長編を一つ終えた話
拙作『かぎろひの立つ』を書き終えてみて、思うところはたくさんあり、いつかこの思いも変わってしまう、あるいは見方を変えてしまうだろうから、覚えているうちにこうして書き記しておくことにする。幸いにしてこれは雑感、ふと思ったことを徒然なるままに書く場所であるのだから。
かと言って、「スキルアップしました!」なんてありきたりなことを言ってしまうのもどうかと思うから、ひねくれたことばかりを書くだろうし、何よりもネタバレがあるから今回に限っては読むのを注意してほしい。
まずはじめに、書き終えて「良かった」と思った(いきなりありきたりなことである。さもあらん)。もしかすると読者の中には寂しさを感じる者もいるかもしれない。彼らにとって、私の作品はライブであったからだ。だが、私にとっては済んだ話を文字にしているだけである。終わらせて寂しさはない。むしろ明確な形として残せたことへの満足感が強い。
もちろん、反省すべきことも多々ある。書いていて「物語には波があり、押すべきところと引くべきところがある」とも途中で思い始めた。字数についてはちょうどいいと思いながら、もう少し書くこともあっただとか、展開を変えるべきだったとも思った。
が、それでも満足感が大きいのは……『かぎろひの立つ』が自分にとって、少し特別な作品だったこともあるだろう。
一方、これはすごく学んだことだが「自分のこだわりは理解してもらえない」ということ。むしろ「理解してもらえなくてなんぼ」という意識も芽生えた。伝えたいものがあり、そのものを語る「物語」である以上のことは求めてはならないということだった。そして読者には多くの読み方があって、伝えたいことが伝わってるときもあれば、誤読されるときもある。そしてその誤読は、自分が思いもしなかったものを表現していたと知るときであった。
読者に言いたいのは「書かれている範囲内での誤読は恐れないでほしい」ということ。私は多くを読者から学んだ。少なくとも読まれるということは嬉しいことであり、学ぶというのは尊いことだった。
こだわりに話を戻すが、作中にあれこれと小細工を仕掛けているのだが、ほとんどの人はそれをスルーする。注意深く読めばわかるように(と思って作者は)書いているのだが、気づいてもらえないことがほとんどだった。いいや、これは責められるべきは自分であるのだが、むしろここからは「だが、小細工を抜きにしても通じるように描くべきだ」ということ。小細工も楽しいが、それはあくまで作者の楽しみであるべきだ。そこに気づいて楽しむ物好きは……まあ、いいんじゃないかな。少なくとも作者は嬉しかった。ジブリや特撮にしたって、子どものときと大人のときでは見え方は違うのだし、持っているもので見つめる、ということは大切なことなのだ。その持っているものを、相手に求めるのは酷だろう。何せ自分しか持ち得ぬものもあるのだから。
そして最後に、私は伝えたいことを伝えるには「重さ」が必要だと思った。同じ言葉でも、サラリーマンと内閣総理大臣では違うように、幽霊部員とスポーツ選手では違うように、中学生と大人では違うようにである。立場、経験などなどが、重みは変わってしまう。
ただのなろうユーザー、Twitterユーザー、あるいは一般人の自分がいくら何を言おうと重みを持たないことが、物語の登場人物が様々な経験をしていくことで、ぐっと力を持つ。もしかしたら自分は、彼らに何かを託しわそしてさらに読者へと託していたのかもしれない。そのことと、その難しさを、私は学んだ。
むろん、これは私が個人的に感じたものだし、展開を楽しむものもあれば、文章を味わうものだってある。そのために作られたものもある。作中の言葉で言うなら「真実はある。だが真に受けるな」だ。だけどきっと、自分が得てこうして語ることは、自分の中では腐らないのだろうな、なんてね。