トイレの響さん
部屋を出て廊下に出る。
ハインス曰く、廊下を右折すればトイレだそうだ。
駅から五分は実は十五分という名言があるように、超都会では混雑や信号待ちで到着時間が変わるもの。
A子ちゃんが時速五百キロで廊下を駆け抜けた場合、トイレに辿り着くのはおよそ何時間後のことになるでしょうかという簡単な算数の問題にはならないのだ。
「大丈夫だよ。今日は月明かりが十分にあるし、トイレへ向かうのにカンテラは必要ないくらいだ」
廊下を反対に向かおうとしたハインスに肩を叩かれ、私は自分が震えていることに気が付く。
「はっ! 何が出たって響さんがメッタメタにしてやんよ! ばっちこ~い!」
「まあ、足元には注意してね? トイレはすぐそこだし、そんなに心配はしていないけど……」
「ご忠告、痛み入るわ!」
きっと廊下を果てしなく歩けば、トイレという最強のパワースポットに辿り着けるという彼のオラクルだったに違いない。
きっとこの右に曲がった道は西に向かっていて、私は廊下という名のシルクロードを歩くのだ。
それにしては猿も豚も河童も白馬もいないけれど。
私は尿を我慢しながら歩く。
早歩きで歩く。
決して薄暗い廊下が怖いわけではない。
断じてない。
漏れそうなだけだ。
そこに行けば、どんな夢も叶うというよ。
誰もみな行きたがるが、遥かな世界。
その場所の名はトイレット。
何処かにあるユートピア。
どうしたら行けるのだろう。
教えて欲しい。
In Toilet、Toilet。
They say it was――あ……。
しかし果たして、特に時間もかからずに廊下の先には開けた空間があった。
拍子抜けである。
ファンタジーゲームあるあるの、無限ループの廊下を想像していた私は、また再び右手にベッドがある部屋を見て漏らしそうになってしまうのを想像したというのに。
いいえ、そうじゃなくても漏れそうでした。
ありがとう、期待を裏切ってくれて。
いや、待って!
目の前に洗面所が備え付けられている扉があるからといって、ここがトイレだという保証はどこにもない。
――洗面所!?
見れば普通に現代で使われる蛇口付きの洗面所が目の前にある。
上下で水の『出す』と『止める』を切り替えて、左右に回せば水とお湯が切り替わるあれだ。
シングルレバーってやつだ。
そんな馬鹿な!
中世にこんなハイテクな文明があってたまるか!
側には別の扉があり、こちらはこちらで木製じゃないコンクリートの壁に中折れのドア。
ちょっと待った!
浴室でもあるのだろうか。
不自然ながらも木造の家と合体したような、やっつけ仕事のリフォームに、思わず「何ということをしてくれたのでしょう」と呟きたくなる。
両方の扉を確認している余裕はない。
私の聖水を貯蔵したダムが決壊する。
アイドルはトイレにいかないなんて都市伝説なんだからね!
夢を売る商売だから、そう思わせちゃうだけなんだからね!
我慢しているだけなんだからね!
洋式なら風呂場にトイレが備わっていてもおかしくない。
正統派ぶるなら普通のドア。
裏を読むなら風呂場らしきドア。
チャンスは一回。
ええい、ままよ!
「せっかくだから私はこの赤の扉を選ぶわ」
赤くもない至って普通のドアを私はあける。
「やったか!?」
そこは小さな個室で、椅子型のトイレが備わっていた。
しかもレバー付きの水洗だ。
蓋のない箱には重ねられた正方形の紙が入っている。
高い位置に小さな窓があるので、部屋は真っ暗ではない。
「勝ったッ! 第三部完!」
こうして私は無事、ダムを決壊させることなく水門を開くことに成功した。
だがしかし、油断してはならない。
クソゲーマイスターのコンバット響さんとしては、こういうトイレという状況こそイベントが発生することを知っている。
赤い紙が欲しいか?
青い紙が欲しいか?
突然聞こえてくる声に、赤い紙と答えれば体中から血を噴き出して死亡する。
青い紙と答えれば体中から血が抜かれ、真っ青になって死亡する。
トイレでよくある怪談話。
『何それ、戦国魔神の赤いボタンと青いボタンなら知っているけど?』と、答えたいところではあるが、きっと恐怖に震えたら何も答えられないのがオチである。
「幽霊なんているわけないでしょ。バカバカしい……」
そう思うと正反対の言葉が頭に浮かぶのはなんでだろう。
来る、きっと来る!
上から来るぞ、気をつけろ!
私はガタガタと震えながら窓を見上げた。
この震えはきっと水門を開いているせいなんです。
きっとそうなんです。
屋敷に閉じ込められたホラー映画じゃあるまいし……。
思い出すのは、その映画がゲーム化された時のCMで流れた、やたら明るい内容の解説。
さあ逃げろ、グズグズしていると屋敷に殺されてしまうぞ!(笑)
暗闇に気をつけろ!(笑)
邪悪なクリーチャーが君を待ち受けているぞ!(笑)
心の力を私に下さい!
「ほら……、全然怖くない!」
直後、狼の遠吠えが外から聞こえてくる。
「ひいいいいいいいいいいっ!」
私が人狼ゲームの初日の犠牲者!?
ゲームをプレイさせてくれないの!?
夢を叶えてくれる世界じゃないの!?
「ちょっと専務!」
「いつからこの夢はホラーになった!」
「もう嫌だ!」
「私は帰る!」
「私、帰ったら結婚するんだ!」
「私に構わず先に行け!」
「あ、やっぱりちょっと待って!」
「まだ……、トイレの前で待っていてくれてるよね?」
私はいくつ死亡フラグを立てれば気が済むのだろうか。
気が付けばスーパー恐怖タイムが終了し、水門もぴったりと閉まってしまわれた。
恐怖のあまりに汗で出る分も含め、全部出してしまった感が否めない。
ここで窓から朝日が立ち昇れば、ホラー作品のエンディングとして最高の演出だと思ったが、そんなことにはならなかった。
まだ夜明けには遠く。
ホラーものでよくある、恐怖がまだ終わらないエンディングを想像し、私の震えは再度訪れた。
「気のせい……うん、気のせいよ」
自分に言い聞かせ、私は備え付けられた紙を取り、ロールではない厚紙で水門を仕上げの掃除をした。
そして――
「タミヤ婦人!」
私は叫び声をあげた。。
何て恐ろしいトラップアイテムを用意してくれたのだと思いながら。
「何故に紙やすりの荒目よ! せめて最低でも仕上げ用をよこしなさいよ!」
『最新トピックス:トイレットペーパーだと思ったらフィニッシングペーパーだった件』
あまりの誤発注ぶりに怒りが有頂天である。
いや、確かにトイレットペーパーで間違いはないのだろうけれど、ざらざらとした紙はそう思わざるを得ない。
恐怖で勢いにまかせて力を込めてしまった自分も悪いけど、水門が真っ赤に怒り狂っておられるではないか。
痛い……。
とても、痛い……。
涙目になりながら、私はトイレを出た。
仕組みなどよくわからないまま、とにかく使えるならと洗面所で手を洗い、飛んで火にいる夏の虫の如く、フラフラとまるで私がホラー映画のゾンビのように、明かりを求めて部屋へと戻った。
もう一方の風呂場のような扉の先など気にする余裕もなく、トイレの響さんは廊下を歩いていた。