恋する乙女の夢物語
歯ブラシが用意されているからとハインスから説明を受け、再び訪れた洗面所。
そこから見える、夢を台無しにしそうな木造の家に強引に埋め込まれた――
そんな中折れの扉付きのコンクリート部屋を一瞥し、彼の説明なしに開けるまいと自分に言い聞かせる。
洗面所と水洗トイレだけでも頭が痛いのに、この夢の世界に順応しているそれらに納得いく説明がなければ、私の妄想がこんなアホな世界を作りあげてしまったと認めるようなものだからだ。
せめて不便なく過ごせるようにと配慮した、夢の世界側のサービスであってほしいと願う。
「それは置いておくとして……」
手渡された軟膏をトイレの個室で塗り終えてから、洗面所の上部に備え付けられた小さな収納スペースを開ける。
そこには二本の歯ブラシとコップ、そして細長い箱が備えられていた。
私はお揃いの歯ブラシを見つめ、恋人と同居していたという考えに至る。
いや、見れば一本は新品なので、予定だったというべきなのだろうか。
私に使っていいと言っていたのだから、それが彼女を忘れようとする行為だったとしても遠慮なく使うことにする。
そう、堂々と立てかけられた箱の中身――新品の歯磨き粉をつけて。
つぶ塩の歯磨き粉は箱に入れられたままで置かれていた。
この夢の世界では、もともと歯を磨くのに歯磨き粉を使う習慣はないのかもしれない。
しかしそうなると、私が想像する恋人とは一体何者なのだろうかという話だ。
見れば箱にはバーコードが付けられていて、日本製品であることを示唆してしまっている。
ハインスの恋人は日本人?
そんなバカな……。
いや、彼は私を愛でるべき存在だと言っていた。
そうであるならば、これは私用の接待と考えた方が合っているのだろうか。
歯を磨きながら洗面所に備え付けられた鏡を覗く。
映し出されるのは血色のよい私の顔。
これは本当に私なのだろうかと言いたくなるくらい、生気に満ち溢れている。
誰だお前!?
パソコンで写真の加工処理されまくっていませんか!?
精神安定剤がなくても大きく不安になることもなく。
メイクで隠す部分がないと伝えてくるすっぴんの顔。
心の口から出てくるのは、毒があるけど明るくて、頭が悪そうな言葉。
夢だからと言えば本当にそれまでだけど、私の体がうつになる前の状態に戻ったかのような感覚。
まるで別人と相対しているような雰囲気に、私はしばらく視線を奪われていた。
そして歯磨きを終え、今の状況に独り言ちる。
「まあ、顔色悪い少女の介護を王子様にさせる。そんな夢にならないでよかったと喜ぶべきなのかしら?」
体がよくなったと素直に喜べないのは、ここで癒されても現実世界に影響するかが不透明だからで。
現実に戻って、また不健康体ですなんてオチになったとしても受け入れるための自己防衛なのか。
しかし、夢側の配慮だと思うにしても――
王子様との時間を過ごす夢で歯磨きっている?
エチケットは大事だけど、トイレや歯磨きなんてシーンは夢にはいらないよね?
そうしましたって過程だけで十分だよね?
キングクリムゾンするべきよね?
この夢って映画、尺の取り方間違ってない?
愛してしまったのは敵国の姫!
王子の和平に向けた戦いが心を揺れ動かす感動巨編!
そんなうたい文句の映画で、一時間とトイレやら食事の日常が続くなんて考えられる?
しかも、そんなシーンに重要なイベントを詰め込んで、もっと雰囲気ある場所を選べと突っ込みたくなるB級の味付け。
(くそっ! 私はどうすればいい。どうすれば君を……)
トイレで力みながら。
「王子! 一大事ですぞ!」
必死にトイレのドアを叩く家臣。
「何だって!?」
緊張感の漂った王子の表情。
だめだ、突っ込みどころが満載でギャグにしか見えない。
え、もしかしてこの夢もそういうレベル?
考えてみれば、私さえ雰囲気に順応してしまったなら何一つシリアスさがなかったように思えてしまう。
ならば私が面白いことを考えたら、ハインスの過去は突っ込みどころが満載で、笑えるような内容になるってこと?
試す価値はあるのだろうか。
暗い夢を見るよりは遥かにマシだと思いながら、私は洗面所を後にした。、
そして、場面はベッドのある寝室兼居間へと戻る。
「はあ、どうして洗面所とか、歯磨き粉とか、私の世界の物が存在しているのよ」
先に座って待っていたハインスに文句を言いながら、私は椅子に腰かけた。
「夢だからじゃない?」
とぼけるように話すハインスを見て、私はその白々しさに彼を睨みつける。
「はいはい、こんな頭の悪い人間の夢ってことは、さぞエキセントリックな現象が起きてるんでしょうね。その内、廊下からロボット掃除機がやって来て掃除でもしてくれるのかしら? ネットショッピングで注文して届けてもらっているの? 私のIDとパスを教えるから、今すぐ便利アイテムを揃えましょうよ」
私はハインスに言葉を挟ませることなくまくしたてる。
「4k画質の大画面テレビを買うでしょ? それでB級ホラー映画のVHSなんて再生させて、『このテレビ、画質悪いな』って頭の悪い感想を言いながら、肝心な映画の内容は、派手な死亡シーンが大量にあるはずなのに、嘘っぽいから怖さが全然なくて、先の展開が読めちゃって、ポップコーン食べながら何となくで見れちゃうの。ゲラゲラ笑っちゃってさ。で、こんな理不尽に死んでいく名無しよりも大変な過去が君にあるのって、お茶を濁しながら」
「はははっ! そんな雰囲気にされたら、僕だって笑える話をしなきゃって気持ちにさせられるだろうね! でも、僕はヒビキみたいに笑わせようとすることは狙って言えないし、、どうなるかな……。僕の過去が全然大したことなかったって笑ってもらえるのが一番だけど」
「任せなさい! 人の話をふざけ半分で聞かせたら右に出る者はいないわ!」
私は親指を立てて、堂々とした態度で言った。
「それは特技って言うのかなあ……」
「話を暗くしないっていう意味では輝いていると思うけど?」
「はははっ! そうだね、それじゃあ始めようか」
「さあ、聞かせてちょうだい。ハインス・リーベルトのすべらない話~」
「あ、その前にちょっとした魔法を見てもらおうかな」
「おおっ! 宴会芸で盛り上げてくれるの?」
ハインスはくるくると右手の指をまわして図形を描いた。
空中には光るその軌跡がはっきりと浮かび、その図形から出現するようにテーブルへ物体が落ちた。
落ちてきたのは――
×マークの口が特徴的なウサギのマスコット。
ミッフィー人形である。
「これが水洗トイレとか洗面所があった理由?」
「そう、夢の中なら魔法で取り寄せられるのさ。ヒビキの世界みたいに運送する人の力を借りなくてもね」
「ミッフィー人形を魔法で特殊召喚とか……、やるわね」
もふもふとした手触りを確認して、私はミッフィー人形を抱きかかえた。
「うーん、絵になるね。似合ってるよ」
「私の精神年齢が低いって!?」
「うん? ヒビキって外見だけならウサギっぽいし、そういった意味でだよ?」
「私が出っ歯と申すか!」
「いやいや、そんな本物のウサギの話をしていないよ。本物だったらニンジン畑を荒らすからお肉にしちゃうくらいに憎らしいさ。こういう人畜無害な人形だったら別なんだけどね」
「狼を簡単に倒しちゃう君が言っても説得力がないわね。本当はウサギなんてどうにも思わないくらいでしょ?」
「うん、ヒビキは僕が一日中畑を見張ってられる言いたいのかい?」
「あ~、まともな狩人って他にはいないわけか」
「今年のニンジンの出荷量が減ったなんて言われたら、それこそ責任重大だし見逃せない話だよね?」
「そりゃあ……まあ」
「僕が寝ている間を正確に見計らい、昼夜問わずに村人の隙を掻い潜ってニンジンを奪っていく奴等を見逃せると思うかい?」
「本当にウサギ?」
「らしいよ。その集団とは遭遇したことがないけどね」
「それって、村人が被害にあったっていうでっちあげじゃない?」
例えば、出荷量が減ったと言って、値段を高く釣り上げるとか。
例えば、村の備蓄として隠しておくためだとか。
例えば、狩人の仕事がないなんて言えないから、被害にあったと嘘をついたとか。
「ああ、そういう考え方もあるのか。勉強になるなあ」
「ふふん、その顔……気付いていて言ってるでしょ?」
「うん? いやいや、答えは一緒でも考え方が違うと感心しちゃうもんだね」
「裏を読まれないつもりで語ってしまったと。はっは~ん、このヒビキさんも甘く見られたものね」
「でもまあ、実際に甘いとは思うよ?」
「何だとう!」
「その人形みたいに可愛いしね」
「なっ!」
私は驚いて、抱えていた人形を落としてしまう。
言葉に動揺した私の動きは鈍り、ハインスが身を乗り出していたことに気が付くのが遅れてしまった。
彼の指は私の頬に触れて、ゆっくりと舐めるように下へなぞる。
「ほら、やっぱり甘い」
「そ、そう思われても仕方ないけど、君はしていいことと悪いことの区別がつかないの!?」
「それは女性に触れたら悪いんじゃなくて、普通に悪さをしているからでしょう? そんな触れたらダメなんてものがあったら、女性と一生縁のない世界になっちゃうよね? 過剰すぎるよ」
「そうよ! でも、過剰でいないと男なんて本能が先行するなんてわかりきってることだし、力のない女性が抵抗できなくなってからじゃ遅いのよ!」
欲を理性で抑えている?
違うわね。
その欲を吐き出さなくてもいい環境があるだけよ。
痴漢して人生終わらせたくない生存欲とか。
他の欲で満たされているか、縛られていれば顔を出さないというだけ。
女性に触れても罪にならないなんて法律ができたら、それこそ男の大半が平気で触ってくるでしょうよ。
「まあ、こればっかりは平行線だよね。異性というものがいかに違う生き物かわかるってものさ」
「そうね。だから魅かれもするんだけれど」
「わからないから好きになれる。わからないから嫌いになれる。わからないから……同じ価値観を持つ異性との出会いを尊いと思える。そしてヒビキは例外だ」
そう、ハインスが私のことでわからないことはほとんどないのだろう。
私のイメージを伝える力がある限り。
「ヒビキが好意的な感情を向けてくれる限り、僕はスキンシップを止めないよ。だって嬉しいんでしょう?」
「うう……、これが心まで丸裸ってやつかしら」
「ほらほら、夢の住人に恥ずかしいところを見られたくらいで気にしていたら体がもたないよ? もっと遠慮なく僕を利用していいんだからね?」
「そんな恥ずかしいこと言えないし……」
そうは言ったものの、夢ならもっと触れ合っていたいという思いには勝てなくて。
それが伝わってしまったのか、ハインスは席を立って私の側へ歩み寄った。
落としたミッフィー人形をテーブルに置いてから、私の顔を見つめる。
「はい、お姫様……」
そう言って私の手を取ると、ベッドの前までエスコートして手を離す。
「僕の話がつまらなかったら、いつでも寝ていいからね」
「ふんっ! その時は怒りで目が冴えているわよ!」
文句を言いながら私は毛布にくるまった。
ハインスは頬を膨らませた私の頭をそっと撫でる。
それから私の手を軽く握ってきた。
「それじゃあ僕の昔話をしようか」
私達の指がからみながら、ハインスの優しい声で昔話が始まった。
「昔、ある所に心の優しい王様がいました」
「王様? 王子じゃなくて?」
「うん、王様だよ。優しいから家臣達の信頼は厚かった。それに妃が五人もいてね」
「へえ、普通の男の子ってモテモテのハーレムに憧れるもんだけど、そういった王族のしがらみがあると辟易するものなのかしら?」
私は睨むようにハインスを見た。
「いやいや、昔話とは言ったけど、王様が僕だとは一言も言ってないでしょ。まあ、でも辟易したのは間違いないね。誰が一番の子を授かるかで揉めているのを知ってしまったから」
「あらあら、それはご愁傷さまとしか言えないわ。ハーレム作った罰よなんて、血筋を残す必要がある王族には一人の妃じゃ安心できないだろうし、うかつにもハーレム主人公死ねとも言えないだろうしね」
「はははっ! ダメ人間ってのはどこの世界にでもいるんだね」
「それで、王様はどうしたわけ?」
「うん、逃げたよ」
「逃、げ、た、と、か!」
私は思いっきり大笑いしてやった。
「もっと理解のある妃達だと思っていたみたいだね。このままでは国が危ういと、絶望した王様はこの村に逃げてきちゃったのさ」
「職務放棄かあ。残念系な王様ね」
「そうでもないよ。僕は同情に値すると思うね」
「あらあら、それは同性のお情けかしら?」
「王様が世界の運命を担っているって言ったらどうだい? 君も世界を動かせる影響力に振り回された一人ならわかると思うんだけど?」
「ああ、それは辛いわ。そんな悩みを抱えていて妻同士の醜い争いとか……。しかも五人も揃ったら姦しいってレベルじゃないわ。騒音何デシベルよ……」
「それで村に逃げた王様は、僕達が出会った場所――つまり村の外れの山へと向かったんだ。自殺も考えていたらしい。そこで一人の狩人をしている女性と出会った」
「へえ……」
私は下世話な話を勘ぐるような目でハインスを見つめた。
「自殺するくらいなら私にも王族に加わるチャンスをよこせって彼女は言ってね」
「うわ、超たくましい」
「そして五人の妃達と同様、彼女にも子供が産まれたんだ。青い髪の男の子でね。妃達の子が誰一人として青い髪の子を産まなかったのに対して、彼女は王様と同じ髪の色を持つ男の子を産んでしまったんだ」
「わぁお!」
下剋上ここに極まれりね。
「だから、もっともその男の子が次の王に相応しいなんて周囲から思われてしまってね。五人の妃達や、先に産まれてきた兄や姉から嫌われてしまったのさ」
「あ~あ。でも、当然の流れみたいに思えるけど、どうにもならなかったわけ?」
「さあ、そこら辺は何とも……。遺恨があるのは確かだけれど」
「つまり、現在進行形で解決していないと?」
「うん、狩人だった女性は王様をたぶらかしたと言われて、イジメられて、心が病んで村へと帰ったよ。男の子だけ城に残してね」
「たくましいと思ったけど、心が繊細な人だったのね。それで、男の子は連れて帰らなかったんだ」
「本当は連れて帰りたいと思ったようだよ。でも、男の子はその時に頑張れるような気がしちゃってねえ……。僕が王族でいてよかったと、兄上や姉上に思わせるんだって張りきっちゃったのさ」
「ふーん、で、具体的には?」
「彼等を守る騎士になろうと思った。忠義ある親族が側にいれば、それだけで安心できると思ったんだ。そうして信頼を勝ち取ろうってね」
「ほう、それが今や母親と同じ狩人ですか? それはまたえらく縮こまったもんですね?」
私は彼に皮肉をぶつける。
「はははっ! たまたま同じ年に騎士になった少年に負けてしまってね。勝てないから逃げてきちゃったよ。そんなのカッコ悪いったらないよね」
「カッコ悪いって自覚してるってことは、満足するまでは頑張ってみたんでしょ?」
「そうだね、一万回は負けたよ。同じ方法で負けないようにって色々頑張ってみたけど無理だった」
「う~ん、それって初心者がやる底辺の争い?」
「一番を決める勝負だね」
「それって騎士の中ではナンバーツーってことじゃないの? 二番じゃダメなんですか?」
某政治家の顔が頭を過ぎったけれど気にしない。
「まあね。一番じゃなければ、兄、姉の信頼は得られないと思っていたから納得できなかったんだ」
「そっか……」
「騎士が無理なら王族の身分を辞退して狩人になるしかないよね」
「ま、よかったんじゃない? 醜い争いの中にいるよりは」
「まだ逃げられてもいないんだけれどね」
「え?」
「まだ王の座を諦めていないと思っている疑り深い兄がいてね。現在も知人が兄にかけあってくれていて、少年にそんなつもりはないと説得中なのさ」
「逃げられない昼ドラとか悪夢ね……」
「まあ、狩人だけだったら逃げられたんだろうけどね」
「どういうこと?」
「この夢の世界には三百年に一度、世界を滅ぼそうとする魔王が誕生するんだ」
「ちょっ! えっ!? ここはそんなに恐ろしい世界だったの?」
「本来ならば、楽しい夢を見させることが目的のこの世界だけど。魔王は悪い夢しか存在しない世界を作ろうと考えているみたいなんだ。そして悪夢の魔王を筆頭に、歴代の魔王達には二つ名がつけられていた」
「歴代ってことは、魔王の願いは一代で叶わずってことか」
「うん、魔王が出現すると、夢を守ろうとする勇者が倒してきたんだ。夢幻の女神様に選ばれてね」
「そりゃまたベタな設定だこと」
勇者に魔王。
なんてテンプレファンタジーなのかしら。
「勇者は一人の時もあれば、決まった兄弟を全部選ぶなんて時もあったそうだよ」
「で、その話が出てくるってことは、今が三百年に一度の年ってこと?」
「厳密に言えば、女神が勇者を選ぶのが魔王誕生の前の年。女神の力が弱まる冬の季節に生まれるらしいから、今が夏で――秋を過ぎたらいよいよってやつだね」
「うん、何というかこの世界に長居したくなくなったわ……」
「まあ、今年は一番安全なんじゃないかって言われているよ。魔王の二つ名が最弱になるかもって噂もあるし……」
「へえ、楽観的すぎない?」
「いやいや、さっきも登場した騎士が勇者に選ばれたんだ」
「ああ、皆が認める強さってことね」
「うん、それで彼以外にも二人の勇者が選ばれていたんだけど、その二人が必要ないくらいに騎士団長になった少年は強かった」
ハインスは遠くを眺めるように言った。
「その残り二人の勇者の一人――狩人の少年の手にはしっかりと勇者だと認められた証の傷、聖痕が刻まれていた。いくら活躍する可能性が低いとは言え、世界の英雄になれるチャンスを持った王族がいたら、身分はいらないと言っても口約束。そんな弟を持つ兄は気が気じゃないよね」
「それで未だに疑われてしまっていると」
「そう、だから狩人の少年は身の潔白を証明した。それでやっと自由になることができるのさ。もうすぐその知らせが届く予定でね」
「え? それは素直におめでとうって言いたいけれど、どうやって証明したの? そこまで疑ってきた人なら――」
「うん、簡単なことさ」
ハインスは左手のグローブを外す。
ボロボロで傷だらけの左手がそこにあった。
それは聖痕と呼ぶにはあまりにも多すぎて、痛々しい傷だった。
「聖痕のある利き手の神経をズタズタに、再起不能になるまで傷めて証明したんだよ」
私はそれを見て顔を歪めてしまう。
だから左手はいつも使っていなかったのかと。
だからグローブをしているのかと。
理解して、精神安定剤を飲む薬漬けの自分と重ねて、感情移入してしまう。
何よ、ふざけていれば面白い夢になるって誰が思ったのよ……。
「それから、全てから逃げたカッコ悪い少年は、ひっそりと暮らしています。母親の住んでいた山小屋で」
ハインスは語り終えて椅子から立ち上がる。
「はい、おしまい。つまらなかったでしょ?」
私は首を横に振った。
「大変……だったんだね」
夢の中とはいえ、冗談だと笑い飛ばすことはできなかった。
生々しい傷を見せられて、夢から覚めた気分にさせられたから。
「全然、ヒビキに比べたら僕の身に起きた出来事なんて些細なものだよ。カッコ悪いって笑ってくれていいのにな。ここ、笑うところだよね?」
そんなはずはない。
でも、言葉にはできなかった。
「私……」
どう接していいかわからず、目には涙が浮かんでしまう。
「ほら、そんな顔をしないで。どうせヒビキは夢から覚めたら、楽しい夢を守っている世界なんて関係ないんだからさ。勇者が魔王を倒せば悪夢の世界になんてさせないし、これからも変わらない日常が待っているんだから。僕なんて、君がいなくなってもダラダラと狩人を続けるろくでなしなんだから、勇者を辞退して利き手が動かなくなるくらいで丁度よかったのさ」
「そんな悲しいこと言わないでよ……。私の夢なんでしょう? 楽しい思いをさせてよ……」
「ほら、僕の過去なんて聞かないほうがよかったって思っちゃったでしょ? でも、知らないままでモヤモヤされるのも嫌だったしなあ。どうすればよかったんだろうね?」
「ほら、そんなこと言ってないで、君も寝る時間よ!」
私は強引に話を切り上げ、横にずれてベッドのスペースを確保する。
「うん? ヒビキは狼と寝るのかい?」
「そんな軽口叩いてないで、さっさと寝る!」
「無事でいる保障はしないよ?」
「はいはい、どうぞ! 狼にでも何にでもなれば!? 少なくとも私には逃げるチキン君にそんなマネができるとは思っていないけどね!」
「はははっ! 酷いなあ……それじゃあ遠慮なく」
からからと笑いながら、ハインスはベッドに横たわった。
私は彼の体を強引に胸元へ引き寄せる。
「ヒビキ!?」
「私がそうしたいって思ったから、してるんだからね。夢の中で男の子を慰めるなんてさすが私って、自画自賛したいだけなんだから……」
「ヒビキ……」
「本当に夢に甘えてもいいのかな……。楽しい夢を見ていいのかな……。少しでも夢に甘えたから目が覚めてくれないんだと思ってた。絶対に起きなきゃって気持ちがあるから、いい夢は毒だって――そう思っていた……。信じていいの? そんなに情けない姿を見せる君を信じちゃってもいいの?」
涙も言葉も止まらずに溢れて落ちる。
「そんな顔をしないで。もっと笑った顔を僕に見せてよ。長い時間は楽しませてあげられないけれど、頼りない僕だけど、それでも――」
ハインスの左腕が私を力強く抱きしめた。
手先が動かなくても、これだけ君を守れるぞと。
そう伝えてくるように。
「きっと楽しませてみせるから! もっと夢に甘えてよ!」
許しをもらいたかったわけじゃない。
なのに――
なのに――
嬉しさで涙は止まってくれなかった。
「さあ、お姫様、明日もいい夢を……」
ハインスが私の頬へとキスをして、私の涙は枯れて行く。
何て都合のよい体。
何て都合のよい夢。
こんなに理想的な異性と出会わせてくれて。
長い夢を見させてくれて。
本当にありがとう。
だけど――
それでも数日だけの恋なのか。
嬉しいのに悲しい
甘いのに切ない。
ああ、私は確かに恋している。
その感情は、恋物語の主人公のそれだ。
「おやすみ」
ハインスが優しく耳元で囁いた。
「うん、おやすみ」
私も笑顔で返す。
私は夢を見た。
夢に甘える恋物語の夢を見た。