03
『――崎。神崎遊介、起きているか?』
部屋中に響く声で、猫はアクビをしながら起きた。そして、不機嫌そうに床を睨み付ける。
『神崎、起きているのなら返事をしろ』
響いている声は、来栖のものだ。
猫は鼻息をつくと、寝ている遊介の顔の方へと移動する。
よっぽど疲れていたのか、彼が起きる気配はない。それがわかったので、猫は肉球のついた前足を遊介の顔に乗せる。
「いっ…!?」
遊介は飛び起き、ベッドから落ちかけた。
「……何するんだよ。天岐」
猫に文句を言いながら、右頬を手で擦る。
どうやら、猫に爪を立てられたらしい。
「来栖という男の声が、部屋中に響いてうるさい。返事をしてやれ」
不機嫌そうな声で言い、猫は丸くなった。
床の方を見てみると、薄い光の膜が張っている。来栖の霊力だ。
呼びかけは、まだ続いていた。
『神崎。もう朝だ、起きて返事をしろ』
この部屋中に響く声は、確かに何度も聞きたくは無い。
猫が手荒な起こし方をしたことに、遊介は納得する。
「おはようございます。来栖さん」
ベッドから下りて返事をすると、テーブルの上に来栖が現れた。
現れたといっても実体ではなく、昨日の結界と同じ映像のようだ。
「すぐに返事をせず、すみません」
遊介が頭を下げて謝るが、来栖は気にした様子は無い。
『いや、それに関してはいい。すぐに返事ができなかったのは、不知火との旅での疲れがたまっていて、起きられなかったからじゃないのか?』
来栖の鋭い指摘に、遊介は苦笑して頷く。
「……師匠は厳しい人でしたから。ところで、用件は何ですか?」
『とりあえず、私の部屋まで来てくれ』
遊介の質問に答えると、来栖の姿がテーブルの上から消失した。
「そいうことらしいけど、天岐も来る?」
猫は返事をせず、丸まったまま尻尾を一度だけ振ってニャーと鳴いた。どうやら、人間の言葉を喋るのが面倒らしい。
「わかった。じゃあ、行ってくるよ」
そう言って、遊介は部屋から出て行った。
来栖の部屋には、一人の少女が来ていた。
少女の名前は、篠宮唯。〈神官〉の一人だ。彼女は背筋を伸ばし、来栖の前に姿勢よく立っている。
来栖は顔の前で手を組みながら、唯に話しかける。
「篠宮、ようやく君の組む相手が決まった。昨日、来たばかりだが――」
「私は、一人でも十分だと言ったはずです。誰とも組む気はありません」
来栖の言葉を途中で遮り、結いは年不相応の話し方で言った。
「……ここにいる以上、規則は守ってもらわないと困る」
「私は何度も一人で任務に出て、無事に生還しています。組む必要はありません」
頑なな唯の様子に、来栖はため息をついて横に立っている秘書の方を見た。
彼女の方も困惑した顔で、唯を見ている。
――コンコンッ
ドアがノックされる音が、部屋に響いた。
「……来たな。入ってくれ」
「失礼します」
開けて部屋に入ってきたのは、ヨレヨレの服を着た少年――遊介だった。
彼はドアを閉めると、来栖の前に立っている唯を見る。すると、その表情に一瞬だけ僅かな陰が生まれた。
「来たか。神崎、こっちに来てくれ」
指示に従い、遊介は机の方へ近づいてくる。
それを見た唯は、僅かに体を強ばらせた。そして、一歩だけ避けるように身を退く。
「紹介する。彼女が、君と組むことになる〈神官〉だ」
来栖が言ったのを聞いて思った。
(やっぱり、そういうことか……。そこにいる女の子と組むことになるんだな)
呼び出されたときに、用件については想像がついていた。なので、大して驚きもしない。
「篠宮、彼が新しく入った〈神官〉だ。名前は、神崎遊介。不知火の弟子だ」
「誰の弟子だろうと、私は組むつもりはありません」
来栖にきっぱりと言う唯を、遊介は目を丸くした。
昨日、中村から聞いた説明通りなら、誰かと組んだ方が賢明だ。しかし、目の前で少女が組むことを拒絶している。それもはっきりと。
「それに篠宮の習わしで、異性と同じ場所に長時間いることは、禁じられています。今、私があなたと話しているのは、篠宮から許可が出ているからです」
唯の言葉を聞いた来栖は、ため息をついて彼女から視線を逸らして、机の引き出しから何か――手紙を取り出した。そして、それを広げて読み始める。
「君の実家からの手紙には、「必要があれば異性と共に行動すること及び同居を許可する」とも書いてある」
すると、唯は来栖の手から手紙を奪い取った。
「………」
手紙を読んだ唯は、何も言わず手紙を来栖に返した。
来栖は唯から手紙を受け取ると元のように折り畳み、机の引き出しにしまいながら彼女に言う。
「そういうことだ。規則に従って、君は神崎と組んでもらう」
今度は素直に頷いた。それを見た来栖は、遊介の方を見る。
「神崎、君の方もいいな?」
遊介は少しの間、沈黙して少女の方を見ながら考え込む。すると、彼女と視線があった。
少女は、すぐに視線を顔ごと逸らして言う。
「じろじろ見ないでください」
「あっ、ごめん」
少女に謝ってから来栖の方を向き、質問に答えを出す。
「僕の方も、それでいいです」
特に意見は無かったので、――年の近い異性と同居することに抵抗はあったが――少女と組むことにした。
「両方が納得してくれたようだな。正式に登録するから、この書類にサインしてくれ」
来栖は机の上に置いていたファイルから二枚の紙を取り出し、遊介たちにペンと一緒に渡した。
遊介は迷うことなく書類にサインし、来栖に渡して少女の方を見る。彼女の方は少し躊躇いながら、書類にサインして来栖に渡した。
二人から書類を受け取った来栖は、二人のサインを確認してファイルに入れた。
「この時より、神崎遊介と篠宮唯の二人が組むことを認める」
パートナー登録も終わり、遊介は部屋へ荷物を取りに戻った。この部屋は組む相手が決まるまで一時的に与えられただけなので、荷物を持って移動しなければならない。
もともと持ってきた荷物が少なかった上に、昨日は寝ただけなので時間はかからない。
「天岐、起きて。部屋移動するよ」
ベッドの上で眠っていた猫の背中を、ぽんぽんと軽く叩いて起こしにかかる。猫はむくりと起き上がり、アクビと背伸びを同時にした。
「ほら、行くよ」
遊介はドアを開けて、部屋から出るように急かした。
猫はベッドから飛び降り、走って勢いをつけて遊介の肩に飛び乗る。移動は電車や車などは使わず、長距離の徒歩が多かったため、猫が遊介の肩に乗るのは普通になっていた。
「わっ!」
部屋の鍵を閉め、これから使う部屋に移動しようとしたところで、遊介は驚いてのけぞった。
すぐ横に中村が立っていたのだ。気配がしなかったので、思わず驚いてしまった。かなり心臓に悪い。
「ごめん、驚いた?」
「驚きました。……どうしたんですか?」
中村の質問に正直に答え遊介は彼女に質問した。
「ちょっと、ね。話があるんだけど、いいかな?」
そう言って答えを待たずに、中村はエレベーターの方へ歩き出した。遊介は後を慌てて追いかける。
エレベーターに乗り、一つ上の階に上がった。そして、すぐ近くの喫茶店に入って座る。
「中村さん、話って何ですか?」
中村はメニューを手に取り、眺めながら話し始める。
「話っていうのは、これから神崎君と同居する篠宮さんのこと」
ウェイトレスを呼び止め、二人分のコーヒーを注文して話を続ける。
「あの子、神崎君と組むことを拒絶してたでしょ? あれには、理由があるの」
「理由、ですか?」
「あの子の実家は、〈篠宮神社〉っていう神社なの。小さい頃から妖を退治たりしていて、かなりの実力者よ。その実力者としての意識と、実家での習わしがあるせいで意固地になっているの」
中村は自分の家族のことを話すように、優しい目つきで話し続ける。
「そのせいだと思うんだけど、他の〈神官〉たちとのつき合いもぎくしゃくしているから、神崎君がフォローしてあげてね」
話し終わったところで、ウェイトレスがコーヒーの入ったカップを持った来た。
「…何で、その話を僕にするんですか?」
遊介が疑問を口にすると、中村はコーヒーを一口だけ含んで答える。
「篠原さんと同居するんでしょ?だったら、同居者のことを気遣うのは、当然のことじゃない」
「………」
反論することができず、遊介はコーヒーをブラックのまま飲んだ。そして、コーヒーの苦さに顔をしかめる。
その様子を見た中村は、顔に微笑を浮かべて言う。
「まあ、神崎君が、お人好しっていうところも理由なんだけど」
それを聞いた遊介は、カップを置いて聞き返す。
「僕が、お人好しですか?」
「うん、これは私の勘なんだけどね」
中村はニコニコと笑って、コーヒーを飲みながら答えた。
昨日とは別人のような彼女に戸惑いつつ、遊介はコーヒーを飲んだ。そして、また顔をしかめる。
「引き受けてくれる?」
中村は、砂糖の入った瓶を遊介に差し出しながら聞いてくる。瓶と彼女を交互に見た後、瓶を受け取って答えた。
「わかりました」
「うん、篠宮さんのことお願いね」
そう言って、中村は伝票を持ってレジに向かった。
「相変わらずのお人好しだな。遊介」
膝に乗ってくつろいでいた猫が言うと、遊介はコーヒーに砂糖を入れる手を止め、猫を見て言う。
「……天岐まで」
「本当のことだろ。困っている老人を見かけたら、どうしたのか聞いて助けてやったりな。それで宿に帰るのが遅くなって、あの男に殴られるのがわかってても懲りずにやる」
「………」
具体例を挙げられ、遊介は黙り込んでしまった。確かに身に覚えがある。
たまたま困っている人を見かけ、事情を聞いた後に長期の滞在で得た土地勘で案内する。それで宿に帰ると、帰りが遅いのに苛立っていた不知火に殴られたのだ。
殴られるのは痛いが、どうにも見かけたら放って置けないので、同じことを繰り返してしまう。
「まっ、これから長い付き合いになる人間のことだ。今回に関しては引き受けて正解だな」
「………」
猫の言葉は正論なので、遊介は全く反論できない。
「これからは、あの男に殴られることも無いわけだ。だから、好きなだけお人好しぶりを発揮すればいい」
「……天岐、僕がお人好しなのはわかったから」
容赦のない言い方に、さすがに耐えられなくなってギブアップすると猫は口を閉じた。
砂糖を入れたコーヒーを飲みほし、ゆっくり深い溜め息をつく。そして、イスにもたれて目を閉じた。
(僕が、お人好しか……)
猫に言われて、ようやくわかった自分の一面について考えてみると、すんなりと違和感無く受け入れることができる。
「天岐、そろそろ行こうか。篠宮さん、部屋で待ってるだろうし」
そう言って遊介は荷物を持つと、猫は彼の肩まで駆け上った。
猫が肩に乗ったのと同時に、遊介は立ち上がって喫茶店を出る。そして、喫茶店を出て行った。
「悩み始めたかと思えば、すぐに元通りになるな……。お前は」
猫が耳元でため息混じり囁くのを聞き、遊介は苦笑しながら猫の背中を優しく撫でた。猫は目を閉じて、されるがままになる。
エレベーターで一つ下の階に戻り、一つの部屋の前で立ち止まった。部屋の番号を確認してから、遊介は鍵を鍵穴に差し込んだ。
遊介が荷物を取りに行っている間、唯はベッドの上で正座していた。彼女の視線は、部屋のドアに向いている。
今日、何度目かの溜め息を憂鬱そうにつく。
(異性と同居するなんて……)
一年前まで、唯は必要以上の外出はしなかった。それは、篠宮の慣わしが彼女を縛っていたからだ。
一年前、ここに来てからも部屋をあまり出ていない。そのせいで人との関わりに疎くなってしまい、どのように他人と接していいのかわからないのだ。ついでに言うなら、今日から彼女と同居するのは異性だ。異性との付き合いも、篠宮の慣わしで最低限度しか無かった。なので、余計に憂鬱になってしまう。
「はぁ……」
色々と考えて憂鬱になり、また溜め息をついてしまう。
部屋に戻ってきてから唯は部屋を急いで掃除し、シャワーを浴びて服を着替えた。さらに、慌てて髪をドライヤーで乾かして櫛で梳いたのだ。
これも篠宮の慣わしの一つだ。人を迎える時は身なりを整えることと教えられ、その教えを唯は律儀に守っている。そのせいか、何度も気になって手鏡で前髪を確認したり、着ている部屋着の浴衣にしわが無いかを確認したりしていた。
憂鬱な気分を変えるため、唯は目を閉じて深呼吸をした。そして、篠宮の慣わしを思い出して呟く。
「篠宮の巫女は、祓い巫女。人に迫る災禍を祓う者」
そして、再び深呼吸をして目を開こうとした。
――ガチャッ
前触れ無く鍵の開く音がし、唯の鼓動が大きく跳ね上がった。
心の準備をする暇も無く、少しだけドアが開いて来栖の部屋で紹介された少年の顔が見える。
「……入ってもいいかな?篠宮さん」
「そういうことは、ドアを開ける前に言うべきだと思います。それと、ドアもノックせずに入るなんて非常識です」
質問に、容赦のない言葉が返ってきた。
「ごめん、次からは気をつけるよ。入っていいかな?」
本当に申し訳なさそうに謝る遊介に、言いすぎたかと唯は言葉に詰まってしまった。そのまま自己嫌悪に走りそうになる。
「篠宮さん?」
答えが無いのを怪訝に思った遊介が、声をかけると唯は我に返った。そして、遊介が少しドアを開けたままの体勢だということに気がつく。
「…いつまで、そこに立っているつもりですか? 早く部屋に入ってください」
動揺しているせいで、また突き放すような言い方になってしまった。気にした様子も無く、遊介は部屋に入ってドアを閉める。
荷物を隣のベッドに荷物を置き、彼が座ると彼の肩から猫が飛び下りた。猫はベッドを飛び移り、唯の膝の上に乗ってニャーと鳴く。
唯は猫を見下ろしながら、遊介に質問する。
「この猫、あなたのペットですか?」
「ん? ああ、まあ似たようなものかな」
猫は匂いをつけるように、身体をこすりつけてくる。その様子を見た唯は、そわそわと落ち着きが無くなり始めた。
「この猫、名前は何ていうんですか?」
「天岐。天空の天に、岐路の岐で天岐」
猫は唯の膝の上で寝転がった。完全にリラックスしている様子を見て、さらに唯の様子が忙しくなる。
「触りたかったら触っていいよ。天岐も嫌がってないみたいだし」
猫が触りたいのを我慢している彼女の様子に、遊介は苦笑しながら言った。すると、唯は鋭い目つきで見て言う。
「べ、別に触りたいわけじゃ…、ありません」
口元が歪んでいるので、説得力が無い。猫が寝返りを打って喉を鳴らすと、唯の視線は猫に釘付けになった。
「昨日、シャワーを浴びずに寝たから浴びてくるよ。篠宮さん、天岐の面倒を見といてくれるかな?」
返事を待たずに、遊介は荷物から着替えを取り出してシャワールームに行ってしまった。
それを見送った唯は、再び猫を見る。そして、おそるおそる猫に手を伸ばした。そして、
ゆっくりと猫の頭を撫でる。
――ニャー
猫は気持ちよさそうに目を細めて鳴いた。それで箍が外れたのか、唯は何度も猫を撫で
てから抱きしめる。
彼女の表情は、年不相応の大人びたものから年相応の笑顔に変わっていた。
「…可愛い……。よしよし」
遊介がシャワーを浴びて出てくる頃には、唯は猫を抱きしめたまま顔を赤く染め、笑
顔で猫に頬ずりしていた。遊介がシャワールームから出て来たことに気がつかないぐ
らい、猫の方に気を取られている。
(……やっぱり、普通の女の子なんだな)
唯の様子を見ながら、そう遊介は思った。無意識のうちに、顔に笑みが浮かべている。
ひとしきり頬ずりをし終えると、ようやく唯は遊介に気がついた。次の瞬間、耳から湯気が出そうなぐらい顔を真っ赤にする。
「こ、これは、その……」
「別に、隠さなくてもいいよ。猫、好きなんだ?」
遊介が言うと、唯は顔を隠すように俯いてしまった。
そんな彼女の様子を見た遊介は、自分のベッドへ歩いて行って座り、首にかけていたタオルで、まだ水気の残っている髪の毛を拭く。
「天岐とは、力を手に入れた時に会ったんだ。それから、ずっと一緒にいてくれてる」
話しながら、遊介は横目で唯の様子を盗み見た。俯いてはいるが、猫を放す気は無いらしい。
(よっぽどの猫好きなんだな…)
そう思いながら、遊介は話を続ける。
「篠宮さんは、すごく真面目で大人びてると思ってたけれど、さっきのを見て安心したよ」
遊介の言葉に、唯は耳まで赤くして言う。
「…さっき見たことは、忘れてください」
「どうして? 別に、変な事じゃ――」
「どうしても、です!」
悲鳴のような声で、遊介の言葉は遮られてしまった。遊介は目を丸くして驚いている。
猫は唯の腕から抜け出し、ベッドの下にもぐりこんでしまった。それを見て、唯は少し落ち込んだような表情になる。
それを見て、遊介の顔に笑みが浮かんだ。
「天岐、こっちに来てくれないかな?」
頼むように言うと、猫はベッドの下から出て来て遊介の隣に飛び乗る。
遊介は荷物の無から鰹節の袋を取り出し、猫を抱えて唯のいるベッドに移動した。その行動に驚いた唯は、ベッドに正座したまま彼を警戒するように硬直する。
「篠宮さん、手を出して」
言いながら、遊介は鰹節の袋を開封する。
唯はおそるおそる両手を重ねて出してきた。遊介が彼女の手に鰹節を乗せると、猫が勢いよく唯の手に飛びついた。
「きゃっ、くすぐったい!」
唯の可愛らしい悲鳴が部屋に響いた。
鰹節を食べる猫の舌が、彼女の手を舐めてくすぐったのだ。猫が鰹節を食べている間、ずっと唯は動けずに悶えていた。
猫は鰹節を食べ終えると、彼女の膝に乗って丸くなった。やがて目を閉じ、寝息が聞こえてくる。
その様子を見て、唯は笑顔になった。それを見た遊介の方も笑顔になる。
「眠ったら、しばらく起きないよ」
遊介が声をかけると、思い出したように一瞬で表情がひきしまった。
「いつまで、同じベッドの上にいるつもりですか? 非常識ですよ。破廉恥です」
「あっ、ごめん」
指摘されて、遊介は自分のベッドへ慌てて移動した。
「まったく」と言いたそうな表情で、唯は溜め息をついて言う。
「そういえば、まだ自己紹介してませんね」
唯は猫を膝に乗せたまま、遊介の方に向き直った。
「篠宮唯です。竹編に難しいほうの條で篠、宮崎県の宮。唯は唯一の唯です」
自己紹介をされたので、遊介の方も自己紹介する。
「僕の名前は、神崎遊介。神社の神に、宮崎県の崎で神崎。遊ぶに介護の介で遊介。これから、よろしくお願いします。篠宮さん」
手を座ったまま差し出した。すると、唯は躊躇うように、ゆっくりと手を伸ばした。そして、その手を握った。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
互いの自己紹介と挨拶を終えた二人は、それきり黙り込んでしまった。話題が無いというのもあるが、二人きりという現状が一番の原因だろう。
――ぐうぅぅっ
いきなり聞こえた地響きのような音に、唯は驚いて部屋を見回した。続いて横で倒れる音がする。
「……ごめん、今のは僕のだよ。そういえば、三日ぐらい何も食べてないような気がする……」
ベッドに倒れ、力の入ってない声で言う遊介を見て唯は呆然とした。
――きゅるるるっ
可愛らしい音が聞こえた。何の音かと音のした方を見てみると、唯が顔を赤らめている。
「私も朝食、食べてませんでした…。よかったら、一緒に食べに行きますか?」
唯の提案に頷き、遊介はなんとか起き上がった。ふらふらと頼りない歩き方で、部屋を出て行く。
それを見た唯は、名残惜しそうに猫を見てベッドの上に移した。そして、荷物から財布を取りだして部屋を出ていく。
二人が上の階にある食堂に行くと、そこには何人か人がいた。唯はふらつく遊介を誘導して、食券売場に連れて行く。
「何が食べたいですか?」
「…ラーメンとカツ丼、それに洋定食」
唯は遊介の言った食券と、自分の食券を買って遊介をテーブルに連れて行った。
「私が取りに行ってきますから、ここにいてください」
そう言い残して、唯はカウンターの方へ行った。それを遊介は力が入らない体を、机に伏せて見送る。
唯は食券を渡し、用意されるのを待ちながら考えごとをしていた。
自分が突き放すような言い方をしても、優しく話しかけてくれた。それは、今まで他の人間にもしてもらったことだ。その人間たちは、篠宮の習わしを守るために突き放すような態度を取ったせいで、いつのまにか離れて行ってしまった。
(もしかしたら、彼も……)
離れて行かれるのが怖い。でも、自分には篠宮の血が流れている。篠宮の教えを破りたくないという思いが強い。
二つの異なる思いが、ぶつかり合って唯が悩んでいると、ラーメンとカツ丼の乗ったトレーが目の前に置かれた。続いて洋定食と自分の分の和定食の乗った二つのトレーが置かれる。
そこで、あることに唯は気がついた。三つのトレーを同時に持つことができないのだ。
「篠宮さん、どうしたの?」
どうやって運ぼうか悩んでいる唯に、誰かが声をかけてきた。
唯は声の主を確認する。彼女に声をかけてきたのは、唯と同じ〈神官〉の女子二人組だ。あまり話したことが無いので、名前は覚えていない。
「わー、すごい量ね。それ、篠宮さんが一人で食べるの?」
女子の片方が、唯の目の前に置かれた三つのトレーを見て目を丸くした。
「えっと、その……」
いつもなら、敬語で適切な対処ができるのだが、考え事をしていたせいでできなかった。人付き合いに疎いということもあり、口ごもって余計に何も言うことができない。
もう片方の女子が、じっと三つのトレーを見たまま質問してくる。
「……運ぶの手伝ったほうがいい?」
その質問をされ、ようやく頷くことができた。
それを見て確認した女子は、ラーメンとカツ丼の乗ったトレーを持ち、キョロキョロと何かを探すように食堂を見回す。そして、すぐに視線を留めて歩き出した。
「ちょっと待ってよ。響ちゃん」
そう言いながら、もう片方の女子も洋定食のトレーを持って追いかけて行った。
少し遅れて、唯も自分が食べる分のトレーを持って慌てて追いかける。
女子二人に追いつくと、女子の一人が立ち止まった。そして、一つのテーブルを指差して聞いてくる。
「……あそこに持って行けばいいの?」
女子の指が差している方向には、テーブルに伏せている遊介の姿があった。
「あの男子、誰? 見かけない顔だよね?」
もう片方の女子は、いかにも興味津々というような表情で遊介を見ている。
唯はというと、女子の指摘に驚きながら質問した。
「…なんで、わかったんですか?」
「……普通に考えて、この量を篠宮さんには食べきれない。……だったら、他に食べる人がいるはず。……その人は、動けないぐらい空腹なはず。……その条件に該当する人を探しただけ」
それを聞いた唯は、唖然としながら目の前にいる女子を見つめた。
「……見た限りだと、早く持って行った方がいいと思う」
女子の判断を聞いた唯は、我に返って慌ててテーブルの方へ歩いて行った。その後に女子二人が続く。
「すみません、お待たせしました」
謝罪しながら、唯は遊介の前に洋定食のトレーを置いた。
すると、遊介はゆっくりと起き上がって、目の前の洋定食を見る。そして、ナイフとフォークを掴んで、飢えた獣のように勢いよく食べ始めた。
その様子を見た唯は、驚いて目を丸くする。
「すごい食欲だね。そんなに、お腹が空いていたのかな?」
女子の一人も、唯と同じように目を丸くしながら言った。
もう一人の方は、表情を変えることなく食べるのに夢中になっている遊介の前に、カツ丼とラーメンが乗ったトレーを置く。
――きゅるるるっ
可愛らしい音が聞こえ、女子二人が唯の方を見た。唯は頬を赤くして俯きながら言う。
「…朝食、まだ食べてないんです」
「あっ、もしかして、これが篠宮さんの?」
女子の質問に唯が頷くと、女子は微笑みながら彼女に和定食の乗ったトレーを渡した。
唯はトレーを受け取ると、遊介の正面の席に座る。女子二人も同じように座ったので、唯は困惑した。
「彼、新人なんでしょ?話がしたいから、一緒に座っていい?」
「…そういうことは、座る前に聞くべきだと思います」
冷静に言うと、女子は自分の額を小突いて笑った。
唯はため息をつき、居心地の悪さを感じながら食べ始める。遊介の方を見てみると、洋定食を食べ終えてラーメンを食べ始めていた。
「……あの、なんで見てるんですか?」
さらに居心地が悪くなり、唯は遊介の隣に座っている女子に聞いた。唯が食べ始めてから、ずっと彼女は見つめていたのだ。
「なんとなく見てるだけだから、気にしないで」
気にするなと言われても、食事中に見られていて落ち着いていられるはずがない。
席を移動しようかと悩みながら、唯は箸を動かした。箸から、白飯や魚が食器に何度も落ちる。
(やっぱり、移動した方が…)
と唯が考えてトレーに箸を置いて移動しようとすると、隣に座っている女子が言う。
「……ようやく落ち着いたみたい」
「え?」
「……すごい勢いで食べていた彼、落ち着いたみたい」
女子の言葉で、唯は思い出したように正面を見た。
隣の女子からの視線が気になって忘れかけていたが、正面の席には遊介が座っていたのだ。
彼はラーメンを食べ終え、カツ丼を食べ始めていた。さっきとは違い、落ち着いた食べ方をしている。
目が合うと、彼は箸を動かす手を止めて聞いてきた。
「えっと…、この二人は?」
どうやら空腹すぎたせいで、女子二人が唯と一緒に座ったことに、気がついていなかったらしい。
「私の名前は、鳥居飛鳥。よろしくね、新人君」
「……鳴瀬響です」
二人が遊介に自己紹介するのを聞いた唯は、二人の名前を二度と忘れないように、頭の中で何度も復唱した。
「神崎遊介です。昨日の深夜に、ここに来ました」
「へえ、神崎君か。ねえ、ユウ君って呼んでもいい?」
自己紹介をした遊介に、親しげに鳥居は話しかけた。遊介は少したじろぎながら、彼女の質問に答える。
「いいですよ。好きな呼び方で呼んでください」
「じゃあ、決まりだね。ユウ君」
「……飛鳥、いきなりすぎ」
鳥居の親しすぎる態度に、鳴瀬が嗜めた。
一方の鳥居は、子供がするように首を傾げて言う。
「え? でも、本人はオッケーて言ってるよ?」
「……それでも、いきなりすぎる。……初めて会った人に、いきなり愛称をつけるなんて」
二人が言い合いを始めてしまったので、遊介は唯に視線で助けを求めた。しかし、唯は彼の視線に気づかずに食事を続ける。
「響ちゃんは、本当に硬いんだから。少しくらい柔らかくならないと、カレシできないよ?」
鳥居が言うと、鳴瀬は少し怒気が混じった声で言い返す。
「……自分だって、いないくせに」
「わ、私は、すぐに作れるもん。ひ、響ちゃんに合わせてるだけだもん。ほら、だって、私たちパートナーだから」
「……余計なお世話。……私だって、カレシぐらい作れる」
二人は遊介たちがいることも忘れて、口論を続ける。
(この言い合いが続くと、周りの人に迷惑になるんだろうな…。よし、止めよう)
そう決心して、箸をトレーの上に置いた。
「「あのっ、他の人に迷惑になりますから」」
二つの制止の声が同じタイミングに、異口同音で発せられた。
鳥居と鳴瀬の口論が止まり、同時に遊介たちの方を向いて目を丸くする。
一方の二人はというと、お互いに驚いて互いの顔を見ていた。
「…すごい。息、ぴったり」
「……うん、すごい」
鳥居と鳴瀬の口論が止まったのはいいが、別のことで気まずくなってしまった。
「…えっと、驚いたね。まさか、同じタイミングで同じことを言うなんて」
遊介は、なんとか話題を引っ張りだした。意図を察して話題に、唯が乗りかかる。
「…はい、驚きました」
「まあ、こういうこともあるよ」
「そうですね」
二人は、気まずい空気をなんとかしようとして、無理に会話を続ける。その様子を近くで見ていた鳴瀬が、鳥居に目配せをした。それに頷き返し、鳥居は気まずくなっている二人に助け船を出す。
「あのさ、ユウ君は、どうやって〈神楽〉に来たの? ほら、ここって結界が張られてて、普通はわからないから」
その助け船に、心の中でホッとしながら遊介は乗る。
「連れてきて、もらったんです。師匠に」
「……師匠って、誰?」
鳴瀬が興味を持ったように首を傾げて聞いてきた。
「不知火亮一です」
鳴瀬が眼にも止まらない速さで、自分の耳を塞いだ。
「えーっ!?」
とても意外だというように、鳥居が驚いて声をあげた。それを近くで聞いた遊介と唯は、顔をしかめた。
「……飛鳥、うるさい」
鳴瀬が文句を言ったが、鳥居は構わずに同じ声量で続ける。
「だって、あの不知火さんでしょ!? 一つの任務に出たら、いつ帰ってくるかわからなくて、連絡無しのキング・オブ・適当男の!!」
(そんなあだ名がついてるのか……)
いい加減な人物だという認識は、遊介にもあったが、そんなあだ名がつくまでとは思ってもいなかった。
いや、考えないようにしていただけで、心の内では納得している。
「……飛鳥、人に変な名前を勝手につけるのはよくない」
「えーっ? でも、皆には好評だよ?」
「………」
鳥居と鳴瀬の会話を聞きながら、遊介は周囲を見回してみた。すると、サッと遊介たちを見ていた何人かが視線を逸らす。
見られていたことに気がつき、額に冷や汗をかき始める。
「………篠宮さん」
「なんですか?」
「えっと、師匠って有名なのかな?」
鳥居と鳴瀬の会話や逸らされた視線の数、明らかに尋常ではない。
「私も噂を聞いたことしかないんですけど…、有名人らしいですよ」
どんな噂なのか気になったが、聞いたら後悔しそうな気がしたので、遊介は聞かないことにした。
(…師匠、何してるんですか……!?)
急に気が重くなり、遊介は頭を抱えたい気分になったが、小さく溜めを息つくだけにとどまった。
「そいつ、あの俺様野郎の弟子なのか?」
急に話しかけられ、遊介と唯だけでなく会話をしていた二人も振り向く。
そこには額にゴーグル、首にヘッドフォンを引っ掛けている青年が立っていた。
「……えっと」
「聞こえなかったのか? あの俺様な社会不適応者の弟子なのか? って聞いたんだよ。まさか、その耳は節穴なのか?」
罵倒を含んだ質問に、遊介は呆然として答えることが出来なかった。
「で、どうなんだ?」
重ねて質問してくる青年の質問に、遊介は黙ったまま頷いた。
「そうか。じゃあ、お前は今日から俺のパシリだ」
「……はい?」
突然の話に、遊介はついていけず聞き返した。青年は呆れ気味の声で言う。
「聞こえなかったのか?お前は、今日から俺のパシリだ。って言ったんだよ」
「………」
もう一度聞いても、やはり理解できない。だが、遊介はなんとなく理由を理解することができた。
(師匠、何やってるんですか……)
遊介は思わず机に顔を伏せたい衝動に駆られたが、長旅で鍛えられた精神力で堪えることができた。
「あの俺様野郎には、貸しがあるんだよ。だから、弟子のお前が野郎の貸しを返せ。いいな? 嫌とは言わせないからな」
青年はテーブルに肘をつき、遊介にヤクザのように詰め寄った。
――バチチチッ
「うっ……」
いきなり千鳥が鳴くような音がし、青年がテーブルに寄りかかるようにして倒れた。倒れた青年の背後に、前髪で顔が隠した少年が立っていた。
音も気配も無く立っていた少年の存在に、遊介だけでなく食堂にいた全員が驚いた。
「ごめん、翔が迷惑かけて」
少年は謝罪すると、青年の脚を掴んで引きずって行った。どうやら、少年は青年と組んでいる〈神官〉だったらしい。
「…祐弥君、相変わらず影が薄いね」
呆然とした鳥居の呟きに、鳴瀬が目を丸くしたまま黙って頷いた。
遊介は祐弥という少年が、青年を引きずって行った方向を見ながら考え事を始める。
(……師匠に貸し。となると、借金かな。師匠の借金っていえば、とんでもない額だろうから)
あまり考えたくない内容だが、遊介の性格からして放って置けないのだ。
「ユウ君、すごく難しい顔してるよ。大丈夫?」
考え事をしていたのが表情に出ていたのか、鳥居に質問してきた。
「いや、何でもありません」
「……何でも無いって顔じゃなかった。……何かあるなら、正直に話すべきだと思う」
鳴瀬に指摘され、遊介は言葉に詰まってしまった。三人の視線が遊介に突き刺さる。
すぐに平静を取り戻し、遊介は顔に微笑を浮かべて三人に言った。
「本当に何でも無いですから、気にしないでください」
その本当に何でも無いという様子は、三人の目には自然に映った。
「……なら、いいんだけど」
「何か悩み事があるなら、相談してね」
「………」
三者三様の言葉をかけられ、遊介は頷いて食べかけのカツ丼を食べ始めた