三島由紀夫『近代能楽集』を読んだ話
珍しく読書感想文を書こうと思う。
と言っても大したことはない。有名な作家の、有名な作品を読んだだけである。
読んだのは三島由紀夫。昔は作品で有名だったけど、いまじゃ切腹の人という認識しかないのかな。
作品は『近代能楽集』である。小説ではなくて戯曲なのだが、これがまた面白かった。
戯曲、と言われて思い浮かべるのは『ファウスト』だろうか。簡単に言えばセリフと、文章の頭に誰が話しているか書かれている作品である。「小説家になろう」のエッセイ界隈で「これだけはするなよ! 寒いぞ!」と言われてしまう形式である。
さて、能だ。能といえばどんなイメージがあるだろうか。
伝統芸能、あるいは古臭い。
ユネスコ無形文化遺産、残さなくてはいけないもの。
独特な言い回し、または何言ってるかわからん。
だいたい合っている。正解だ。
しかし、『近代能楽集』はまったく違う。近代、とついている通り、比較的簡易な言葉が使われている。また、舞台も中世近世ではなく、近代あるいは現代を取り扱っている。
簡単に言ってしまえば『近代能楽集』とは「とっても馴染みやすい能」である。
この中で、元となった話も合わせて有名な題名といえば『葵上』である。源氏物語において、六条御息所の亡霊が光源氏の正妻である葵上を呪い殺す場面だ。一般に能の葵の上といえば、面を被ったシテ(能楽における主役のこと)が六条の生き霊として現れ、寝込んでいる葵上|(ここで葵上は一枚の着物が舞台に置かれているだけで表現される)を襲う。……語りすぎるのも良くないな、ここらへんにしよう。
一方、『近代能楽集』ではどう描かれるかだ。舞台はおそらく昭和。病に伏し入院した妻、葵を見舞う若林光。その若林の前に、かつて懇意にしていた女性、六条の生き霊が現れ、若林を言葉や幻覚で翻弄する。
一見、まったく違う作品のように見える。言葉遣いも違えば、あらすじも違う。
しかし、この作品は『能』なのだ。それはなぜか。
どちらの『葵上』も同じテーマがある。それは愛と嫉妬に翻弄される人間たちである。これは時勢に左右されない、永遠の課題である。
永遠のテーマを扱っているという点について、この作品は『能』なのだ。これを巻末で、『コトバを大切にするか、ココロを大切にするか』とアメリカ出身の日本学者ドナルド・キーンは言っていた。
これはともすれば、すごく大切なことを言っているのではないか、と私は思った。
いや、大切じゃないわけがない。三島由紀夫がやっていて、ドナルド・キーンがこう言うのだから当然だ。
だが、私は自分の創作活動を振り返ってみて、あるいは今まで読んできた作品を思い出してふと思うことがある。
「コトバとココロ、どっちを大切にしてきたのだろう」
例えば、ファンタジーというジャンルを扱ったとして、魔法があればファンタジーなのか、異世界ならファンタジーなのか、それとも非現実的ならファンタジーなのか、というジャンル論争がある。ジャンル分けはあまり好きではないけれども、確かに自分の中に「これがあればファンタジーなのではないか」という気持ちはある。
「コトバ」と「ココロ」で置き換えて話すのならば、これは「コトバ」の話に過ぎないのではないか。
江戸時代において蘇った剣豪と柳生十兵衛の戦いを描いた『魔界転生』にだって、読者に向けて地の文に「ゲエム」と出てくる。カタカナが出てくるなんて本来ならぶち壊しもいいところだろう。しかしあの作品は江戸時代を描き、怪奇を描き、天才たちの業を描いてみせる。これには「ココロ」があるではないだろうか……。
派手な魔法を飛ばす、美しい女がいる、ゼンマイ人形が歩いている。
これがファンタジー、かもしれない。しかし、そういうことが、いわゆるジャンルと呼ばれているものの本質なのか……と言われると、首を傾げてしまうようになった。
ファンタジーと銘打って書くのなら、もっともっと大切にしなければいけないものがある。
それが「ココロ」というものであるのかもしれない。
ここまで書いたところで「ココロ」とは何かさっぱりわからないのだが。創作の奥深いところである。
ははあ、どうやら私の創作活動の目標がまた増えてしまったらしい。いつかこの「ココロ」というものを知ることが、そして作品に込めることができるのか。自分でも楽しみである。
三島由紀夫の作品に触れたのはこれが初めてであるが、なるほど彼が偉大な作家の一人に数えられるのも納得である。みなさんもぜひ、手に取ってみてください。