『孤独のグルメ』を10分だけ観た話
元日にテレビはあまり見ない。
というより、正月に見ることはない。見るとすれば天皇杯や箱根駅伝くらいなものだ。青春である。
だが、たまたまリビングに居座っていると、親がチャンネルを回し、ふと手を止めていた。
局はテレビ東京。
映っていたのは俳優松重豊。
なるほど、これが『孤独のグルメ』か。
シーズンは4となかなかの長寿ドラマ。調べてみるといまはシーズン5らしい。
念のため説明すると『孤独のグルメ』とはおっさんが仕事の合間に飯を食う作品だ。元はマンガらしい。
ネタはいくつか知っている。「そういうのもあるのか」という台詞や「ハフハフ」という擬音、「うおォン、俺はまるで人間火力発電所だ」などの迷台詞。
だがきちんと見たのはこのときが初めて。良い機会だと思い、親に言って少しだけテレビの使用権をもらった。
サブタイトルも訪れた店もわからないが、とにかく覚えている限りの感想を書く。
場面は居酒屋にて。年季の入った献立表。カウンターの席。そこでトマト豆腐なるものを食べてるシーンから始まる。
松重豊扮する主人公井之頭五郎、通称ゴローはトマト豆腐を一口食べて言うのだ。「豆腐はどこへやら……しかし、美味い」
バラエティー番組やニュースの特集で行われる食レポのように、細かいことは言わない。「トマトの酸味と甘味もあるんですけど、食感がきちんと豆腐なんですよね。野菜嫌いなお子さんでも食べられるかも!」みたいなことは絶対に言わない。
食事が進んで行くうちに、ゴローはアジフライと何か(覚えていない)を注文する。「エビスは、海の神様だ」どうやら場所は恵比寿らしい。
恵比寿にちなんで海の幸を選ぶ。脈略のありそうでないこの選択は、どうも気になる。
さて、居酒屋である。ならばほかに客が来るのも当たり前だ。
ゴローの二つ隣、奥の席にまたおっさん、しかもゴローよりも幾らか年配なおっさんが座る。
わかる人にしかわからないが、こういう場所で奥に通される客は基本的に常連客だ。
同じ時間に来る同じ人。そういった人には、料理人に一番近く、客からは一番遠い、一番奥の席に置かれる。
が、そこは何も言わない。ゴローは客をちらりと見る。
客はそこでメニューを見ずに(ここにも常連客らしさが出てる)一言。「まずはコオリ(漢字わからず)酒ちょうだい」
ゴローはその、聞き慣れない「コオリ酒」が気になる。ここで独白で「コオリ酒? はて、何だそれは」とでも言うかと思ったが、やはり何も言わない。
そして大将が「コオリ酒」を出す。凍った日本酒だか焼酎だかわからないものがグラス一杯に入れられて出てくる。
それを見てゴローは驚いた表情で言うのだ。「ほおぉ」と。
ここまで来て私は「あっ」と心のうちで叫ぶ。
この『孤独のグルメ』は、つまり演劇なのだ。余計な言葉は入らないが、美味いだ美味そうだ気になるだ、そういったゴローの感動は息遣いや感嘆、そして視線で表される。
よく考えてみてほしい。レストランに行ったときどうするか。
メニューを見る、そうだろう。お冷やを飲む、そうだろう。
しかし、それだけではわからないものがある。それは「この店では何が好まれているか」だ。
メニューには書いてある。当店オススメ、注文回数No.1。
なに、そんなもの、当てにする必要は実のところない。美味そう、あるいは好きなものを注文すればいい。この場合、経済的な事情は無視することとする。
気になるのは、隣の人間が何を食べているのか。どんな食レポだって、どんな売り文句だって、実際に見て匂いを嗅いでみたものと比べれば大した影響はない。
目の前で美味そうに食われてみろ、目の前で料理を作られてみろ、食いたくなるだろそれを。
『孤独のグルメ』はつまり、そういう番組なのである。
ゴローが美味そうに食うのである。ゴローが美味そうに見るのである。「ほおぉ」と感嘆してみせるのである。
複雑なことはいらない。「ただ美味い飯を食いたいだけなんだ」と、誰もが思っていることを実践しているだけだった。
ドラマに華がない。店員が綺麗な女性とは限らないし、主人公は松重豊だが、しかしおっさんである。しかもそのおっさんしかレギュラーはいないし、誰も再登場したりしない。キャスティングで『孤独のグルメ』を見ようと思う理由はないのである。
だが、違うのである。このドラマの華とは、すなわち出される料理である。
ドラマの中で何よりも美しく、目が引かれるものは料理なのである!
このドラマはその料理を何よりも引き立てる。それはありったけの美辞麗句ではない。美味そうに食うおっさんと、おっさんの一言と、その目である。
モノを美味く食うのに、蘊蓄はいらないのだ。言葉もそんなにいらないのだ。ワインを飲んで「今日の料理に合わせました」と言うのが一流なのである。「これはシャブリ・ワインと言って、ミネラルが豊富な土で育てられたシャルドネ種が醸し出すヴァニラに近い香りが特徴的で、薄味の白身魚の料理によく合うんですよ」「うるせえ」である。
よく出来たドラマだ。日本におけるドラマの観念、すなわち美男美女、ラブストーリー、逆転劇という要素をぶち破っていやがる。
アジフライをゴローが美味そうに食べた瞬間、父の「天皇杯が気になる」の一言で、残念ながらチャンネルを変えられてしまう。
ともかく、年始からなかなかの衝撃であった。これは人気が出るのも頷ける。爆発ヒットはしなくとも、固定層がつきそうだ。
『孤独のグルメ』は料理を引き立てる舞台である。私はわずか10分の視聴ではあるが、そう感じたのだった。