一日目 芸術鑑賞会
早く終われ。早く終われ。早く終われ。早く終われ。
そんな言葉とともにドロッと濁ったものがずっと身体の中を駆け巡っている。
俺はどうにも気持ちが落ち着かなくて、音楽室の中をグルグルと意味もなく歩き回っていた。
「じゃあ、もう一回練習しようぜ」
何かをふっきるように、総一郎が俺を含めた三人を順番に見ながら言う。
びゅ、と空気を切るような強い風が外から入り込んできて総一郎のライオンのように逆立った髪の毛をなびかせる。ちゃんとセットされているのか、風に反発するように元の髪型に戻る。
やるかー、と達也が総一郎の言うことに応じると、やっぱ今日喉の調子悪いわ、と光太が首を傾けて、納得いかないみたいな顔をする。
「いや、お前の歌、今までで一番調子いいよ」
「なにその意識高めの発言。お前プロなの?そのダミ声で?冗談は顔だけにしろって」
達也と総一郎が光太に冷ややかな視線を送る。
そんな視線を受けても光太は微塵も気にせずに喉を手で押さえて、顔がカッコいいわけじゃないのにすごく決め顔なんかしちゃって、「あー、あー」と声を出して何度も声を確認している。
まあコイツもそういうノリでこんなことやってるんだろうけど。
「まあ実際、本番までに練習できる時間はそんなにないし真剣にやるか」
光太に冷ややかな視線を送っていた総一郎がそう言うと手に持っていた携帯を操作してピアノの上に置く。と、音楽が流れだした。
以前、吹奏楽部が演奏したものを録音したもので、この曲ならみんな知てるだろうと四人で決めた国民的アイドルの大ヒット曲だ。
事前に決めたパート分け通りに歌う。Aメロを光太と俺が、Bメロを総一郎と達也が担当する。そしてサビは四人で歌う。
歌に合わせてこの曲のPVの振り付け通りに踊る。
あっという間に曲は終わって、ピアノの上に置かれた携帯はうんともすんとも言わなくなる。少しして、やっぱさ、と光太が口を開く。
「なんで吹奏楽部の演奏は原曲とキーが違うん?原曲キーならちゃんと歌えるのに、吹奏楽部がアレンジしたせいでキー通りに歌えないじゃん…」
「おかげで一オクターブを下げないと歌えないし、盛り上がらないんだよな歌ってても」
「こんなんで大丈夫かよ、芸術鑑賞会のオープニングアクト」
達也と総一郎も不安そうに言う。
おかげで、室内は曇り空のようなどんよりとした空気になる。ま、こうなる前から、どんよりした空気だったけどさ。元に戻っただけだ。
しん、と音楽室がどんよりした空気になって少しすると、総一郎がはっとしたような顔をして空気を一蹴するように、「あーっ。ブツブツ言っててもしょうがねえ。時間来るまで練習すっぞ」と元気よく言い、再び携帯を操作し始めた。
今日は雁峰祭一日目、芸術鑑賞会だ。
芸術鑑賞会は学校から少し離れた真城地域文化広場で行われる。
三年周期で演劇、古典芸能、音楽のどれかを鑑賞することになっていて、今年は演劇を鑑賞する予定だった。
そして演劇の前には、雁峰祭実行委員長による開会宣言、校長の挨拶に続いて生徒会長の挨拶、そして芸術鑑賞会のオープニングアクトとして吹奏楽部の演奏が予定されていて、数年前からは吹奏楽部の演奏をバックに有志の学生が歌うことになっている。
そして今年歌うことになったのが俺達四人だった。
コイツらの心配しているとおり、このままこの曲を歌ったらたぶん、スベる。
だってせっかくみんな知ってて男女ともに人気のある曲にしたのに、歌う本人達は原曲より一オクターブ下げて歌うんだから。
もし俺が観客側でキーを下げて歌われたら冷めるし、そうしないと歌えないならなんでその歌にしたの?ってなる。
わざわざ恥を掻きにいくようなもんだ。あーなんであのときやるって言ったんだろうな俺、なんて、今更になって思う。
そして、ステージに立つということはアイツらが俺のことを見る可能性があるということに、なぜあのときの俺は気が付かなかったんだろう。
──太田、辞めないでくれ。
──辞めるほど悩んでたんだったら、相談してほしかったよ。
頭の中で、沢北の言葉と今井からのメールの文が響き続ける。
いつまで経っても消えてくれない。
沢北や今井、他のバスケ部のヤツらはステージで歌っている俺の姿を見てどう思うだろうか。
アイツらはもう俺のことなんて見ることも話題にすることもないかもしれない。バスケ部からもアイツらからも逃げた俺のことなんて。
でもステージ上にいる俺のことをアイツらが見ていたらと思うだけで、ずしん、と心が鉛のように重たくなるんだ。
せめてこの歌で会場を盛り上げることができたら、アイツらの視線もその視線に含まれる感情も、楽しい空気で覆い隠せる気がするのにこのままじゃきっと俺は気づいてしまう。
アイツらの視線を。
その視線に含まれる暗い感情の全てを。少しも薄まることのなく俺に向かってくることに、俺は気づいてしまう。
その状況を考えるだけで、もう俺は耐えられそうにない。どういう結果になってもいいから早く芸術鑑賞会のオープニングアクトが終わってくれればと思うけど、こういうときに限って時計の針はなかなか進んでくれない。
まあ、どうせこれは俺が自意識過剰なだけでアイツらは俺のことなんて見てないし、歌もスベるだろうけどこれは罰ゲームみたいなもんで頭をバカにして何も考えないようにして五分くらいジッと耐えればすぐ終わるっしょ、なんてワザとポジティブに考え直したりして、でもすぐにまた心が鉛のように重たくなってきて、そのせいでできたドロッと濁ったものが身体の中を駆け巡って。
そんな状態に俺は耐えきれなくて、早く終われ早く終われ早く終われ、と心の中で祈るしかなくなる。
何度か練習したころにはもうHRの時間が近づいていて、解散になった。
どの教室もクラス展示や模擬店の準備がされているため、雁峰祭の最中、地学準備室が俺達三組の教室の代わりになっている。
四人で地学準備室に向かう途中、携帯が震えて連絡が来たことを知らせる。ポケットから取り出して表示する。俺は思わず立ち止まった。
『HRの後、裏庭に顔出せよなー。耕輔も一応、マスコット班の班長なんだしさ。もう一人の班長はちゃんと毎回、顔出してるぞー』
連絡してきたのは、同じクラスの将生だった。
マッシュヘアで、中性的でかつ整った顔立ちの男が頭の中で浮かぶ。やけにおせっかいを焼いてくるんだよな、いっつも。
「なに立ち止まってんの耕輔。はや行こーぜ」
立ち止まった俺に気づいたのか、体を半分ひねって光太がそう言った。
あとの二人は姿が見えないからもう先に行ったらしい。
「わりい。先行っていいよ」
俺がそう返すと、何か言いたそうな顔をして、でも何も言わずに、おっけ、とだけ返事して光太も歩き出した。
俺はまた携帯に目を向ける。何度も、あの日の母さんの声が耳の中で反響している。
──ここで逃げたら、そのあとも何かあるたびに逃げるような人間になるんだよ?
この連絡をスルーしたら強引にでも将生に引っ張られそうだと思う。
優しそうな顔して意外と強引なとこあるんだよな、アイツ。はーめんどくさ。
オープニングアクトの件とは違う意味で気が重たくなってくる。
まあ俺もマスコット班の班長だし、たまには顔出さないとやべえよな。まだ完成してないって将生も言ってたし。
雁峰祭に向けて、各クラス内で三つの班に分かれて担当することになっている。
文化祭の日に発表するクラス展示を準備する班。雁峰祭最終日、体育祭の際にお披露目になるマスコット班。同じく体育祭で使うためのクラス旗を作る班。
マスコットは全校生徒、来校者等にどのマスコットが気に入ったかを投票してもらって、体育祭の閉会式のときに体育祭の結果とともにマスコットも順位が発表される。
てか、マスコットやクラス旗は夏休みごろから作り始めるからもう終わってないとヤバいんだけど。
俺はそんなことを頭の片隅で考えながら、最後の一文に目を引っ張られていた。
もう一人の班長、か。
美術部や絵の上手い奴が担当するクラス旗は別として、クラス発表の班もマスコット班も男女一人ずつ班長が選出されることになっている。
マスコット班の男子班長は俺。そして、女子の班長は早織だった。
あとで顔出さないとな、と思う。でも行ってどうするんだろう。
マスコット制作の経過なんて全然参加してない俺が知るわけないし、行ったところで知識があるわけないから役立てる気がしない、なんてもっともらしいことを考えてみるけど、いや、違うんだ。
本当は、早織と同じ空間にいたくないだけだ。
教室とかと違って、何にも取り繕えないほど開放的な空間で早織と一緒にいたくない。今の俺を見てほしくない。今の俺に話しかけないでほしい。
数時間後にはオープニングアクトで盛り下がる歌を歌って、ステージの上でスベっているような情けない俺を、早織には見てほしくない。
でも、それでも早織は、情けなく歌っている俺を見てくれるだろうか。
あのときのような優しい目で。
もともと俺が頑張って沙織に手を伸ばし続けていたはずなのに。届くことを願って何度でも何度でもチャレンジして。ほんと、なにやってんだろうな俺。
でも、もう早織はそんな目で俺を見てくれることは、きっとない。
──早織には話したくない。もう、俺には構わないでくれ。
最後には伸ばしてくれた早織の手を拒んで向き合わなかったのは、この俺なんだから。
俺が早織に言った言葉も、沢北が俺に言った言葉も、今井から届いたメールもドロッと濁ったものに溶けてもうどこにあるのかわからないくらい身体の中を巡って、巡り巡って。
すっかり重たくなった鉛に俺は動けなくなって、今にも押しつぶされそうだ。
「芸術鑑賞会のオープニングアクトで歌?」
「そう!なあ耕輔、いいだろ?」
今から二か月前、セミの鳴き声が聞こえ始めた昼休み、顔をしかめた俺に将生はニヤニヤした笑みでそう返した。その表情が眩しくて俺はつい俯いてしまう。
「生徒会が誰もやってくれないって俺に泣きついてきてさー。で、耕輔達に頼みたいってわけ」
どうせ暇だろ?と当然のように将生は言った。
こう言ってても爽やかシトラスみたいなのを伴ってるのが腹立たしい。おかげでコイツの言い分もすんなりと受け入れてしまいそうになる。
てかサッカー部の連中ってなんでこう爽やかさみたいなものを持ってるんだろうな。シトラスとかシャボンとかそんな感じの。サッカー部に入れば手に入るのかとも思うけどたぶん違う。もともとそういう雰囲気を持ってる奴が多いからそう感じるってだけの話なんだよな。
「ぜんっぜん暇じゃない!」
将生に声を荒げたのは、十センチぐらいの高さのある弁当箱にぎっしりと詰め込まれたチャーハンを頬張っていた光太だった。
「なんか予定あんの?」
また始まった、とでも言いたげな表情をした達也が訊いた。光太はポツポツと話し出す。
「え、勉強だってあるし、そのうち彼女とかできて色んなところにデートしたりして忙しくなるかもしれないしさ…」
「まあまあな声量で主張したわりに、自分で言ってて自信無くなってるじゃん」
「彼女できてから言えって。そんなんばっかり言ってるから卒業するまで童貞なんだぞ?」
達也と総一郎が呆れた顔をすると光太がわめく。
「卒業までまだ時間あるじゃん!俺にだってまだワンチャンあるじゃん!」
あー、光太がキャンキャン吠えててうるせえ。
「でも達也たちだって童貞だろ?」
なに上から言ってんだよコイツと一緒だよ、と将生がそれこそ上からものを言う。事実だし、将生の言い方には爽やかシトラスで嫌味がないから三人とも何も反論できないで黙って弁当を食べるしかなくなる。しまいには、
「将生ぃ、どうやったら彼女できるんだろ」
「お前と違って彼女はいるけど、なあ将生ぃ、どのタイミングで手繋げばいいんだろうな」
「お前らと違って彼女もいるし手も繋いだことあるけど、なあ将生ぃ、いつおっぱいって触っていいだろうな」
と光太と達也と総一郎が醜いマウントを取り合いながら、いつものように将生にアドバイスをもらおうとする。
ハンド部だった光太。野球部だった達也。剣道部だった総一郎。
こんな童貞こじらせてるヤツらでも所属した部活をやりきって、引退の時には後輩から色紙とかプレゼントとかもらっちゃったりなんかして、たまにOB として部活に顔を出したりしてるんだもんな。
…いつからだろう。なんなんだこれは。いつからか奇妙な感覚を覚えるようになった。
太陽の光で照らされた真っすぐにどこまでも続く道、みんな当たり前のようにその上を歩いているのに、俺だけ、その道から外れて真っ暗な場所に立って一歩も動けない、そんな感覚。
手を繋いだりおっぱいを触ったことがあっても、きっとコイツらの方が俺なんかよりずっとずっと上だ。なにがって訊かれると上手く答えられないけど、きっと上だ。そんな当たり前のことに気づいて、俺は食欲がなくなっていくのを感じた。
俺がバスケ部を辞めたって話が学年全体で広がったときでも、コイツらはそのことを俺に詳しく聞いたりはしなかった。いつもと変わらない温度でくだらない下ネタだらけの会話しかしてこなかった。でも辞める前まではふとした流れでぽろ、と出てきていたバスケ部の連中の名前が、バスケ部を辞めたあとには出てこなくなったから、やっぱり気遣ってくれてるんだなってわかった。コイツらのそういう態度に、当時の俺はとても助けられて、でもやっぱり鉛のようなものが心にはあって、それはずっしりと俺を苦しめた。
「光太、これチャンスじゃん」
そんなことを考えていたら将生が笑った。
「みんなの前で歌えるんだぜ」
「それってあの吹奏楽部の演奏をバックに歌うヤツだろー?」
と不審そうに言う光太。
はっ、と将生は鼻で笑った。
「お前ら知らないのかよ?」
まるで誰も知らない世界の中に秘密を教えるみたいに自信たっぷりと、決め顔で囁くように言う。
「…音楽やるヤツは、どんなクズでもブスでもモテるんだって」
一拍、静かになった。ボト、と何かが落ちる、音がした。目を向けると、光太がチャーハンを食べるために持っていたプラスチックのスプーンを落としていた。
「…盲点だった」
なんて、世界の真理にたどり着いたように震えながら言う。いやいや大袈裟だから。
「ヤバい、次の日の文化祭には彼女と一緒に歩いてる未来しか見えないわ…」
机に突っ伏して、光太が感動の余韻に浸りだして、
「どうしよう。そのまま上手くいって初めてすることになったら。俺はちゃんとリードできるか?いやまずはゴム買わないと。へへ、こういうのはちゃんとしないとな」
なんてこういう場面で持ち前の生真面目さを発揮してくるから、ツッコむ前に笑えてきてしまう。「…悪くない」
いつの間にか目を閉じて静かだった達也がうんうんと頷いていて、え、なにが、と言おうとしたら、「これはやるしかない」
総一郎も深く頷いているから俺は何も言えなくなってしまった。お前らならわかってくれると思ってた、なんて決め顔で将生もしきりに頷く。
それでも俺はまだ迷っていた。せっかくの機会だし、やってみたいって気持ちもある。歌うの好きだし、わりと自分でも上手いって思うし。でも俺なんかがやっていいのかって思う。俺にはそんな輝かしい場所に立つ資格がないように感じてしまう。心が鉛のように重たい。
俺が迷っている内に将生に押し切られる形で参加することになってしまった。
曲も自分達で決めていいって話だったから盛り上がるようにみんなが知ってる人気アイドルの曲を選んで、勢いのままにカラオケに行って練習して、意外と四人の息がぴったり合って、途中からノリノリで歌えるようになっちゃって、「やべーモテた」「モテたな」なんてバカなことを言っているうちに俺もだんだん楽しくなってきていた。
そしてついに吹奏楽部と一緒に練習する日を迎えていた。普段、関わりのない吹奏楽部のメンバーを前に俺達は緊張していたけど、何度も通ったカラオケで培った謎の自信がこのときの俺達にはあって、「歌ったあと、吹奏楽部の女子達に告白されたらどうしよう」「ちょっまっバカ!全学年の女子に、の間違いだろ?」なんてニヤニヤ言い合っていた。
そうこうしているうちに演奏は始まった。始まってすぐに、ん?と俺達はお互いの顔を見合わせて首を傾げることになる。イントロが終わって、Aメロに入る。担当である俺と光太が歌い出して、気づく。カラオケで練習してきた曲のキーといま演奏している曲のキーが違う。だからそのまま歌うと音程がズレているのがわかる。慌てて俺も光太も曲のキーに合わせて歌ってみるけど、俺達の声ではキー通りに歌えなくて、一オクターブ下げて歌うことになってしまう。Bメロに入って達也と総一郎も歌うけど、やはり一オクターブ下げてでしか歌えないらしい。そのまま演奏は終了した。やっと終わってくれた、というのが正直な俺の気持ちで、他の三人も俺と同じような顔をしている。演奏が終わってどことなく静まってしまった空気の中、光太が吹奏楽部の寺橋先生のもとに行った。
「この曲のキー、原曲通りに戻せないですか?」と何度も粘ってみるものの、
「ダメだ。吹部としても原曲をそのまま演奏するんじゃなくて、独自のアイディアを入れて演奏する
ことになってるからこれは変更できない」
と先生の意見を変えることはできなかった。吹奏楽部の女子達からも気まずそうな雰囲気が感じられて、もっといたたまれなくなった。
「もう一度、やるか?」
という先生の申し出を断って、俺達は帰ることにした。帰り道、誰も話さなかった。ただ途方に暮れて、罰ゲームと化した芸術鑑賞会のオープニングアクトのことを考えないようにして歩いた。校門を過ぎて、それぞれの帰り道に分かれるときもみんな、じゃあここで、とだけ言って余計なことを言わないようにして帰った。
歌う前まであった楽しい気持ちも根拠のない自信も、すっかり吹き飛んでしまっていた。
HRが終わると廊下に出て、玄関を目指す。HRの間、マスコット班のヤツらは来なかったな。窓に目を向けると、そこには裏庭と裏門がちょうど見える。裏庭ではたくさんのマスコットが置かれている。各クラス一つずつだから全学年分で十五個分。綺麗にスペースは割り当てられていて、有名なゆるキャラやアニメのキャラなどがある。三年三組のクラスのマスコットはなぜか船で、大河ドラマが好きな担任が威臨丸?という船を作ろうと意気込んで作ることに決まったものだ。
その船のそばにはクラスメイトが数人いて、将生と話している早織の姿もバッチリ俺の目に入ってしまう。足取りが急に重たくなる。でも行かないわけにもいかない。裏庭に出て、三組のスペースに着くと、おっ、やっと来た、と将生がこっちに近づいてくる。
「遅いぞー耕輔」
からかうような口調で将生は言う。わりわりぃ、と俺が返すと、将生は俺の肩を組んできて、
「今日、明日で仕上げないとマジでやべえからな。ザッと見た感じ、まだ完成してないの俺達のクラスだけだから」
と呑気そうに言う。
「間に合うのか、それ?」
「夜遅くまでやれば間に合うだろ。てか夜まで女子と一緒とか、なんかドキドキするな」
と将生がニヤニヤするから、
「いま付き合ってる他校の女子はどうしたよ?」
と俺が言うと、
「もう別れた。てかいまもう違う子狙ってるから」
と切り替えの早いことを言う。クズめ。
「じゃあ、あれか。四組の竹下だろ。仲いいし、よく将生に会いに来てるもんな」
「…まあ雁峰祭が終わったあとにはわかると思うよ」
少し意味深な言い回しをして、将生がみんなのいる方を見ると
「熱いな。ジュース買いに行こうぜー」
と誘う。行く行く!とみんな反応してこっちに向かってくる。
「じゃあ俺ら飲み物買ってくるから、耕輔は早織からこれからの流れとか聞いといて。全然参加してないからうちのマスコットの経過とかなにも知らないだろ?」
先に行って、と将生が飲み物を買いに行こうとするクラスメイト達に声をかける。
俺は表情が歪むのがわかった。
「…じゃあ、将生が教えてくれよ」
「俺だってそんな詳しくは知らないから」
と将生は先に行ったクラスメイト達のあとを追うように歩き出して、すぐに立ち止まった。
「…早織、怒ってるぞー。ちゃんと話せって」
さっきまで呑気そうな雰囲気が消え、低い声でそう言った。おーい待ってくれー、なんてすぐに呑気そうな声で先を歩くクラスメイト達のもとへと将生は走っていく。
船のマスコットのとこまで行くと、すぐそばで早織が段ボールを下敷きにして座っていた。体操座りでたぶん、俺を見ている。でも俺は早織の目を見ることができない。見てないふりをして視界の隅で確認することしかできない。いつの間にか全身がガチガチに固まって動けない。もうずいぶん話していなかったからどう話していいのかわからない。
あの頃、どう話していただろう。どんな顔して、俺は早織と向き合っていたのだろう。
「やっと、来てくれたね」
包み込まれるような柔らかい声が、すっと俺の中に入り込んでくる。どれだけ強がっていてもどれだけ誤魔化していても、すっと入ってくる。体の中にある何かを溶かすように。
「ここ座ったら?」
ぽんぽん、と早織は自分の横を軽く叩くのが視界の隅で見える。ようやく自分の体が思い通りに動かせるようになって、ぎこちなく早織から少し離れて座る。
「体操服で来ないなんて、やる気が感じられないね」
くす、と早織は笑う。
「班長なのに来てくれないから大変だったよ。鈴本とか鶴見とか今下は来てくれるのにさー」
早織の声を、早織の近くで久しぶりに聞いて、思い出す。
早織は仲良くなった人を呼び捨てで呼ぶ。そしてもっと仲良くなったら下の名前で。男女関係なく、そうすることが親愛の証だというように。誰とでも仲良くできるから人気があったし、男子からよくアタックされていた。そして、その男子の一人が俺だった。
「…悪かったって」
「絶対思ってないでしょ?てかマスコットの進行具合とか残りの作業のこととか知らないよね?今から教えるね」
と早織は作業のことをあれこれと説明をし始める。
でも好きな人にだけは呼び捨てではなく、名前に君付けで呼ぶ。愛おしい何かをそっと確かめるように、柔らかい声で。二年前からその柔らかい声を聞いていた、早織の隣で。
──修斗君に誕プレあげたいんだけどどういうのがいいかなあ。
──修斗君と付き合ってもう一年経つんだよー。
──これ、修斗君にもらったの!ホント嬉しい!これ、超よくない?
耳の中にあの頃の早織の声が溶けていく。この頃の俺は早織から太田、と呼ばれていて、俺の席に勝手に座って、携帯の画面越しでしか見たことのない当時の彼氏の修斗君の話を早織は嬉しそうに話していた。でも高校二年の春から夏に移り変わる頃、早織は修斗君と別れてしまって、少しして早織は俺のことを、太田、から、耕輔君、と呼ぶようになった。
「そういえば芸術鑑賞会のオープニングアクトで歌うんでしょ?」
早織が楽しそうにそう言った。そのことを知っていてほしくなかった、と俺は思う。
「…知ってたのか」
「鈴本に聞いたよー」
鈴本が無駄に気合入っててー今度こそ彼女作るんだってさ、とくすくすと早織は笑う。
でも今となってはもう俺のことを、耕輔君と呼んでくれることはきっとない。そのことを改めて知りたくなくて、確認したくなくて、俺はここから立ち去る理由を探し続けていた。携帯を表示させて、そろそろ移動した方がいい時間になっていることに気づく。
「じゃあ時間だから行くわ」
俺は立ち上がって歩き出す。ちょっと、と早織が俺の突然の様子に戸惑いを見せる。
「耕輔君!」
体中に電撃が走るみたいに俺は立ち止まった。そう呼ばれることはないと思っていた。
「芸術鑑賞会が終わった後、どうするの?」
「…ここに戻ってくるよ」
ホントにー?と早織が笑った気がした。
「今までほとんど貢献してないんだから完成するまで働いてもらうからね。サボってた分はー、ぶどうこんにゃく一つで許してあげる」
早織はいつも購買で売っている八十円の紙パックのぶどうこんにゃくを飲んでいた。
──これならお腹に溜まるし安いし、一石二鳥なの!
「マスコット制作、なんでそんな頑張るんだよ」
俺がそう訊くと、
「最後の雁峰祭じゃん。楽しいものにしたいのー」
それに、と早織は嬉しそうに言う。
「耕輔君と一緒に作るマスコット制作だもん。頑張りたいんだよ」
そう伝えてくれる早織に、何も言えない。俺はいま、どんな表情をしてるんだろう。
「…じゃあ行くわ」
タ、タ、タ、と早織に背を向けたまま、俺は歩き出す。
「ぶどうこんにゃく買ってくるの忘れないでね。…オープニングアクト、頑張って!」
ああ、と手を挙げて応じる。ずしん、と心が鉛みたいだ。
タ、タ、タ。タッタッタッタ。
どんどん速度が上がる。校舎の影に隠れるように入って、後ろを確認する。早織の姿は、もう見えない。俺はようやくその場で立ち止まる。あ、と思った。またこの感覚だ。みんなが明るい場所にいるのに、俺だけ、その道から外れて真っ暗な場所に立って一歩も動けない、そんな感覚。
なんだろう、これは。なんでこんな感覚が浮かぶんだ。
体中を流れるドロッと濁ったものがその疑問に答えるように俺に向かって訴えてくる。
早織と会ったときから、いや会う前からずっと重たかった心が訴えかけてくる。わかってる。わかってんだよ。逃げるように去ったことも、早織がそのことに気づいていることも、早織と会ってから一度も早織の顔を見れなかったことだって。
そんな自分が、ただ情けなかった。
入学式の日、あの電車に乗ってなかったら早織を好きになっていなかっただろうか、なんてたまに思ったりする。そうしたらこんなに苦しい思いをせずに済んだし、きっと心の中にある鉛も軽かったはずだ。もしかしたらその鉛すら、なかったかもしれないし、こんなに怯えることなく、楽しく毎日を過ごせていたかもしれない。…なんてな。そんなことない。あの電車で見かけなかったとしても、例えば廊下で一瞬すれ違うだけだったとしても、やはり俺は早織を好きになっていた。
七時十五分の電車だった。いつもはイヤホンをして移動するけど、この日だけはイヤホンをつけることなく、俺は電車の窓から真城市の景色をぼーっと見ていた。受験のときは親に学校まで送ってもらったから初めての電車での移動に緊張していたのかもしれない。
電車内にはあまり人が乗っていなくて、とても静かだった。やがて最寄駅である茶臼山駅に到着して、一つしかないホームに降り立って周りを見渡す。三つの車両から吐き出されるようにこの駅で降りたのは数人で、全員が真城高校の制服を着ていた。
最初に思ったことは、何もないところだな、というネガティブな感想だった。こんなところで三年間過ごさないといけないのかと気持ちが灰色になりかけもした。
無人駅だったから電車に乗っていた車掌が駅の出入り口付近まで出てきて、電車から降りた乗客の切符の確認をしていた。俺も車掌のいる方へ歩き出したとき、俺の少し前を歩く女子に目がいった。
少し茶色がかったロングヘアでスタイルが良く、スカートもかなり短い。
後ろ姿だけでもかなり垢抜けている。
とはいえじろじろと見ているつもりはなく、俺の進む先を歩いているから自然と目にしている、という感じだった。前を歩く女子が定期券を見せて、車掌のそばを通り過ぎる。次に俺の番が来て、車掌に定期券を見せる。彼女はそのまま肩にかけているスクールバックに定期券を仕舞おうとして地面に落とした。そして定期券を拾おうと屈む。
同時にピーッ、と車掌が笛を吹いて電車の中に戻っていく。その大きな音で、前屈した状態の彼女がふいに振り向いて、俺と目が合う。彼女の、どんぐり眼と目が合った。
それが今から二年以上前の早織だった。
今よりも化粧が薄くて、少しだけ幼い顔をした早織はすっとすぐに俺から視線を外してスタスタと歩いていく。小さな階段を下りて、高校へと向かっていく早織。真っすぐ進んで、やがて左折してその姿が見えなくなる。なぜかその後ろ姿から目を離せなかった。さっきまでなんとなく見ていただけなのに、今は意識的に目が離せない。ふと、干潮で底が露わになった波打ち際が頭の中で浮かぶ。スッとどこまでも引いていく潮のような、不思議と強い引力のようなものが彼女にはあった。
一瞬、本当に一瞬、目が合っただけだった。
早織の姿が見えなくなっても、俺はその場で立ち尽くしていた。目の奥には早織のどんぐり眼が焼きついていて、どこを見ていてもすぐに、あの目が合ったときの早織の姿が透けて見えてしまう。ようやく歩き出せてもどこかふわふわと実感のない足取りで、学校に着くまでに電柱にぶつかったり、縁石につまずいたり、赤信号の横断歩道を渡りそうになってクラクションを鳴らされたり。
一目惚れだった、それはもう深刻なくらいに。
だからそのあと無事に学校に着いて一年三組の教室で早織の姿を見つけたときは、本当に驚いた。驚いている俺の様子に気づかずに、早織はさっそく目立つ女子数人と、キャハハハ、と騒がしく笑い合っていた。
そして入学式のあと、初めて参加したバスケ部の練習で俺はまた驚くことになった。
隣のコートで練習している女子バレー部の中に、ポニーテール姿の早織を見つけたから。
教室にいるときと違って、早織は真剣にボールを追っていた。落ちてくるのに合わせて膝を曲げて、ぽーん、と優しくボールを上げたり、高く飛んで力強いスパイクを決めたり。
きれいだ、と思った。ボールを見つめる瞳も、真剣な横顔も、体の動きに合わせて跳ねるように動くポニーテールも。とてもとても、きれいだった。スパイクを決めると、真剣そのものだった横顔に笑みが混ざって先輩たちと楽しそうに話し出す。隣のコートは距離があるはずだけど、早織の声ははっきりと聞こえた。その声をずっと聴いていたいと思ったけれど、練習中だからそんなわけにもいかない。かわりに俺は練習中、誰よりも大きな声を出すようになった。ランニング中やシュート練の時も。誰よりも速く走って、誰よりもシュートを入れようとした。こんな本気でやるつもりなんてなかったけどな、なんて思いながら、それでも俺は全力で練習に取り組んだ。
隣のコートにいる早織に俺のことを気づいてほしかったし、誰よりも見てほしかったから。
入学してからすぐには話す機会がなかったけど、早織のグループと俺のグループは互いに目立つグループで絡むことが多かったからそこで俺も早織と話すようになった。
早織はクラス行事を積極的に参加する人だったから俺も積極的に参加した。五月のクラスマッチや遠足を通してもっと仲良くなって、俺の呼び方が太田君から太田に変わってたのもこの頃だ。クラスのみんなとクラスマッチの打ち上げをして、二次会で早織のグループと俺のグループでカラオケに行くことになった。
将生達に協力してもらい、将生が早織以外の女子メンバーに話を通してくれて、部屋の中では誰にも邪魔されることなく、早織と話すことができた。
ただ、このときまで早織を楽しませることばかり意識していて、肝心なことを訊いてこなかったのが良くなかったのかもしれない。
体の中にあるかけなしの勇気を集めてさりげない感じで、そういえば彼氏っているの?と訊いた。
「いるよー。中学のときの男子でね── 」
いる、とあっさり返してくると予想してなかったから俺は何も考えられなくなっていた。
せっかく早織が話しているのにその内容が少しだって頭に入ってこなくて、気が付くと将生が俺と早織の間に入って話を繋げてくれていた。
何も考えられなくなるくらいショックなことだったけど彼氏がいると聞いていても、ずっとその彼氏と続くとは思ってなかった。ドラマや漫画みたいにずっと続く関係なんてないんだから、きっとチャンスはある。
そう思って俺は諦めるつもりはなかった。だから積極的に早織から彼氏の話を聞いたりして早織と仲のいいポジションを築いていった。彼氏のことを聞くと、早織はいつも嬉しそうに話してくれた。部活中もお互い休憩が被ったりすると早織は訊いてもいないのに、修斗君に誕プレあげたいんだけどさ、とか彼氏のことを嬉しそうに話して、俺は話を聞いて適切なアドバイスをしていた。
「ちょっとシュート打ってみてよ。スリーポイント」
会話の最後、早織はいつも俺にそう言ってきた。えーめんどくさ、と俺は嫌そうな顔を作るけど、内心ではそうでもなかった。こういうときに限って俺はシュートを外すんだけど。
すると、締まらないなー、でも次はカッコイイとこ見せてよね、と早織はそう言っていつも笑ってくれた。そして、じゃあ行くね、と手を振って練習に戻っていくんだ。
早織が彼氏の名前を呼ぶとき、柔らかい声になっていることに俺は気づいていた。まるで愛おしい何かをそっと確かめるように。早織のそうした部分が俺は好きだなと思って、とても女の子なんだな、と感じていた。そしていつかは俺も、って願っていた。
二年生になると、いつしか早織の話す内容がのろけた話だけでなく、相談事や悩み事も含まれるようになった。俺は真面目に話を聞いて解決できるように努めた。何か悩み事あったらいつでも言って、と大真面目に早織に言って、俺は頼りになる男であるように必死に務めた。頼りになる、と早織に、早織にだけは、思って欲しかった。
そうした俺の努力も報われることなく、いや報われていたのか、早織から聞こえてくる話は暗いものになっていって、二年の春から夏に移り変わるころ、早織は彼氏と別れた。
「修斗君と別れたよ。フラれちゃった」
そう涙ながらに話す早織の姿は、俺の胸をキュッと締め付けた。早織の不幸と俺の望んでいた状況に素直に喜べない気持ちのまま、俺は早織に優しい言葉をかけ続けた。時間はかかったけど、早織も少しずつ元気を取り戻してくれて笑顔も見るようになった。
この頃から部活中、早織と視線が合うことが多くなった。以前は俺が見ているだけだったのにバレー部の方を見ると必ず目が合う。そして目が合うと、胸の前で小さく手を振ってくれる。そして、その視線が以前とは違うものになっていることに俺は気づいていた。
耕輔君、と教室で早織に初めて呼ばれたとき、俺は動けなかった。あまりのさりげなさにうまく受け止められなくて、耕輔君ってば、ともう一度呼ばれて俺は、なに、と反応することができた。早織はさりげなく名前で呼んでいたけど、少しだけ頬が赤く染まっていた。嬉しいやら恥ずかしいやら感動やらが一気に押し寄せてきて、なぜか俺は泣きそうになった。約束をしたわけでもないし俺が頼んだわけでもなかったけど、いつの間にか早織は俺が部活を終えるまで待っていてくれて一緒に帰るようになった。
その帰り道、早織はよく楽しそうに色んなことを口にした。
「中間テスト終わったら水族館に行こうよ、名古屋にあるあのなんとかっていう水族館。なんだったっけ、忘れちゃったけど有名なヤツ!それからプラネタリウムも!あれは人気でチケットなくなっちゃうから早く行って並ばないとね、あ、並ぶの苦手?大丈夫、その間話してたらあっという間だから、それで夜はテレビ塔に登って夜景見たいなあ」
早織が俺に向ける優しい目も、耕輔君、と呼ぶ柔らかい声も、言葉にしなくても仕草や行動で早織は手を伸ばしてくれていて、あとは、俺が早織の手を掴むだけだった。
でも、その頃から俺は早織のように手を伸ばせなくなっていた。早織のせいじゃない。
本当に俺の問題だった。俺の、というかバスケ部の。先輩が引退してから表面化したバスケ部内の人間関係で俺の心は少しずつ削られていって、この頃にはもう余裕なんてなくなっていた。早織は教室でも体育館でもそんな俺の様子に気づいて、力になりたいと思ってくれていたのだろうと思う。何度も「大丈夫?私になにかできることない?」と言ってくれていた。その度に俺は無理に明るい顔をして「大丈夫だって」と返した。
早織にはいつでも頼りになるヤツだって思っていてほしくて、こんな、弱い姿を見せたくなかった。
でも夏休み最終日の部活で問題があった翌日、つまりは二学期の初日に早織はいつものように心配そうな顔して「耕輔君。何があったの?」と訊いてきて、いつものように俺は返すけど、部活に行かずに帰ろうとする俺に早織がいつも以上に踏み込んできた。
「本当はヤバいんじゃないの?私、心配なの。ねえ耕輔君」
たぶん、これが弾みになった。
「早織には話したくない。もう、俺には構わないでくれ」
俺は、早織を拒絶するようにそう言ってしまった。言うつもりなんかなくて、早織を傷つけるつもりでもなかった。でも紛れもなく、このときの俺の本心だった。
パリン、とガラスが割れたように、早織が傷ついた表情をしたのがわかった。そんな顔を見ていられなくて俺は教室を出た。頭の中では絶えず傷つけたときの早織の表情が浮かんでいた。消しても消してもすぐに浮かんできて、こんなときに限って、初めて目が合った時の早織の姿が目の奥で透けるように浮かび上がってくる。俺はその度にそんな早織を黒く塗りつぶして、必死に消して、やがて早織を避けるようになった。早織も俺に話しかけることはなくなり、視線が合うこともなくなった。
それからしばらく時間が経って、今では高校最後の雁峰祭を迎えようとしている。
ちゃんと、黒く塗りつぶして、もう全て忘れたはずだった。
何度も消して、黒く塗りつぶしたはずなのに、それでも初めて目が合った時の早織は透けるように浮かんできて、いつまで経っても消えてはくれない。
「いよいよだー!」
真城地域文化広場へ向かう道中、突然、総一郎が気合の入った声を出す。それまで黙ったまま歩いていたから俺はビックリしてしまう。もう一時間もしたら歌うんだもんなー、と本番までの残り時間を明確に言葉にするから鉛のように重たい心がさらに反応する。
「もうここまで来たら、ネガっててもしょうがないよなあ。やるしかねえって」
達也も自らを奮い立たせるようにそう言うと、な、光太、と光太の背中を叩く。痛ってえな、と光太は睨むように達也を見ながら、まだ最高に盛り上がってモテる可能性がなくなったわけじゃねえしな、いっちょかましてやりますかあっ、と光太が声を張り上げた。
「ちょっバカっ。声でけーから!」
「前の女子達がクスクス笑ってるじゃねーか!」
総一郎と達也が光太の頭をぱん、と叩いた。そう言いながら、二人とも満更でもなさそうな顔をしているからやっぱ女子に注目されるのが嬉しいんだろうなって思う。俺も本当は二人みたいな顔できるはずなんだけどな。どうもそんな気分にはなれない。
俺は本番が近づいてきている中で無理にテンションを上げようとしている三人を後ろから眺める。今も、ぎゃあぎゃあ、と騒がしい。マジでうるさい。でも、それを見て思う。
まだ俺がバスケ部で沢北や今井達とも仲が良かった頃、練習試合や公式戦の直前でこんな光景を見たことがある。こういうときに騒ぐのは決まって沢北で、試合に集中するために黙っている俺や今井にちょっかいをかけてくる。煩わしそうに沢北を振り払いながらも結局、俺や今井は沢北の相手をしてしまって、そのまま集中できてないまま試合を迎えてしまうのだ。
こんな調子だから俺や今井は最初、試合に飲まれることが多くて、沢北一人だけが緊張せずにいつも通りのプレーをする。味方にパスを出さずに一人で攻めようと、
「耕輔?」
総一郎の声で俺は、ハッと意識が戻ってくる。
見ると、総一郎も達也も光太も心配そうに俺を見ている。三人の顔を見て、緊張した空気をなんとかしようと騒いでいたわけではないことに、改めて気づかされる。今朝からずっと元気のない俺に気遣ってこうやって騒いで。だから自分の情けなさにイライラして、また心が重たくなる。
「大丈夫か?」
さっきまでの騒がしさなんて一切感じさせない落ち着いた声で総一郎が俺に問いかけた。
何度か小さく頷いて、うん、と俺は言った。すると、三人は安心したように前を向いて進みだす。俺も一歩遅れてついていく。そしてまた、ぎゃあぎゃあ、と騒ぎだした。
広場への道のりには真城高校の生徒の列ができていて、俺の前後にも同じ制服を着た男女が歩いている。そうして色んなところに目を向けて、俺の歩く少し先に沢北の姿を見つけてしまった。
沢北は同じクラスの奴らと楽しそうに騒いでいる。あの頃と変わらず周りの男子にちょっかいをかけて、追いかけたり追いかけられたり。たまに道路に飛び出してぶつかりそうになった車にクラクションを鳴らされて、お前のせいだぞっ、だなんて言いながらゲラゲラと笑っている。ちゃんと楽しんでる、ように見える。
ずき、と突然、心が重たくなるのを感じた。アイツが仲間を追いかけようと走ったりしているときに目に入ってしまった。沢北はバッシュを履いていた。部活が始まる前や終わった後にいつも汚れや傷がないか確かめるくらい大切に履いていた、あのバッシュを。
──このエア・ジョーダン二万したんだぜー?カッコよくね?ぜってえ踏むなよ。
俺が辞めた少しあとに、沢北もバスケ部を辞めたと聞いた。
俺はめんどくさいと感じていた朝練も待ち遠しそうに一番に参加して、腕や足に黒いサポーターをつけて、二万もするバッシュを自分の体の一部みたいに大切に扱っていたアイツが、バッシュを外で履いている。砂利でバッシュが擦れたりするのも構うことなく、走り回っている。
また、ずしん、と心が重たくなる。見ていられなくて、沢北の、もっと先に目を向ける。
距離は離れているけど沢北のずっと先には、今井含めバスケ部の奴らがの姿が見える。
クラスは違うはずだけど、こういうときでも一緒に行動している。部活を引退した今でもだ。バスケ部のヤツらは騒ぐほどではないけど、それでも楽しそうに話している。あいつらもこの雁峰祭をちゃんと楽しんでいるのか。なんて、そんなん当たり前か。
「ちょ、待てよ!」
騒いでいた総一郎が光太を追いかけ始めた。爆笑しながら光太は総一郎から逃げて、ずんずんと進んでいく。達也も二人を追いかけようとして、あ、と思わず俺は声が出た。達也、と俺は呼び止める。なに、と笑顔で達也が振り返る。
俺は立ち止まって、とっさにしゃがんだ。ドクドク、と心臓が暴れ出している。
「…靴ひもほどけたから先に行っててくれ」
一拍して、達也は、わかった、すぐ来いよー、と言って二人を追いかけた。ドクドク。
俺はちら、と顔を上げる。
光太と総一郎が、沢北に追いつきそうになって、俺はすぐに顔を伏せる。解けてもいない靴ひもを解いて、結び始める。ゆっくりと、たまに上手く結べなかったような雰囲気を出して、また結ぶ。
まだ心臓が暴れていて、落ち着かない。
そんなことをしても頭の中では楽しそうにクラスの奴らと騒いでいる沢北だったり、その沢北があのバッシュを外で履いていることだったり、バスケ部のヤツらの姿だったりが頭から離れない。
あいつらはこの雁峰祭を楽しんでいた。周りの奴らと普通に話して騒いで笑って。
なのに、俺だけこんなにどんどん心が重たくなっていって、楽しめなくて、
──太田、辞めないでくれ。
わざわざ俺の家まで追いかけてきて、涙を流して、そう言った沢北の声も、
──辞めるほど悩んでたんだったら、相談してほしかったよ。
今井が俺に送ってきたメールも、いつの間にか俺の体の中で毒に変わって全身を駆け巡り続けている。その毒が、お前は楽しんではいけない、と包み込むように俺に囁いてくる。
体の至るところで汗をかく。嫌な汗で、ひどく気持ち悪い。
靴ひもを結ぶ俺の横をたくさんの生徒が通り過ぎる。足音と、たくさんの笑い声。呑気にだらだらと話して、楽しそうに笑う声が至るところから飛び交って空中で飛び跳ねる。前からも後ろからもそんな声に囲まれて、俺は泣きそうになる。
全身を巡り続ける毒が俺から表情を奪って、心を鉛に変えてしまう。
いったいいつまでだ。いったいいつまで、俺はこんなに。
こんなに苦しまないといけないんだろう。
そんなに努力をしなくてもバスケが上手かった。
続けていた理由はそれだけだった。
ミニバスからやってる奴は周りに何人もいたけど中学の頃から始めて当たり前のようにレギュラーで、キャプテンなんか任されちゃったりして、そしてチームで一番バスケができたのが俺だった。
運動神経もよかったし、監督の指示なんていまいち理解できてなくても、なんとなくやってれば正しいプレーができたし、逆になんでみんなこんなことすらできないんだろう、と俺はいつも不思議に思っていた。
俺よりは下手だったけど、このときから沢北は誰よりもやる気があって向上心があったように思う、いつもベンチだったけど。努力が実ったのか、最後の大会にはやっとレギュラーに決まり、涙をにじませながら喜んでいたのをよく覚えている。
中学を卒業して、たまたま沢北と同じ真城高校に進むことになって、俺も沢北もバスケ部に入った。沢北はいつも元気で練習中は全力でプレーしていたし、すぐに先輩達に気に入られていた。俺は普通にやって、そこそこ楽しければいいやと思っていた。でも、早織がバレー部だってことを知ってから俺はいい加減な気持ちではいられなくなってしまった。
隣のコートにいる彼女に少しでもかっこいい姿を見せたくて、俺は沢北に負けないくらい全力でやっていたし、声だって人一倍出した。
入部してすぐにこの中で一番上手いのは俺だなってすぐにわかった。たぶん、先輩達もわかっていたと思う。
だから、入ってすぐに行われた公式戦でも俺は一年ながらレギュラーで、一回戦で負けてしまったけど両チームで一番活躍したのも俺で、この試合で引退が決まった三年の先輩達には、これからのバスケ部を頼むぞ、なんて期待を込めるように言われたりもした。
一年でレギュラーどころかベンチに入ったのは俺だけで、沢北やバスケ部に入ってから知り合った今井など他の一年生は皆、観客席から応援していた。
二年生が主体の新体制になって、沢北はさらにやる気を出していった。練習が終わっても帰ったりせずにひたすら自主練に励んでいたし、俺はあまり行かなかったけど朝練だって毎日顔を出していた。俺はいつも沢北と一緒に帰っていて、電車の中でよく、俺もレギュラーになりてえ、とか、絶対に県大会に出ような、とか、最近ストリートバスケのテクニック動画見ててさーシャムゴッドっていう技を練習中で、とか沢北の口から出てくる言葉はいつもバスケに関わることだった。
部活中、俺は全力でやっていたから、沢北は俺のことをやる気があるヤツって思っていたと思う。俺は沢北が言うことに、うんうん、いいじゃん、と言っていた。そのたびに沢北は、
「だろ?太田ならわかってくれると思ってた」
と笑った。
でも、俺はいつも沢北と同じようには笑えなかった。
本当は、そんな純粋な気持ちでやっていたわけじゃない。俺は沢北みたいにバスケが好きで好きでたまらない、なんて気持ちでバスケをやってきたわけじゃない。いま手にしている時間全てをバスケ注
ぎ込むなんてこと、俺にはどうしてもできなかった。
でも、バスケ部が楽しくなかったわけじゃない。バスケは上手くなくても先輩達は人間的に面白い人達ばっかりで、俺達のことをよく可愛がってくれていた。部内にも活気があって、沢北も他のみんなとふざけ合っていたのをよく見た。
先輩達がいる間はよかった。強いチームではなかったけど、そこそこ楽しかったし、これなら最後までやっていけると勝手に俺は思っていた。
でも先輩達が引退し、沢北がキャプテンになって、少しずつ何かが変わり始めた。いや、本当は先輩達がいたときから不穏な空気のようなものは確かにあった。
誰よりもやる気があって全ての時間をバスケに費やしていた沢北と、なんとなくバスケ部に入って楽しければなんでもいいやって考えだった今井を筆頭に他の部員達。そこに温度差があったことに俺も先輩達も気づいていた。気づいていて、それが表面化しないように覆い隠して、先輩達はそのまま引退してしまった。
沢北がキャプテンになってから、練習はさらに厳しいものになっていった。朝練は全員強制になり、徹底的に走りこむようなメニューが練習の大半を占めるようになって、先輩と俺が隠してきたものがついに表面化してしまった。
勝つための練習をしようとする沢北に他の部員達は不満を示すように体育館の空気はピリピリとしたものになっていった。一日一日と過ぎるごとにその空気が伝染するように他の部員にも広がっていって、先輩達がいたころに見た二人がふざけ合った姿もいつの間にか見なくなって、部活中に目を合わせることも話すこともなくなっていった。
そうした空気に沢北も気づいていて、帰り道、胸の内にある不安をよく俺に話した。
「なあ、俺がやってることって間違ってるのかな」
このとき俺が言えていたらよかったのかもしれない。
でも、俺は言えなかった。
同じ熱量でバスケをしていなかったけど、沢北は中学からの友達で、いつも近くで一歩一歩小さな成長を重ねていく姿を見て羨ましかったのかもしれない。ただ純粋にバスケがしたくてやっていることに。俺はそうじゃないけれど、沢北は間違ったことをしているわけでもないし、むしろその努力は称えられるべきなんじゃないかと思っていた。
だから俺は、間違ってない、お前のやりたい通りにやれば、と安易な優しさを出してしまった。
そうだよな、間違ってないよな、と沢北が次の日から練習をより厳しいものにしていくのも知らずに。
チームを強くするために、練習を厳しくする。
それだけならまだそこまで不満はたまらなかったのかもしれない。それだけでなく、沢北は自分のプレーを高めることに努めていた。よく言えば一人の選手としてレベルアップしたかったとも言えるし、悪く言えば自己中心的なプレーが多かった。たぶん私立の全国目指している高校とかだったらそれが普通なんだろうと思う。でも、この高校ではそんな高い意識でバスケしているヤツがいなかっ
たから沢北のプレーは自己中心的なプレーと見られていたし、理解してくれるヤツなんていなかった。練習中の紅白戦や練習試合、公式戦と、沢北はそうしたプレーを続けたことで、他の部員達のイライラは高まり、今井を筆頭にほとんどの部員が不満を示していた。
部員達と、孤立した沢北の間に立ち続けて俺の心はガリガリと削られていった。
練習のたびに不穏な空気になるバスケ部の様子に、隣のコートにいるバレー部もステージ上にいる劇部も気づいていて、チラチラと俺達の様子を伺っていて、その中に早織がいた。
かつては俺が早織の方をよく見ていたけど、このときにはもう早織の方を見る余裕なんてなくて、こんな状況だし、情けなくて早織を見れなかった。
そうしてピリピリとした空気の練習の日々を過ごして、俺の心はか細い糸でかろうじて繋がっているような状態で、それでもなんとか顔に笑顔を張り付けて夏休みの最終日の練習を迎えた。この日の俺もイライラしている沢北をなだめて、数人で固まって練習せずに喋ってばかりいる今井達をやんわり練習に戻るように促して、もうずっと、穏やかじゃない空気に胃がキリキリと痛んで、心もガリガリと削られて、でも視界の隅に早織の姿が見えて、弱い自分を見せられなくて、顔にも出さないようにして。
そうして練習の最後に行われる紅白戦の時間になった。
俺や沢北、今井を含めたスタメン対控え組に分かれて行われたこの紅白戦、合計で二試合分やったと思う。
この間、沢北にボールは回ってこなかった。
正確に言えば、沢北にパスを出していたのは俺だけで俺以外に沢北にパスを出したヤツはいなかった。でも沢北にパスを出すと、視界の隅にいる他の部員からもかすかに舌打ちが聞こえて胃がキリキリと痛んだ。
最初は誰にでもパスを激しく要求していた沢北だったけど、最後にはとても静かになって、しまいには何もせずにコートの中を走っているだけになっていた。
紅白戦が終わっても沢北は何も言わなかった。わざとらしい今井達の大きな笑い声が聞こえる、穏やかでない空気の中で、何かを堪えるような顔して、俺帰るわ、と俺にだけ言って、沢北は体育館を出ていった。沢北が出ていくと、大声で笑っていた今井達の表情がスッと消えて、沢北への不満を言葉にしてそこに黒い感情を乗せてコートにまき散らした。
「アイツさーマジで空気読めてないよなー」
「孤立してんのも自己チューなのが原因じゃん」
「そんなにバスケしたいならどっかの私立にでも行けばよかったのに」
「ここ公立だよーって誰か言ってやれって多分わかってないからアイツ」
「てかさっきの見た?速攻の場面なのにアイツいきなりスリー打ち始めてさ、マジで頭おかしいと思ったわ」
コートに巻き散らかされる不満の言葉の数々に、沢北をそんな状態にした俺にも言われている気がして心が縮こまった。でも心が小さく縮こまって擦り切れそうでも、俺は早織に情けない姿を見せるわけにもいかなかった。
固くなった身体に力を入れて、余裕のない頬を無理やり上げて笑顔を張り付けて、まだコートに不満の言葉を巻き散らかす今井達に、まあまあ、と俺は割って入った。張り詰めた空気が割れないように、そおっと。
「お前さあっ!」
突然、体育館中に響き渡るような刺々しい声が聞こえて、この場にいる全員も身体を硬くした。声の主は不満派筆頭の今井だった。練習をしていたバレー部もステージ上で稽古中の演劇部の動きも止まって、体育館が静かになった。空気がずっしりと重たかった。
今井はそれまで向けたことのない刺すような目で俺を見る。
「いっつもアイツをかばうよな、お前」
そう吐き捨てるように言ってガン、と乱暴に引き戸を閉めて体育館を出ていった。
今井が出ていったあとも、体育館は静かで、重々しかった。
みぞうちに思いっきり入ったかのような重い一撃で、しばらく俺は息ができなかった。
吐き捨てられて、手が震えて、吸い込む息は震えて、か細い糸で繋がっているだけの心が震えて、どこを見たらいいのかわからなくて、コートの外に目を向けて、早織と、目が合ってしまった。
眉毛を下げ傷ついた表情の早織と。
目が合って、辛そうに目を細めて、でもずっと俺から目を逸らさなくて、俺も逸らせなくて。
ぷちん、と、体の中で張り詰めた何かが切れたような感覚がした。そして、目の前が真っ暗になるような絶望的な気持ちで早織に、見ないでほしい、と、強く思った。
次の日から、俺は部活に行かなくなった。顧問の先生には辞めます、とだけ言って、そのまま家に帰った。今日は帰ってくるの早いね、と母さんは驚いたように言ったけど、俺は適当に誤魔化した。でも数日で嘘はバレて、俺はなぜ部活に行かなくなったのか、その理由を話した。母さんは俺の言い分を良しとせずに、部活に行くよう強く言った。
俺は頑なに、行かない、と主張して毎日口論した。
そして母さんはいつも最後にこう言うのだ。
「ここで逃げたら、そのあとも何かあるたびに逃げるような人間になるんだよ?」
そんな真っ当で息も出来なくなるような言葉を使わなくてもいいだろ、なんでわかってくれないんだよ、と思いながら、そう言われるたびに何も言い返せなくて、テストで訊かれたら百点の答えだろうけど、なんでわかってくんないのかなって、やっぱイライラして。
家に帰っても心は休まらなくて、余裕なんてなくて、自分は悪くない、と思うことで自分の心を守った。もう全てを捨てないといけなかった。捨てないともう持たなかった。
そして数日が過ぎ、家にいても母さんと口論になるから、俺はあてもなく外をうろついていると、自転車に乗った沢北が俺を追いかけてきた。俺の目の前に来た時から、沢北は大粒の涙を流していた。みっともなく、でも構うことなく、沢北は泣き続けていた。
「太田、やめないでくれ」
泣きながら、涙声で必死に俺に懇願した。そんな沢北の姿に、俺も抗いがたい罪悪感を感じた。沢北をこんな状態にした原因が俺だったから。
でも、もう嫌で、嫌で嫌で、嫌で嫌で嫌で嫌で、俺は、沢北を拒絶した。
頭を真っ白にして、無理だって、諦めてくれって、と何度も涙声で食い下がってくる沢北の顔を見ずにやっと払いのけた。
もう全てが嫌だった。バスケに全てを捧げる沢北も、楽しめればいいやって考えだった他の部員達も、その間に入ってバランスをとることも、心配そうに俺を見ている早織も、早織に頼りになる男だと思われたかった俺も、沢北にも今井にもケンカになることが怖くて言いたいことも言えない俺も。
全てが嫌だった。
顧問が用意した退部届を提出して、あっけなく俺はバスケ部を辞めた。そして下校時、電車に乗っていると俺の携帯に一つのメッセージが届いた。思いがけない名前が画面に表示されて、俺は身体が固まった。
表示されたのは、今井の名前だった。
今井に吐き捨てられた言葉がふいに浮かんで、なかなかメッセージを開くことができなかったけど電車が最寄り駅に到着したタイミングで、勇気を出して俺はメッセージを開いた。
『辞めるほど悩んでたんだったら、相談してほしかったよ』
書いてあったのはこれだけだった。それを読んで軋むくらい携帯を強く握りしめていた。
ふざけんな。誰のせいでこうなったと思ってんだ。
そう思って怒りに震えてイライラしてそう返してやろうかと思って、もっと今井を傷つけるようなことでも書いてやろうと思ったけど、すぐに冷静になって俺は返信しなかった。
違う違う。そうじゃない。
本当はそうじゃない、そうじゃないんだ。
怖かった。怖かったんだ。ずっとそのことを悟られてしまうことが。
だから自分自身も騙して。沢北に、俺がやってることって間違ってるのかな、って訊かれたときだって、部活中、自分勝手な振る舞いをしていた部員達にだって、俺はちゃんと言ってやらないといけなかった。笑って誤魔化すでもなく、優しい言葉をかけて誤魔化すでもなく。
でも、俺は怖かった。ちゃんと言ってしまったあと、沢北や今井達と気まずくなったり、険悪な空
気になってしまうことが。いくら目立つグループにいても、いくら運動が出来ても、こんなことで怯えている自分を誰にも、俺自身にだって、どうしても見られたくなかった。
こうして沢北から逃げて、バスケ部から逃げて、早織から逃げて、俺は体が軽くなるのを感じた。やっと体の奥深くから息が吸えると思った。ただ部活を辞めた直後から学校に行くと、よくわからない体の硬さを感じて教室から廊下から見えるもの聞こえるもの全てがなぜか怖くなった。
五感から入ってくる情報に頭の処理が追いつかなくて、制服を着ていてもなぜか心は裸丸出しのような状態で落ち着かなくて、手先が震えた。だからイヤホンで耳をふさいで、机に突っ伏してないと動悸を抑えられなかった。
時間が経って冷静に物事を見ることができるようになって、俺はみんなのいる道から外れているんだ、と今更のように気づいた。逃げてしまった、という気持ちが毎日少しずつ、一グラムとか一デシグラムとか、ホントに少しずつ重たくなっていった。
──ここで逃げたら、そのあとも何かあるたびに逃げるような人間になるんだよ?
このときになって、母さんが言った言葉がずっしりと心に染みた。染みたその言葉は、心の中で飛び跳ねて、ずっとずっと痛くて、本当にその通りだ、と思った。
バスケ部を辞めてから、秋が来て冬が来て春が来て夏が来て、一年の時が過ぎた。
色んなことから逃げてしまった罪悪感はいつしか抱えきれないほどの重さになっていて、あの日からもう一歩も、たった一歩だって、俺は前に進めなくなっていた。
「夏休み前から進めてきた準備、皆さんお疲れ様でした。ですがこれで終わりではありません。一年生にとっては初めての、三年生にとっては最後の雁峰祭が始まります」
バクバク、と身体の内側がうるさい。うるさくて、俺の心をガリガリと削っていく。
「これからの三日間が皆さんにとって素敵な青春の一ページになることを心から祈っています。全校生徒が全員で楽しみ、まとまりを持って素晴らしい三日間にしましょう」
ステージの中央に立つ、雁峰祭実行委員長が緊張した様子でマイク越しに話している。
バクバクと暴れる心臓がいつもの位置を見失ったような、不安定な感覚に陥る。
「ではこれより第四十回、真城高校雁峰祭、開会を宣言いたします」
しっかりとした声でそう言い切って、実行委員長は俺達が控えているステージの右手袖
に下がってきた。そして、ふう、とホッとした表情を見せる。
『続きまして、校長、挨拶』
スピーカー越しにアナウンスがかかり、袖から校長がステージに向かって進んでいく。
心臓がもう俺の手に負えないくらい激しく動いている。
もうすぐ始まってしまう。始まってしまうのか。
心臓の音が耳の内側でバクバク、とうるさい。うるさいうるさい。もう暴れないでくれ。
ぶちぶち、と音を立てて心が千切れていく。
「やっべーな」
ステージ袖から実行委員長の開会宣言を聞いていた総一郎が小声で言った。え、もう出番?と達也がテンパった様子を見せ、校長と生徒会長の赤木の挨拶が終わってからだって、と光太が言った。
もうすでに俺たちの手には一つずつマイクが渡されている。
ステージの反対側の袖には吹奏楽部の面々が控えているのが見える。袖から、つい客席を見てしまう。薄暗くて見づらいけど、前の方に座っている生徒の顔は見える。
客席は前から三年生、二年生、一年生の順番になっている。さらに左から一組、二組、三組と組ごとに固まっているはずだ。だから、この前方の席のどこかに、沢北や今井がいるんだ。もしここからアイツらの姿が見えてしまったら、俺はどうなってしまうのだろう。
いや、いまそのことを考えちゃダメだ。そうしたら俺は動けなくなる。客席に目が引っ張られそうになるのをなんとかこらえて、目を閉じる。
はあ、はあ、と息が荒い。
落ち着けって。息が荒くなっているのはわかるけど、鼓膜のあたりがバグってて、くぐもって聞こえる。ステージの真ん中で話す校長の話も耳の中に入ってこない。
でも、もうすぐ出番だってことだけが、強く、強く胸に迫ってくる。
落ち着け。落ち着けって。
こんなことなら引き受けなければよかった。こっち側じゃなく、客席に座っているだけならどれだけ楽だっただろう。これ以上、情けない姿を早織に見せたくなんかないのに。
ぐら、となんとか踏ん張っていた心が崩れるように弱気になって、目を開けて客席に三組の集団がいるのを見つけてしまった。
その中にいる早織の姿も。いや、早織の姿だけが、しっかりと目に入り込んだ。
『最後に、生徒会長、挨拶』
早織は、不安そうな顔で胸の前で祈るように手を組んでいた。
ぷつん。突然、体の中で張り詰めていたなにかが切れた。
「…わりい。俺、トイレ」
するすると総一郎達の脇を抜けて、俺は舞台裏に繋がる扉に向かう。俺の背中に、おい、とか、もう始まるぞ、とか焦ったような声が飛んでくる。あたかも腹痛が急に来た、みたいな顔をして、手で腹を抑えて辛そうにしろ。下を向け。早足でここを出ろ。本当に腹が痛いんだって思え。痛くなれ。そうやって思い込む。
そう思い込もうとしている頭のどこかで、止まれ、と抗う自分がいる。
ほんとはそれがいい。んなことはわかってる。それを選ばないといけないってわかってる。わかってんだって。でも、もう抗うな。頼むから。
いまはそんな声もうるさい。もう、逃げようとする自分も、それに抗おうとする自分も、腹が痛いって思い込もうとしている自分も、全部ひっくるめて、もうここから去ってしまいたい。投げ出してしまいたい。
扉を開けて関係者用通路に出て、トイレに向かって進む。そのまま個室に入って全てに目をつぶって耳を塞いでいれば終わるんだ。全て終わる。そして、俺はようやく楽に、
「どこ行くんだよ」
突然、聞こえた声がトイレに向かう俺の足を止めた。その声は俺の行く先から聞こえた。
顔を上げると、曲がり角のちょうど手前の壁に将生がもたれかかっていた。
「トイレに。腹痛くてさ」
顔を下げて苦しそうな顔のまま、俺は言う。すると、嘘だろ、とすぐに将生が返してくる。ほんとだって、ともっと苦しそうな顔をして、イラついたように俺は歩き出して将生の脇を抜ける。
もう一秒だってここに立ち止まっていたくなかった。足の回転が速くなっていく。ぐんぐん、と動く。まるで、足だけが俺のものではないみたいに。
「…また逃げんのか」
真っすぐ、飛んできた言葉が矢のように俺の背中に刺さった。一瞬でとても深く、俺の根っこまで。気が付くと、俺はまたしても立ち止まってしまっていた。
「また?」
なんとか将生の言葉に反論するように絞り出せたのはこれだけだ。
ああ、と将生が返事をする。今までに訊いたことのないくらい低くて、乾いた声だった。
「バスケ部からも早織からも逃げて、またここでも逃げるのかって言ってんだよ」
その言葉が背中にぶつかった瞬間、全身から冷や汗がどっと噴き出た。
全てを投げ捨ててしまったあのときから、いまだに心の収めどころが見つかっていないことを言葉にされて、俺の心がぐちゃぐちゃに動揺している。
「ここで逃げたら、もう戻ってこれなくなるぞ。バスケ部を辞めたときでさえ何も言わずに落ち着く場所をくれた三人を裏切って、お前は居場所を失うんだぞ」
総一郎も達也も光太も、俺がバスケ部を辞めたときのことは何も訊かなかった。いつも通りに接してくれて、いつもみたいにバカ話しかしなかった。今日だって、自分たちだって不安だっただろうに、それでも俺のことを気にかけてくれていたのが手に取るようにわかった。雰囲気が悪くならないように無理してでも盛り上げたり、たまに感じる三人が俺に向ける心配そうな視線だったり。
俺はわかっていた。わかっていて、それに甘えて、それでいて三人のやさしさに気が付いていないフリをしていた。
こっち向けよ、と将生がそう言った。
俺は振り向けない。振り向いたらもうここから去る理由を見つけられない気がしたから。
「こっち向けって」
もう一度、低くて、乾いた声が強く背中に刺さる。
「…背中向けて、いつでも逃げられる体勢してないで、こっち向けよ」
将生は俺の思っていることをすべて言葉にして、俺が逃げられないようにしていく。
なんとか暴れている心臓を落ち着かせるように深呼吸する。情けなくなっている顔に力を入れて、諦めるように俺はゆっくりと振り返って、
「あっ」
と、情けない声が口から漏れた。
声が俺の意思に反して外に飛び出てしまった。
振り返った先には将生がいてその後ろに、総一郎、達也、光太の三人の姿があった。
横並びで、眉を寄せて、ジッと俺を見て。
今の将生とのやりとり、聞かれていたのか。いや三人の表情でわかる。三人とも聞いていたんだ。どんな顔をしていいのかわからない。頬が痙攣して、今にも内側にあるなにかが崩れそうだ。
ああ、動けない。三人の視線が手先から足先までがっしりと掴んで離してくれない。その六つの目から放たれる視線の強さに耐えきれなくなって、俺はなんとか視線を逸らして床をじっと見る。
三人に、将生に視線が引っ張られてしまいそうになるけど、じっと床を見る。首を固定して、じっと見る。これ以上ないくらい情けない姿を晒した後だっていうのにと思う。情けなくて、情けなくて、泣きそうになる。
はあ、と光太が大袈裟にため息をついて、
「泣きそうな顔してるな、お前」
いつもみたいに笑っているような気がした。
「…バスケ部を辞めたことだって、俺達にとっちゃどうでもよかったんだ。太田が話したいなら聞くし、話したくないなら別に聞かないし」
なんってことのない、というように聞こえる。
「確かにさ、あの曲、原曲キーじゃねえし、会場が白けるかもしれないけどさー」
それでも、と言って、すう、と息を吸って勢いよく言い切った。
「俺達、頑張って盛り上げるから!」
すぐに足音が聞こえて、どんどん遠くなって扉の向こうに消えていく。俺は顔を上げる。
光太はもういなくなっていた。総一郎も達也もいない。残されたのは俺と将生だけで、その将生も扉のそばまで歩くと取っ手を握った。
そしてそのままの体勢でしばらく動かない。でも何かを言うために考えていることは空気を通して伝わってくる。
「…多分ここが踏ん張り時なんだと思うぞ」
静かな声が聞こえてくる。
「本当に逃げ出したかったら逃げてもいいって、俺は思うよ。でも逃げることって借金をするのとかと同じでさ、いつか返さないといけないもんだとも思うんだ」
将生は難しそうに眉を寄せて、言葉を絞り出した。
「…耕輔にとって、それは今なんじゃねえかな」
きっと光太たちは待ってる、と将生は扉の向こうに消えて扉が閉じると、しん、と空気が静まった。心臓の音だけが耳の中で響いている。うまく頭が働かない。心臓が全身に血液を運ぶ音と振動だけが五感を支配している。
何があったんだっけ、いま。
視線を右に、左に、後ろに、前に向けてみて、もうここに誰もいないことを実感する。ここでようやく、脳がいまの状況を理解し始める。
一瞬だった。まるで嵐のように、今の出来事が過ぎ去っていった。
俺はジッと固まっていたから、いまになってようやく身体の緊張が解れて耳の辺りで留まっていた言葉の数々が頭の中に流れ出す。光太たちや将生が開けた扉の隙間からわずかに漏れ出したピン、と
張り詰めた会場の空気が今更のように俺のところまで伝わってくる。その空気の重さと冷たさに、俺は心臓がキュッと縮むような気がした。ああ、動けない。上から押しつぶされて地面に足がめり込んでいくように俺は動けない。
こんな重たくて、冷たい空気のする場所にお前らは普通に飛び込んでいったのか、俺を置いて。
置いて?
その言葉が口内炎に触れたときみたいにピリ、と痛んだ。
バカか、俺は。そうじゃない、だろ。置いていったわけじゃない。アイツらは直前になって逃げた俺を追いかけてくれて、情けない姿を見せている俺にいつもみたいに笑って話してくれて、このまま俺が逃げることも許してくれていた。
俺が一度手放してしまった居場所をまた手放さないようにしてくれていた。
──俺達、頑張って盛り上げるから!
耕輔の分まで、とあのとき言ってくれていた気がする。
そう言って、扉の向こうに飛び出していった。…なんだろう、これは。なんなんだろうな、この感覚は。ときどき浮かんだ、この感覚。太陽の光で照らされた真っすぐにどこまでも続く道、みんな当たり前のようにその上を歩いているのに、俺だけ、その道から外れて真っ暗な場所に立って一歩も動けない。なんでいま、こんなにも強くこの感覚が蘇るんだ。
『続いては、オープニングアクトとして吹奏楽部と一緒にDT卒業し隊の皆さんによるパフォーマンスです。ではどうぞー』
アナウンスが、ついに俺達の出番を告げた。
「どうもー!DT卒業し隊でーす!」
光太の、元気のいい声が聞こえた。どうもー、とさらに二つ声が重なる。総一郎と達也の声だ。聞こえてくるのは三人の声だけで、客席からの反応はここからだとわからない。
アイツらは今も真っすぐ、照らされた道の上を歩いている。今、この瞬間も。
止まっているのは俺だけ。
みんなが当たり前のように歩いている道から外れて、真っ暗な場所からそれを見て動けないでいる。逃げ続けている。なんだ、これ。なんなんだよ。なんでこんなにイライラして、なんでこんな自分にムカついてんだ?
ふつふつ、と煮えたぎった血液が身体中で跳ねて、その中から何かが飛び出した。
──多分ここが踏ん張り時なんだと思うぞ。
ピク、と鉛のようだった左太ももの筋肉に電気が走った、気がした。
──本当に逃げ出したかったら逃げてもいいって、俺は思うよ。でも逃げることって借金をするのとかと同じでさ、いつか返さないといけないもんだとも思うんだ。
ピク、ピク、と右太ももにも電気が走る。
──耕輔にとって、それは今なんじゃねえかな。
将生の言葉が今更のように身体中に流れ出す。電気のように、バチバチ、と動けなくなった身体の至るところに刺激を与えて、やっと足に力が入るようになる。
もう嫌なんだ。このまま暗い場所で動けないでいることが。当たり前のことを当たり前にできない自分が。ただの一歩も、たった一歩でさえ、前に進めていない現状が。
自分から道を外れて、全てを投げ出して、少しの平穏と小さな罪悪感が胸に宿って、やがて巨大なものに成長してしまった罪悪感に押しつぶされそうになって、怖くて、怯えて、動けなくて、情けなくて、どうしようもなくて。
本当は、まっすぐ歩きたかった。
当たり前にできていたことが当たり前でなくなって、またそれを当たり前にしていくことがこんなに難しいなんて、全てを投げ出したときには気づくことができなかった。
でももう逃げられない、違う。もう、逃げたくないんだ。立ち向かった先に何があるかなんてわからない。ひどい歌になって、客席から失笑が返ってきて、沢北や今井から悪意のこもった視線を向けられて、早織は俺のことなんて見ていないかもしれないけど、もう俺は逃げずに立ち向かって、光太や総一郎や達也と同じ場所にいたい。
逃げないことが当たり前になっていたころの自分をまた取り戻したい。
すっ、と一歩踏み出す。
この一歩は俺が思っていたよりもずっと簡単に踏み出せた。どんどん俺の両足は前に進んでいって、取っ手をしっかりと握って扉を開ける。スーッと冷たくて、重たい空気が、一瞬で俺を包み込んだ。
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。
身体中が硬直して、冷や汗が流れ出してくる。心臓が暴れ出して、どうにもならない。
「それでは今からあの大人気アイドルのヒット曲を歌いたいと思います!」
この空気を突き破るように、光太の声が真っすぐ耳に届いた。
──光太たちはきっと待ってる。
俺はステージに向かって進む。震えが止まらない足を一歩、一歩、前に突き出して進んでいく。
足音で気づいたのか、袖幕の内側、客席から見えないギリギリの位置で待機していた将生が振り返った。そしてステージ上にいる光太達もこっちに気づいて、ホッとしたような、ニヤついたような笑みを見せてくる。
将生と目が合って光太達と目が合って俺はなぜか泣き出しそうになってしまった。安心したのか、なんなのか。みっともねえなって思う。こんなカッコ悪いとこ見せたくないんだけど、そんな余裕すらいまの俺にはない。
ああ、今から沢北や今井の前で、早織の前であんなカッコ悪い歌を歌うのか。手が震える。
息が荒い。でも、もう逃げられない。やるしかない。てか、涙目になってるよな俺。
「すいません!メンバーの一人がお花を摘みに行っててようやく戻ってきたので、紹介します!四人目のメンバー、フラワー太田こと、太田耕輔です!」
光太がさらに気合の入ったような声で俺の紹介をする。ちょっ声、でけーから!
将生が俺をじっと見ている。少しだけ微笑んで、腕を組んで。
ステージはもうすぐそばだ。
真っ暗な場所から太陽の光に照らされた道に、俺は出ようとしている。
心のどこかで待ち望んでいた場所に、ようやく飛び出そうとしている。
将生の横を通りすぎるとき、ドン、と強く背中を叩かれた。そして、俺だけに聞こえるような小声で、でも力強く将生は言った。
「乗り越えろ!」
ついに、背後にいる吹奏楽部の演奏が始まった。どこかノスタルジックなメロディがゆっくりと流れて、練習で何度もやった振り付けどおりに身体が動き始める。
メロディでどんな曲かわかったのか、客席の女子達がきゃあ、と反応したのがわかる。
俺は前を向くことができずに、集中しているような顔して床を見つめ続ける。上から降り注ぐ照明が熱い。じりじり、と熱い熱い。
緊張していつもより身体が熱いから余計にそう思う。舞台の上が眩しいくらいに明るくて、余計に客席を真っ暗にする。でも、そっちに目を向けたらダメだ。あんなに暗くても目を向けてしまうと透けるように人の顔が見えてくるんだ。
頭の中で最初の歌詞を何度も何度も思い出す。イントロが終わり、バクバクと鳴る心臓に引っ張られないように気を付けて、俺と光太がAパートを歌い始める。
演奏の音程よりも一オクターブ下げて歌う。
瞬間、客席がざわ、とした気がした。
きゅ、と心臓が縮む。でも腹に力を入れて、踊りながらも光太に目を向けてなんとか歌い続ける。
光太も俺を見ていて、笑ったような顔で力強い目を俺に向けて歌っている。Aパートが終わり、Bパートに入る。総一郎と達也が歌い始めた。俺は振り付け通りに動きながら、やっぱり客席に目を向けることができない。
向けることはできないけど、客席の反応が良くないことははっきりとわかる。
あまり盛り上がっていない。暗闇から巨大な冷たい視線を感じる。きゅっと縮んだままの心臓が諦めたように何かを手放そうとしている。
やっぱ、ダメだ。
意識が遠のくような気がして、足に力が入らなくなっていく。
まだ最初のサビにも入っていない。あと五分くらいあるのに、こんな空気の中で歌い続けないといけないのか。
す、と突然、視界の隅から人影が前に出た気がした。俺は顔を上げる。
光太だ。
サビになったタイミングで、横一列で並んでいた中、一歩前に出たんだ。
一歩前に出た光太は突然、プロの歌手っぽく感情を込めるように熱唱し始めた。それを見て、客席がざわざわする。そのざわつきが俺の心臓を舐めるように包んで、ますます俺の声は小さくなる。
なにやってんだよ光太。なんで急にそんな、と光太の足が目に入って、俺はそこに釘付けになった。
震えている。光太の両足が。細かく震えている。
一歩後ろから眺めてわかる。よく見ると、マイクを持つ手も。それでも顔は笑顔で気持ちよさそうに歌い上げている。踊りながら、空いている左手は感情を表現するように自由に動く。
「客席!」
と、みんなを煽り始めた。すると客席からわーっとハンド部の面々がステージのすぐそばまで出てきて面白がるように光太に向かって、いいぞ!とか、光太ぐーん、と野太い声を出して盛り上がっている。光太はさらに調子に乗って、恍惚とした表情で歌い始めた。
ポツリ、ポツリ、と降り始めの雨のように客席の色んなところから、聞こえて、くる。
くす、くす、くす、くす。
笑い声。光太とハンド部の面々に触発されるように、客席にもその温度が広がっていく。光太がまた手を上下に振って客席を煽ると、くすくす、と笑い声が聞こえて前方の席に座る三年生を中心に、笑い声と笑顔が広がる。アイドル面すんなー!とか、こっち向いてー、と楽しそうなヤジと声援が聞こえてくる。
なんだよこれ。なんだよ光太。すげえ。お前すげえよ。
総一郎と達也が怯えたような表情を見せる俺を一瞥して、す、と一歩前に出た。そして光太と同じように熱唱し始める。二人とも、やっぱり足も手も震えている。
最初のサビが終わって間奏中、二人が所属していた剣道部や野球部の面々もステージそばまでやってきて、お前らカッコよくねえぞ!とか、そういちろー!とか、達也ちゃんと踊れよ!とヤジを飛ばしてくる。二人はそんな声に手を上げたり、うるせー!と笑いながら反応する。
さっきまでお通夜みたいに静かだったのに、いまじゃもう客席が笑いに包まれて、ちゃんと俺達のライブみたいになっている。
間奏が終わって、二番のAメロに入り、今度は総一郎と達也が歌い始める。踊りながら、ステージそばにいる部員達に向かって、手を振ったり、煽ったりして、また盛り上がる。
震えているのに、と思う。本当は怖いって思っているはずなのに、コイツらはこんなにも恐れずに前を見ている。俺と違って。
Bメロに入って、俺と光太が再び歌い出す。光太がまた熱く歌いながら、リズムに合わせながら手を頭の上で左右に振って、みんなもー!なんて声をかける。すると総一郎や達也もすぐに光太に続いてステージそばにいたハンド部や野球部や剣道部の面々だけでなく、客席も笑いながらリズムに合わせて一人、一人と手を左右に振ってくれてこの会場に全員が一体になっているような気がしてくる。
一体になった会場でただ一人、ちゃんと入り込めていない俺はその景色を外側から眺めている。
なんだよ、これ。
ステージの上にいるのに、眩しいくらいの照明の下にいるのに、やっと踏み出したはずなのに、なんでまだ真っ暗な場所にいるように感じるんだよ。このままじゃきっと、ダメだ。このまま何も変えないままじゃ、俺はこの真っ暗な場所からずっと出られない。
静かな会場、巨大な冷たい視線がぶつかっているはずなのに、す、と踏み出した光太。怯える表情を見せる俺に一瞥して、続くように一歩前に出た総一郎と達也。一瞬、俺に目を向けた二人はふっと柔らかく笑っていて、なのにとても力強い視線をしていた。
こんなときなのに、こんなときでも、背中をそっと押してくれるように俺は三人に助けられて、教えられている。
なら、三人に教えられた俺がいまやることは決まってんだろ。
ぽこぽこ、と体の中から泡のように沸いて出てくる。
踏み出せ、踏み出せ、踏み出せ!
二番のサビに入った。一歩、震えた足で踏み出して真っすぐ客席に目を向ける。
すると客席にいる生徒の顔が薄暗い中、透けるように見える。
怖え。足ががくがくと震える。マイクをちゃんと握ることが出来なくて手もやっぱ震えてる。怖え、怖えな、やっぱ。
あれ?
でも、ちゃんと前を向いて、歌えている、歌えてんじゃん、俺。客席にいる生徒の顔もちゃんと見ていられる。一つ一つの表情をじっくりと眺める余裕すらある。
なんだ、これ。
俺が恐れていたものって、こんなもんだったのか?
ふいに、沢北の顔が、今井の顔がバスケ部のヤツらの顔が浮かぶ。アイツらはいまどうしているだろうか。俺を見ているだろうか。ちゃんと盛り上がってくれているだろうか、なんて客席を見渡す。そして、すぐにその姿を見つける。みんな近くの奴らと話している。
俺のことは見ていない。でもその姿は、楽しそうだ。楽しそうに笑っている。
俺も遅れて客席に向かって、リズムよく手を左右に振ってみる。すると、それに気づいた光太や総一郎が、ボン、と身体をぶつけてくる。なにやら嬉しそうな顔して、何度もぶつかってくる。
けっこー痛えからやめろってそれ。
迷惑そうな顔を俺は作って二人に向けるけど、喜々としてさらにぶつかってくる。
マジで痛えからなそれ。
そう思いながら、手を左右に振り続けたまま、俺は客席を見る。客席にいる沢北や他のバスケ部員達を見る。
やっぱり俺のことを見ていない。でも、それでも楽しそうに笑っている。
なんだろう。ぽこぽこ、と心の底から浮かび上がってくる。
── 太田、辞めないでくれ。
あのときは受け止めきれなくて拒絶してしまったけど、
── 辞めるほど悩んでたんだったら、相談してほしかったよ。
今度は、ちゃんと話そう。話してみよう。
すとん。
なんだかずっと宙に浮いていた気持ちの納めどころが見つかった気がした。時間はかかるかもだけど。いまこうして気持ちが盛り上がって勢いがあるからそう思うだけかもしれないけど。すぐにはできないかもしれないけど。
うん、ちゃんと話してみよう、いつか、きっと必ず。
妙に落ち着いた心持ちのまま、そう思う。そう思えたのが不思議な感じでふわふわして、なんでこんな晴れやかなんだろうな。視線が、アイツらの視線が、気にならない。心が鉛のように重たくない。心の中にあった鉛は、きっと小さな泡みたいに分解されて、心から離れていった。
身体の中で流れていたドロ、と濁っていたものだって、いつの間にか身体の外で流れていった。
別にトイレになんて行ってはいないけど。
体の内側が妙に温かい。光に照らされている。照明の光なのかなんなのか、わからない
けど。でもきっと、あの感覚の中の、太陽に照らされた道の上に、今、俺は立っている。
太陽の光に照らされて、はっきりと心の中で浮かぶ。
彼女の顔が、煌々と浮かぶ。
── 耕輔君!
大サビ前のCメロに入った。
光太や総一郎が舞台のいろんなところに動いて、マイクを客席に向けて、一緒に歌うことを要求する。すると客席も応えるように一緒に歌ってくれる。
俺は歌いながら、振り付け通りに踊りながら探す。心の中で照らされるように浮かんでいる早織の姿を探す。探すなんて思いながら、早織がどこに座っているかなんてステージに立つ前からわかっている。ずっと存在を感じてたんだから。
見つけた。
不安そうな顔で、胸の前で祈るように手を組んでいるその姿を。さっき、袖幕から眺めた時と同じように。ずっと、そうしてくれていたのか。俺のために。
俺は早織を見つめる。
早織は驚いた表情を一瞬浮かべて、でも真っすぐに俺を見つめた。
早織、と心の中で呼ぶ。じわ、となにか熱いものが染み出てきた。なんだこれ。どんどん染み出てくる。もうずっと目も合っていなかったけど、やっと合わせることができた。
最後のサビに入った。
光太や総一郎や達也が客席を煽りに煽って最高の盛り上がりを見せる。客席のほとんどの視線は光太達に集中している。誰も俺を見ていない。
うん、それでもいい。大丈夫。
早織だけが、真っすぐ俺を見てくれている。
…ここから始めよう。
すーっ、と空気を吸い込んで、俺は腹の底から声を張り上げる。
と、隣にいた光太が驚いたようにビク、としたのがわかった。
まあ驚くよな。わりい光太。
これを最初の一歩にしよう。
もわもわ、と身体中に溜まった熱が外に漏れ出る。
早織、とまた心の中で呼ぶ。早織には伝えたいことがたくさんある、たくさんあるんだ。
沸騰したお湯のように色んな思いが次々と浮かんでしまって、どれから伝えていいのかわからない。
それでもこれを、小さくても、確かな一歩にするんだ。
がっしり、と両手でマイクを握りしめる。もう振り付け通りに踊ることなんか止めて、仁王立ちのように両足を広げて突き刺すように立って、早織を真っすぐに見つめて、叫ぶ。
他のヤツにはイタそうに見えたっていい、身体が太陽のように熱い、身体中から噴き出すように汗が出たって関係ない。歌が終わる最後の最後、その瞬間まで叫ぶんだ。
──耕輔君!
あのとき、背中に刺さった早織の声が、身体の中でずっとずっと響いている。
もう俺、逃げないから。早織の目を見つめて、ちゃんと向き合って、
…次こそは、早織の手を掴むから。
どうか、真っすぐ見つめた視線を通して、俺の感情を乗せた声が汗のかいた両手で握るマイクを通して、響いてくれ。早織に向かって、早織だけに向かってどうかどうか、
真っすぐに、響け。