06
――翌日の早朝、唯はくすぐったさを感じて目を覚ました。
くすぐったさの原因を確かめようとすると、視界に黒い物体が目に入る。その頬に当たる物体は温かく柔らかかった。
触り心地がよかったので、思わず頬ずりしてしまう。すると、その物体がモゾモゾと動いた。
一気に眠気が吹っ飛んだ。唯は起きあがり、その物体が何なのかを確認する。
謎の物体の正体は猫だった。
猫は丸くなり、気持ちよさそうに寝ている。
「あっ篠宮さん、起きたんだ。おはよう」
声をかけられ、そっちを向くと昨日から同居することになった男子がいた。彼はシャワーを浴びたらしく、少し長めの髪の毛が濡れている。
「おはようございます。神崎さん」
唯は挨拶を返すと、着替えとタオルを持ってシャワールームへ歩いて行った。
寝間着代わりの浴衣を脱衣場で脱ぎ、蛇口を捻ってシャワーを浴び始める。彼女の白い絹のような肌が濡れていった。
(…いくら不可抗力とはいえ、少し素っ気なかったかも)
シャワーを浴びながら、さっきの行動を唯は思い出していた。
慣れない異性との同居生活だ。寝起きを見られてしまい、恥ずかしさのあまりシャワールームに逃げ込んでしまった。
これからも、そういうことは何度もあるはずだ。その度に同じ行動を繰り返してしまうかもしれない。そう考えると、唯は憂鬱になった。
(自分から頼んだことなのに……、私自身が変わらないと何も変わらないじゃない)
自己嫌悪に陥りながらも、どうにかしようと髪を洗うことも忘れて彼女は考え始めた。
唯がシャワールームに入った直後、彼女の態度を気にした様子も無く、遊介は自分のベッドに座った。
「天岐、起きてる?」
名前を呼ばれ、寝ていたはずの猫が片目を開けた。
「ああ、起きてる。ずいぶん前からな」
どうやら寝ているフリをしていたらしい。
「ずいぶんと篠宮さんのこと、気に入ったみたいだね?」
遊介の質問にフンと鼻を鳴らし、猫は起き上がって答える。
「あの娘の霊力は、今まで見てきた人間の中で上質だからな。さすがは巫女というべきか」
背伸びをして毛繕いを始めた。その様子を見ながら、遊介は顔に微笑を浮かべる。
この猫とは長い付き合いだが、今まで遊介以外の人間に寄って行ったことが無かった。大して人間に興味を示さないのだ。
そんな猫が珍しく寄って行ったので、遊介は昨日から聞いてみよう考えていたのだ。
そんな彼の表情が、微笑から一転して真剣なものへと変わる。
「じゃあ、もしもの時は頼むよ」
その言葉に猫は頷かず、何の仕草もせずに遊介を見つめた。
そんな猫に対して、彼は茶化すように笑って言う。
「大丈夫だって、…念のためにだよ」
その笑顔の裏に何があるのか、猫は察することができた。遊介は隠しているつもりだろうが、猫は簡単に見透かしてしまう。
目で問いかけたが、彼は視線を逸らさずに堂々と見つめ返す。
(……何を言っても無駄なようだな)
そう思った猫は、彼から視線を逸らして丸くなった。
「わかった。…もしもの時は我に任せろ」
気が進まないが、遊介の覚悟を知った上で断ることはできなかった。
答えを聞いた遊介は安堵の表情を浮かべる。
「頼んだよ」
そう言い、遊介はベッドの上であぐらをかいて目を閉じた。彼の身体を赤黒い霊力が薄く覆う。
これは霊力を練り上げ、密度を高める修業の一つ。この修業をするために、シャワーを浴びて身体を清めておいたのだ。
放出された霊力は陽炎のように立ち上り、遊介の身体に纏わりついていく。
「くちゅっ」
いきなり聞こえた音に驚き、遊介は集中力を乱した。身体を覆っていた霊力が拡散して消失する。
反動で生まれた風が部屋に渦巻いたが、幸いにも被害は無かった。
「……今の音は?」
遊介が目を閉じたまま聞くと、猫はシャワールームの方を見て答える。
「くしゃみだな。湯浴みにしては、少し時間がかかりすぎている」
猫は少し不機嫌そうだ。修業に失敗した反動が原因だろう。
申し訳なく思いながら、遊介は目を開けた。ベッドから降りて、猫の頭を謝罪代わりに撫でる。
「くしゃみの音程度で集中力を乱すな」
「ごめん。鰹節を奮発するよ」
猫は不満そうだったが、何も言わずにされるがままになった。
――ガチャッ、キイィッ
ドアが開く音がし、そっちを見てみると唯がシャワールームから出て来ていた。
昨日とは違い、ちゃんと服を着ている。
「篠宮さん、くしゃみしてたみたいだけど大丈夫?」
「はい、大丈夫です。心配をかけてしまってすみません」
遊介は念のために聞いただけなのだが、唯は律儀に答えてくれた。
「くちゅん」
くしゃみの音が響き、遊介は目を丸くした。それから笑ってしまう。
笑われた唯は顔を赤くし、上目遣いで彼を睨み付ける。どうやら笑われたので怒ったようだ。
しかし、遊介は笑うのをやめなかった。
「ははは、身体が冷えているみたいだね。上に行って、温かい飲み物を買ってくるよ」
そう言って、遊介は部屋を出て行こうとした。
「待ってください。私も一緒に行きます」
唯が遊介の手を掴んで呼び止め、その瞳が何かを要求するように彼を射抜く。
昨日の彼女の説教を受けた時と、その表情が酷似していたので、遊介の背筋は自然と伸びてしまった。
「えっと、もしかして怒ってるんですか?」
「いえ、怒っていません。……怒る理由がありませんから」
そう唯は言うが、言葉の途中にあった間が彼女の感情を表している気がする。
「……怒ってるよね?」
「だから怒ってません。神崎さんは、私が怒る理由に心当たりがあるんですか?」
そう問われ、遊介は言葉に詰まってしまった。
確かに怒られる理由に心当たりは無い。しかし、現実に唯は怒っているのだ。
彼女の言葉と様子。二つの矛盾する要素は、遊介を混乱させる。
「……神崎さん、わからないんですか?」
混乱して言葉に詰まっている遊介に、唯は呆れ気味な声で聞いてきた。
彼女の質問に対して、遊介は素直に頷いた。すると、唯は溜め息をついて彼に言う。
「上に行くんだったら、朝食を食べに食堂に行きましょう。そこでなら温かい飲み物も飲めまし、くちゅっ」
言葉の最後でくしゃみをする唯の様子を見て、つい遊介は笑ってしまった。
唯は顔を赤くして遊介を睨み付けたが、すぐに同じように笑った。
「じゃあ、食堂に行こうか。篠宮さんが風邪をひく前に」
遊介の言葉に頷き、唯は掴んでいた彼の手から放す。そして、一緒にドアの方へと歩いて行くと猫が待っていた。
――ゴトン、ゴトン
電車に揺られ、二人は任務へと向かっていた。
「被害は小さいみたいだけど、行方不明者が多いみたいだね」
「はい、資料を見る限りだと、……一ヶ月でおよそ三百人が行方不明になってます」
二人は手に持っているケータイを見つつ、会話をしている。
遊介が見ているのは、被害のあった場所のネット検索によって得た資料。そして、唯が見ているのは、〈神楽〉のデータベースに保管されている資料だ。
資料に目を通していた遊介は、ふとケータイから目を離して窓の外を見た。そして、感慨深そうに呟く。
「……それにしても、こんな電車を使うなんて驚いたな」
「私も話には聞いていましたけど…、こんな電車だったなんて知りませんでした」
遊介の呟きを聞き取った唯が同意し、同じように窓の外を見た。
外は夜かと思うほど暗い。しかし、ケータイの時刻表示は午前十時だ。なら、なぜ外は夜のように暗いのか?
ついでに言うなら、なぜ二人以外の乗客がいないのか?
(来栖さんの言っていた電車が、〈神楽〉の所有している特殊車両だったなんて……)
遊介は思わず呟き、この電車に乗るまでのことを思い出す。
――朝食を終えた後、二人は神官服に着替えて来栖の部屋へ行った。
「今回の任務は妖の退治だ。情報によると被害は小規模だが、徐々に拡大しているらしい」
そこで言葉を切り、来栖は厳かに二人に言い渡した。
「〈神官〉の長として、君たちに命令を下す。現地へ行き、妖を退治してきてくれ」
雰囲気にのまれ、遊介はすぐに返事することができなかった。
その横で、大げさなほど深く礼をして答える。
「謹んで、お受けいたします」
慌てて遊介も礼をする。その様子を横で見ていた中村が、小さく笑うのが聞こえた。
「じゃあ、二人を連れていくわね」
そう言って、中村は頭を上げた二人に近づいて行った。そして、身体に触れる。
次の瞬間、中村と彼女に触れられた二人の身体が浅葱色の光が包みこんだ。
二人は身体から色素が抜けていく。そのことに気がつき、驚いて動こうとした。しかし、どんなに力を入れても、身体を動かすことができない。
『変な気分になるかもしれないけど、少しの間だけ我慢してね』
頭の中で声が響いたかと思うと、中村は手を二人から離す。
ようやく身体が動かせるようになり、遊介は自分の身体に目を落とした。身体からは完全に色素が抜け、透明になっている。
『…これは、霊体ですね』
頭の中で声が響き、遊介は思い出したように唯の方を見た。
同じように中村に触れられていた彼女の姿は、はっきりと彼の目に映っている。
唯は両手から中村へと視線を動かした。
『もしかして、これが中村さんの能力ですか?』
『ええ、そうよ。これが私の力、〈霊化〉。任意で実体を霊体に変えることができるの』
会話を聞いて遊介は納得していた。
中村と初めて会った日、彼女の気配が薄い気がして違和感があったのだ。しかし、次の日に会ったときは違和感は消失していた。
その理由は、彼女の力によるものだったのだ。おそらく、中村は霊体を分裂させることもできるのだろう。
『あまり実戦向きじゃないけど、妖に憑依して殺すくらいはできるわ』
その言葉を中村の口から聞いた瞬間、遊介と唯に戦慄が走った。つい身構えてしまう。
『でも、憑依って精神的に疲れるのよね。できる回数も限られてるし。…まあ、この話は終わりにして行きましょうか』
知ってか知らないでか、彼女は遊介たちに笑顔を向けて言った。張りつめた空気が、少しだけ緩んだので遊介は質問する
『行くって、どこに行くんですか?』
『電車乗り場よ。まあ、唯ちゃんも初めてよね?』
質問をしながら、中村は壁を突き抜けた。その光景を目の当たりにし、壁の前で二人は立ち止まってしまう。
次に見た光景を見て、二人は悲鳴を上げそうになってしまった。
『どうしたの?』
『『っ!?』』
中村の顔が、壁から突き出してきたのだ。見ようによっては、壁から彼女の顔が生えてきたように見える。
あまり動じた態度を見せない唯の顔が、真っ青になってよろめいた。それに気がついた遊介は、慌てて彼女を支える。
『あっ、ごめんなさい。そっか、二人は霊体になるのは初めてなのよね』
謝りながら、中村は壁から出てきて唯の様子を見る。
『唯ちゃん、ごめんなさい。……驚かすつもりは無かったの』
申し訳なさそうに謝る中村に、唯は遊介に支えられた状態で首を横に振った。
『私は大丈夫です。行きましょう』
『…そうね。いくつか壁を通り抜けるから、迷わないようについてきてね』
唯の気丈な言葉に、中村は頷いて壁を通り抜けた。
唯が深呼吸をし、遊介から離れて後に続く。それを見た遊介は感心してしまった。
(篠宮さんって、勇気があるんだな…)
そう思いながら、勇気を出して壁へと一歩踏み出した。出した方の足が壁に吸い込まれ、そのまま身体が壁を通り抜ける。
何の手応えも無かったが、おそらく霊体になっているせいだろう。
『神崎君、こっちよ』
声が聞こえ、横を向くと中村と唯がいた。彼女たちは、突き当たりの壁を通り抜ける。
その後を追いかけ、遊介は走って壁を通り抜けた。
その後もいくつか壁を通り抜け、三人は広間へと出た。
『この下に、電車乗り場があるの』
『下に、ですか?』
質問をしながら、遊介は広間を見回した。しかし、階段やエレベーターの類は見あたらない。
『神崎君、今の私たちは霊体。だからエレベーターとかは必要無いの』
そう言うと、中村は目を閉じた。彼女の身体が床へ、ゆっくり沈み始める。
『まずは、自分が海の中にいるのをイメージして』
中村は床に沈みながら、遊介たちに話しかける。
『その暗い深海に沈んでいくの』
遊介は目を閉じ、言われた通りに自分が海の中にいるのをイメージした。海の中を何もせず、漂っているのをイメージする。
目を開けてみると、そこは確かに海の中だった。しかし、不思議と息苦しくない。
それに気がついた遊介は、この海が現実でないことを悟った。
『そう、そのまま暗い底へ沈んで行って』
声が頭の中で響き、その指示に従った。
全身の力を抜くと、ゆっくりと身体が底に向かって沈み始める。そこで視界に何かが現れた。
その何かは人の形をしている。
『久しぶりだな』
人の形をした何かが発した声に、遊介は聞き覚えがあった。
『俺を覚えているか?』
『………』
遊介は質問に答えなかった。代わりに睨みつける。すると、人の形をした何かが笑って言った。
『その目、やはり覚えていたか』
『忘れるはずが無いだろ』
そう、忘れるはずが無いの。この声は、力を得るときに聞いた声だ。遊介消えかけていたの憎しみに火をつけ、煽って怒りの炎へと変化させた。
力を与えてくれたことには感謝しているが、その力に苦しみを与えられているのも事実だ。
『そう睨むな。力を手に入れたおかげで妹の仇を取れただろ?』
『……だから、何なんだ。お前が、俺に与えた力のせいで何人の人が』
その言葉に反論しようとするが、何かは畳みかけるように言ってくる。
『お前は力を欲した。その事実に変わりは無いだろ』
『…っ!』
二つの事実を突きつけられ、遊介は黙り込んでしまった。
人の形をした何かが言葉は、遊介の頭の中で反響した。
『まあ、ゆっくり考えろ』
その言葉を聞いたのを最後に、遊介の視界は海底の暗闇に閉ざされた。意識が遠のき、全ての感覚が消えていく。
『……さん、ざきさん』
遠のいていく意識の中で、遊介は自分を呼ぶ声を聞いた。続いて、何かが身体に触れた感覚。
「神崎さん!」
必死な呼びかけに、遊介は目を薄く開いた。まず視界に入ってきたのは、泣きそうな少女の顔。
「神崎さん、しっかりしてください!」
「……篠宮さん?」
少女の名前を呼ぶと、彼女の瞳に宿るが光が揺れた。どうやら、泣きそうになっているらしい。
そのことを不思議に思っていると、パーンと頭を叩かれた。鋭い痛みが走り、朦朧としていた遊介の意識がクリアになる。
「神崎君、大丈夫?」
痛む後頭部を押さえながら、後ろを振り向くと中村がいた。どうやら、彼女が遊介を叩いたらしい。
「…痛いです」
「…そう、それなら大丈夫ね」
何が大丈夫なのか聞こうとしたが、彼女の安堵した様子を見て聞けなくなった。
そこで唯のことを思いだし、彼女の方を見る。こちらも、安堵した様子だった。
目が合うと、唯は表情をひきしめて言う。
「神崎さん、すごく心配しました」
状況を整理する。目を開けると、目の前に泣きそうな顔をした唯がいた。どうやら、心配をかけてしまったらしい。
いまいち状況を理解できていないが、それはわかったので遊介は彼女に謝った。
「えっと…、心配かけてごめん。ところで、何があったんですか?」
とにかく状況を理解しようと質問すると、答えてくれたのは中村だった。
「トランス状態に陥っていたのよ。下手したら、危険な状態になっていたわ」
「トランス状態?」
聞き慣れない言葉だったので、聞き返すと中村は頷いて説明を始めた。
「トランス状態っていうのは、霊体が何かの干渉を受けている時の状態。霊体の時は無防備になるから、干渉を受けやすくなるの。干渉を受け続けた場合、意識不明になるわ」
説明を聞きながら、遊介は人の形をした何かのことを思い出していた。干渉してきたのは、その何かに間違いないだろう。
そこまで考えたところで、遊介の頭に疑問が浮かび上がった。
(…何が目的で干渉して来たんだ?)
人の形をした何かが干渉してきたのは、彼に力を与えた時を合わせて二度だけだ。二度とも目的があって干渉してきた。
だから、話をするだけのために干渉してきたとは考えにくい。
(……また、あの時みたいになるのか?)
そう考えた遊介の頭の中には、ある光景が映し出されていた。
目の前に身体から血を流している男がいる。その男の顔には、半分に割れた仮面があった。男は緋色の霊力を纏い、それが炎となって自分に襲いかかってくる。
「万物を灰燼となせ〈迦具土〉!」
男の言霊に応じるように、緋色の炎は高熱の白炎へと変わった。神をも焼き尽くす炎。
それに動じることも無く、その場に立っていた。
「…無駄だ。神威・烈閃」
感情の無い声で言い、手に持っていた大刀を振るった。赤黒い閃光が走り、炎は薙ぎ払われる。
「……お前に、俺を止めることはできない」
言いながら、大刀を頭上へと振り上げた。赤黒い霊力が激しく迸って天を衝く。
自分の身体なのに、自分の意思に反して動いている。身体は自分の物だが、それを動かしているのは別の何かだった。
遊介は頭を振って、その記憶を無理やりに追い出す。
「どうしたんですか?」
いきなり頭を振ったので、唯に心配されてしまった。
「いや、何でも無いよ」
あまり思い出したく記憶なのだ。それを誰かに話す気にはなれない。
彼の様子を見ていた中村は、何か得心したよう顔で頷いて言った。
「……干渉による影響は個人差があるんだけれど、神崎君は受けやすかったみたいね。例えば神崎君の力が関係してたりして」
的を射た彼女の言葉を無視して、遊介は周囲を見回した。そして、ある物に目を留めて見開く。
「……あれは何ですか?」
それは大きな金属の塊のような物だった。まるで、軍用の特殊車両のようだ。
「あれが〈神楽〉の電車よ。その名前は――」
明かりが点灯し、その電車の全貌が明らかになった。その電車は機関車のようなフォルムで、通常よりも大きい車両が一つ。
「麒麟よ」
その神獣の名を冠する電車を見て、遊介と唯は見て絶句したまま見つめていた。