作者と登場人物の話
ツイッターである方のツイートを見た。PEANUTSの作者であるシュルツ氏が、読者からの手紙で登場人物を一人減らした、という内容だった。シャーロットという厚かましいキャラに不満を持った読者の手紙によってだ。読者がそう望んだ、だから作中に登場させない、その世界から退場させたのだった。
さて、読者の姿勢だとか、作者としてどうなのか、なんて議論はする気はない。はっきり言ってそれは低俗な会話だ。シャーロットの死は、たった一人の読者へのメッセージであり、それに値することだと判断したのだろうから。
むしろ、ここで考えたいのは「作者は神様」という文言と「創作上の登場人物の人権」である。はてさて、この言葉は非常に難しくて危険なものであると思わないか。
そもそも、神様とは一体なんなのか、それが気になるところだ。創作をする上で、確かに作者は全能の神様であるかの振る舞いをする。登場人物に試練を与えるし、遥か高いところから見下ろしているし、生命の誕生や彼らの辿る生、輪廻転生まで司っていると言っても過言ではないだろう。
しかし、現実としてそんな万能な神様はいるのだろうか。私たち作者は、本当に神様になれるのだろうか。日本神話、ギリシャ神話、北欧神話、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、あるいはバラモンかクトゥルフか。一体どの神様でいるのだろうか。私にはわからない。神すらも超越した存在だ、なんて詭弁は待ってない。
が、これはすっごく気になることなのである。時にして、作者という存在は登場人物たちに過酷な試練……いや、ただただ過酷を与えることがある。名もなき女性を性被害に遭わせるし、罪なき人たちを奴隷として売買をする。戦争では人が死に、力を持てば金も物も人も得る。善を訴えた者が負け、悪を良しとするものを生かしてしまう。
ちょっと待ってほしい。果たして、登場人物たちは本当に神様の意のままに動いているのか。だとしたらどうして不快に思わせる、思わせてしまう登場人物がいるのか。
読者からすれば簡単である。「この登場人物の考えが理解できない」「こんなやついるはずがない」「不快だ、なんでこんなやつがいるんだ」。なろうの感想欄一つをとってみても、こうした感想が溢れている。ツイッターを見てみれば、それはそれは多いことだろう。事実として、私も思うことは……あまりないな、うん。
まあ、往々にして登場人物が読者のヘイトを集めることはある。それは彼らが個としての人間であることに他ならないからだ。
さて、ここで「創作上の登場人物の人権」の問題が出てくる。
この扱いは難しいし、私自身に答えはない。が、しかし、現実の人物には到底大きな声で言えないようなことが、公にやることができないことが、創作上の人物を相手にならできる、というのは確かである。それは作者も読者も同じである。どこにも一切の差はないのである。私たちは登場人物の人権を簡単に踏みにじることができる。順風満帆が面白くないと言うのも、その過程で他者を蹴落とすのも、傷つけることも平然とするのだ。勝つ者がいれば負ける者がいる。そしてそれは、現実でも行われていることなのだ。そこに創作世界と現実世界の違いはなく、故に登場人物たちにも人権があるのではないかと思う。
そして、ふとした瞬間に、覚悟をしなければいけないことがあるな、と思ってしまうのだ。
人の生死を扱うこと。善悪を扱うこと。愛を扱うこと。性を扱うこと。
こうした普遍的で人類の永遠のテーマに少しでも触れているときに、真剣に考えることがある。
作品に出てくる登場人物は、いくら作者が神様的存在であったとしても、一個の生命として存在していて、だからこそ、作品とは面白くなるのではないか、と思う。
そして彼らが一個の生命体であり、作者も読者も人間であり、描いている世界があるならば、登場人物たちは生まれ、死んで、善業をすれば悪業もする。そこに不満はあれど、業として否定はできても、存在することを否定することはできないのである。存在をあり得ない、と言ったり、倫理的に外れていても倫理的観念を求めることはできないのである。
もし作者が神様なら、きっと登場人物たちは、その神に己の幸せを求めるだろう。罪のない彼らの願いが、きっとあるだろう。
念のため言っておくが、これで規制をしろだとか、そういうことは言うつもりはない。ここではそうした話題について触れるつもりはない。
ただただ、自分のちょっとした、覚悟の話。
結局のところ、彼らの過酷さえ、自分の描きたいものであることは忘れてはいけないのかなと、ふと思うのである。
まとまりはないが、これくらいで。徒然なるままに。これは日記なのだから。