吾輩の愛すべき探偵
時刻は午前八時。ここは、街の西端に位置する、廃ビルの一階である。何せ廃ビルなので、ところどころ窓が割れており、隙間風が入ってくる。その隙間風を防ぐようにして吾輩は床に座り、室内にいる二人の人間を観察しているのである。
二人のうち一人は、廃ビルと同じ年月を経てきたであろう一つの事務机 (これはこの一階の一室に唯一つしかない机だった)の上に足を乗せ、回転椅子に腰掛けて本を読んでいる。名前は襟草庭。今はたまたまスーツを着ているが、いつもはくたびれたジーンズを履いている、身なりに気を払わないタイプの人間である。庭が男性であるのか女性であるのか、知っているのは吾輩だけだ。庭は恐らく、この街の人間に自分の素性を明かしたことがない。よって、吾輩もここではそれに言及せず、庭のことはただ簡単に、庭とだけ呼ぶことにしよう。庭はパンツスーツを着て、シャツのボタンをきっちり上まで留めて、椅子の中に埋もれるようにして文庫本を広げており、時折ずり落ちてくるらしいメガネを押し上げたりなどしている。何という本を読んでいるのかは、吾輩には分からない。何が面白いのかも吾輩にはさっぱり分からない。だが、庭は文章を目で追いながら、うっすらと微笑んでいる。
もう一人の人間は、これはまごう事なき男である。黒いジャージを着て、えっさほいさと鉄の塊りを持ち上げている。あの鉄塊はダンベルとかいったろうか。彼は毎朝、飽きもせずアレを持ち上げたり下ろしたりしている。この男の名前は星見空彦といい、吾輩が近付くと悲鳴を上げるので愉快な奴でもある。一応外見上の特徴を記しておこうと思うが、彼には別段特筆すべき点は無い。ただ、庭と違い短い黒髪で(というのも、庭は肩まで黒髪を伸ばしているのである)、メガネはかけていない、というくらいのものである。
「空彦クーン」
庭が、いつものように空彦に声をかけた。空彦も、いつものようにダンベルを床に下ろし、庭の方を見た。庭は相変わらずうっすらと笑みを浮かべながら、空彦に言った。
「紅茶、淹れてくれないかな」
そうして、マグカップを差し出した。ちなみに、このマグカップは吾輩がこの間落としたせいで、取っ手が折れてしまっている。空彦はカップを「はいはい」と受け取り、たいして品質の良くなさそうな茶葉を入れた。そして、庭の手の届く範囲に置いてあるポットから、見るからに熱そうなお湯を注いだ。上り立つ湯気を見ていると、吾輩の舌まで熱さを感じているような気になってくる。
「ありがとう。私は空彦クンのそういうところが大好きだよ」
「そりゃどうも」
空彦からカップを受取った庭は、そのカップをそのまま机に置いた。
「いやいや空彦クン、これは全く、誇張でも何でもないんだ。私は君と言う人間に逢えてとても嬉しいんだよ。このめぐり合わせに、感謝すらしている」
「めぐり合わせ、ねえ」
空彦は肩をすくめたが、別に庭の言葉を否定しようと思っているわけでもなさそうだ。庭は満足げに肯く。
「君はとても優しいよ。私はその優しさ、性格の良さが大好きなんだ。あの大学食堂で君が奢ってくれた味噌汁と漬物の味は忘れられない」
「ああ……そりゃあさ、食堂で八十円のライスだけ食べてる奴を見たら援助したくもなるだろ。おれはあの時心底お前に同情したんだからな」
「そう、その同情というやつだよ。まったく、得がたいものなんだよ、同情などと言うものは」
「そうかね」
「そうともさ。知っているかい? 私は今まで幾つもの大学を巡り歩いてきて、そのたびに、食堂で昼食を取っていた……私が頼むことにしていたのは、いつもライスだ。何せ安いからね。だけどね空彦クン。ここが重要なんだからね、よく聞き給えよ。本当に幾つもの大学食堂を巡ってきた私だけれども、そんな私におかずを提供してくれたのは、君だけなんだよ。空彦クン、ただ一人、君だけなんだ」
「もうそれは何度も聞いたぜ」
「何度だって言いたいのだよ。君の美質は私以外の人間にも、もっと高く評価されて然るべきだ。そんな君だからこそ、私は一緒にこの探偵事務所をやっていきたいと思ったんだよ」
庭は大仰に腕を広げ、ぼろぼろの「探偵事務所」を示した。空彦は一つ肯いて、言った。
「気付いたらそんな話になってて、おれも驚いたけどな。まあ、おれも暇だし、お前のことは好きだし、仕事をくれて有難いと思ってるぜ」
「ふふふ、そう言ってもらえて私は嬉しいよ」
「じゃあ、おれのことはもう良いだろ。筋トレに戻らせてもらうぜ」
「ああ、そうだね。どうぞ戻って、続けてくれ給え。私は君の筋肉が動くのを眺めているのも好きなんだ」
空彦がまたダンベルを上げ下げし始めた時、庭は読んでいた本を置いて、吾輩を呼んだ。ちちち、と舌を鳴らして、両腕を広げてこちらを向いたのだ。吾輩はいつものように、庭の腕の中に飛び込んだ。くるる、と咽喉を鳴らすと、庭は嬉しそうに声を上げて笑う。吾輩はその声が好きだ。庭は吾輩の前足を、人間が握手をするように握った。
「ねこちんねこちん、今日も君は元気だねえ。今日も君は可愛いねえ」
庭もいつものように楽しそうで、何よりだ。
吾輩はそんな気持を込めて、庭の腕の中で丸まった。
「うわっ、またいたのか猫……! おれの傍に近づけるんじゃねえぞ!」
空彦がダンベルを持ったまま叫び、壁際まで移動したらしい。吾輩は目を瞑っているが、彼の慌てようは容易に想像がつく。
「おおー空彦クンは本当に猫が嫌いだねえ……こんなに可愛いのに」
「猫が嫌いなんじゃない、怖いんだよ。これも何度も言ってるけどな、子供の頃にかっちゃかれたんだぜ。顔をさ。猫って奴は獰猛なんだよ」
「それは偶々、その猫がそうだったというだけの話さ。君は、私が好きな作家を知っているだろう。彼らが書いた猫についての文章を、君も一度読んでみると良い。猫という生き物がどれだけ素晴らしいものなのか、きっと君にも理解できるはずさ」
「内田なんとかとか、梶井もとなんとかだっけか? でもなあ。おれが本をあまり読まないのはお前だって知ってるだろ」
「まあ、そうだけれどもね」
くす、と庭の笑い声が聞こえた。庭は吾輩の耳を摘まんだり揉んだりしている。吾輩は目だけ開けることにした。視界の隅に、吾輩を睨むように見つめている空彦が映る。庭は吾輩を膝に乗せたまま手を伸ばして、机の上に置いてあるスマートフォンなるものを取り上げた。そして、それを吾輩に向けた。次に何が起きるか予測した吾輩は慌てて飛び上がり、庭の膝から下りた。そしてそのまま振り向かずに、部屋のドアの傍まで走って逃げた。
「あー……ねこちん、まだ写真嫌いなのかあ。怖くないよ? 何にも怖くないんだよ?」
「写真に撮られて平気な生き物なんていねえよ」
「そうかねえ?」
庭は首をかしげた。そしてすぐに、手にしたスマートフォンに目を落とした。
「あ、一首できたかも」
そう言って、庭は右手親指をスイスイ動かし、何やら入力している。少ししてから、嬉しそうな声を上げた。
「うん、できたできた。空彦クン、聞きたいかい?」
「いや、別に」
「魂を失うことが怖いのかシャッター音から逃げ去る猫哉……どう?」
「良いんじゃねーの?」
「うふふ、良いでしょう良いでしょう。早速シャベッターに投稿しよう」
庭はいそいそとスマートフォンと向かい合う。
と、その時、部屋のドアが勢い良く開かれ、一人の少女が入ってきた。セーラー服とかいうらしい衣服を着た、長い黒髪の少女である。吾輩は開かれたドアに潰されないように、慌てて窓際まで避難した。
「おはようございまーす」
少女は少女らしい声で挨拶をし、庭の机の傍へ駆け寄った。
「おはよう、夕虹ちゃん」
庭は笑顔で彼女に声をかけた。彼女は星見夕虹、空彦の妹である。空彦は夕虹を見て、呆れたような顔をした。
「なんだ夕虹、また来たのか」
「うん。そろそろ庭さんの食糧備蓄、尽きる頃かと思って」
言いながら夕虹が学生鞄から取り出したのは、食糧を入れて密封保存できる容器だった。五つほどあるようだ。庭は瞳を輝かせてそれを受取り、早速中身を物色し始めた。
「ほうほう、これは春巻きだね。これはほうれん草の御浸し……ああっこれは鶏の唐揚げじゃないかっ」
「庭さん、お好きでしたよね。頑張って昨日の夜、作ってきちゃいました」
そう言う夕虹の手を、机を挟んでしっかと握り、庭は夕虹の顔を覗き込んだ。
「有難う……! 本当に、君は良いお嫁さんになるよ」
「喜んでもらえて良かったです」
夕虹は照れたように笑う。空彦は心底呆れたようにそれを眺めている。
「夕虹、そんなことしなくても、庭にはおれが弁当を買ってきてやってるから、良いんだぞ」
「でもお兄ちゃん、コンビニのお弁当じゃあやっぱり栄養のバランスが良くないと思う。私、料理好きだから全然大変じゃないし」
「そうか……?」
空彦はそれでも心配そうに夕虹を見つめていたが、急に立ち上がった庭が二人の間に立ち入り、その視線を切ってしまった。庭は夕虹の腰まである髪の毛を持ち上げ、その手触りを確かめ始めた。
「庭さん?」
夕虹が不思議そうに、庭の行動を見ている。庭はひとしきり夕虹の髪の毛を触ってから、愛おしそうに夕虹の頭を撫でた。
「夕虹ちゃん、君の髪の毛は本当に美しいね。それに、よく真っ直ぐに伸びている」
「えっ、あっ、有難う御座います……」
「君がここに来るようになってからもう一年ほど経つけれど、ここまで伸びていたことは無かったんじゃないのかな」
「あ、そ、そうかもしれません……ちょっと伸びると邪魔になって、切っちゃってたから……」
夕虹は褒められて嬉しいのと恥ずかしいのとで、顔を真っ赤にさせて答えた。庭はにっこりと笑った。
「でも、よくここまで伸ばしたね。それも、こんなに綺麗に」
「あ、それは、その……前に庭さんが、腰まで伸びた綺麗な黒髪の女性を見てみたい、って、言ってたから……」
しどろもどろになりながらそう言う夕虹に、庭はますます嬉しそうな笑顔になった。
「覚えていてくれたんだね。夕虹ちゃんは良い子だ。流石は空彦クンの妹さんだよ」
「い、いえそんな」
「庭、そんなに夕虹を褒めたら調子に乗るぞ。こいつ、只でさえお調子者なのに」
空彦が言うと、庭は「はーい」と両手を上げて、また椅子まで戻った。
「ところでね。私は今、こっそりミステリ小説を書いているんだよ」
庭は組んだ両手の甲に顎を乗せ、星見兄妹を見上げた。兄と妹は揃って顔に疑問符を貼り付け、庭を見つめる。
「今考えてるシナリオではね、君のような美しい髪の毛を持った少女が、殺されてしまうんだ」
ぞっとしたのか、夕虹は少し身を引いた。しかし、流石に冗談と受取ったのだろう、すぐに空彦と共に笑った。
「庭さんってば、またそんなこと言って……私とお兄ちゃんを怖がらせようったって、そうはいきませんよ」
「そうだぞ、庭。お前の冗談は昔から性質が悪いから嫌いだ」
庭は二人の言葉に静かに笑った。
「そうだね。悪かった。変なことを言ったね」
「良いですよ」
夕虹は気を取り直したように笑い、両手を振った。
「しかし夕虹、今は街が物騒だから、あまりこんなひと気の無いところをうろつくんじゃない。危ないぞ。さっさと学校に行け」
「学校に行くにはまだ早いよ、お兄ちゃん。それに私なら大丈夫。一応学校で護身術を習ってきてるから」
「そんなモノ……」
空彦は眉を顰めて続けようとしたが、庭がそれを遮った。
「街が物騒、というのはどういうことだい」
「ああ、……ここには新聞もテレビも無いもんな。この頃、この街で何件か殺人事件が起きているんだ」
「殺人事件?」
「庭さんも探偵さんだし、犯人を捕まえられるんじゃないですか。謎のメッセージの解読とかも、できちゃったりしそう」
夕虹が声を弾ませる。庭はぴくりと反応し、夕虹を見つめた。
「謎のメッセージ?」
「ええ。今までに起きた殺人事件は三件なんですが、そのどれもに、死んだ人の血液で、何かメッセージが残されていたそうなんです。警察は詳しく発表していないけれど……」
「ふうん」
「庭さん、調べたりしないんですか?」
夕虹は興味津々といった顔で庭を見つめるが、庭はただ微笑むばかりだ。空彦は肩をすくめた。
「あのなあ夕虹。この探偵事務所は、そんな殺伐とした事件を調べるために作ったわけじゃあないんだ」
「じゃあ、何のためにつくったの?」
「あー、それは、だな」
空彦が空中に目を泳がせると、庭がその先を続けた。
「事件というものに、少しでも近く在りたくて、この事務所を作ったのだよ。だから、私は殺人事件にも興味がある」
その言葉に、空彦は嫌そうな顔をして首を振った。
「おれはごめんだぜ。そんな危ないことに首を突っ込みたくなんてない」
「もちろん、空彦クンが嫌がるなら強制はしないさ」
請合うような笑みで、庭は言った。それでこの話題についてはおしまいとなったようだった。
夕虹はとっくに登校し、庭は相変わらずの笑顔で文庫本に向かい、空彦が縄跳びをし始めた昼頃、事務所に依頼客がやって来た。依頼客は憔悴しきった顔で、とぼとぼと机の前へ立った。年は五十台くらいだろう。白髪交じりの髪をぐしゃぐしゃとかき回したような頭をした男性だった。
「ささ、どうぞ」
庭は自分が今まで座っていた椅子を彼に勧め、自分は机の上に腰掛けた。人間の世界ではこういうスタイルの取引が普通なのだろうか。吾輩には分からないが、庭はいつでもそうやって、依頼主の話を聞くのだった。
空彦も縄跳びをやめ、壁に寄りかかって男性を見つめている。
「じ、実は……」
椅子に座った途端喋りだそうとした男性を、庭が手で制した。男性は戸惑ったように庭を見上げる。
「風見商店の鳥吉さん。娘さんの行方をお知りになりたいのでしたら、ここではなく、警察に問い合わせた方が良いでしょう」
男性はびくっと身を震わせ、すっくと立ち上がり、走って事務所を出て行ってしまった。ばたばたばた、という足音が消えた頃、壁に寄りかかってじっと聞いていた空彦が不思議そうな顔で庭に尋ねた。
「なあ、今のってどうやったんだ? どうして名乗ってもいないのに、あのオッサンの名前や職場、依頼内容まで分かったんだ」
「うん?」
庭はにこにこと空彦に笑顔を向けた。
「さあ、どうしてでしょう」
「どうしてでしょう、じゃねえよ。おれが聞いてるんだろ」
「まあ、種明かしをすれば簡単なことさ。まず、風見商店というのは、私がよく聴講に通っている大学へ続く道にある、小さな個人商店なんだ。数日通えば、店主の名前と顔くらいは覚えるよ。そこで買い物をしたことはないが、その商店のすぐ裏手に、風身商店を経営している風見家があるということは知っていたからね、そこから高校生くらいの女の子が出てくるのも何度か見かけていたのさ。夕虹ちゃんとは正反対のタイプ……、つまり俗に言う『不良少女』というやつだね。ここまでの知識があれば、後はそうたいしたことじゃない。小さな個人商店の店主が、そうたいした問題を抱えているとは思えない。だから、私はこう考えたのさ。大方、あの不良娘が家出でもしたんだろう、とね。となると彼は世間体を気にして、ここへその捜索依頼へ来たのだということになる。しかし、これはもう、私の手には負えない。なぜなら現在この街は、君も知ってのとおり非常に物騒な街と化しているわけだからね。家出娘が無事でいるとは限らない。『もう死んでしまっている』かもしれないのだよ。だから、私は彼にああ言ったのさ。私が間に入ってかき回すよりも、さっさと警察に届出をした方が、よっぽど良いだろう。それに、先ほど空彦クンが、物騒なことには首を突っ込みたくないと言っていたしね」
一息に言い終え、庭はまたどかりと椅子に座った。
「庭、お前、やっぱり凄いな」
空彦は腕組みをして、感心したようにそう言った。
「空彦クンにそう言ってもらえると、私は嬉しいよ」
庭は満面の笑みで肯いたのだった。
吾輩が昼寝をしている間に、すっかり夕方になってしまっていたらしい。
庭は吾輩が最後に見たときと同じ格好で机に向かっているが、空彦の姿はない。もう帰ったのだろう。ということは、既に夕方の五時を過ぎているわけだ。
「ああ、ねこちん、起きたね」
庭が、サバの缶詰を手に、吾輩の傍へやって来た。
「五時十五分、君の夕食タイムだ」
にゃおん
吾輩は喜びを鳴き声に込めて、庭が皿に移してくれたサバの缶詰を夢中で平らげた。庭はいつも朝の七時十五分と夕方の五時十五分に、たっぷりのサバの缶詰を吾輩に与えてくれるのである。それ以外でお腹が空いた時は、事務所の外で適当に見繕うことにしている。
吾輩が腹を満たした頃、というのはつまり六時近くだったと思うが、事務所に夕虹がやって来た。学業を終えて少し疲れた様子の夕虹は、ここに忘れ物をしたと思うのだけど、と言いながらドアを開けて入ってきたのだ。庭は彼女を、いつもとまったく変わることのない笑顔で迎えた。
「こんな時間に君を迎えるのは初めてかもしれないね、夕虹ちゃん」
「ああ、確かにそうですね。お兄ちゃんもいませんし……ところで、忘れ物と言うのは髪留めのピンなんですけど、庭さん、見かけませんでしたか」
「ピンかい。ピン、ピン……」
庭は椅子に座ったままで、指をひょいひょいと事務所内に振るような動きをした。
「ここにはない、あそこにはない、こっちにもない……」
そして、唐突に立ち上がった。急な行動に驚いている夕虹の額にかかる髪の毛を撫でて、庭はふふっと笑った。
「ここにあった」
そう言う庭の手の中には、確かに、今朝、夕虹が髪につけていたピンが光っていた。
「わあ……! 庭さん、ありがとうございます。凄い、魔法みたい」
「簡単な手品だよ。実は、君が行ってしまってからすぐに見つけてね。きっと取りに戻ってくるだろうと思っていたのだよ」
夕虹の髪にピンを挿し、庭は肯いた。
「ああ、やっぱり似合うね。君はこうでなくては」
「ありがとうございます」
夕虹は事務所の窓から差し込む夕陽の中で顔を赤らめた。
「あ、それじゃあ私、もう帰ります。お兄ちゃんに心配されちゃう」
慌てて帰り支度を始める夕虹に、庭が言う。
「何かと物騒なようだから、私が送って差し上げよう。なに、空彦クンの家の住所なら承知しているよ」
「え、本当ですか。ありがとうございます」
「……っと。この辞書を、空彦クンに返さなくてはね」
言って、庭は机に置いてあった、それはそれは分厚い辞書をひょいと持ち上げた。人間の使う言葉と言うものは、なんという重さを有していることか。吾輩が感心して辞書を眺めている間に夕虹がお辞儀をし、二人は並んで事務所を出て行った。吾輩も、こっそり後をついて行くことにした。
二人は事務所から大通りへ続く道を並んで歩いている。春とは言え、まだ日没は早い。空は既に暗くなりつつあり、小さな路地には人家の灯りさえ射さない。大通りまであと少し、という頃になって、庭が不意に立ち止まった。並んで歩いていた夕虹も足を止める。
「庭さん?」
「夕虹ちゃん、そこに何か落ちてないかな。私にはよく見えなくて」
そう言いながら、庭は夕虹の足元を指差した。
「え、何ですか……」
夕虹がそう言ってしゃがみこんだ瞬間、彼女の後頭部をめがけて、庭は手にしていた辞書を振り下ろした。
「っ」
夕虹はそのまま地面に倒れこんだ。恐らく打ち所が悪かったのだろう、夕虹は意識はあるようだが立ち上がることができない。どうにか腕を上げようと指先を動かした、その手めがけて、再び辞書が振り下ろされる。そして更にもう一振り、もう一振り、と、計十数回、夕虹の頭の上に、辞書が振り下ろされた。十二回目あたりだったろうか、ぼぐ、という鈍い音が聞こえて、それきり夕虹は動かなくなった。
にゃおーん
吾輩が自分の存在を知らせながら庭の足元まで歩いていくと、庭はいつもの笑顔で吾輩を抱き上げた。
「なんだ、ねこちん。君もいたのかい」
優しい笑顔だった。庭はそのまま吾輩を下ろし、動かない夕虹の頭から滲んだ血を、指に取った。しゃがんで、その指で夕虹が持っていた鞄の上に何かを書き記し、さっさと立ち上がった。
「さあ、帰ろうか」
にゃあお
吾輩と庭は、もと来た道を歩いて事務所まで帰ったが、事務所の前まで来てから、庭は思い出したように、自分が持っていた辞書を見直した。そこにはありありと、夕虹の血痕が残されている。
「ああ、忘れてた。これを処分しなくては」
庭はそのまま事務所の裏手に回り、いつも携帯している燐寸箱を取り出した。しゅぼ、という音と共に表れた炎が、凶器を静かに消し去っていくのを、庭と吾輩はじっと見届けた。やがて凶器は黒い消し炭になり、それを適当に地面に隠してから、庭は吾輩を抱きかかえ、庭の寝床である、廃ビルの三階へと向かった。三階には庭が収集した古本の類が所狭しと積み重ねられており、中には先ほどの辞書と同じか、若しくはそれ以上の分厚さを持つ辞書類もある。庭と吾輩は毎晩、その本の海の真ん中で、寄り添いあって眠るのだ。
「ねこちん」
庭は、吾輩と共に冷たい床に横たわってから、吾輩を見つめて言った。空洞のような目だ。
「ねえ、ねこちん。空彦クンは、良い奴だよね。ねえ、ねこちん。空彦クンは、私が夕虹ちゃんを殺したと知っても、友達でいてくれるだろうね」
吾輩には、答える言葉はなかった。そして、既にその必要もなかった。
庭は静かに、寝息を立てていた。