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まだ夜も明けない頃。
少年は男に連れられ、ある場所へ向かっていた。
「どこまで行くんですか?」
少年が聞いたが、男は振り返らずに歩き続ける。
その様子を見て、少年はため息をついた。
(聞いても無駄かな……)
そう少年が思った瞬間、少年の肩に何かが飛び乗った。黒色の猫だ。
「おい、人間。遊介が質問しているのだ。答えろ」
少年の肩に乗った猫が、人間の言葉を話した。落ち着いた青年の声だ。
普通なら驚くところだが、少年――遊介と男は大して驚いた様子は無い。
「天岐、いいから」
遊介は肩に乗った猫を宥めながら、男の方をチラリと様子を見た。
「一つ言い忘れていたが――」
突然、今まで黙っていた男が口を開いた。
「俺は、それほど寛容では無い。特に人外にはな」
男の言葉を聞いた猫は、不機嫌そうに目を細めながら喉を鳴らして言う。
「それは、こちらの言い分だ。人間風情が、我にたてつくな」
「あ、天岐。それに、師匠も」
二人の――いや、一人と一匹のやりとりを見てひやひやしていた遊介が止めに入った。
すると、いきなり男が立ち止まる。そして、振り返って遊介の胸ぐらを掴んだ。
「わっ、ちょっ……」
突然のことに慌てる遊介を無視し、男は仮面の下から猫を睨みつける。
「いいか? 俺は、このガキが力を持っていたから、連れ歩いているんだ」
猫に言いながら、男は視線を遊介へと移した。
「でなければ、こんな路傍の石の裏にいるような虫なんぞ相手にしない」
(……酷い言われようだ)
遊介は口ではなく、心の内で文句を言った。実際に言ったのなら、その先に地獄が待っていることは学習済みだからだ。
「ほう、そんな口をきいていいのか?」
猫の瞳に瑠璃色の光が宿った。それを気配で感じ取った遊介は、慌てて止める。
「ちょっ、天岐!」
そんな遊介を無視し、男は猫を一瞥した。その次の瞬間、男の身体を緋色の光が覆う。
「調子に乗るな、人外が」
不穏な空気が漂い始め、遊介の顔が青ざめる。
「し、師匠もやめてください!」
止めに入った遊介を、猫と男が同時に見た。
男は、チッと舌打ちをして遊介から手を離した。それと同時に、纏っていた緋色の光も消える。
「やめるのか?」
猫の問いに答えず、男は歩き始めた。
それを見た猫は目を閉じてアクビをし、再び開いた瞳から金色の光が消える。
(……助かった)
ホッとしたのもつかの間、遊介は男の後を慌てて歩き始めた。少しでも遅れたら、文句だけでなく拳骨も飛んでくるからだ。
男の後を歩きながら、遊介は肩に乗っている猫に視線を移動させる。
「ん? どうした?」
見られていることに気がついた猫が、ヒゲをピクピクと動かしながら聞いてくる。
「いい加減、師匠を怒らせるのをやめてくれないかな? 最終的に、僕が攻撃されるんだから」
遊介が文句を言うと、猫は前を歩いている男を見た。そして、ハッキリと言う。
「無理だ」
「…少しぐらい、努力してくれないかな?」
苦い顔をしながら遊介が言うと、猫は彼の肩から飛び降りた。
「無理なものは、無理だ」
交渉の余地は無いらしい。それを悟った遊介は、憂鬱そうに深い溜め息をついた。
(本当に、何とかならないかな……)
そう思いながら、遊介は三年前のことを思い出し始めた。
――三年前。
「ただいま」
遊介は、通っている中学から家へと帰ってきた。
「おかえり、お兄ちゃん」
そう言って、彼を出迎えてくれたのは五つ歳の離れた妹だ。
脱いだ靴を揃えながら、遊介は妹に質問する。
「母さんは?」
「さっき、買い物に出かけたよ」
答えながら、妹は彼の手を引っ張った。
引っ張る力は強く、遊介はリビングに無理やりつれてこられる。
「お兄ちゃん。今日は、道場休みだよね?」
質問の意図がわからず、遊介は答えるのを躊躇ってしまう。
「休みだよね?」
妹に再び聞かれ、遊介は頷いた。すると、妹の表情は明るくなる。
「じゃあ、買い物に付き合って!」
ようやく納得がいった。妹は、よく買いたい物があると、遊介を付き合わせるのだ。
しかし、最近は道場に通う日数が増えたので、あまり付き合ってやることができなくなっていた。
妹のお願いを久しぶりに聞いた遊介の顔に、自然と笑みが浮かぶ。
「わかった。すぐに準備するから、待っててくれるか?」
「うん」
妹は頷いて、リビングのソファに座った。ソファの上には、ポシェットが置いてある。どうやら、すでに出かける準備はできているらしい。
苦笑しながら、遊介はリビングを出て自分の部屋に向かった。
――五分後。
遊介はリビングに戻ってきた。
服装が学ランから私服に着替え終えている。
遊介がドアを開けた瞬間、彼の妹は駆け寄ってきた。
「じゃあ、行くか」
妹は頷いて、遊介の横を通り抜けて行った。
遊介が振り返ると、すでに靴を履き終えて開けたドアの隙間から、こちらを覗ている。
「お兄ちゃん。早く」
「待てよ。そんなに急がなくてもいいだろ」
妹にせかされ、遊介は苦笑しながら玄関へ早足で歩いて行った。
――ドンッ
「うわっ」
遊介の回想は、何かにぶつかった衝撃で終了してしまった。
目の前にあるのは、黒い物体。
遊介は、おそるおそる視線を上へと移動させた。すると、彼の視界に仮面をつけた顔が映る。
「………」
回想していた遊介は、前を歩いていた男が立ち止まったことに気がつかず、ぶつかってしまったのだ。
遊介の顔が、青を通り越して白くなる。
「す、すみません。師匠」
遊介が震える声で謝ると、男は前を向いて言う。
「……着いたぞ」
「えっ?」
罰を与えられると思っていた遊介は、拍子抜けして聞き返してしまった。
そんな彼の襟首を掴み、男は自分の前に持ってくる。
男の手に吊るされている遊介の視界に、建物と建物の間にある細道が映った。道の奥に、ボンヤリと薄い光の膜が見える。
(あれは……)
「結界が張られているな。さしずめ、あそこが入口ということか」
足元から声が聞こえてきたので、遊介は吊るされたまま下を見た。いつの間に肩から降りたのか、そこには猫が座りこんでいる。
「入口……。もしかして、あそこが――」
質問を言い終える前に、遊介は勢いよく細道へと投げ込まれた。
「いててて……、何するんですか師匠」
ぶつけた頭をさすりながら、遊介は男に質問した。
「ここから先は、一人で行け。紹介状は送ってある」
男は手を払いながら言うと、去って行こうとする。
「待ってください師匠!」
遊介が呼び止めると、男は立ち止まって顔だけ振り返った。
「師匠は、戻らなくていいんですか?」
質問に答えなかった。男は遊介に近づいて行き、胸ぐらを掴んで立たせる。
「俺は、一つの場所に縛られるのが嫌いなんだ。それと――」
そこで言葉を切り、男は遊介を突き飛ばした。
突き飛ばされた遊介は、ドスッと尻餅をつく。
「俺のやることに、いちいち口出しするな」
見下ろしながら言う男の身体を、緋色の光が覆った。
次の瞬間、遊介の脳天から腰にかけて衝撃が走る。視界がぐらぐらと揺れたかと思うと、ブラックアウトして何も見えなくなってしまった。
「おい、人間。遊介に手荒なことをするな」
遊介が男に殴られて気絶するのを遠目に見ていた猫が、男に向かって文句を言った。
「黙れ、人外。本当なら、昨日のうちに放り出していたのを、ここまで連れてきてやったんだ。感謝しろ」
男は細道から出てきた。猫は気絶している遊介の方へと歩き出す。
「それに、ここからは一人で行くべきだ」
男は猫とすれ違う瞬間に、そう呟いた。
その言葉の意味を捉えることができず、猫は男の方を振り返った。しかし、そこには男の姿は無くなっている。
「……やはり気に食わんな。あの男は」
忌々しげに呟き、猫は遊介のもとに駆け寄った。
彼の周囲を歩き回り、ケガをしていないかを確認する。見たところ、頭以外に大したケガは無いようだ。
さっき男が殴った場所が、少しだけ腫れ上がっているだけだ。
(これぐらいなら、目が覚める頃には治癒しているな)
そう判断すると、猫は仰向けで寝転がっている遊介の顔を爪で引っかいてみる。しかし、彼が起きる気配は無い。
猫は瞬きをし、次は試しに飛び乗ってみる。それでも、遊介は起きなかった。
どうやら、男に殴られた場所が悪かったようだ。当分は目を覚まさないだろう。
「我も寝ておくか」
そう呟いたかと思うと、アクビをして遊介の上で丸くなった。やがて、規則正しい寝息が聞こえてくる。