出勤
ごしごしと力強く顔を洗い落とす。油性だからなかなか落ちない。これで仕事に遅刻したら後であのひよこを焼き鳥にしてしまおう。洗面台でいろんな手段を使って顔の落書きを消していたら洗面所に入ってくる人物がいた。
「山下?お前何やってんだ?」
このシェアハウスの最年長の藤見さんだ。引っ越し業者で働いているらしく、毎日のように重いものを運んだりする体つきはひよことは真逆だ。そして、このシェアハウスにおいて絶対的な信頼を勝ち取っているが、このシェアハウスに住む経緯は誰にも分からない。
自分は祖父母他界後は施設に預けられてまるで囚人のような生活を強いられた。決まった時間に食事や風呂、起床、就寝をするだけの生活。そんな生活が嫌で大学卒業後、そのまま警察学校に入学しようとした。でも、一度採用試験で1度落ちてしまい途方に暮れていたのを助けてくれたのが藤見さんで今はこうしてこの家に暮している。次の年で採用試験に受かり警察学校も卒業してこうして警察官になり、刑事になることもことが出来た。後は自分の野望にまっしぐらだ。
「それで最近どうだ?刑事の仕事の方は?」
藤見さんは寝癖直しに苦戦しながら自分に問いかける。
「いや~・・・・・平和すぎてどうと言われても・・・・・・・」
刑事になったら刑事ドラマみたいに覆面パトカーに乗って殺現場に向かって犯人を追いつめる的なものを想像していたのだが、現実は違う。今やっている捜査と言えば、連続下着泥棒を追いかけていることや付近のコンビニで万引きを繰りかえている犯人の捜索をしているくらいだ。
規模が小さすぎてやる気というものが日に日に削がれていく。すでにほとんどの先輩方はやる気がなくこう言った仕事を自分のような新人に押し付けているのだ。
「平和って言うのはいいことだろ?」
「はい」
仕事がない=平和というのは非常にいいことだ。でも、こう刑事らしいことをしないとせっかく苦労した意味がない気がする。
だが、暇というものは逆に都合のいいことでもある。例の爆発事件の犯人組織はまだ見つかっていない。警察捜査資料は署内の専用のパソコンから見ることが出来る。少しずつではあるが調べている。
まずはあの組織がどんなものなのかというものだ。黒いドクロの刺青を入れていたのをしっかりと覚えている。そこから何か見つからないかと調べているといとも簡単に見つかった。というか普通のWeb検索でも見つかったのは驚きだ。組織の名前はブラックボーンとそのままだ。すでに壊滅させられた大型犯罪組織だったらしいのだ。主に国内に武器、麻薬、人員の流通などの非合法なことをやりまくっていたらしいのだ。壊滅してリーダーも拘束されて結構大きく報道されていたらしい。壊滅したのは今から17年前。そこで妙だと思った。自分があの事件にあったのは15年前。すでにブラックボーンは壊滅して2年がたっている。残党だったとしてもまだ生き残っている者もいる。自分なり捜査はしているが一向に手掛かりはない。ここまで情報は警視庁のデータベースから知ったもので実際に自分で手に入れた情報は何もない。
「はぁ~」
大きくため息をつく。
「ため息すると幸せが逃げるぞ」
「ああ、大丈夫です。自分は腐るほど幸運なんで」
「確かにそうだな。この前は5万円相当の肉の盛り合わせをスーパーの福引で当てて、先週くらいに商店街のくじでゲーム機あてたしな」
「それに関してはシェアハウスのみんなが喜んでいるんでうれしいんですけど、まれにこの幸運が自分を不幸にします」
藤見さんは目線だけを自分の方に向けて髭剃りを続ける。藤見さんは自分が刑事になった理由を話している。それを話したおかげでここに住めているもんだ。
自分にある幸運は特殊だ。この世界には特殊な人とそうでない人がいるのを自分は知っている。あの事件に関わっていた人たちは特殊な人だった。そして、その被害者のすべてが特殊を知らない普通の人々だった。自分も普通じゃないのはあの事件で知った。強すぎる幸運体質のせいで死のうとした自分は生き残り苦しい生活をしてきたのにもかかわらず今でもこのような健康体で何の変哲もなく暮らしている。すべては偶然と体質による幸運である。それが自分は許せなかった。
「自分の体質をあんまり恨むなよ」
「分かってます」
だから、自分は今いる刑事課からさらに上へ昇進しようと考えている。こんな地方の署内では調べられることも限られている。本店に行けば、きっとあの事件に関わった人物やブラックボーンの追加情報も分かるはずだ。
顔に落書きされたものを全部洗い落してパンと軽く頬を叩いて気合を入れる。
「じゃあ、今日も行ってきます!」
「おう。がんばれよ」
「はい」
確かに今までの幸運体質のせいでいろんなものを失ってきた。でも、今回は絶対に失わない。このシェアハウスにいる自分の第2の家族の元にちゃんと帰ってくるために今日も山下幸也は出勤していく。