窓の景色
冬にしては灼くような陽射しが、落ちかけていた意識を呼び戻した。
ゴトンゴトンと音がするから周囲を見回して見ると全く覚えのない景色にきょとんと目を瞬かせる。膝の上に載せていた荷物の重さを思い出して足下に下ろせば、堰き止められていた血液がじんわりと爪先まで流れていくのをジンとした痺れで知る。緩やかな暖かみに頬を紅潮させながら、彼女はふわりと綻ぶ自分の顔に気付き慌てて引き締めた。同じ場所を共有している人は前方に二人、初老の男性と同い年程度の少女しかいない。
窓の外を流れる景色を何も考えることもせず、しかし頭は休まることのない不思議な感覚でそれを眺める。ふと思い出したかのように海から屹立する岩や、時間の流れが異なるような波の動き、風に乗る鳥に思いを馳せて自分なりに物語を描こうとするがそれすらも勿体ないと思い直してただただ無心にこの景色を楽しむ。ゆるりとした風が頬を撫でて後ろへと消える瞬間、彼女はそれを追うかのように手を僅かに伸ばすが何も掴めなかった。
指の間に残らなかった僅かな時を惜しみ、そっと手を戻す。
再び窓の外を見れば、そこにあるのは海岸を歩く二人組。他には誰もおらず白い絨毯が貸し切り状態となっていた。やや粗末な額縁から覗けるその世界は二人以外の人間を許さず、鑑賞する側の彼女にとって触れることすら許されない、静かな空間となっている。切り取られたと思しき深く考えさせるその絵画をすら、この場所は無情にも数秒間と閲覧させることなく走り抜けていき、彼女を軽く落胆させた。
留まる事を知らない窓の景色はやがて海から離れていく。一つ処に留まれば先程の二人がどこに向かうのかをいつまでも眺めていられたのだろうが、しかしその結果を見たらこの気持ちは消え去ってしまうのではないかと彼女は少々不穏なことを考えた。結論を見ないからこそ自分の中で完結しないその瞬間の気持ちが残り、あの二人が辿り着いた先が自分の今の気持ちを都合良く完結させるモノではない可能性も存在する。なら、臆病者のように先を見るのは止めようではないか。
海岸を延々と映していた窓が急に暗くなり、もう一度彼女はきょとんとして目を瞬かせる。どこまでも広がる水平線から一転してどこまで続くか分からない闇の中に放り込まれて、思わず荷物を抱き抱えた。何も無いことなど重々承知の上で、けど一抹の不安を覚えながら窓から前方を眺める。光の無い道の先は彼女をより不安にさせ、益々荷物を握る手がきつくなる。
緩やかなカーブに差し掛かっていたのだろう、ある程度すると突然光が現れた。顔をぱぁと明るくさせて声を漏らすと前に座ってる老人が振り返り、お静かに、と忠告してくる。思わず苦笑いを浮かべて頭を下げると、老人は頬を弛めて軽く頭を下げて前へと向き直る。走る音こそうるさいのに人の声はそれでも通るのがまた不思議だなぁと、彼女は口に出さないもののそう呟いた。
闇が開けて広がる世界に驚きながら、またも鮮明な濃淡のはっきりした緑色に目を奪われる。背の高い山や低い山、あるいは近すぎて全貌すら定かではない山に、遠すぎて距離感が狂い高さが掴みきれない山、圧倒される存在感を放つそれらはしかし窓が流す一景色として徐々に姿が遠ざかっていく。なんとなく気になって視線を山の上へ移動させると、まるでシルクを被せられたかのように白い粉によって薄く化粧付いていた。窓に手を当てると、なるほど鈍く傷むような冷たさが伝わってくる。
先程までの陽射しは影を潜めて雲が空を覆ってきているようだ。合わせて気温が急激に下がり、はぁと手の平に息を吐きかける。まだ白い息が吐き出される程の寒さではないが、やがてこの中もそのぐらい凍えてしまうのだろうかと、彼女は荷物からコートを取り出して着込んだ。こういうものは寒くなってから着ても遅い。
必要最低限の物だけを詰め込んだ荷物の中はコートの他にマフラーも入っている。セーターにハーフズボン、その下に穿いた黒タイツにブーツ、コートを着てマフラーもすれば大概の寒さは凌げるだろうという自信こそあったが、それでもじっと動かないままでは限度がある。彼女の目指す目的地は果たしてどこまでなのか、自分自身ですらはっきりさせないまま、ここへと乗り込んでしまった。ついつい財布の中身を確認するが、数枚の紙切れと小銭を確認するにまだ先まで行けそうだった。
再び窓の外へと目を遣れば、徐々にその景色が流れなくなっていった。
――ああ、終わりなんだ。
窓はもう景色を流す役目を終えて、そして彼女の宛先のない旅もまた終焉を迎えようとしている。流れる窓の景色に停滞していた頭が現実へと引き戻されるが、気持ちがどうしても追い着かない。なんとか荷物を抱えて立ち上がるもののつい今まで味わっていた不思議な空間が手から零れていくようで、何とも言えない寂しさが心の隙間にするりと潜り込んできた。
「寂しいね」
そんな時、前に座っていた少女が自分に微笑みかけながらそう呟いた。
あの老人もまた帽子を被りながら、「そうだねぇ」と頷く。
「けど、もうお終い」
終演は呆気なく訪れる。待ってと思ったところで窓の景色と同じく止まってくれることはない。そういう場なのだと彼女は納得し、不思議と三人が同じ気持ちを共有したココを降りて、別れを告げてそれぞれの目的地を歩いていった。
ただ、彼女だけは自分の目的地を知らず。
窓の景色は自分の目そのものとなり、歩く速度で流れる世界をもう一度楽しもうと一歩を踏み出す。
――ただ、それだけだった。
ここまでお読み頂き、ありがとうございました!