走れ。女の子を助ける為に。
書き直しパートでございます
初めてゴブリンを倒してからかれこれ五分程後のこと。
一時の狂乱が収まった悠斗は、生き物をその手で殺したという事実に僅かに震えながらも、動じることも無く、すぐに気を取り直して森を歩き始めた。
肩と腕の傷は、どちらも浅い。止血や応急処置が出来ないのは手痛いが、血はいつの間にか止まっているし、痛みも剣を持てないほどでは無かった。
とは言え、どこをどう歩けば良いかなんて分からないので、食料と飲料可能水を探しながら森を散策していた。
もちろん、道中ゴブリンとの戦闘は何度かあった。
一々前回と同じ轍を踏んでいたのかと言うと、実はそうはならなかった。
「グギギィッ!」
最早顔も見飽きた程見たゴブリンが木を荒削りした棍棒を振り回して来る。
棍棒は粗悪なナイフよりもリーチは長いが、木製の鈍器故に殺傷能力は低い。頭部に当たらないように立ち回れば、比較的楽な相手だ。
とは言え、武器は武器。当たり所、当たり方が悪ければ死にはしなくとも骨折などの怪我を負うし、足の辺りに怪我でもすれば動けなくなる。危険なことに変わりはない。
そして今回の敵は二体。二対一という、数の不利を強いられる戦いだ。
故にーーー
「ふッ!」
何度目かの戦闘故、小慣れた動きでゴブリンに肉薄する。
一体目、木を荒削りした棍棒を持つゴブリン。そいつに接近した悠斗は間合いに入るなり、飛び蹴りを放つ。
地球にいた頃なら決して出来なかったその技も、ステータスの恩恵によって何故かできるようになっていた。
意表を突かれる形となった棍棒ゴブリンは、大した回避行動も、防御も出来ずに足の裏を顔面に受けて、鼻をへし折られる音を聞きながら体を浮かせて派手にすっ飛んだ。
実の所、今の飛び蹴りの本来の目的はゴブリンのノックバックだったが、予想以上の成果を出した悠斗は驚くこともせずに、すかさず近くにいたもう一体に斬り掛かる。
「グ、ギギィ!?」
盾持ちゴブリンは何とか皮製の丸盾でガードするも、体勢が悪く悠斗に上から押し込まれるような状況になった。
「こ、のぉォォォォォ!」
とは言え、だ。悠斗は悠斗で余裕が無い。
圧倒的有利なポジションで鍔迫り合いのような形になったはいいが、それが優勢なのは一対一の時だけだ。
二対一の戦いでは、一刻も早い片割れの始末が求められる。
迂闊に鍔迫り合いして、背後から刺されていてはあまりにもあほらしい。
「ギギィッ!」
最も懸念していた事態になった。棍棒ゴブリンがダメージから回復し、こちらに怒りの目を向けている。
距離は五メートルと少し。僅か二、三秒、いや、もっと短い時間で詰められる距離だ。
だから、悠斗は躊躇わなかった。
ゴブリンが走り出すのと、悠斗が掌をゴブリンに照準することは同時だった。
「グギィーーーァ゛」
「《電撃》!」
雷が、放たれた。出処は悠斗の掌。
解き放たれた一条の飛雷は、ゴブリンに向かって真っ直ぐ、そして正しく迅雷の如き速度でその肉体へ直撃した。
駆け出してすぐというという事も相まって、いや、例えそれが無かったとしても、本物の雷のような速度の閃光を、ゴブリンは避けることも防御することも許されず、魂の咆哮を断末魔の悲鳴にすることさえ出来ずに、その肉体を炭化させ、死亡した。
ーーースキル《電撃》。効果はシンプル。MPを消費して、雷属性の砲撃を放つ、という物。
現状、魔法を筆頭とした飛び道具、遠距離攻撃手段を持たぬ悠斗が唯一使える遠距離攻撃だ。
威力はご覧の通りだ。ゴブリンくらいなら即死、今のところゴブリン以外と戦っていないので他は分からないが、取り回しの良さを考えれば、十分に強力なスキルと言えた。
「グギガァッ!」
「っ!」
しかし、鍔迫り合いの途中であったことが仇となったか、抵抗が弛んだ隙に盾持ちゴブリンがありったけの力で剣を悠斗の体ごと跳ね上げた。
即座に飛んでくる、蹴撃。ゴブリンの短い足から来る蹴りを、悠斗は隙だらけの胴でモロに受ける。
体が僅かに浮いていたこともあり、悠斗の軽い体は後ろに倒れる。マウントを取られまいと、体が汚れるのも気にせず地面を転がり、懸命にゴブリンから距離を取る。
「《電撃》!」
「ギッ!?」
そして振り向きざま、いや転がりざまにゴブリンの方を向いた瞬間、掌を照準し、ゴブリンに向かって必殺のスキルを発動。
ものすごい速度で殺到する雷。攻撃を放った当の本人である悠斗でさえも反応できない一条の雷は、確かにゴブリンを捉え、棍棒ゴブリンと同じ末路を辿ったかと思わせた。
しかし、盾持ちは生きていた。一度見た《電撃》を警戒して、事前に盾を構えていたのだろう。直撃したかのように見えたのは、胴を守るように構えた盾に当たっただけであった。
とは言え、九死に一生を得たゴブリンも、決してタダではすまなかった。
皮製の丸盾は己の職務を全うして消滅、それでも防ぎきれなかったエネルギーがゴブリンの腕を焼き、盾を持っていた腕ーーー右腕を炭化させていた。
「も、らったぁァァァァッ!」
地に伏せた状態から、足のバネを最大限に使って、まるで悠斗自身が天を昇る矢のように、鋭く、速く、飛び上がる。
目標は真っ直ぐ、ゴブリンただ一人。体がつんのめって、転びそうになる。このまま行けばもう一度大地にハグを決めることになるだろう。
それでも、その前に、剣を当てる。ただその一心で振り切った剣は、望み通りゴブリンの肩口にくい込み、そして、肩から胴にかけてを袈裟斬りに、両断した。
血しぶきと臓物を撒き散らして、泣き別れした二つの体を宙に舞わせるゴブリンに、叫びはない。
ただ、驚きだけが支配した顔で、少し前までゴブリンだった生物は事切れたのだった。
……
……
……
当面の危機は脱した。
ゴブリン二体を相手に、たった一人で善戦、勝利した。
それは良い。だが、状況は芳しくなかった。
「……MPが足りない」
悠斗が呟いた通りだった。
MPがこの世界では如何なるワードの略かは不明だが、マジックパワーにしろマジックポイントにしろ、それが《電撃》という強力な手札を切るための使用料である以上、無駄遣いは出来ない。
現状、悠斗のMPの最大値は三十。一回の《電撃》発動で使用するMPは二。合計で十五回撃てる計算だが、これまでに悠斗は先の戦闘を外しても五度使っている。
つまり残りの使用可能回数は八回。十分ではないか、と思われるかもしれないが、MPの回復手段が不明な以上、万が一のことも考えて最低限残り三回は残しておきたい。
となると、実質残りの使用可能回数は五回となる。
森からの脱出、そのための道筋がはっきりしない現状では、非常に危うい状況だ。
「とは言え、温存してて死んだらお話にもならないし……」
全くもってその通りだ。
温存することは大切だ。計画性を持って、先々を見通して、今後何が起こるか予想できなくとも、その時に対処できるための手札を残しておくことは非常に大切だが、そのタイミングを見誤ってはいけない。
某竜の冒険ゲーム的に言えば、『スライム一体にメラ〇ーマを使う』なんてことをするプレイヤーは(その行為自体が目的である時以外で)いないはずだ。
『もうすぐボス戦が近いのに些細なダメージをベ〇マで回復』するプレイヤーもそういないだろう。
だが、例えばの話、『ダンジョンで行けるところまで行って迷った時の、それぞれの遭遇戦闘』ならどうか。
どのタイミングで高威力高コストの魔法を使う?どのタイミングで回復を、バフを掛ける?どのタイミングで技を使う?どのタイミングでアイテムを切る?
そういった、絶妙な状況下での最適な判断をするのは難しい。そもそも、何が適切かすら分からない。
RPGで良く起こりうる、『最高回復薬を惜しんでいた結果、クリアまで使わなかった』なんてパターン。
エリクサーや貴重なアイテムの使用をケチったばっかりに、ここぞというタイミングで失敗してしまうことだってある。
それがゲームの中の話なら、まだ笑い話にでもできただろう。
だが、それが現実で、しかも取り返しのつかない失敗ーーー例えば敗北して死亡してしまったら、それでもう終わりだ。
命あっての物種、とは、よく言ったものだ。
そういう環境に放り込まれて初めて、悠斗はその意味を心から理解した。
「アルテナさん、地図とか表示出来ないの?」
何せよ、行動はしなければならない。
が、闇雲に動けば良いという訳でもない。仮拠点を建てるにしろ、早期脱出に向けて探索するにしろ、この環境の情報が欲しかった。
地図でもあればいいのだが……と悠斗は聞いてみたが、アルテナの返答は悠斗が望んでいるものではなかった。
『申し訳ありません。この場の正確な地図を用意する術はありません。私及びこの魔導書はあくまで貴方の一部。本来貴方が知らないことを、魔導書が知ることはありません。
さっきまでは貴方に足りない異世界の知識を補填するという形での補助ですので、私もなんでも知っているわけではないのです』
そう言えばそうだ。転移した理由を聞いた時にも言ってたではないか。彼女は魔導書に宿った一人格。世界のルールを教えることしか出来ないと。
だが、希望が途絶えた訳ではなかった。
『ですが、地図は出来なくとも、断片的に周囲の情報を知ることはできます』
「本当?」
『はい。魔力を放って周囲をスキャンします。それによって断片的的な地図を作ることはできますよ』
「むぅ……」
魔力を放つ。つまりMPを消費。今は命綱にも等しいMPを迂闊に消費するのは避けたい。
それにMPが切れた時、動けなくなったりしたら本当に笑えない。
が、闇雲に歩いて体力を使い果たし、あるいは何の収穫も無く飢えで倒れるのもシャレにならない。
ならばここは多少のコストには目をつぶって、確実に情報を獲得すべきか。
葛藤する悠斗だったが、しかし、その思考を絹を裂くような悲鳴が打ち壊した。
『い、いやぁぁぉぁぁぁぁぁッ!!!』
「っ、今のは!?」
間違いなく悲鳴だった。それも女の子の。しかし、森の中では音が反響し、どこから聞こえてきているのか分からない。
いや、そもそも、誰かが悲鳴をあげるような事態に遭遇しているのに、行くべきだろうか。
間違いなく、危険だろう。下手をすれば死ぬ。
ゴブリンが二体であれば、苦戦の末倒すことは出来る。だが、二体以上ではないと誰が言いきれる。
何より、敵がゴブリンだけとは限らない。もっと強い敵がいるかもしれない。
ここで、悠斗の冷徹な理性が囁きかける。行くべきではない、様子を見るべきだ、と。
現実主義に則るなら、その通りだろう。死ぬかもしれない、よしんば生き残ったとして得るものはそう多くは無いはずだ。リスクとリターンが割に合わない。
嗚呼、そうだろうとも。自らを大事にするなら行くべきじゃない。
人間は身勝手な生き物だ。ここで目を背けたって誰も責めない、何も悪くない。
「ッ!」
だが。
だが、だ。
悠斗は走り出していた。ここで引いたら自分らしさが決定的に壊れる、とか、誰かを見捨てるくらいなら自分が死んだ方が良い、とか、そんな主人公みたいなカッコイイ動機で動いたわけじゃない。
ただ、理性よりも感情が勝った。
ともすれば、それは、ヒーローのような動機かもしれない。
しかし、悠斗は主人公なんかじゃない。
女の子の悲鳴。何も出来ない、無力な自分。そんなシュチュエーションが大っ嫌いだった。
『女の子』、と限定しているあたり、邪な心があるように見えるかもしれないが、そんなことは無い。
地球の日常では決して遭遇することの無いその状況は、紛れもなく、悠斗の心に杭を打ち付けた。
その魂に、激情と熱をもたらした。
ーーー即ち、それは、あまりにも激しい『怒り』。
その熱を動力として、悠斗は全力で駆け出す。
だが、頭はどこか冷静だった。
「アルテナさん、周囲を魔力でスキャンして!」
『了解しました。スキャン開始ーーー完了。
現地点より半径二キロメートル以内を確認。領域内に激しい魔力の反応あり。同対象の魔導書から周囲に自動救難信号発射を確認。
対象の居場所を補足。魔導書より簡易地図を展開、対象とマスターの座標をペーストします』
次々に吐き出される言葉の羅列。
そして魔導書がひとりでに開き、ステータス画面と同じホロウィンドウを展開する。
そこには、簡単な地図らしきものと、青い点と赤い点の二つがあった。
青い点が悠斗、青い点が悲鳴の出処のようだ。
『ここより直線距離で八百メートルと少々です。急いで行きましょう、悠斗さん!』
「言われずとも、行きますよ!」
比較的高めの敏捷値をフルに、悠斗は森の中を駆け抜けた。
……
……
……
時を遡ること数時間前のこと。
葉の隙間から来る、収束された日光を瞼越しに浴びた眩しさで、その少女、安木双葉は目を覚ました。
「ここは……どこだろう……」
双葉は、明るい茶色に近い色ーーー深支子色の髪を持った、華奢だが中学三にしては発育の良い体つきの少女である。
触れれば崩れてしまいそうな儚さというか、脆さのような雰囲気の彼女は、その見た目に逆らわない、気が弱く、少し人見知りな性格の少女だ。
だが、心優しく、慈愛に満ちた精神を持っている。地球では保健委員に所属し、保健室に入ってきたけが人や病人に対して、嫌な顔一つせず、本来の人見知りさえ克服して、手当てを施したり、優しい声をかけたり、時には寄り添ったりもしていた。
その結果、本人の控えめな性格も相まって、一部の彼女の信奉者からは『慈愛の天使』などと小っ恥ずかしいご尊名を頂戴している。勿論、本人は知らない。
(私、さっきまで学校にいたはずなのに……。でも途中で凄く眠くなって、気を失ってーーー)
さて、そんな性格の少女が一人、見知らぬ森の中に放り込まれたらどうなるか。
当然ながら、まず困惑し、恐怖し、狂乱し、まともな気を保てないだろう。状況を理解し始めると恐怖と不安が混じり合い、どうしようも無くなって、立ち尽くすだろう。或いは、死ぬまで泣き続けるか。
そしてこの少女も例に漏れず、状況を理解していくのに伴ってその顔を曇らせてーーー
(この状況……まさかっ)
「異世界転移!」
ーーー喜びに満ちたような笑顔になった。
実はこの少女、とある人間と仲良くなるために、その人物が好きだと言うアニメや漫画やラノベ……所謂、OTAKUカルチャーを学んでみることにしたのだが、どういうことか、思った以上に自分もOTAKU気質だったようで、すぐに夢中になっていった。
初めは国民的アニメや漫画、続いて少し踏み込んだアニメとその原作、と進んでいき、最後にはライトノベルからウェブ小説にまで手をつけた。
そうして彼女もまた、異世界転移というシチュエーションに憧れを抱く一人となっていたのだ。
その後双葉がウキウキした気分でいると、首に掛かっている魔導書を見つけ、魔導書から声が聞こえ、簡単な状況説明を受けた。
その間も双葉は物静かなれど、明らかにノリノリの様子で状況に順応していく。
そうして《魔道士》にクラスチェンジまで済ませた彼女は、ついにその時を迎えた。
「グギィッ!」
「ひっ」
緑色でデコボコした肌に、凶悪な目付き。矮躯の醜悪な怪物。
ゴブリンがあげた咆哮が、双葉に恐怖心を与えた。
手荷物のは木を荒削りした棍棒……と言うよりは木剣に近い武器。しかし、それにベッタリと付着した赤黒が、それが凶器として十分な性能を持つことを示唆している。
恐怖のあまり、震える体を押さえつけて、双葉は呪文を唱え、そして魔法を発動させた。
「こ、『光撃』!」
魔法を発動させた瞬間、双葉がクラスチェンジで得た簡素な杖の先から激しい光が瞬いて、そして『何か』が放出された。
その『何か』は双葉が知覚することさえも許さず、地を抉りながら走り、そして正面から迫っていたゴブリンを吹き飛ばした。
ドンッ、と爆発にも似た大爆音が響く。
双葉の視線の先には、数十メートル先の巨木に叩きつけられ、全身が潰れたり、ひしゃげたりしているゴブリンの亡骸があった。
「ぅっ、ぁぅぅ……っ」
あまりにも凄惨な光景に、双葉は思わず嘔吐く。
分かっていなかった。まるでゲームのような世界に来て、ラノベのような展開になって、浮かれていた。
だから失念していた。戦うということが、どういう事なのかを。
ヒトじゃないから罪悪感を覚える必要はない、とは簡単に言うが、それは難しい話だ。
地球の、平和な日本でただの学生をやっていただけの人間には、生き物の『死』というのはあまりに重い。何故なら、そもそも『死』との距離が遠いからだ。
戦国時代までならば、『死』は日常に溢れていただろう。だが、日本国を除いたとて、ほとんどの国はかの第二次大戦ですら、前線に立つ兵士を除いたただの民草にとって『死』はそこまで近いものでもなかった。
今なお『死』が近いのは、紛争中の諸中小国くらいだろう。
だからこそ、月並みな話だが、双葉は震えていた。
生物を簡単に殺せる力を手に入れたこと、にでは無い。
これが現実だと正しく理解しないまま、その力を振るってしまった自分の無邪気さに、だ。
大義名分なら作れる。ゴブリンが襲ってきた。武器を持っていた。怖かった。たまたま自衛の手段があった。行使した。結果、ゴブリンは死んだ。
そう言えば、確かに大義名分としては十分だ。人は大変だったね、怖かったね、と同情して、慰めてくれるだろう。
だが。
だが、だ。
本当に怖ければ、まず逃げれば良かったのだ。
逃げられるか分からない、とか、背中を向けるのはかえって危ない、とか、そういう思案は一切抜きに、さっさと逃げれば良かった。
そうして、最終的に力を行使したなら、まだ良かったのだ。
だが、双葉は逃げなかった。最初は、心の片隅で、現実をゲームの延長のように考えていた。
だから双葉はゴブリンに立ち向かい、恐怖し、力を解き放った。
そして彼女は今、自責の念に震えている。
とは言え、だ。いきなり異世界転移なんて非現実的かつ、憧れのシチュエーションに放り込まれたなら、誰だってその事実を真摯に受け止めはしないだろう。
そう考えれば、双葉の行動はしょうがないとも言える。
だが、当の本人にとって、そんな理屈は露ほどの慰めにもならない。
赦すか赦さないかを決めるかは、自分自身なのだから。
「……っ」
しかし、安木双葉という少女は、他の女の子よりも少し強かだった。
溢れた涙を拭い、口の中に広がる酸味を飲み込む。
意志を強く持ち、冷静な部分を発現した。
(さっきの攻撃……思ったより大きな音になっちゃった。このままだと音に釣られた敵が押し寄せて来るかも……)
あまりにも冷静に、かつ、合理的な思考。大人び始める十五歳とは言え、少女とは思えない切り替え。
これこそが、『物語の住人』たる資格の表れか。
なんであれ、彼女の悠斗ではない。
彼女は、異常者ではない。
だが、異常者ではなくとも、最善を考える力があった。
漫画やラノベを読んでいれば、状況に順応できるわけじゃない。
故に、これは彼女がそもそも持っていた力。
気弱で、人見知りな彼女が、しかし、それでも優しくいられた才能。
そうーーーだからこそ彼女は、『物語の住人』と言えるのだ。
「一先ず安全な場所へ……クラスメイトもいるみたいだから、そっちに合流するのが一番なのかな?」
確かに彼女は物語の登場人物だ。
だが、それでも所詮、齢十五の小娘だ。
こればっかりはしょうがないと言わざるを得ないが。
彼女が動き出すには、あまりにも遅すぎた。
『グギギギィッ!』
複数の、声。
何かを擦り合わせたかのように不愉快な叫びが、双葉の鼓膜を震わせた。
「っ!?」
遅かった。
少しでも距離を取ろうと立ち上がる時には、ヤツらは既に双葉からでも見える位置にいた。
駆け出す。奴らがいる、反対側へ。
だが、それすらも小賢しい奴らは許してくれない。
「グギギィッ!」
ゴブリンが一匹、草陰から飛び出してきた。
手に持つのは木を荒削りした槍。先が鋭く尖っており、鎧の類を持ち合わせない双葉にとって、その武器は十二分な脅威になりえた。
(囲まれたっ)
数秒前までの吐きそうな程の気持ち悪さはとうに失せ、冷静な思考が双葉を支配した。
逃げ場はないと判断した彼女は、場を切り抜けるべく、槍持ちゴブリンに対して魔法による攻撃を放とうと、呪文の詠唱を始める。
彼女が使える唯一の攻撃魔法『光撃』。光属性魔法Lv1に相当するこの魔法はMPの消費が一回で2と少なく、発動までの速度も早い。
槍持ちゴブリンも双葉が何をしようとしているか察知し、させまいと動くが、『光撃』の魔法ならゴブリンの槍が届く前に魔法を発動することができるだろう。
そうなると、向こうから来てくれたのは好都合だ。
タイミング的に、今から回避動作をしなければ『光撃』を避けるのは難しい。エイムにまだ自信がない以上、当たりやすくなるのは良い。
それに双葉の目的は何も倒すことでは無い。
向こうを何とか無力化するか退けて、退路を確保するのが目的だった。
効果的な作戦だ。
動きに自信の無い少女が、対複数との遭遇戦時に取る行動としては、最善とは言わなくても次点くらいは取れる行動だった。
だがやはり、まだ彼女は小娘だった。
彼女は失念していた。
敵が自分より早く攻撃する手段、即ち飛び道具を用いてくるという可能性を。
「『光げーーーッ!?」
呪文詠唱を完了させた双葉が魔法を発動しようとした、その時。
双葉は自分の背中に鈍い衝撃を感じた。
「ぁっ、な、にが……」
突如の衝撃に折角構築した魔法が崩れ、双葉自身も大きくよろめいた。
体がふらつく中、横目で彼女が見たものは……
(ぱ、パチン……コ?)
より正確には、スリングショット、と言うべきか。
Y字の道具にゴムを引っ掛け、石などを飛ばす、原始的だが馬鹿にならない武器だ。
それによって放たれた野球ボールくらいの石弾が、双葉の背中を直撃したのだ。
骨は折れてない。精々アザになっているくらいのダメージ。
だがしかし、それは、痛みに慣れていない、華奢な少女にとっては十分すぎるダメージだった。
「あぅっ!?」
痛みでよろめいたことが幸いし、向かってきていたゴブリンの槍を直撃、ということだけは避けられた。
だが、槍の先端が双葉の腕をかすり、魔道士が着るそれに似た地味な色合いのローブが裂け、彼女の柔肌に傷をつける。
そしてバランスを取ることが出来ずに、彼女は地面に倒れてしまった。
別にHP値が大幅に削られたとか、毒を貰ったとか、そういうわけじゃない。なんてことない、普通の転倒だ。
しかし、現状において、それはあまりにも最悪すぎた。
「ひっ……!?」
何故か冷静な思考回路が、一瞬の空白も与えず彼女に状況を教えてくる。
まともな思考など、ない方が幸せだったかもしれない。
恐怖が、目の前に迫っている。
死が、嘲笑っている。
か弱き生命を。
脆弱な彼女を。
「いや……!」
最早彼女に戦う術はない。
恐怖で全てが折れてしまった。
だから、彼女は叫ぶことしか出来ない。
「い、いやぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!!」
……。
……。
……。
何も、起きない。
天から光が落ちて特別な力を授けてくれるとか。
ヒーローが助けてくれるなんてことはなかった。
これが現実だ。
当然と言えば、当然。
現実はフィクションじゃない。都合よく助けに来てくれるヒーローなんていない。
居たら、この世に悲劇なんて起きはしない。
だって、そうじゃなきゃ、あまりにも不公平だ。
だから、彼女は最早叫ぶ気力すら喪っていた。
分かっているのだ。ヒーローなんていないって。
いつもそうだった。
進んで助けてくれる人なんて、いなかった。
唯一助けてくれた『誰か』は、彼女自身を見ていなかった。
これが現実。
これが世界。
何時とも知れず理不尽が舞い降り、何もかもを攫っていく。
そして助けてくれる人やものは、存在しない。
『グギギギ』
嗤っている。
奴らは、嗤っている。
最早彼女を、奴らは、敵としてみていない。
とうに狩り終えた、獲物を見る目だ。
彼女はとっくに、奴らの餌だった。
「ぁっ」
汚い手が伸びる。
衣服を掴んで、ビリビリに引き裂いた。
悲鳴すら出ない。
ボディラインがはっきりとするインナーが顕になり、奴らは、それすらも破こうとする。
手が触れた。
こればっかりは反射的に、手が動いた。
衣装チェンジの時に手に入れた杖を思わず振り払ってしまった。
そしてそれが今にも彼女を剥こうとしていたゴブリンの顔に当たって、そいつは怒りをあらわにした。
強引に押し倒され、四肢を拘束された。
一体何をされるのだろう。
いや、本当はわかっている。
でも少しでもそれを思い浮かべてしまったら、彼女はもう完全に無くなってしまう気がした。
……このままなら、どの道終わりなのだが。
嗚呼。最後にもう一度だけ見たいものがあった。
一人の、男の子の顔だ。
自分を唯一助けてくれた男の子。
そして自分を見向きもしてくれなかった男の子。
でも、それでも、彼女はその男の子を想い続ける。
例え身体が穢れようと。心が壊れようとも。
彼がいなければ、もっと速くに壊れていた心だから。
「……けて……」
想いは決壊した。
決して言うまいとしていた言葉が、涙と共に溢れてくる。
「たす……けて……」
もう遅い。何もかも。
奴らの手が、双葉のインナーを掴み、引き裂いていきーーー
「助けてッ!!!」
その時だ。
雷鳴が、その轟音にも負けないくらいの大声共に、駆け抜けてきたのは。
「《電ァァァァァァァァァァ撃》!!!!!」
雷が、今にも双葉のインナーを引き裂き切りそうだったゴブリンを直撃し、黒焦げにする。
そして炭の塊となったゴブリンを踏み潰すように、或いは双葉の守るように、その少年はゴブリン共の前に立ち塞がった。
「それ以上させるもんか! ここからは僕が相手だ!」
双葉の目が大きく開かれる。
彼女のヒーローは、確かに、間に合ったのだ。