雪と恋
恋は雪に似ている。
最初はうっすらと、気づかない程細やかに、辺りをほの白く染める。今まで己を取り巻いていたあらゆるものの輪郭が、霞がかったようにゆっくりゆっくりと緩やかにぼやけてゆき、それらの存在は次第に曖昧になってゆく。そして一夜が明けて窓辺に立つ時、人は、世界がすっかり作り変えられている事に目を見張る。世界は無垢の色に塗り替えられ、新たな創造を待ち侘びるかのように、ただそこに、佇む。
雪はなおしんしんと降り積もり、静かに重みを増してゆく。
やがてその重みは、人の骨を、心臓を、ギシギシと鳴らし始める。気付いた時には遅い。圧迫し、押しつぶす。
そうして恋の屍の上に、無言のまま雪は降る。
それでもなお人は、その美しさに抗いがたい。
私の雪は、――という名だった。その響きは今も私の心臓をギリギリと音を立て締めつけるから、今だに声に出す事も、書き記す事もしたくない。
――が私の人生から去った日に、私の世界は終わってしまった。
――は私にとって、全てだった。この世界そのものだった。――の手に触れる時、抱きしめ合う時、私は――を通して、この世界を動かしている何か大きな力のようなもの、それが私に流れ込むのを感じた。その時私は私がこの宇宙の一部であり、何かしら大きなものの一部であるのだと苦もなく理解した。
しかし私にそれを教えてくれた――は去った。
まるで行く手を阻むかのように、重たい雪がブーツにまといつく。
東北地方の、とある渓谷にかかる橋。東京から何度も電車を乗り継いだ後、さらに長い時間歩いてようやくここまでやって来た。
自殺の名所として有名なこの橋へ。世界の残骸を処分するために。
私はようやく目的地に辿り着いた満足感で、小さく溜息をついた。橋の欄干にむき出しの両手をそっと乗せると、さりげなく周囲を見廻した。幸いな事に私を訝しむような人影は無く、私は安堵した。
辺りには何一つ音を立てるものも無い。風すらも吹くのを忘れているかのようだ。雪だけが、ただひたすら降り続いている。
雪というものには、音を包み込んで消してしまう力でもあるのだろうか。常に騒々しい東京の街で生まれ育った私には、こんな深い絶対的な静けさが存在する事が不思議な気がした。雪がこんな静寂をもたらすものだとは。
その静寂を胸に吸い込みたいような気がして、私は大きく息を吸った。冷気が私の肺を鷲掴みにしたが、――がもう私の世界にいないのだという事実が私の心臓にもたらす冷たさとは、比べようもなかった。
欄干に手をかけたまま、私はこんな場所にいる自分自身に皮肉な笑いを浴びせた。
――が去って後、私は、私の――への愛を捨てようと試みた。私の生存本能が、私にそうさせたのだ。
しかし、私はすぐに気付いた。私の――への愛を捨てるには、自分の中の「愛」そのものを、丸ごと捨てるしか無いということに。なぜなら、――は私の愛そのものだったから。
私の持つ「愛」のうち、「――への愛」だけを選び切り取って捨てるなどどいう、都合の良い真似は通用しなかった。――は愛そのものを体現していた。
それはまるでガン細胞だ。「――への愛」というガン細胞は、既に私の魂の隅々にまで転移していた。手遅れだったのだ。手術して切除するのは不可能だった。愛という名のガン細胞に全身を侵食された私は、最早「私」ではなく、「私の愛」そのものだった。
しかしその私の愛は無に帰した。――は去り、私は私の愛に価値が無かった事を知った。そしてその愛が無価値であるなら、私自身も最早無価値であるという事だ。
私は、今や、私自身の存在の正当性を世界に向かって主張できない!
時が癒やしてくれる、と誰かが言った。それは間違っている。
本当の悲しみは、もっと、もっと、遠く、時間をも超えた世界の果てにある。死よりも深い場所にある。例えばこの渓谷のように。
死よりも……。
私は欄干から少しだけ身を乗り出し、遙か下を流れる河を見下ろした。
轟々と音を立てて河の流れが下ってゆく。両岸は切り立った崖になっていて、あちこちから尖った黒い岩が突き出し、その上に雪が積もっている。河の流れの中にも所々、黒い島が見え、水に濡れて陰気な光沢を放っている。してみると私の身体は、水に落ちるよりも先に、あの岩のどれかに当たって砕け散る事になりそうだ。
しばらくその光景を眺めていた私は、自分が恐怖を感じていることに気づいて愕然とした。なんと滑稽なのだろう。死以上の苦痛と絶望の最中にあってすら、死は今だ恐怖なのだ! 一切の生きる意味と価値を失った今ですら、まだ私は本能で死を恐れるのだ!
恐れるのはその瞬間の苦痛ではない。自分の存在が無になるという恐怖だ。忘れ去られる恐怖とは違う。初めからこの世に存在していなかったと同じ事になる恐怖だ。
私は何と浅ましいのだろう。こんなになってすら、私は私の存在を惜しんでいる。私はなんと惨めなのだろう。私に比べて、自然淘汰されてゆくもの達のなんと美しいことか。私は、路傍のたった一本の樹にすら及ばない。
樹……。私はふと思い出した。今私が立っているこの自殺の名所の渓谷は、同時に桜の名所でもある。春先には大勢の見物客が訪れ、その様子がニュース番組で報道されるのを見た記憶がある。
私は何気なく顔を上げると、橋よりやや高い位置にある渓谷の両岸を見やった。
私は息を飲んだ。
桜が咲いている。降りしきる雪の中、満開の桜が渓谷の両岸に沿ってずらりと並んでいる。それがどこまでも続いているのだ。雪にけぶって見えなくなるまで、その桜並木は続いている。
現実にあるはずのないその光景に、私はただぼんやりと我を忘れて佇んだ。
ああそうか。私は一人、納得し微笑んだ。
私は既にこの世にいないのだ。私はもう先ほど橋の欄干を乗り越えて身を躍らせ、私の身体はあの岩に当たり、水飛沫のようにあっけなく砕けて散ったのだ。そして今ここで私の残骸が、幻想の桜を眺めているのに違いない。そんな思いが胸によぎった瞬間、私の胸に突如として悲しみが広がった。
私は初めて、私自身を、私の愛を哀れだと思った。
私の愛とは一体何だったのだろう。私をここまで追い詰めるに至った、私の愛とは。以前の私は、それをまるで宝物のように大切に思っていたのに。
私は欄干に置いた自らの両手の甲に目を落とした。先程からずっとそこに置いたままだったので、うっすらと雪が積もっている。眺めているうちにも、少しづつ、ほんの少しづつ、雪の欠片が乗ってゆく。白いペンキで塗られた橋の欄干と私の手とは、次第にその境界が曖昧になっていった。
それを眺めるうち、私には、ああ、分かったのだ。
私は私の輪郭を溶かしてしまいたかった。この雪に包まれた世界のように。自分の輪郭をぼんやりと曖昧にし、やがて消してしまう事を願ったのだ。私自身をすっかり、誰かに、何かに、生け贄として捧げてしまいたかったのだ。そして、自分自身からの開放を願ったのだ!
私が真に求めていたのは、「自由」であったのだ!
私はふいに、この雪の降りしきる寂しい渓谷で、誰かに、何かに会いたくてたまらなくなった。――ではない。しかし、誰に、何に会いたいのか分からなかった。なのに寂しくてたまらない。
冬の日没のような寂しさがキシキシ鈍い音を立て、私を攻め立てる。それなのに、私が恋うる何かは、世界のどこにも存在しないのだと私には分かった。
私は、私の身体の一部が欠けている、と感じる。
手か足か、どこか、無いはずの部分が痛む。私にはただそれを愛している感覚だけがある。それが痛む。あるべきものが欠けている。私の一部が欠けている。欠けた部分が痛むのだ!
私は私の欠けた部分に、会いたい!
私は救いを求めるように、再び満開の桜に目をやった。しかし、やはりそれはただの幻であった。裸の枝に積もった雪が、まるで花を付けているように見えただけの事だ。しかし、今は幻の花も……。春はもうすぐそこだ。
桜はなぜ、春になると花をつけるのだろう。世界は何故生き続けるのだろう。そしてその存在の正当性はどこにあるのだろう。
私も、同じではないだろうか。
それは同じ種類の力ではないのか。私とあの桜とは、私と世界とは、同じ力によって動いているのではなかったか。
その力が私に自由を求めさせ、さらにその先に手を伸ばしてゆくよう導いたのだ。ちょうどあの桜の枝が、天に向かって伸びるのと同じように!
ああ、雪が、私の輪郭を消してゆく。私は雪景色の一部となってゆく。世界と私とは、今や曖昧な輪郭で隔てられているだけだ。世界は私で、私は世界だ。
しかし私はたった今初めて生命を与えられた人形のように、大きく身を震わせて、全身に纏わり付いた雪を勢い良く払い落とした。
「私」が、白一色の世界に突如として現れた。
雪の色と対比を成す黒い髪が。凍えて赤くなった両手と爪が。ベージュのブーツに包まれた両足が。そしてまだ動き続けている、心臓が。
私は私の輪郭を取り戻した。
雪はいつの間にか止んでいる。そして重たげな雲の切れ間から、陽射しが覗いていた。
純白の世界は陽射しに晒されて、また別の世界に変わってゆくのだろう。世界は生き、死に、そして新たに産まれる。そこには意味も正当性も無い。ただただ、生きていることに向かうのだ。
それはまるで一時の夢だ。私は、私の生きてゆくはずだった世界を失った。しかし、全てはいわば幻想なのだ。この雪と同じように。変わらぬものなど、ないのだ。
だが、ああ、それは、何と美しい幻想だったことか。