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妖狩りの少年  作者: 瀧野せせらぎ
新たな決意と歩み行く
4/17

03

『――崎。神崎遊介、起きているか?』

 部屋中に響く声で、猫はアクビをしながら起きた。そして、不機嫌そうに床を睨み付ける。

『神崎、起きているのなら返事をしろ』

 響いている声は、来栖のものだ。

 猫は鼻息をつくと、寝ている遊介の顔の方へと移動する。

 よっぽど疲れていたのか、彼が起きる気配はない。それがわかったので、猫は肉球のついた前足を遊介の顔に乗せる。

「いっ…!?」

 遊介は飛び起き、ベッドから落ちかけた。

「……何するんだよ。天岐」

 猫に文句を言いながら、右頬を手で擦る。

 どうやら、猫に爪を立てられたらしい。

「来栖という男の声が、部屋中に響いてうるさい。返事をしてやれ」

 不機嫌そうな声で言い、猫は丸くなった。

 床の方を見てみると、薄い光の膜が張っている。来栖の霊力だ。

 呼びかけは、まだ続いていた。

『神崎。もう朝だ、起きて返事をしろ』

 この部屋中に響く声は、確かに何度も聞きたくは無い。

 猫が手荒な起こし方をしたことに、遊介は納得する。

「おはようございます。来栖さん」

 ベッドから下りて返事をすると、テーブルの上に来栖が現れた。

 現れたといっても実体ではなく、昨日の結界と同じ映像のようだ。

「すぐに返事をせず、すみません」

 遊介が頭を下げて謝るが、来栖は気にした様子は無い。

『いや、それに関してはいい。すぐに返事ができなかったのは、不知火との旅での疲れがたまっていて、起きられなかったからじゃないのか?』

 来栖の鋭い指摘に、遊介は苦笑して頷く。

「……師匠は厳しい人でしたから。ところで、用件は何ですか?」

『とりあえず、私の部屋まで来てくれ』

 遊介の質問に答えると、来栖の姿がテーブルの上から消失した。

「そいうことらしいけど、天岐も来る?」

 猫は返事をせず、丸まったまま尻尾を一度だけ振ってニャーと鳴いた。どうやら、人間の言葉を喋るのが面倒らしい。

「わかった。じゃあ、行ってくるよ」

 そう言って、遊介は部屋から出て行った。


 来栖の部屋には、一人の少女が来ていた。

 少女の名前は、篠宮唯。〈神官〉の一人だ。彼女は背筋を伸ばし、来栖の前に姿勢よく立っている。

来栖は顔の前で手を組みながら、唯に話しかける。

「篠宮、ようやく君の組む相手が決まった。昨日、来たばかりだが――」

「私は、一人でも十分だと言ったはずです。誰とも組む気はありません」

 来栖の言葉を途中で遮り、結いは年不相応の話し方で言った。

「……ここにいる以上、規則は守ってもらわないと困る」

「私は何度も一人で任務に出て、無事に生還しています。組む必要はありません」

 頑なな唯の様子に、来栖はため息をついて横に立っている秘書の方を見た。

 彼女の方も困惑した顔で、唯を見ている。

 ――コンコンッ

 ドアがノックされる音が、部屋に響いた。

「……来たな。入ってくれ」

「失礼します」

 開けて部屋に入ってきたのは、ヨレヨレの服を着た少年――遊介だった。

 彼はドアを閉めると、来栖の前に立っている唯を見る。すると、その表情に一瞬だけ僅かな陰が生まれた。

「来たか。神崎、こっちに来てくれ」

 指示に従い、遊介は机の方へ近づいてくる。

 それを見た唯は、僅かに体を強ばらせた。そして、一歩だけ避けるように身を退く。

「紹介する。彼女が、君と組むことになる〈神官〉だ」

 来栖が言ったのを聞いて思った。

(やっぱり、そういうことか……。そこにいる女の子と組むことになるんだな)

 呼び出されたときに、用件については想像がついていた。なので、大して驚きもしない。

「篠宮、彼が新しく入った〈神官〉だ。名前は、神崎遊介。不知火の弟子だ」

「誰の弟子だろうと、私は組むつもりはありません」

 来栖にきっぱりと言う唯を、遊介は目を丸くした。

 昨日、中村から聞いた説明通りなら、誰かと組んだ方が賢明だ。しかし、目の前で少女が組むことを拒絶している。それもはっきりと。

「それに篠宮の習わしで、異性と同じ場所に長時間いることは、禁じられています。今、私があなたと話しているのは、篠宮から許可が出ているからです」

 唯の言葉を聞いた来栖は、ため息をついて彼女から視線を逸らして、机の引き出しから何か――手紙を取り出した。そして、それを広げて読み始める。

「君の実家からの手紙には、「必要があれば異性と共に行動すること及び同居を許可する」とも書いてある」

 すると、唯は来栖の手から手紙を奪い取った。

「………」

 手紙を読んだ唯は、何も言わず手紙を来栖に返した。

 来栖は唯から手紙を受け取ると元のように折り畳み、机の引き出しにしまいながら彼女に言う。

「そういうことだ。規則に従って、君は神崎と組んでもらう」

 今度は素直に頷いた。それを見た来栖は、遊介の方を見る。

「神崎、君の方もいいな?」

 遊介は少しの間、沈黙して少女の方を見ながら考え込む。すると、彼女と視線があった。

 少女は、すぐに視線を顔ごと逸らして言う。

「じろじろ見ないでください」

「あっ、ごめん」

 少女に謝ってから来栖の方を向き、質問に答えを出す。

「僕の方も、それでいいです」

 特に意見は無かったので、――年の近い異性と同居することに抵抗はあったが――少女と組むことにした。

「両方が納得してくれたようだな。正式に登録するから、この書類にサインしてくれ」

 来栖は机の上に置いていたファイルから二枚の紙を取り出し、遊介たちにペンと一緒に渡した。

 遊介は迷うことなく書類にサインし、来栖に渡して少女の方を見る。彼女の方は少し躊躇いながら、書類にサインして来栖に渡した。

 二人から書類を受け取った来栖は、二人のサインを確認してファイルに入れた。

「この時より、神崎遊介と篠宮唯の二人が組むことを認める」


 パートナー登録も終わり、遊介は部屋へ荷物を取りに戻った。この部屋は組む相手が決まるまで一時的に与えられただけなので、荷物を持って移動しなければならない。

 もともと持ってきた荷物が少なかった上に、昨日は寝ただけなので時間はかからない。

「天岐、起きて。部屋移動するよ」

 ベッドの上で眠っていた猫の背中を、ぽんぽんと軽く叩いて起こしにかかる。猫はむくりと起き上がり、アクビと背伸びを同時にした。

「ほら、行くよ」

 遊介はドアを開けて、部屋から出るように急かした。

 猫はベッドから飛び降り、走って勢いをつけて遊介の肩に飛び乗る。移動は電車や車などは使わず、長距離の徒歩が多かったため、猫が遊介の肩に乗るのは普通になっていた。

「わっ!」

 部屋の鍵を閉め、これから使う部屋に移動しようとしたところで、遊介は驚いてのけぞった。

 すぐ横に中村が立っていたのだ。気配がしなかったので、思わず驚いてしまった。かなり心臓に悪い。

「ごめん、驚いた?」

「驚きました。……どうしたんですか?」

 中村の質問に正直に答え遊介は彼女に質問した。

「ちょっと、ね。話があるんだけど、いいかな?」

 そう言って答えを待たずに、中村はエレベーターの方へ歩き出した。遊介は後を慌てて追いかける。

 エレベーターに乗り、一つ上の階に上がった。そして、すぐ近くの喫茶店に入って座る。

「中村さん、話って何ですか?」

 中村はメニューを手に取り、眺めながら話し始める。

「話っていうのは、これから神崎君と同居する篠宮さんのこと」

 ウェイトレスを呼び止め、二人分のコーヒーを注文して話を続ける。

「あの子、神崎君と組むことを拒絶してたでしょ? あれには、理由があるの」

「理由、ですか?」

「あの子の実家は、〈篠宮神社〉っていう神社なの。小さい頃から妖を退治たりしていて、かなりの実力者よ。その実力者としての意識と、実家での習わしがあるせいで意固地になっているの」

 中村は自分の家族のことを話すように、優しい目つきで話し続ける。

「そのせいだと思うんだけど、他の〈神官〉たちとのつき合いもぎくしゃくしているから、神崎君がフォローしてあげてね」

 話し終わったところで、ウェイトレスがコーヒーの入ったカップを持った来た。

「…何で、その話を僕にするんですか?」

 遊介が疑問を口にすると、中村はコーヒーを一口だけ含んで答える。

「篠原さんと同居するんでしょ?だったら、同居者のことを気遣うのは、当然のことじゃない」

「………」

 反論することができず、遊介はコーヒーをブラックのまま飲んだ。そして、コーヒーの苦さに顔をしかめる。

 その様子を見た中村は、顔に微笑を浮かべて言う。

「まあ、神崎君が、お人好しっていうところも理由なんだけど」

 それを聞いた遊介は、カップを置いて聞き返す。

「僕が、お人好しですか?」

「うん、これは私の勘なんだけどね」

 中村はニコニコと笑って、コーヒーを飲みながら答えた。

 昨日とは別人のような彼女に戸惑いつつ、遊介はコーヒーを飲んだ。そして、また顔をしかめる。

「引き受けてくれる?」

 中村は、砂糖の入った瓶を遊介に差し出しながら聞いてくる。瓶と彼女を交互に見た後、瓶を受け取って答えた。

「わかりました」

「うん、篠宮さんのことお願いね」

 そう言って、中村は伝票を持ってレジに向かった。

「相変わらずのお人好しだな。遊介」

 膝に乗ってくつろいでいた猫が言うと、遊介はコーヒーに砂糖を入れる手を止め、猫を見て言う。

「……天岐まで」

「本当のことだろ。困っている老人を見かけたら、どうしたのか聞いて助けてやったりな。それで宿に帰るのが遅くなって、あの男に殴られるのがわかってても懲りずにやる」

「………」

 具体例を挙げられ、遊介は黙り込んでしまった。確かに身に覚えがある。

 たまたま困っている人を見かけ、事情を聞いた後に長期の滞在で得た土地勘で案内する。それで宿に帰ると、帰りが遅いのに苛立っていた不知火に殴られたのだ。

 殴られるのは痛いが、どうにも見かけたら放って置けないので、同じことを繰り返してしまう。

「まっ、これから長い付き合いになる人間のことだ。今回に関しては引き受けて正解だな」

「………」

 猫の言葉は正論なので、遊介は全く反論できない。

「これからは、あの男に殴られることも無いわけだ。だから、好きなだけお人好しぶりを発揮すればいい」

「……天岐、僕がお人好しなのはわかったから」

 容赦のない言い方に、さすがに耐えられなくなってギブアップすると猫は口を閉じた。

 砂糖を入れたコーヒーを飲みほし、ゆっくり深い溜め息をつく。そして、イスにもたれて目を閉じた。

(僕が、お人好しか……)

 猫に言われて、ようやくわかった自分の一面について考えてみると、すんなりと違和感無く受け入れることができる。

「天岐、そろそろ行こうか。篠宮さん、部屋で待ってるだろうし」

 そう言って遊介は荷物を持つと、猫は彼の肩まで駆け上った。

 猫が肩に乗ったのと同時に、遊介は立ち上がって喫茶店を出る。そして、喫茶店を出て行った。

「悩み始めたかと思えば、すぐに元通りになるな……。お前は」

 猫が耳元でため息混じり囁くのを聞き、遊介は苦笑しながら猫の背中を優しく撫でた。猫は目を閉じて、されるがままになる。

 エレベーターで一つ下の階に戻り、一つの部屋の前で立ち止まった。部屋の番号を確認してから、遊介は鍵を鍵穴に差し込んだ。


 遊介が荷物を取りに行っている間、唯はベッドの上で正座していた。彼女の視線は、部屋のドアに向いている。

 今日、何度目かの溜め息を憂鬱そうにつく。

(異性と同居するなんて……)

 一年前まで、唯は必要以上の外出はしなかった。それは、篠宮の慣わしが彼女を縛っていたからだ。

 一年前、ここに来てからも部屋をあまり出ていない。そのせいで人との関わりに疎くなってしまい、どのように他人と接していいのかわからないのだ。ついでに言うなら、今日から彼女と同居するのは異性だ。異性との付き合いも、篠宮の慣わしで最低限度しか無かった。なので、余計に憂鬱になってしまう。

「はぁ……」

 色々と考えて憂鬱になり、また溜め息をついてしまう。

 部屋に戻ってきてから唯は部屋を急いで掃除し、シャワーを浴びて服を着替えた。さらに、慌てて髪をドライヤーで乾かして櫛で梳いたのだ。

 これも篠宮の慣わしの一つだ。人を迎える時は身なりを整えることと教えられ、その教えを唯は律儀に守っている。そのせいか、何度も気になって手鏡で前髪を確認したり、着ている部屋着の浴衣にしわが無いかを確認したりしていた。

 憂鬱な気分を変えるため、唯は目を閉じて深呼吸をした。そして、篠宮の慣わしを思い出して呟く。

「篠宮の巫女は、祓い巫女。人に迫る災禍を祓う者」

 そして、再び深呼吸をして目を開こうとした。

 ――ガチャッ

 前触れ無く鍵の開く音がし、唯の鼓動が大きく跳ね上がった。

 心の準備をする暇も無く、少しだけドアが開いて来栖の部屋で紹介された少年の顔が見える。

「……入ってもいいかな?篠宮さん」

「そういうことは、ドアを開ける前に言うべきだと思います。それと、ドアもノックせずに入るなんて非常識です」

 質問に、容赦のない言葉が返ってきた。

「ごめん、次からは気をつけるよ。入っていいかな?」

 本当に申し訳なさそうに謝る遊介に、言いすぎたかと唯は言葉に詰まってしまった。そのまま自己嫌悪に走りそうになる。

「篠宮さん?」

 答えが無いのを怪訝に思った遊介が、声をかけると唯は我に返った。そして、遊介が少しドアを開けたままの体勢だということに気がつく。

「…いつまで、そこに立っているつもりですか? 早く部屋に入ってください」

 動揺しているせいで、また突き放すような言い方になってしまった。気にした様子も無く、遊介は部屋に入ってドアを閉める。

 荷物を隣のベッドに荷物を置き、彼が座ると彼の肩から猫が飛び下りた。猫はベッドを飛び移り、唯の膝の上に乗ってニャーと鳴く。

 唯は猫を見下ろしながら、遊介に質問する。

「この猫、あなたのペットですか?」

「ん? ああ、まあ似たようなものかな」

 猫は匂いをつけるように、身体をこすりつけてくる。その様子を見た唯は、そわそわと落ち着きが無くなり始めた。

「この猫、名前は何ていうんですか?」

「天岐。天空の天に、岐路の岐で天岐」

 猫は唯の膝の上で寝転がった。完全にリラックスしている様子を見て、さらに唯の様子が忙しくなる。

「触りたかったら触っていいよ。天岐も嫌がってないみたいだし」

 猫が触りたいのを我慢している彼女の様子に、遊介は苦笑しながら言った。すると、唯は鋭い目つきで見て言う。

「べ、別に触りたいわけじゃ…、ありません」

 口元が歪んでいるので、説得力が無い。猫が寝返りを打って喉を鳴らすと、唯の視線は猫に釘付けになった。

「昨日、シャワーを浴びずに寝たから浴びてくるよ。篠宮さん、天岐の面倒を見といてくれるかな?」

 返事を待たずに、遊介は荷物から着替えを取り出してシャワールームに行ってしまった。

 それを見送った唯は、再び猫を見る。そして、おそるおそる猫に手を伸ばした。そして、

ゆっくりと猫の頭を撫でる。

 ――ニャー

 猫は気持ちよさそうに目を細めて鳴いた。それで箍が外れたのか、唯は何度も猫を撫で

てから抱きしめる。

 彼女の表情は、年不相応の大人びたものから年相応の笑顔に変わっていた。

「…可愛い……。よしよし」

 遊介がシャワーを浴びて出てくる頃には、唯は猫を抱きしめたまま顔を赤く染め、笑

顔で猫に頬ずりしていた。遊介がシャワールームから出て来たことに気がつかないぐ

らい、猫の方に気を取られている。

(……やっぱり、普通の女の子なんだな)

 唯の様子を見ながら、そう遊介は思った。無意識のうちに、顔に笑みが浮かべている。

 ひとしきり頬ずりをし終えると、ようやく唯は遊介に気がついた。次の瞬間、耳から湯気が出そうなぐらい顔を真っ赤にする。

「こ、これは、その……」

「別に、隠さなくてもいいよ。猫、好きなんだ?」

 遊介が言うと、唯は顔を隠すように俯いてしまった。

 そんな彼女の様子を見た遊介は、自分のベッドへ歩いて行って座り、首にかけていたタオルで、まだ水気の残っている髪の毛を拭く。

「天岐とは、力を手に入れた時に会ったんだ。それから、ずっと一緒にいてくれてる」

 話しながら、遊介は横目で唯の様子を盗み見た。俯いてはいるが、猫を放す気は無いらしい。

(よっぽどの猫好きなんだな…)

 そう思いながら、遊介は話を続ける。

「篠宮さんは、すごく真面目で大人びてると思ってたけれど、さっきのを見て安心したよ」

 遊介の言葉に、唯は耳まで赤くして言う。

「…さっき見たことは、忘れてください」

「どうして? 別に、変な事じゃ――」

「どうしても、です!」

 悲鳴のような声で、遊介の言葉は遮られてしまった。遊介は目を丸くして驚いている。

 猫は唯の腕から抜け出し、ベッドの下にもぐりこんでしまった。それを見て、唯は少し落ち込んだような表情になる。

 それを見て、遊介の顔に笑みが浮かんだ。

「天岐、こっちに来てくれないかな?」

 頼むように言うと、猫はベッドの下から出て来て遊介の隣に飛び乗る。

 遊介は荷物の無から鰹節の袋を取り出し、猫を抱えて唯のいるベッドに移動した。その行動に驚いた唯は、ベッドに正座したまま彼を警戒するように硬直する。

「篠宮さん、手を出して」

 言いながら、遊介は鰹節の袋を開封する。

 唯はおそるおそる両手を重ねて出してきた。遊介が彼女の手に鰹節を乗せると、猫が勢いよく唯の手に飛びついた。

「きゃっ、くすぐったい!」

 唯の可愛らしい悲鳴が部屋に響いた。

 鰹節を食べる猫の舌が、彼女の手を舐めてくすぐったのだ。猫が鰹節を食べている間、ずっと唯は動けずに悶えていた。

 猫は鰹節を食べ終えると、彼女の膝に乗って丸くなった。やがて目を閉じ、寝息が聞こえてくる。

 その様子を見て、唯は笑顔になった。それを見た遊介の方も笑顔になる。

「眠ったら、しばらく起きないよ」

 遊介が声をかけると、思い出したように一瞬で表情がひきしまった。

「いつまで、同じベッドの上にいるつもりですか? 非常識ですよ。破廉恥です」

「あっ、ごめん」

 指摘されて、遊介は自分のベッドへ慌てて移動した。

 「まったく」と言いたそうな表情で、唯は溜め息をついて言う。

「そういえば、まだ自己紹介してませんね」

 唯は猫を膝に乗せたまま、遊介の方に向き直った。

「篠宮唯です。竹編に難しいほうの條で篠、宮崎県の宮。唯は唯一の唯です」

 自己紹介をされたので、遊介の方も自己紹介する。

「僕の名前は、神崎遊介。神社の神に、宮崎県の崎で神崎。遊ぶに介護の介で遊介。これから、よろしくお願いします。篠宮さん」

 手を座ったまま差し出した。すると、唯は躊躇うように、ゆっくりと手を伸ばした。そして、その手を握った。

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 互いの自己紹介と挨拶を終えた二人は、それきり黙り込んでしまった。話題が無いというのもあるが、二人きりという現状が一番の原因だろう。

 ――ぐうぅぅっ

 いきなり聞こえた地響きのような音に、唯は驚いて部屋を見回した。続いて横で倒れる音がする。

「……ごめん、今のは僕のだよ。そういえば、三日ぐらい何も食べてないような気がする……」

 ベッドに倒れ、力の入ってない声で言う遊介を見て唯は呆然とした。

 ――きゅるるるっ

 可愛らしい音が聞こえた。何の音かと音のした方を見てみると、唯が顔を赤らめている。

「私も朝食、食べてませんでした…。よかったら、一緒に食べに行きますか?」

 唯の提案に頷き、遊介はなんとか起き上がった。ふらふらと頼りない歩き方で、部屋を出て行く。

 それを見た唯は、名残惜しそうに猫を見てベッドの上に移した。そして、荷物から財布を取りだして部屋を出ていく。

 二人が上の階にある食堂に行くと、そこには何人か人がいた。唯はふらつく遊介を誘導して、食券売場に連れて行く。

「何が食べたいですか?」

「…ラーメンとカツ丼、それに洋定食」

 唯は遊介の言った食券と、自分の食券を買って遊介をテーブルに連れて行った。

「私が取りに行ってきますから、ここにいてください」

 そう言い残して、唯はカウンターの方へ行った。それを遊介は力が入らない体を、机に伏せて見送る。

 唯は食券を渡し、用意されるのを待ちながら考えごとをしていた。

 自分が突き放すような言い方をしても、優しく話しかけてくれた。それは、今まで他の人間にもしてもらったことだ。その人間たちは、篠宮の習わしを守るために突き放すような態度を取ったせいで、いつのまにか離れて行ってしまった。

(もしかしたら、彼も……)

 離れて行かれるのが怖い。でも、自分には篠宮の血が流れている。篠宮の教えを破りたくないという思いが強い。

 二つの異なる思いが、ぶつかり合って唯が悩んでいると、ラーメンとカツ丼の乗ったトレーが目の前に置かれた。続いて洋定食と自分の分の和定食の乗った二つのトレーが置かれる。

 そこで、あることに唯は気がついた。三つのトレーを同時に持つことができないのだ。

「篠宮さん、どうしたの?」

 どうやって運ぼうか悩んでいる唯に、誰かが声をかけてきた。

 唯は声の主を確認する。彼女に声をかけてきたのは、唯と同じ〈神官〉の女子二人組だ。あまり話したことが無いので、名前は覚えていない。

「わー、すごい量ね。それ、篠宮さんが一人で食べるの?」

 女子の片方が、唯の目の前に置かれた三つのトレーを見て目を丸くした。

「えっと、その……」

 いつもなら、敬語で適切な対処ができるのだが、考え事をしていたせいでできなかった。人付き合いに疎いということもあり、口ごもって余計に何も言うことができない。

 もう片方の女子が、じっと三つのトレーを見たまま質問してくる。

「……運ぶの手伝ったほうがいい?」

 その質問をされ、ようやく頷くことができた。

 それを見て確認した女子は、ラーメンとカツ丼の乗ったトレーを持ち、キョロキョロと何かを探すように食堂を見回す。そして、すぐに視線を留めて歩き出した。

「ちょっと待ってよ。響ちゃん」

 そう言いながら、もう片方の女子も洋定食のトレーを持って追いかけて行った。

 少し遅れて、唯も自分が食べる分のトレーを持って慌てて追いかける。

 女子二人に追いつくと、女子の一人が立ち止まった。そして、一つのテーブルを指差して聞いてくる。

「……あそこに持って行けばいいの?」

 女子の指が差している方向には、テーブルに伏せている遊介の姿があった。

「あの男子、誰? 見かけない顔だよね?」

 もう片方の女子は、いかにも興味津々というような表情で遊介を見ている。

 唯はというと、女子の指摘に驚きながら質問した。

「…なんで、わかったんですか?」

「……普通に考えて、この量を篠宮さんには食べきれない。……だったら、他に食べる人がいるはず。……その人は、動けないぐらい空腹なはず。……その条件に該当する人を探しただけ」

 それを聞いた唯は、唖然としながら目の前にいる女子を見つめた。

「……見た限りだと、早く持って行った方がいいと思う」

 女子の判断を聞いた唯は、我に返って慌ててテーブルの方へ歩いて行った。その後に女子二人が続く。

「すみません、お待たせしました」

 謝罪しながら、唯は遊介の前に洋定食のトレーを置いた。

 すると、遊介はゆっくりと起き上がって、目の前の洋定食を見る。そして、ナイフとフォークを掴んで、飢えた獣のように勢いよく食べ始めた。

 その様子を見た唯は、驚いて目を丸くする。

「すごい食欲だね。そんなに、お腹が空いていたのかな?」

 女子の一人も、唯と同じように目を丸くしながら言った。

 もう一人の方は、表情を変えることなく食べるのに夢中になっている遊介の前に、カツ丼とラーメンが乗ったトレーを置く。

 ――きゅるるるっ

 可愛らしい音が聞こえ、女子二人が唯の方を見た。唯は頬を赤くして俯きながら言う。

「…朝食、まだ食べてないんです」

「あっ、もしかして、これが篠宮さんの?」

 女子の質問に唯が頷くと、女子は微笑みながら彼女に和定食の乗ったトレーを渡した。

 唯はトレーを受け取ると、遊介の正面の席に座る。女子二人も同じように座ったので、唯は困惑した。

「彼、新人なんでしょ?話がしたいから、一緒に座っていい?」

「…そういうことは、座る前に聞くべきだと思います」

 冷静に言うと、女子は自分の額を小突いて笑った。

 唯はため息をつき、居心地の悪さを感じながら食べ始める。遊介の方を見てみると、洋定食を食べ終えてラーメンを食べ始めていた。

「……あの、なんで見てるんですか?」

 さらに居心地が悪くなり、唯は遊介の隣に座っている女子に聞いた。唯が食べ始めてから、ずっと彼女は見つめていたのだ。

「なんとなく見てるだけだから、気にしないで」

 気にするなと言われても、食事中に見られていて落ち着いていられるはずがない。

 席を移動しようかと悩みながら、唯は箸を動かした。箸から、白飯や魚が食器に何度も落ちる。

(やっぱり、移動した方が…)

 と唯が考えてトレーに箸を置いて移動しようとすると、隣に座っている女子が言う。

「……ようやく落ち着いたみたい」

「え?」

「……すごい勢いで食べていた彼、落ち着いたみたい」

 女子の言葉で、唯は思い出したように正面を見た。

 隣の女子からの視線が気になって忘れかけていたが、正面の席には遊介が座っていたのだ。

 彼はラーメンを食べ終え、カツ丼を食べ始めていた。さっきとは違い、落ち着いた食べ方をしている。

 目が合うと、彼は箸を動かす手を止めて聞いてきた。

「えっと…、この二人は?」

 どうやら空腹すぎたせいで、女子二人が唯と一緒に座ったことに、気がついていなかったらしい。

「私の名前は、鳥居飛鳥。よろしくね、新人君」

「……鳴瀬響です」

 二人が遊介に自己紹介するのを聞いた唯は、二人の名前を二度と忘れないように、頭の中で何度も復唱した。

「神崎遊介です。昨日の深夜に、ここに来ました」

「へえ、神崎君か。ねえ、ユウ君って呼んでもいい?」

 自己紹介をした遊介に、親しげに鳥居は話しかけた。遊介は少したじろぎながら、彼女の質問に答える。

「いいですよ。好きな呼び方で呼んでください」

「じゃあ、決まりだね。ユウ君」

「……飛鳥、いきなりすぎ」

 鳥居の親しすぎる態度に、鳴瀬が嗜めた。

 一方の鳥居は、子供がするように首を傾げて言う。

「え? でも、本人はオッケーて言ってるよ?」

「……それでも、いきなりすぎる。……初めて会った人に、いきなり愛称をつけるなんて」

 二人が言い合いを始めてしまったので、遊介は唯に視線で助けを求めた。しかし、唯は彼の視線に気づかずに食事を続ける。

「響ちゃんは、本当に硬いんだから。少しくらい柔らかくならないと、カレシできないよ?」

 鳥居が言うと、鳴瀬は少し怒気が混じった声で言い返す。

「……自分だって、いないくせに」

「わ、私は、すぐに作れるもん。ひ、響ちゃんに合わせてるだけだもん。ほら、だって、私たちパートナーだから」

「……余計なお世話。……私だって、カレシぐらい作れる」

 二人は遊介たちがいることも忘れて、口論を続ける。

(この言い合いが続くと、周りの人に迷惑になるんだろうな…。よし、止めよう)

 そう決心して、箸をトレーの上に置いた。

「「あのっ、他の人に迷惑になりますから」」

 二つの制止の声が同じタイミングに、異口同音で発せられた。

 鳥居と鳴瀬の口論が止まり、同時に遊介たちの方を向いて目を丸くする。

 一方の二人はというと、お互いに驚いて互いの顔を見ていた。

「…すごい。息、ぴったり」

「……うん、すごい」

 鳥居と鳴瀬の口論が止まったのはいいが、別のことで気まずくなってしまった。

「…えっと、驚いたね。まさか、同じタイミングで同じことを言うなんて」

 遊介は、なんとか話題を引っ張りだした。意図を察して話題に、唯が乗りかかる。

「…はい、驚きました」

「まあ、こういうこともあるよ」

「そうですね」

 二人は、気まずい空気をなんとかしようとして、無理に会話を続ける。その様子を近くで見ていた鳴瀬が、鳥居に目配せをした。それに頷き返し、鳥居は気まずくなっている二人に助け船を出す。

「あのさ、ユウ君は、どうやって〈神楽〉に来たの? ほら、ここって結界が張られてて、普通はわからないから」

 その助け船に、心の中でホッとしながら遊介は乗る。

「連れてきて、もらったんです。師匠に」

「……師匠って、誰?」

 鳴瀬が興味を持ったように首を傾げて聞いてきた。

「不知火亮一です」

 鳴瀬が眼にも止まらない速さで、自分の耳を塞いだ。

「えーっ!?」

 とても意外だというように、鳥居が驚いて声をあげた。それを近くで聞いた遊介と唯は、顔をしかめた。

「……飛鳥、うるさい」

 鳴瀬が文句を言ったが、鳥居は構わずに同じ声量で続ける。

「だって、あの不知火さんでしょ!? 一つの任務に出たら、いつ帰ってくるかわからなくて、連絡無しのキング・オブ・適当男の!!」

(そんなあだ名がついてるのか……)

 いい加減な人物だという認識は、遊介にもあったが、そんなあだ名がつくまでとは思ってもいなかった。

 いや、考えないようにしていただけで、心の内では納得している。

「……飛鳥、人に変な名前を勝手につけるのはよくない」

「えーっ? でも、皆には好評だよ?」

「………」

 鳥居と鳴瀬の会話を聞きながら、遊介は周囲を見回してみた。すると、サッと遊介たちを見ていた何人かが視線を逸らす。

 見られていたことに気がつき、額に冷や汗をかき始める。

「………篠宮さん」

「なんですか?」

「えっと、師匠って有名なのかな?」

 鳥居と鳴瀬の会話や逸らされた視線の数、明らかに尋常ではない。

「私も噂を聞いたことしかないんですけど…、有名人らしいですよ」

 どんな噂なのか気になったが、聞いたら後悔しそうな気がしたので、遊介は聞かないことにした。

(…師匠、何してるんですか……!?)

 急に気が重くなり、遊介は頭を抱えたい気分になったが、小さく溜めを息つくだけにとどまった。

「そいつ、あの俺様野郎の弟子なのか?」

 急に話しかけられ、遊介と唯だけでなく会話をしていた二人も振り向く。

 そこには額にゴーグル、首にヘッドフォンを引っ掛けている青年が立っていた。

「……えっと」

「聞こえなかったのか? あの俺様な社会不適応者の弟子なのか? って聞いたんだよ。まさか、その耳は節穴なのか?」

 罵倒を含んだ質問に、遊介は呆然として答えることが出来なかった。

「で、どうなんだ?」

 重ねて質問してくる青年の質問に、遊介は黙ったまま頷いた。

「そうか。じゃあ、お前は今日から俺のパシリだ」

「……はい?」

 突然の話に、遊介はついていけず聞き返した。青年は呆れ気味の声で言う。

「聞こえなかったのか?お前は、今日から俺のパシリだ。って言ったんだよ」

「………」

 もう一度聞いても、やはり理解できない。だが、遊介はなんとなく理由を理解することができた。

(師匠、何やってるんですか……)

 遊介は思わず机に顔を伏せたい衝動に駆られたが、長旅で鍛えられた精神力で堪えることができた。

「あの俺様野郎には、貸しがあるんだよ。だから、弟子のお前が野郎の貸しを返せ。いいな? 嫌とは言わせないからな」

 青年はテーブルに肘をつき、遊介にヤクザのように詰め寄った。

 ――バチチチッ

「うっ……」

 いきなり千鳥が鳴くような音がし、青年がテーブルに寄りかかるようにして倒れた。倒れた青年の背後に、前髪で顔が隠した少年が立っていた。

 音も気配も無く立っていた少年の存在に、遊介だけでなく食堂にいた全員が驚いた。

「ごめん、翔が迷惑かけて」

 少年は謝罪すると、青年の脚を掴んで引きずって行った。どうやら、少年は青年と組んでいる〈神官〉だったらしい。

「…祐弥君、相変わらず影が薄いね」

 呆然とした鳥居の呟きに、鳴瀬が目を丸くしたまま黙って頷いた。

 遊介は祐弥という少年が、青年を引きずって行った方向を見ながら考え事を始める。

(……師匠に貸し。となると、借金かな。師匠の借金っていえば、とんでもない額だろうから)

 あまり考えたくない内容だが、遊介の性格からして放って置けないのだ。

「ユウ君、すごく難しい顔してるよ。大丈夫?」

 考え事をしていたのが表情に出ていたのか、鳥居に質問してきた。

「いや、何でもありません」

「……何でも無いって顔じゃなかった。……何かあるなら、正直に話すべきだと思う」

 鳴瀬に指摘され、遊介は言葉に詰まってしまった。三人の視線が遊介に突き刺さる。

 すぐに平静を取り戻し、遊介は顔に微笑を浮かべて三人に言った。

「本当に何でも無いですから、気にしないでください」

 その本当に何でも無いという様子は、三人の目には自然に映った。

「……なら、いいんだけど」

「何か悩み事があるなら、相談してね」

「………」

 三者三様の言葉をかけられ、遊介は頷いて食べかけのカツ丼を食べ始めた

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