべている太田君を見ながら、私の意識がさっき見てしまった一瞬の出来事を、まるでバラバラになったパズルのピースを接ぎ合わせるように、少しずつ思い出そうとしている。
最初は、気づかなかった。圧倒されるように彼の姿を受け止めることで精いっぱいだっらから。でも彼のむき出しにして歌う姿を見つめているうちに、私は気づいた。彼の視線がある一点を向いて、ずっと動かないことに。私の座る席の近くを見ているような、その視線の先をゆっくりと辿っていて、ついに私は見つけてしまった。
その視線の先は山本さんにぶつかった。私の一つ前の席に座る山本さんに。そして山本さんもまた胸の前で不安そうに手を組んで太田君を見つめていることに気づいてしまった。
私は、勘違いをしていたのかもしれない。
早朝の教室、近い距離で瞳いっぱいにお互いを映して話す二人の姿が頭の中に浮かぶ。
目立つ男子と目立つ女子。ずっとお似合いで、もう二人は自然とそういう関係になっているんだって思っていた。だから私はこの気持ちをどこかに捨ててこないとなって。
ずっと、勘違いをしていたのかもしれない。
いまもじっと見つめ合う二人を見ながら、私の心には小さな希望が芽生えてしまった。
「あ、サンタのコスだ!」
「ここ、コスプレして写真撮れるんだって。入っちゃおうよ~」
私の姿を見て、他校の制服を着た二人組の女子が私たちの教室に入っていった。教室の中ではクラスメイトが全員、色々な衣装を着ている。鈴本君や今下君や鶴海君は他校の制服姿で瀬戸内さんはリーゼントのかつらをつけた学ラン姿で、他にも魔法使いだったり、吸血鬼だったり。でもみんな、性別と逆の恰好をしているからあやふやで面白い。
──明日の後夜祭が終わったら。
私たちのクラスは好評であっという間に行列ができていた。そのほとんどは女子で、たまにカップルで男子が紛れている、くらい。サンタの恰好をした私は教室の前でプラカードを掲げて宣伝しながら、行列を整えたり、最後尾を知らせたりする。楽しみだね、とか、写真撮りまくろーね、とか、どんな格好しちゃう? とか、並んでいる女子たちから弾んだ声が飛び交っている。中から一組出てきて、私は最前列にいる人を教室の中に案内する。
──明日の後夜祭が終わったら受験一色になるんだからね。
楽しそうな女子たちの弾んだ声が廊下に飛び交う中で、じんわりとリフレインする。
もうここで案内するようになってどれくらい経ったんだろう。そんなに経っていない気もするけれど、携帯に表示される時間はもう十五時を回っていて、あっという間だなあ、なんて思う。去年や一昨年の文化祭はもっと時間の流れがゆったりしていた。なのに高校最後の文化祭だけ、こんなにも時間が加速して過ぎてしまう。
──明日の後夜祭が終わったら受験一色になるんだからね。私も唯も、他のみんなも。
ふとした瞬間に、何気ない智ちゃんの言葉が、じんわりと胸の中でリフレインする。
紙パックみたいな心にさっき飲んだイチゴオレが溜まっているせいで、瑞々しく心がどきどきし続けている。全部飲んだときは心をいっぱいにしてくれていたのに、心の穴から少しずつ漏れ出して、いまではもう中途半端にしか残っていない。だからかな、どきどきしているはずなのに、私は動き出す勇気がない。
もし、紙パックみたいな心がイチゴオレでいっぱいに満たされていたら、なんて思う。一人っきりの教室のときのように、私の心から漏れ出したイチゴオレがどこにでも広がって触れたものすべてをカラフルに色づけてくれて、私の心も跳ねるように飛び回ったり、踊ってくれる。そうしたら、私はなんでもできるって思えるのにな。
──明日の後夜祭が終わったら受験一色になるんだからね。私も唯も、他のみんなも。
そんな自己完結しようとする私を許さないように、智ちゃんの声がリフレインする。
心がいっぱいに満たされていない、この中途半端な状況を変えるにはどうすればいいのかな。いったい私には、あと何が必要なんだろう。
「てかさ、明日でもう雁峰祭終わっちゃうんだねー」
「ホント早い。終わったら受験かあ。そろそろもっと真剣にやらないとヤバいし、私も朝早めに来て勉強しようかな」
え、じゃあ一緒にやろうよっ、とテンション高く話す同学年の女子二人が私の横を通り過ぎた。そんな声に引っ張られたからか、次のお客さん入れて、と鈴本君に言われてしまう。私は慌てて最前列に並ぶカップルを教室の中に入れる。ほう、と思わず息を吐く。そして、さっき私の横を通り過ぎた女子たちや、教室の中に入ったカップルや、そのカップルになにやら説明をしている鈴本君を、なんとなしに私は眺める。
こんなふうに違う方向を向いているはずの人たちも、明日の後夜祭が終わったら受験っていう目標に向かって進むしかなくなるんだ。朝早くの教室だって、他の人も来るようになって、きっと今までどおりにはいかない。なんだか急に口の中が苦くなっていく。
朝早くの教室で、ずっと飲み続けてきた紙パックのカフェオレ。何度飲んでも苦くて慣れなくて、それでも飲み続けてきた。できることなら好きになりたくて、ちゃんと飲めるようになりたかった。飲んだ瞬間に感じる少しの甘さに私はどき、として、そのあと波のように押し寄せてくる苦さに泣きそうになりながらも私はずっと飲み続けてきた。毎日、月曜から金曜まで律儀にカフェオレを買って、水瀬君がいる朝の教室で、水瀬君に見えるように飲み続けてきた。
また、彼に話しかけられるきっかけが欲しかった、あのときみたいに。
自分から話しかける勇気がなかった。だから苦くても毎日カフェオレを買って教室で飲むことで、あれ、ようやくカフェオレの良さがわかっちゃった? なんて話しかけられて水瀬君と話せるかもって、そんな甘い甘い可能性を期待してしまった。
後ろの席から彼の横顔や背中を眺めているだけで満足できていたなら、どれだけ楽しかっただろう。その気持ちを卒業するまで秘めて、大学に入ったころには自然に風化して、いい思い出になっていたかもしれないのに。でも心に開いた穴がどうしても彼の顔を思い出させるから、もう眺めているだけでは満足できなくなっていた。
「将生、時間だから行くわ」
突然、目の前の扉が開いて、そんな声が聞こえた。
あと頼んだ、と全身真っ白のタキシード、ひざ下まである黒のマントを着た男子が廊下に出てくる。まるで王子様のようだ。うわあ、と教室の前で並んでいた人たちがその姿を見て感嘆の声を上げる。
そのタキシードの男子は、なんと太田君だった。
その表情は、最近まで彼が見せていたとのとは違って見える。真っすぐ前を見て、どこかすっきりした表情。雁峰祭が始まる前までは俯いて、暗い表情をしていたのに。
彼のことを眺めて、自然と頭の中でじわりとあのときの映像が蘇る。
ステージの上から山本さんを見つめて、感情をむき出しにするように熱く歌った太田君。
反対に、胸の前で不安そうに手を組んで、太田君を見つめていた山本さん。
その交わる二つの視線を見つけて、私の心に芽生えてしまった、小さな希望。
「唯ちゃん、そのプラカード持って校内回ってさ、宣伝してきてもらえないかな?」
ひょい、と中から顔を出した瀬戸内さんが教室の中から顔を出して私に言った。いいよ、と私は返して、じゃあ行ってくるね、とそのまま歩き出そうとしたとき、
「あ、待って」
一瞬で、私の心がピンク色に高鳴った。ライトグリーンの色をした声が私の心に入り込む。振り返るとナース姿の水瀬君が廊下に出てきた。俺も一緒に宣伝するよ、と瀬戸内さんに言って、じゃ行こっか、と私の返事を待たずに私の手に握られているプラカードを持って歩き出してしまう。その背中を、私はただただ焦ったように追う。
教室のある一般棟から職員室などがある特別棟まで、一階から四階までぐるぐると宣伝のために歩き回る。よう将生! とか、せっかくエロい足してんなと思ったらお前かよ、とか、水瀬君が色んな人に声をかけられている。やがて私たちの教室のある一般棟の二階まで戻ってきて、ようやく水瀬君の周りにいた人たちが散り散りになる。二人っきりになったタイミングで、「渡辺さんの友達って面白いよね」唐突に水瀬君はそう言った。
「…え?」
「佐倉さん、だっけ? さっき漫研に寄ったときに喋ったんだ」ところでさ、と水瀬君は私を見る。次に何を言われるのかわかった気がして、顔に熱が集まっていく。
「渡辺さんの描いた漫画、読んだよ」
顔を上げられなくなって、慌てて顔を伏せる。あのときは、ただただ没頭するように愛しく痛む心を忘れたくて、すがるように書いていた。
読んだってことは、もしかして、もしかすると、気づかれたのかな。
「面白かった! やっぱりすごいよ、渡辺さん。絶対、才能あるって」
水瀬君をモデルにして漫画を描いたこと、気づかれちゃったのかな。
「これからも描いてよ。俺、楽しみにしてるからさ」
でもライトグリーンの色をした声からは、何も読み取れない。
あ、ちょっと、と水瀬君は急に窓の方に近づいて、窓の外を眺めた。振り返って私を呼ぶように手招きする。招かれるままに、私は水瀬君に近づく。水瀬君のそばで、彼が見ている方向へ視線を向ける。それはちょうど、窓の真下のあたり。
あ、と思わず声が出そうになる。そんな息遣いが聞こえたのか、水瀬君が微笑んですっと人差し指を口に当てた。窓の外には裏庭があって、各クラスのマスコットがブルーシートで隠されている。そして窓の真下には二人の男女が向かい合っていた。一人は真っ白のタキシードと黒いマントをしていて、もう一人はお姫様のようなドレスを着ている。
タキシード姿の太田君と、ドレス姿の山本さんだった。
私の心に芽生えてしまった小さな希望が、いま、はっきりとした確信に変わる。
「さすがにこの場面で性別と衣装が逆だと絞まらないから、俺が二人に着せたんだ」
緊張した空気の中で二人ははにかみながら、お互いを見つめている。やがて太田君はぎゅっと両手を握って、意を決したように話し出した。ここからではよく聞こえない。
「…耕輔と早織のために、俺、けっこー協力してて」
目下の二人をどこか遠い目で見つめながら、水瀬君はポツリ、とふいに呟く。窓の真下では、ぎゅっと両手をまだ握ったまま、太田君は話し続けている。いったい、何を話しているんだろう。山本さんはただ静かに太田君を見つめている。
「好きな子に自分の絶対に見られたくないような場面を見られたら、きついよな。耕輔は、沢北と他のバスケ部員たちの間で板挟みでさ、どっちの立場につくこともできなくて、その対立してる状況をどうすることもできなくて。そんな状況を早織に見られてさ」
水瀬君は一人言のように太田君と山本さんの間にあったことを私に話してくれる。
太田君がバスケ部内で対立している二人に挟まれて悩んでいたこと。バスケ部を辞めてその中の人間関係を断ったこと。心配してくれた山本さんを拒絶して逃げてしまったこと。
「昨日のオープニングアクトだって耕輔のヤツ、針のむしろ状態だったと思うよ。結果的には盛り上がったけど、ちゃんと歌えない状況だったし。しかも全校生徒やバスケ部の連中や早織の前でさ」
話すごとに、水瀬君の声色が低く、深刻なものになっていく。
そっか。だから、なんだ。
「一回立ち向かえなくなると、みんな当たり前にできることもできなくなったりさ。そういう状態ってきっと辛いよな」
だから歌が始まったとき、太田君はあんな暗い表情を浮かべていたんだ。逃げそうになる足を必死に踏みとどまらせて、客席にいるバスケ部の人たちや山本さんの視線に耐えるように俯いて、顔も上げられなかったんだよね、きっと。それでもそんな状況をどうしても変えたいって、一歩を踏み出して、最後には向き合う決心をしたんだ。
感情をむき出しにして、瞳に山本さんだけを映して、山本さんのためだけに歌って。
とろとろ、と紙パックみたいな心に、熱くたぎった液体が流れ込んでくる。
と、太田君は言いたいことを言い切ったのか、口を閉じた。山本さんは太田君を見つめたまま、ゆっくりと彼に近づいていく。目の前まで近づくと、笑いながら何かを言う。それを聞いて太田君も笑顔になる。そして優しく、山本さんの手を掴んだ。
会話は聞こえないけれど、きっといま、太田君の思いがはっきりと山本さんに届いた。
熱くたぎった液体が急速に心に溜まっていく。そしてあふれ出した。紙パックみたいな心から甘ったるい匂いのするピンク色の気持ちが。
…そんなの見せられたら、諦められないよ。ひどく足掻きたくなるじゃない。
やっぱり私もちゃんと伝えたい、太田君みたいに。
「やっとだな」
パシャ、と隣からシャッター音が聞こえてくる。私は音のした方へ目を向ける。
「二人の為に頑張ったんだから、お礼としてこれぐらいはもらっといていいよね」
水瀬君が手を繋ぐ二人の姿を携帯のカメラで撮っていた。
「このところ、早織の相談に時間取られてたけど、ようやく自分のことに集中できる」
太田君もこんな感じだったのかな。一歩を踏み出すとき、こんなに怖かったのかな。
「あ、せっかくだし、俺達も写真撮ろうよ。記念にさ」
決心した瞬間、口から一気に空気を吐いて宙で踊りだす風船みたいに心が暴走して私は焦る。うん、と頷いた私を見て、よっしゃ、と水瀬君は私に近づいてくる、ぴた、と肩と肩が触れそうになる距離まで。そして右手を思いっきり伸ばした。その手には携帯があって、画面にはどこかピンボケした私と水瀬君が映っている。
なんて言おう。焦って、頭が回らない。悪い未来しか想像できない。心の中は甘くて暖かいのに心の穴から甘い気持ちが漏れ続けて、どうしようもなく臆病風に吹かれて寒い。心の奥に仕舞いこんでいたむき出しの気持ちを晒し出すのはひどく怖いよ。
よーしじゃあ撮るよー、水瀬君の声が右耳から左耳に流れていく。どうしよう、早く、言わないと。でも泣きそうなくらい怖くて動けない。とても言えそうにない──。
あっ。
こんなときにどうして。こんなときに限って、じんわりと熱く胸の奥でリフレインする。
怖いよ。でもね、こんなに怖いのに、泣きそうなのに、震えてしょうがないのに、
胸の奥で、山本さんに向けて熱く歌う太田君の姿がどうしても私に勇気をくれるんだ。
温かい。怖いけれど、もういい。もともと、焚火に捨てて燃やそうとした気持ちなんだから。
そうだ、どうせ捨てるんなら明日の後夜祭で伝えたって同じだ。太田君がくれた勇気が心の穴を埋めてくれるからもう寒くない。太田君の姿に背中を押されるように、水瀬君、と呟くと、カメラレンズを見つめながら私はぎゅっと両手を握りしめた。
「明日、後夜祭の最後の花火が始まる時間に、お話があるので裏庭に来てください」