第9話 立待月
一秒一秒がとてつもなく遅く感じられる。室内の換気扇の音、心臓の鼓動、息を飲む音、普段は気にしないようなごく小さな音すら耳につくほど無音で、無駄が一切感じられない緊張した空間。アイちゃんから突き出された手はゆっくりと僕に近づいていく。僕は、アイちゃんに生きてもらいたい。そのためなら……。
「ご主人様!私と一緒に逃げましょう!」
僕は、消されるだろう。社会に。ここで二人で逃げる選択肢を選ぶ僕を、社会は、いや、世界はきっと許さない。愚かな選択だというのはわかっている。だけど、僕は誓った。アイちゃんへの不滅の愛を。誓ったならばやらなくてはなるまい。これは、ダメ人間で、生きる意味すら無くした僕が最後まで守った唯一のものだ。それは、本当にちっぽけで、他人からみれば無駄だとすら思われるものだろう。だけど、これは僕の全てだ。アイちゃんと僕を出会わせてくれた原因だ。この、ちっぽけなプライドが愛が僕の命を繋ぎ止めてくれた。ここでアイちゃんを捨てれば、そのプライドや愛を捨て去ることになる。そこには僕の居場所は、いや、僕はきっといないだろう。
「ああ。一緒に逃げよう。アイちゃん」
僕とアイちゃんは家を飛び出した。行くあてなどない、食料もない、頼れる人も、自分たちを守る武器すらない。ただそこにあるのは、愛と意地だけ。僕たちは月の光すら届かない深い海の底に飛び込んで行った。
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アイちゃんと逃げてから4日が過ぎた。食料は途中途中で買ったり、盗んだり、恵んでもらったりしてなんとかもっている。寒さはそこまで辛くはない。暖かい服を着てきたし、雨が当たらないカッパのような服もちゃんと持ってきている。
約束の期間は過ぎた。これからは何が起こるかわからない。パニックを防ぐためにニュースでは報道されていないようだが、テロを防ぐためにも、WOP社は迅速に対応してくるだろう。さあ、ここからが勝負だ。
背後から吹き付ける一陣の風。先程からつけてきている一般市民A,B,Cのような格好をした男たち。目の前の道をまっすぐ進み、路地の角を曲がる。
「アイちゃん、走るよ」
コクリとアイちゃんがうなずく。路地の角を曲がったところで、一気に走り出す。みなぎる躍動感、高まる緊張感。背後からつけてきていた男たちは僕らに銃を向け、幾度も発砲をする。削れるコンクリートの音、割れるビンの音。銃弾が当たったパイプがガスを勢いよく噴射する。
「くそっ!」
熱い、痛い、苦しい。だけど止まれない。止まるわけにはいかない。勝算はある。後、数メートル先の道を曲がりさえすれば……!
鳴り止まない男たちの足音、止まらない銃弾たちの物を砕く音。そのうちの一発が身体に当たることもなく僕たちは道を曲がりきった。そこには大通り、メインストリートとも言っても良い、賑やかで盛況で騒がしい波が目の前にあった。目の前に広がる人口の大波。僕たちもその波の一員となり流れに沿って進んで行く。やがて、追っ手は僕たちを見失い、僕たちも追っ手を見失った。
やっとのことで身体を休められる場所につく。電波の届かないスポットで僕たちは腰を下ろし、はーと息を吐く。落ち着いて、アイちゃんのことを心配する余裕がやっとでてきて、大丈夫か?とアイちゃんに聞いてみる。返事はない。深い、深い沈黙が僕たちの前に横たわる。
沈黙を崩したのはアイちゃんの静かで、感情的な叫びだった。
「どうして記憶を消されなきゃいけないんですか?私は、ただご主人様を愛していただけなのに。嫌だ。消されたくない。無くしたくない。どうして……。どうして……!」
アイちゃんが僕に寄り縋る。僕は、手を背中に回し右手でアイの頭を僕の方に寄せる。
「消されないよ。大丈夫。僕が、君を守るよ」
「ご主人様……」
「信じられないかもしれない。それでも、僕はアイを守るよ。アイは僕が愛した唯一の“人”だ。誰にもこの愛は止めさせない。終わらせない」
「……ありがとう……ございます。その、頭、撫でてくれませんか?」
「わかった」
震えていた。ずっと。怖いだろう。辛いだろう。悲しいだろう。憎いだろう。その感情も全て僕が守る。守ってみせる。アンドロイドを愛するなんて有り得ないと人は言う。でも、僕から見ればアイは普通の女の子だ。こんなにも、か細くて、暖かい。アイの心がプログラムによって作られたものだったとしても、この愛は僕とアイが作ったものだ。誰にも邪魔はさせない。
怒り、悲しみ、愛しさ。様々な感情が僕の胸の中で渦巻き、心をさらにグチャグチャにしていく。情けない。アイにこんな思いをさせてしまうなんて。守りたい。アイをこんな世界から。愛したい。こんな世界だからこそ。
アイの頭を撫でた後、ギュッと抱きしめる。お互いに震えていた。それを隠しもせず、僕たちはお互いの震えが止まるまでずっと抱き合っていた。
ここが海底だとするならば、僕たちはさしずめ深海魚と言うところか。ダイバーたちは僕らを求め、海底まで潜っては僕たちを捕らえようとあれこれと工夫を凝らす。やがて諦めて海面に上昇したかと思えばまた海底に戻ってくる。僕は、海面に上がるダイバーたちの姿を見て、闇を見上げるだけとなってしまった僕自身を、ここまで深く潜ってしまった僕自身を深く悔やむ。背負いこんだ錨はあまりにも重くて、捨ててしまいたくなる。だけど、それはできない。この錨は僕の人生そのもので、これをなくしたら一生海面に浮上することはできない。だから、大切に大切に背負いこんで、海面を目指して僕は、僕たちは上がっていくんだ。一人では重くても二人ならば重さは半分になる。二人で錨を背負いこんで月を見るんだ。
海底へと沈み込んでしまった深海魚からは月を見ることはできない。今宵の月は、どんな月なのだろうか。それを知る者はここには居らず、ほんの少し差し込む灯を見て深海魚は静かに目を閉じるのだった。
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