哲学の毒、あるいは毒のある哲学。 マキャベリ、ソレル、シュティルナー
哲学の毒、あるいは毒のある哲学。
思想の毒と言い換えてもいいでしょう。
思想は宗教とともに、その毒性で人間どもをたぶらかす?という強烈な作用があるってことだ。
またそういう何らの毒性もないような、人畜無害な思想だったら。あれほどの
人を引き付ける作用なんてありえないということでもある。
エライ思想というものは毒も含んでいるという、両義性があるってことです。
「思想の魅力とはその毒性にあり。」
宗教の魅力はそのカルト性にあり、、と、同様でしょうね。
そもそも宗教がすごい合理的で、理論的で、1タス1が2だったら、だれがそんな宗教信じますかってことですよね。
宗教は1タス1が1000にも1万にさえなる。
そういう神秘性、不合理性、狂信性、つまりはカルト性こそがその本質なんですからね、
だからこそあれほど宗教が、人を引き付けるんですよ。
思想もまた、わかりきったような、ありふれた「道徳」や「モラル」だけを説くなら誰もそんなもの魅力を感じないでしょう。毒性があればこそ人はその哲学の毒に吸い寄せられるんです。
ということで、私がおすすめの?悪の哲学、、毒のある哲学のご紹介です。
思いつくままに列挙します。本当は詳しく述べればいいんでしょうが、
ほんの小解説だけでお茶を濁しますので興味があればご自分で、原典。、原書をお読みくださいね。
毒性のある哲学、思想、主義、主張、団体といえば
ジャンル❓的には
サンジカリズム。アナキズム。カルト宗教系、暴力主義、タントラ(性密儀)主義,共産主義、
終末思想、秘密結社、ヤクザ、裏社会、性産業、極左主義。宗教的過激主義、民族選民思想などがそうでしょうね。
そして危険思想の極めつけは、理想社会がまるで天国のように来るかに喧伝された共産主義も
マルクスの偉大な実験は、結局、ソビエトの粛清処刑地獄、中国の文化大革命虐殺
ポルポトの大虐殺で悲惨なその実験を終焉させられたのでした。
死の哲学、厭世主義もそうでしょう、
日本にもかって、「しなう団」という死の宗教団体がありました。
集団自殺を宣揚するカルトって今でもありますものね。
人民寺院事件
太陽寺院事件もそうですね。
まずは、、「君主論」マキアベリ、です。
これはご存知のように、どうしたら権謀術数をつかって、国を操ってゆくかという指南書ですから。
内容は、きれいごとの、帝王論なんかじゃないことは確かです。
ドロドロした、処世術でありたくらみであり罠の仕掛け方の教授法です。当時のフィレンツエは混乱と凋落の兆しが見えていたころ、
例えばあの狂信的なサボナローラの宗教政治が断行されたりと、マキアベリはそういう現実でいかにうまく立ち回るかの現実哲学、を、提示したのだ。
「理想的な生き方をこの現実で追い求めるものは、やがて悪だくみの連中に蹴落とされるだろう」、。
と、マキアベリは言う。
「人間というものは都合が悪くなれば平気で約束を破る」
「人間は愛よりも恐怖で支配するものの言うことを聞く」
こういう理念のもとマキアベリは
「子羊の夢想政治」から「オオカミの現実政治」への方策の転換を教示するのである。
これって?今の「夢想平和主義の憲法」を,うやうやしく?拝祀してる日本にこそ必要なのかもしれませんよね
次は「暴力論」ソレル著、岩波文庫に邦訳あり
ソレルは、社会を支配者と被支配者の闘争であると、とらえ、被支配者は「暴力」でその闘争を遂行するべきと唱えた、この暴力は神聖なものであり、世界を救う方法である。革命的サンディカリズムの聖典です、 「聖なる暴力」、、って、、すごくないですか?
あのムッソリーニが愛読したといういわくつきの書物ですね。でもそんな、ファシズムの教科書?というような次元をはるかに超えたこの本は、そうです。
もはや神話的な次元にまでも達した「聖なる暴力」の哲学なのですよ。
ソレルは言う
「人が動くのは、銭金ではない、人が動くのはそこに神話を体感したからだ」
という優れた視点があるのですから。
お次は
「共産党宣言」マルクス、
暴力的プロレタリアート革命を宣揚した有名な書物ですね。
しいたげられた労働者はこれによって暴力の神聖性?に目覚めた。
暴力によって権力を奪取せよ、人民民主主義、
プロレタリアート独裁。「万国の労働者よ、団結せよ」
だが、その後の、歴史は共産主義(社会主義)がソ連で、東欧で、中国で、カンボジアでどうなったかを知っている。
ソ連ではスターリンが大粛清を行い、一説によると2000万人を処刑したという、中国ではあの毛沢東が文化大革命で500万人を粛清したという、あるいはカンボジアでは、クメール・ルージュの権力奪取により、ポルポト政権が成立して、知識階級の農村への追放、
あるいは従わなければ、虐殺、完全なる農本主義国家の建設、貨幣の廃止、原始共産主義、
などが遂行されたのである、
その結果、300万人とも500万人ともいわれる虐殺が行われ、カンボジアはまるで石器時代のようになってしまった?のである。
共産主義(共産党)だけが絶対の正義であり絶対正しいという、この独善主義はコワイですよね。
したがって共産主義に反対するものは「悪」であり、なぶり殺しにしたって一向構わない、、というロジック。まるで、どこかのカルト宗教みたいですよね、
「尊士様の教えだけが正しい、それに反対するものは悪であるからポアしても、一向にかまわない」そういうロジックと全く同じですものね。
こういう教条主義、独善主義の萌芽を作ったマルクスの罪は、今から思えば相当重く断罪されるべきです。
かって、マルクス主義はまるで、至高の存在であり、神格化された人民の神?でしたね?でもその結果どうなったか?粛清と恐怖政治でしかなかったのです。それは歴史が証明しているとおりです。
昭和45年、哲学者の梅原猛はすでに、こういっていました。
「マルクス主義は、19世紀ヨーロッパという限界の中だけで通用する、きわめて限定的な思想である。だがマルクスもレーニンもそのことに気がついてはいない。
しかし人類はやがて、この思想の限界をきわめて高い代価を支払って知るときが来るであろう」と、
まさにその後の歴史は高い代価でマルクス主義という亡霊を葬り去ったのでしたね、
今マルクス主義とは、フーリエの空想的社会主義以上に、幻でしかない妄想だということがはっきりと歴史で証明されたのでした。昭和46年にこういったということは梅原猛氏の慧眼と先見の明が正解だったということですね。
次は、、
「唯一者とその所有」シュティルナー著。
エゴイズム。ニヒリズム。アナーキズムの、聖典です。
われの存在と吾が所有するものだけが絶対でありそれ以外は意味がないという徹底したエゴイズム。
"Ich hab' mein Sach' auf Nichts gestellt." 「私の事柄を、無の上に、私はすえた。」
という徹底したニヒリズム。
個人が優先するのであり個人がすべてだ、
ただしそういうエゴイズム、ニヒリズムの極点に立った究極の存在としてシュティルナーは「唯一者」という概念を打ち出す。
この「唯一者」というのはどこかニーチェの「ユーバー・メンシュ」と似てますよね?
若きマルクスはシュティルナーの思想に多大な影響を受けている(と言われています)
これがシュティルナーの思想の立脚点です。
青年ヘーゲル派の論客であったシュティルナーはこうして,唯一者による、完全なる個人主義と
ニヒリズムを打ち立てたのである。
そうしてお待たせしました。
この人を出さなければ始まりませんよね。
そうです。
フリードリヒ・ニーチェ。
彼の思想こそまあこういってはなんですが
まさに「毒の塊」「毒の爆弾」みたいなものですよね。
この人の思想は過激な言辞と扇動で、まさに毒の哲学でもあるといえましょう。
その結果、あのヒトラーが心酔して、ニーチェの弟子とまで公言するようになったといういわくつきの
哲学者なのです。ヒトラーはそこにナチズムの論理の基盤を読み取ってしまった?ということであり。、
特にヒトラーを狂喜させたのが、ユダヤ人への憎悪と軽蔑でしょう。
まあニーチェにしてみればキリスト教批判のそのシンボルとしての、イエスを生んだユダヤ人への批判なのでしょうけどね。旧価値のシンボルとしてのキリスト教です。
価値の転換のニーチェなりのパフォーマンス?でしかないのですが。
ヒットラーが、そこにナチズムの論理の基礎を読み取ったという事実はやはりニーチェの思想の毒性?両義性?でしょうか?
ニーチェの著作、例えばツアラツストラなどを、表面づらで読めばユダヤ人への罵倒の文言に満ちあふれていますからね。
読み方次第というか、、受け取り方次第ですよね。
末人と、超人の思想も、、まあ表面づらだけよめば,優性主義、劣悪な種族の抹殺という方向に向かいかねないわけですからね。
そして最も有名なニーチェの毒と言えば「ブロンドの野獣」です。
これはそのまま読めば、暴力的な白色テロルの全肯定です。
バーバリズムの肯定
そして暴力の肯定
「金髪の野獣」が腐った末人を野蛮に無慈悲に抹殺するということの肯定。
まさにニーチェの毒の頂点でしょう。
これもニーチェはあくまでもシンボルとして語ってるだけなんですが。
文字通り取れば、読み方によっては?、ホロコーストの肯定、、ともなりうるわけですからね。
それまでの古い価値の大転換をしたという肯定的な面と
野蛮さの奨励と、暴力の肯定とは、
ニーチェの複雑な二面性でしょう。
とまあ時代を超えたすごい思想というものはこういう
読み取り方次第というか
両義性に彩られたものなんですよ。
「私の言うことが分かるのか?十字架にかけられたもの、対、ディオニソス」 ニーチェ
さて最後に
おそらく人類の歴史上で最大の悪の哲学、悪の思想をご紹介しましょう。
それは聖書(キリスト教)です。
え?
聖書ですって?
と、驚かれたみなさん。
そうです。聖書(キリスト教)によってどれほどの無辜の人民が虐殺され、あるいはヒドイ目にあってきたか。
それはニーチェの毒なんかよりも数千倍、数万倍でしょうね。
聖書(キリスト教)の毒と言ってすぐ思い浮かぶのが
「魔女狩り」「異端審問」「宗教裁判」でしょうか。
邪教徒。悪魔教の信者という、言われない嫌疑で一体どれほどの無辜の人民が火あぶりで虐殺されたことでしょうか。まあイエスの教えそのものとか、聖書そのものにそう書いてあるというわけでないにしても、後々のキリスト教の
キリスト教を信じるが故の、邪教や悪への征伐ですものね。
「キリスト教だけが真実でありそれ以外は悪である」という、
キリスト教に限りませんが
宗教ってそういう独善主義がコワイですよね?
そこから魔女狩りも始まるわけですから。
そしてもう一つ、
これまでどれだけ「宗教戦争」でなんの罪もない人民が巻き添えになり虐殺されてきたか、。
例えばルターの宗教改革に端を発する「ドイツ30年戦争」では戦乱のために、ドイツの当時の人口が半分以下になったといわれていますよね。当時のドイツは全国土が、屍の山だったともいわれます。屍の山にカラスが舞ってる当時の銅版画もありますよ。
この辺の惨状は「阿呆物語」(グリンメルスハウゼン作)に事細かに描写されているとおりですね。
荒廃しきったドイツの30年戦争の、その発端はルターの宗教改革だったのです。
あるいは十字軍にしても
西洋から見たら異教徒の征伐であり、聖なる戦争です、
でも、
イスラム教徒にしたら、十字軍なんてただの侵略者、でしかないわけですからね。
ある日突然、勝手にやってきて散々荒らして、殺して、盗んだ、それだけです。
これも宗教がらみです。
宗教は人を救うのではなくてむしろ
野蛮な殺し合いへと人を導くだけだという恐ろしい一面ですよね。
自分の宗教だけが正しいそれ以外の宗教は邪教だという
だから邪教徒はなぶり殺しにしたってかまわないという恐ろしいことに、、、。
その原点が、原典が、、そうです。
聖書です。
そういう視点で見るなら、おそらくこんな悪書はほかにはないでしょうね。
ある意味、世界最大の悪書と言ってもいいかもしれませんね。?
結論
エライ思想というものは
単純で平面的なものなんかじゃない。
複雑で、錯綜していて、
つまり、、
両義性に満ちている。
「殺すなかれ、汝の隣人をを愛せ、」
と言っていたキリスト教が結局、
散々宗教戦争を繰り返して無辜の民をどれほど虐殺してきたか、。
ま逆の現実ですよね。
思想や宗教は人を偏頗かつ独善にして、自分の宗教以外を悪と決めつけて殺したっていいんだという恐ろしい結論になる。
こういう宗教の本質を知ったら、宗教とは人間を、救えないのだという悲しい現実。
を、痛感するばかりですよね。
かくしてエライ思想というものは一面怖い両義性があるっていう真実。
そして思想からどういう真理を学び取るかは
その人次第?という事実ですよね。
例えば、、
ただ旧価値の大転換の象徴として糾弾しただけなのに、
それを悪用して?現実化してホロコーストしたヒットラーが勝手に、
誤読?した、誤解釈しただけなのに、
ニーチェがナチズムの張本人として糾弾されるとは
まあニーチェにしてみれば
いい迷惑ですよね?
まあこういう風に
すごい思想というのは、、
読み方次第でとんでもない方向に行っちゃうという危険性を
いつだってはらんでるということなんですよ。
そういう意味では
宗教も
思想も
まさに両刃の剣であるということを十分自覚しなければならないのでしょうね。
殺人剣になるのか?
それとも
活人剣になるのか?
それは読み解くあなた次第です。
そして読み解いてどう現実化するかということです。
(注)私がご紹介している書籍については、
その書籍について私は責任は負いません。
あくまでも、自己責任でお読みください。