08
二人は丘から集落まで下りて、宿を探して回った。
「宿、ありませんね」
「うん…。小さい村だからかな」
二人は話しながら歩いていると、唯の身体から電話の音が響いた。唯は驚いて自分の身体をまさぐり、服のポケットからケータイを取り出す。
「…本部からの電話みたいです」
「本部から? それなら、電話に出て宿を手配してもらおう」
そう遊介が言うと、唯はケータイの画面と彼の顔を交互に見ておろおろとする。ただ電話に出るだけなのだが、唯が困っているように見えたので遊介は声をかけてみた。
「篠宮さん、どうかした?」
すると、すぐに電話に出ないで困惑していた唯は、着信音が途切れるのと同時に止まった。
しばらく呆然とケータイの画面を見ていた唯は、遊介の方を見て遠慮がちに聞いてくる。
「か、神崎さん、どうやって電話に出ればいいんですか?」
「えっ?」
予想外の質問に、遊介は目を点にして聞き返してしまった。
「こういう機械は、今まで持たされたことが無かったので、どうやって通話するのか知らないんです」
遠慮がちな声で言ってくる唯の言葉を、一分かけて脳に吸収して理解する。
「じゃ、じゃあ、〈麒麟〉に乗ってた時に操作できていたのは?」
〈麒麟〉に乗っていた時、彼女はちゃんとケータイを操作することができていた。今まで持たされたことが無いのなら、操作する方法を知らないはずだ。
「あの時は、神崎さんが横で操作していましたから……」
どうやら見よう見まねでやっていたらしい。それもそれで十分にすごいことだが、今までケータイを一度も使ったことが無いということの方がすごい。
(そういえば、師匠もケータイ持ってなかったな……)
ふと遊介が師匠のことを思い出していると、唯のケータイが鳴りだした。
「か、神崎さん、どうやって電話に出るんですか!?」
唯は慌てて聞いてきたので、遊介はケータイを持っている彼女の手を自分の方へ引き寄せて操作した。画面が着信中から通話中へ変わる。
「もしもし、こちら〈神楽〉本部の来栖。篠宮唯、聞こえるか?」
「は、はい、聞こえてます」
電話に出た唯は、まだ落ち着きを取り戻していない。それを誤解したのか、来栖がが聞いてきた。
「焦っているようだが、何かあったのか?」
「い、いえ、何も。それより、今夜泊まる宿が見つからないんです」
まだ焦りが残っているが、唯は来栖に今の状況を説明した。
「今、そのことで君に電話しているんだ」
「そうなんですか?」
「ああ、なかなか現地に派遣している〈神官〉と合流しないらしいな。何をやっている」
「えっ?」
ようやく落ち着きを取り戻した唯に、再び焦りの色が浮かんだ。
「村の役場で待っているはずだ。さっさと合流しろ」
来栖は言うと通話が切れた。しばらく呆然と画面を唯が見ていたので、遊介は彼女の目の前で手をヒラヒラと振ってみる。
反応が無かったので、唯のケータイを持っている手を引き寄せた。遊介が画面を操作して電話を切ると、ようやく唯は我に返った。
「……役場で、派遣された〈神官〉の人が待っているそうです」
「…そうか、資料があるなら現地で調べた人もいるんだ」
唯から電話の内容を聞いた遊介は納得し、周囲を見回して人の姿を探した。しかし、もう日が暮れているせいか見あたらない。
「…参ったな。……この時間だし、人が出歩いてないのは仕方が無いか」
ここに来てから、一時間弱は経過しているはずだ。その分だけ、待たせてしまっているので少し急いだ方がいいと頭ではわかっている。わかっているのだが、二人は役場の場所を知らないので行こうとしても行けないのだ。
(適当に歩いて探すのは、時間がかかりすぎるな…。提案したら、篠宮さんに怒られるだ
ろうし)
遊介は役場に行く方法を考えているうちに、結界の中で唯が使っていた巫術のことを思い出したので聞いてみた。
「篠宮さん、結界の中で使った術って役場を探すのにつかえる?」
唯は首を横に振って、申し訳なさそうに答える。
「…あれは、結界を抜けるための方術ですから」
唯の巫術が使えないことがわかり、遊介は次の方法を考える。
「何を考えている。お前の力を使って、そこの娘を連れて行けばいい話だろ」
そう遊介の足元にいる猫の提案してきた。遊介は猫に視線をやり、その提案を首を横に振って否定した。
「その方法は使えば確かに早いけど、篠宮さんの身体に負担がかかる」
遊介が力を使う時、彼の纏う霊力は苛烈になる。それを身近で浴び続ければ、唯が失神してしまう可能性があるのだ。
「大丈夫です。神崎さん、その方法で行きましょう」
「えっ?」
別の方法を考えていたところで、そう唯が言ってきたので遊介は驚いた。
「でも、篠宮さんに負担がかかるし…」
「大丈夫です。…元はと言えば、私が現地に〈神官〉が派遣されていることを忘れていたのが原因ですから」
唯は自分の責任だと思っている。遊介よりも自分の方が経験があり、すっかり忘れていたことが原因だと。
「でも、暗くなる前に宿を探そうと言ったのは僕の方だよ。だから、篠宮さんだけのせいじゃない」
考え直させようと遊介は言ってみるが、唯は何も言わず正面から彼を見つめる。遊介が何を言っても考えを変えないつもりだ。
しかし、それで折れたら彼女に負担がかかることはわかっているので、遊介の方も考えを改めさせようと見つめ返す。
しばらく見つめ合っていると、唯が沈黙を破るように言った。
「神崎さん、お願いします」
そして、頭を下げてきた。最初から真剣に頭を下げられて頼まれ、やらないと拒否したなら唯はあきらめただろう。
しかし、この様子だと彼女は絶対にあきらめないだろう。それがわかった遊介はため息をつき、足元にいる猫を見て足で小突いた。
「……何をする」
小突いた猫が文句を言ってきたが黙殺し、頭を下げている唯にため息混じりに言った。
「わかった。天岐の案で行こう」
「はい、お願いします」
「篠宮さん、力を使うから少し離れてて」
唯が頷いて離れて行くのを確認してから、遊介は胸の前で手を打ち合わせた。彼の身体から赤黒い霊力が迸る。
さっきは一瞬しか見なかった遊介の霊力に、唯は驚いて悲鳴を上げかけた。
(何これ、本当に霊力なの? 仮に霊力だったとしても苛烈すぎる)
身体にチリチリと電気が流れているような感覚を感じつつ、唯は霊力を纏っている遊介を見た。
不意に彼女の頭に映像が浮かび上がる。
雲に閉ざされた空。雷雨が降り注ぐ地上に立っている人間。その人間は、人間が持つには巨大すぎる刀を持っていた。そんな刀を持つ存在が人間であるはずがない。
その存在からは苛烈すぎる何かが迸っていた。その何かに阻まれて姿は見えないが、肉食獣のような
凶暴な瞳だけが見える。
(……あれは何? 妖なの?)
そう唯が思った瞬間、その凶暴な瞳が彼女の方を見た。
(………!?)
霊視とは神の啓示であり、霊視で視ている存在が唯を見ることは無い。今までに無かったことが起こったので、唯は驚いて本能に従って後ずさった。
その拍子に何かにつまずいたのか後に倒れ、霊視している映像が揺らいで消える。
唯は慌てて受け身を取ろうとしたが、その前に何かが背中に当たる感触がした。道路に背中をぶつけたなら、すぐにぶつけた衝撃を受けて痛み走るはずだ。
しかし、唯は衝撃を受けず痛みも走らなかった。何が起こったのかわからず、唯は目の前にある遊介の顔を見て困惑してしまう。
「篠宮さん、大丈夫?」
遊介は唯が倒れるのを見た瞬間、慌てて地面を蹴った。彼は力によって強化された脚力で彼女のいる場所まで行き、唯が道路に背中をぶつける前に受け止めたのだ。
「は、はい」
「そう、それなら良かった。急に倒れるから驚いたよ」
「すみません」
唯は謝った後、すぐに霊視した内容を思い出した。
苛烈な何かを纏い、肉食獣のような凶暴な瞳を持つ存在。その存在が持っているのは巨大すぎる刀。
霊視した内容から唯は、ある妖の名前を連想して口に出した。
「……鬼」
「ん? 篠宮さん、何か言った?」
唯は目の前にある遊介の顔を見つめ、彼の瞳と霊視で見た凶暴な瞳を重ねてみた。しかし、目の前にいる青年とは似ても似つかない。遊介を見ている時に得た霊視だったので、霊視で視た存在が彼だと思ったのだ。
「いえ、何も。……そ、それより、いつまで私を抱きしめてるつもりですか?」
遊介の質問に答えた後、今の自分と彼の状況を思い出して赤面しながら上目遣いに睨みつけた。
「あっ、ごめん……」
遊介も彼女に言われて気づき、慌てて唯を支えていた腕を解いた。支えていた腕が急に無くなったので、唯は道路に尻餅をついてしまう。
背中から落ちるよりも衝撃は小さいが、かすかに走った痛みに唯の眉がピクリと動いた。
「…何で、急に腕を解くんですか……」
遊介に聞こえないように口の中でもごもごと文句を言いつつ、唯は立ち上がって遊介を見た。そして、少し不機嫌そうな声で彼に言う。
「神崎さん、早く役場に行きましょう。派遣の〈神官〉を待たせていますから」
「う、うん、わかった。……篠宮さん、こっちに来てくれるかな?」
不機嫌そうな様子の彼女に、遊介は遠慮がちに頼んだ。
唯は遊介に言われた通り、彼の方に近づいて行く。遊介に近づいてから、いつの間にか彼が纏っている霊力が落ち着いていることに唯は気がついた。
「神崎さんの霊力、さっきと違いますね」
「今は、抑えてるから。篠宮さんの身体に負担がかかるし」
「私の責任なんですから、神崎さんは気を遣わなくていいですよ」
唯が腕を伸ばせば届く距離まで近づいて立ち止まった。
「篠宮さん、もう少しだけ近づいてくれるかな?」
遊介の言葉に従い、唯は一歩彼の方へと近づいた。
「そのまま、じっとしてて。もし、きつかったら遠慮しないで言ってよ」
遊介の言葉を聞いた唯は、彼が何を言っているのかわからずに聞き返そうとした。しかし、その前に遊介が動いて唯を抱き上げて走り出す。
次の瞬間、景色が途切れて別の景色に変わっていた。さっきまで道路にいたはずなのに、今は家の屋根の上にいる。それを認識してから唯は失神してしまった。
遊介は唯の様子を横目で確認し、彼女が失神していることに気がつく。しかし、気がつかないふりをして屋根を蹴って跳んだ。
普通の人間ではありえない高さまで一瞬で跳び上がり、村を見下ろして役場を探す。落下が始まってから、それらしき建物を発見した。
「あそこか……。結界の出口があった近くだな」
屋根の上に着地すると同時に、遊介の肩に猫が飛び乗った。
「その娘は、気を失っているのか? やはり人間は脆いな」
猫の言葉を聞き流して、遊介は屋根を蹴った。勢いをつけて道の向こう側の屋根に飛び移る。
唯が目を覚ますと、そこは車の中だった。なぜ自分が車に乗っているのか、ぼんやりとした頭で考える。
車はどこかに向かって走っているようだ。誰が車を運転しているのか確認しようと起き上がると、頭がくらくらとして船酔いしたように揺れて再び横になってしまう。
「遊介、気がついたようだ」
頭の上で声がし、何かが目の前に現れる。
「身に宿す霊力のおかげか、回復は早かったようだな」
その声を聞いた瞬間、唯は目の前にある物が何なのか認識して、がばっと勢いよく起き上がった。再び頭がくらくらと揺れて、シートにもたれる。
「篠宮さん、大丈夫?」
助手席から遊介が振り向いて聞いてきた。彼の顔を見て唯は気を失う前のことを思い出し、車を運転しているのが誰か理解する。
「少し頭がくらくらします」
「たぶん、それは失神した時の影響だね。それ以外に、体調に変化は無い?」
「大丈夫です。心配をかけてすみません」
唯は返事をしてから深呼吸をし、シートに座りなおした。そして、運転席に座っている人間に挨拶する。
「派遣の〈神官〉の方ですよね? 私、篠宮唯といいます。この度は、待たせてしまってすみません」
「これは丁寧に、ありがとうございます。私は東といいます」
東と名乗った神官は、飄々とした口調で挨拶を返した。おそらく年代は二十代、爬虫類を連想をさせるような目をしている。
「東さん、どこへ向かっているんですか?」
「今、この車は妖が最初に襲った村の隣にある村へ向かっています。とりあえず、宿には電話を入れて到着が遅くなることは伝えておきました。調査した内容は、その宿についてから伝えます」
車が道路を走っていると、前方を何かが横切った。その何かは一つだけでなく、複数が車の前を通り過ぎて行く。
急ブレーキがかけられ、シートベルトをしていなかった唯は前のシートに頭をぶつけた。
「妖に囲まれたようだな」
横のシートにいる猫の言葉を聞き、唯は慌てて外を見る。すると、確かに囲まれている。
猿のような体躯に、鬼のような形相。間違いなく夕方に唯たちが退治した妖だ。
「あの妖は、鳴き声で人の心を惑わします。鳴かれる前に退治しないと!」
唯は言いながら、胸の前で印を結んだ。
「我、神の御子たる者なり。神から賜りし――」
「大丈夫です。二人は、じっとしていてください」
制止の声が運転席からかけられ、呪文を唱えるのを中断させられた。
「でも、このままでは――」
「安心してください。やりすごしますから」
唯の反論を封じると、東は車のエンジンを止めた。そして、ハンドルから手を放す。
助手席に座っている遊介は、彼が何をしようとしているのか動作を観察した。
「私の力は、戦闘向きではありません。しかし、こういう時には役に立つんです」
言いながら東は服のポケットから何かを取り出した。その何かを顔の高さまで上げる。
「水面の月影、生まれし波紋に掻き消える。あるのは静寂のみ」
早口で呪文が唱えられ、彼の持っている何かが藍色の輝きを放った。輝きが治まり、視界が戻るとやはり妖が外にいる。
それを見た遊介は、さっきの光を放った物体に視線を移動させた。藍色の輝きを放ったのは水晶玉だった。
「妖たちの視界から、私たちの姿を消し去りました。しばらくすれば、あきらめて去って行きますよ」
そう東は言いながら、遊介と唯に水晶玉を見せた。一見すると片手サイズの水晶玉だが、その中には妖に囲まれた車が映し出されている。
「〈水月〉、水晶玉を媒体にして結界術を使う力です。まあ、本当に消えるわけじゃないので、触れられたら解けてしまいますけどね」
水晶玉の中では、外と同じように獲物を見失った妖たちが、匂いを嗅いだり右往左往している。やがて、あきらめたのか去って行った。
遊介と唯は、改めて運転席に座っている東を見る。飄々としているせいでわからなかったが、彼はかなりの力を持っている〈神官〉だ。
「それじゃ、妖もいなくなりましたし行きましょうか」
相変わらず飄々とした口調で言い、水晶玉をポケットに入れて車のエンジンをかけた。車は少し法を違反するぐらいのスピードでスタートする。
まだシートベルトをしていなかった唯は悲鳴を上げ、助手席の遊介はギョッとする。猫だけが平然としていた。
「ちょっ、スピード出しすぎです!」
「また妖に絡まれたら、宿に着く時間が遅くなりますから。それに、田舎なので信号は無いんですよ」
遊介の抗議を軽く受け流し、東は車をハイスピードで走らせる。
――幸い事故を起こすことも無く、無事に宿に到着した。
「この山菜の天ぷら、美味しそうですねー。……ところで、お二方は食べないんですか?」
部屋に案内された後、すぐに夕食が持って来られた。そのように東が手配したのだろう。確かに美味しそうだが、遊介たちは食べる気分にならなかった。
原因は言わなくてもわかるだろうが、東の高速運転だ。唯は失神していたこともあり、恐怖と車酔いで顔色が悪い。
「食わねば戦もできぬ。という諺もありますし、妖退治に備えて食べないと」
言いながら嬉しそうに食べている東に、遊介はため息をついて言った。
「……あんな運転の車に乗った直後に、食事なんてできません。それに、そういうことは篠宮さんの顔色を見てから言ってください」
「これは失礼、篠宮さんにはおにぎりを用意してもらいましょう」
確かにおにぎりならいつでも食べれるだろうが、そういう問題では無い。という気持ちをこめた視線を向けるが、東は気づかずに食事を続けた。
遊介は再びため息をついて、唯の様子を見る。彼女は壁にもたれており、完全にグロッキー状態だ。
(……原因の一部は僕にもあるか)
遊介の心の中で反省していると、いきなり声が部屋に響いた。
「あーーっ!」
はっきり言ってやかましい。しかも夜で旅館なので、隣の部屋の宿泊客に迷惑だ。
その声を上げた東の方を見ると、この世の終わりのような顔をしていた。彼の視線の先では、皿に盛りつけられた天ぷらを猫が食べている。
「わ、私の天ぷらが…! 滅多に食べれないのに……!」
言いながら肩を震わせ、東は猫に箸の先を向けて振り下す。猫はえびのてんぷらをくわえ、それを避けてちゃぶ台から飛び下りた。
「確かに美味だな。人間、これはもらうぞ」
「よりによって、私の大好物のえびですか……。あげません!」
猫の言葉に触発され、東は箸をもったまま襲いかかる。猫は身軽にかわし、ちゃぶ台の下を通って反対側に逃げた。それを追いかけるようにして、鬼の形相を浮かべた東がちゃぶ台を乗り越えてくる。
「なっ、ちょっ…!」
遊介はぎょっと目を見開き、反射的に横へと転がった。彼がいた場所に東が飛び降り、猫に向けて端の先端を振り下ろす。
猫は跳んで避けると、ちゃぶ台の上に乗った。
「ちゃぶ台の上に乗るとは、小賢しいまねを…!」
東は少し考えてから、箸の一本を猫に向けて投げた。猫は反射的に避け、ちゃぶ台から飛び降りる。
「そこです! 覚悟しなさい!」
東は叫ぶと、もう一本の箸を滞空している猫に投げる。箸は一直線に飛んでいって当たると思った瞬間、猫は身体を捻って投擲物を避けた。
箸は猫をかすって飛んでいき、壁に当たって空しく床に落ちる。しかし、東はあきらめずに猫へ突進した。
「それも予想済みです、今度こそ覚悟しなさい!」
一人と一匹の鬼ごっこが始まってしまったので、遊介は巻き込まれないように唯の近くへ避難した。
――ドッタン! バッタン! ガチャーン!
騒がしく音を立てながら、部屋中を駆け回るのを見て遊介は唯を連れて外に出ようと判断した。
「篠宮さん、とりあえず部屋を出よう。立てる?」
遊介の質問に答えず、唯は黙ったまま鬼ごっこを見ている。返事は無かったが、とにかく避難を優先させた。
唯の身体を抱き上げ、部屋の外へ音を立てないようにゆっくり歩いて行く。
「神崎さん! その猫を捕まえてください!」
自分に向けられた声に驚き、遊介は反射的に振り向いた。そして、ぎょっと目を見開く。
東と鬼ごっこをしていた猫が、遊介のすぐ近くまで走って来ていたのだ。それを追って鬼の形相が突進してくる。
「そのえびの天ぷら、返してもらいますよ!」
その声を聞いた遊介は慌てて避けようとしたが、間に合わずに東の突進に背中から直撃された。
勢いよく吹っ飛び、襖を巻き込んで廊下へと転がり出る。
――ゴロゴロゴロ、ゴンッ
「いてててっ……」
思いっきり背中を壁にぶつけたので、遊介は痛みに顔をしかめながら思う。
(……師匠の時は、もっとひどい目にあったな…。……それにしても、何て馬鹿力なんだ)
「神崎さん、大丈夫ですか?」
遊介が呆れていると、彼の腕の中にいる唯が聞いてきた。吹っ飛んだ時に咄嗟に唯の体勢を変え、自分の方に抱き寄せて庇ったのだ。
「ん、大丈夫だよ。篠宮さんの方はけがは無い?」
とりあえず遊介が庇ったとはいえ、唯の方も少しは衝撃を受けているはずだ。
「大丈夫です。神崎さんが庇ってくれましたから」
それを聞いた遊介はホッとし、質問に答えた唯の顔が若干赤いことに気がつく。彼の腕の中で、唯はもじもじと身じろぎをして落ち着かない様子だ。
「篠宮さん、どうかした? 顔が赤いけど」
「………」
唯は黙ったまま身じろぎをし、さらに赤くなった顔を遊介から反らした。それでようやく遊介は今の状況に気がつく。
まず、唯を庇ったため彼女を抱きしめる形になっている。そのため、かなりの密着状態になっているので顔が近すぎる。最後に、唯は異性との付き合いなどに慣れていない。
「ご、ごめん! すぐにどくから!」
謝りながら慌てて遊介は腕を解き、跳ね起きて唯から少し距離を取った。さっきの状況は、考えてみれば遊介にとってもまずい状態だ。
唯が起き上がり、座った状態で顔を真っ赤にして自分の身体を抱く。その様子を見た遊介は、さっきの状況を思い出して顔を赤くする。
唯は一見すると華奢に見えるが、つくところにはきちんと肉がついている。それに、ささやかとはいえ胸の部分にも柔らかい膨らみがあった。
「……か、神崎さん」
名前を呼ばれて遊介は我に返った。目の前にいる唯は、座って自分の身体を抱いたままだ。
「い、今のは不可抗力ですから、私は気にしてません。それと、庇ってくれてありがとうございます」
「う、うん、どういたしまして」
「………」
「………」
気まずい空気になってしまったので、これ以上は話が続かなかった。その空気を壊すように、今までの中で最も大きい音が響く。
――ガッシャーン!
二人は驚いて部屋の方を同時に振り向いた。部屋の中ではちゃぶ台がひっくり返っており、上に乗っていた皿が何枚か割れている。
「えびだけでなく、いかまで食べましたね…」
「だから、どうした?」
「もう許しません!」
聞こえてきたやりとりに、波乱の予感がした遊介は慌てて止めに入ろうとした。その瞬間、遊介の顔の横を何かが通り過ぎて背後で割れる音がする。
「……神崎さん、お皿が割れてます」
呆然とした唯の言葉を聞き、遊介は背後を振り返って通り過ぎて行った物を確認した。確かに、彼女の言った通り皿が割れている。
それを見た遊介はちゃぶ台の上にあった皿の数を思い出した。なぜか東の前に、天ぷらの皿が十枚ぐらいあったのだ。
遊介は嫌な予感を覚えて振り返る。そして、彼の予感は的中した。
――ガシャッ! ガシャッ! ガシャンッ!
部屋から食器が次々と割れる音が聞こえてきた。怒りで我を忘れている東は、手加減無しの遠慮無しだ。
過去に似たような経験をしている遊介は、猫の心配ではなく別の心配をする。
(旅館の食器の弁償代、どれぐらいになるかな……)
遠い目になりかけたところで、猫が部屋から飛び出してきた。そして、遊介の肩に飛び乗る。
「逃がしません! 食べ物の恨みは恐ろしいと、その身に教えてあげます!」
怒声と共に部屋の中から、次々と食器が飛んできた。
「なっ…!」
おそらく猫を狙ったのだろうが、猫は遊介の肩に乗っている。つまり、猫に向かって投げたのなら遊介も巻き添えを食らうのだ。
食器の飛来するスピードは速く、咄嗟に両腕をクロスして防御した。腕に鈍い痛みが走り、食器が床に落ちて割れる音が廊下に響く。
「我、翳すは神の御手なり!」
呪文が聞こえたと同時に、目の前に滑り込む影。次の瞬間、飛んで来る食器が空中で何かに弾かれて床に落ちた。
遊介はクロスしていた腕を下げ、目の前に滑り込んだ影の正体を確認する。
「いい加減にしてください!」
一喝とともに迸った玻璃色の霊力。それに気圧されて、食器を投げようとしていた東は動きを止めた。
それを見た唯は、前に突き出していた両手を下げる。そして、すごい剣幕で彼に向かって説教を始めた。
「私たち以外にも、宿泊している方がいるんですよ! それに、こんなに食器を割って!」
自分が説教されているわけではないのに、遊介は縮こまってしまった。無意識なのだろうが、唯の身体から迸る霊力に気圧されたせいだ。
「いいですか? 私たちは、旅行のために来たわけではないんですよ? なのに、天ぷらを横取りされただけで暴れるなんて、いったい何を考えているんですか!?」