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ダブル・スタンダード  作者: 仁科三斗
第一章 目覚め
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音信不通

 この1か月の間に、気になっていたことが三点ある。


 一つめは、妹の俺に対する敵対的な姿勢と、腫れものに触るような両親の態度。これは、退院して家に戻れば、いずれは理由が見えてくるだろう。


 二つめは、理紗からのコンタクトが無いことだ。


 俺は何度か自分から理紗にコンタクトを取ることを考えたが、理紗のスマホは事故の際に壊れてしまっていた。新しいスマホをすぐにでも入手したかったので、母親にねだってみたが、「電話なんか必要無いでしょ」と言われてしまった。


 確かにその通りだった。記憶喪失の人間が、一体、誰に電話をかける用事があると言うのか。


 そこで戦略を変えて、「院内のコンビニで買いたいものがある。自分のスマホにお小遣いをチャージしてくれないと、買い物もできない」と主張してみたが、「それなら、その時だけ私のを貸してあげる」と、呆気なく却下されてしまった。


 母親は院内でスマホを使用する必要性をまったく認めていないので、あまり使いたくはなかったが、俺はまた「記憶喪失」という「伝家の宝刀」を利用することにした。つまり、スマホを使ってゲームなどをしていれば、かつて自分がよくやっていたゲームに触れたりして、何か記憶が戻るきっかけを掴めるかもしれない、という理屈だった。


 これもまた、母親から「あなた、以前にはゲームなんかしてなかったわよ」と言われて、見事に玉砕してしまったが、たまたま回診に来ていた山名が、「手先を動かすと脳神経が刺激されて、脳にはポジティブな影響がある。なかなか捨てたものじゃありませんよ」と助け舟を出してくれたお陰で、母親は、渋々、新しいスマホを調達してきてくれることになった。


 病室からの去り際に、母親から見えないように、山名が小さくウインクしてみせた。彼には、ひとつ、大きな借りを作ってしまったようだ。まあ、彼からしてみれば、スマホが欲しくて駄々をこねている「少女」にちょっと恩を売った程度のことかもしれないが。


 3日後、ようやく念願のスマホを手に入れて、俺はすぐに自宅に電話をかけようとしたが、いざ、その場に直面すると、何をどのように理紗に話すのか、とか、妻が電話に出たら何と言えばよいか、といった様々なハードルを前にして、急に気持ちが萎えてしまった。

 半分くらいは言い訳かもしれないが、俺が電話で誰かと話している姿を見られるのはまずい、という判断もあったので、とりあえず、母親が帰った後、夜中に電話してみることにした。


 茶飲料でも飲んで、少し気持ちを落ち着かせようと思い、院内のコンビニに行ったが、ようやく自分の思い通りに使える資金を手に入れた解放感から、調子に乗っていろいろ買い物をしたら、たちまち母親から事情聴取を受ける羽目になった。


 自分はそこまで信用されていないのか、と、一瞬、暗い気持ちになったが、母親からしてみれば、まだ万全に復調したとは言い難い娘が、外で何かトラブルを起こさないか、心配なのだろう。


 資金決済を伴う利用が、すべて母親に筒抜けになることがわかった以上、通話実績やパケ代の利用実績も彼女のコントロール下にある可能性が小さくなかった。スマホを手に入れて、すぐに自宅に電話したり、自宅にあると思われる自分のスマホにメールを送っていたら、取り返しのつかない事態に陥っていたかもしれない。自分がプレッシャーに弱いことを、初めてありがたく感じた。


 スマホ以外の連絡手段もいろいろと考えてみたが、院内に僅か1台しか設置されていない公衆電話を使おうにも、手元に現金が無かった。

 馴染みの看護婦から現金を借りることも考えてみたが、確実に使途を質されるだろうし、そうでなくても、看護婦が母親にうっかり漏らしてしまうリスクがあった。


 とにかく資金面で母親にしっかりと手綱を握られてしまっている以上、俺はまさに手も足も出ない状態だった。自分から理紗にコンタクトをとるのは、退院して、あるいは、学校に通い始めて、少しは母親の監視が緩むまでは、到底無理そうだった。

 

 俺から理紗にコンタクトを取る手段は断たれていたが、理紗は社会人で自由が利くはずなので、彼女から俺にコンタクトを取ってくる可能性があった。


 理紗は俺とは比べものにならないほど、過酷な状態に置かれているはずだった。


 課長が女子高生を演じるのは、容易なことではないが、それでも不可能ではない。一方、女子高生が課長を演じるのは、まず不可能に近い。


 両親の話からすると、理紗は咄嗟の機転が利く方ではないようなので、おそらくパニックに陥っているだろう。事故の時の恐怖感も混ざって、激しく取り乱しているかもしれない。


 さらに、「理紗」が事故に遭っていたので、俺は病院で目覚めることになり、しばらく社会から隔離される時間を持つことができたが、「俺」は事故などに遭っていないはずなので、理紗は、地下鉄の車内や、あるいは会議の席上でいきなり覚醒し、否応なく社会と接することになったかもしれない。


 いずれにせよ、覚醒した理紗が、妻や上司・同僚といった俺の周りのかなりシビアな関係者たちの中で、著しく困難な立場に立たされていることは、容易に想像できる。


 ただ、確実に言えることは、俺が職場で担当していた「経済再建5か年計画」の一部事項は、どう逆立ちしても理紗が処理できるものではなく、理紗が俺の代わりに職場に出勤している可能性は皆無だということだった。


 おそらく「錯乱状態」にある「俺」の代わりに、妻が「体調不良による長期休職」の申請を職場に提出していることだろう。


 子供のころから癇癖の強かった俺は、自分が正しいと信じることであれば、相手が上司でも絶対に折れなかったし、上司に媚びる同輩の姿を虫唾が走るほど嫌っていた。


 要するに、世渡りが下手だったのだ。綺麗な言葉で言い換えると、協調性、チームワーク、順応性といった、組織の中で伸びていくための必須アイテムが欠如していたのだ。


 それが俺の昇進に大きく響いており、俺も自分が許せないことを忍耐してまで昇進しようとは思わなかった。役所の中で、俺は「頭は良いが、使いづらい奴」というレッテルを貼られていた。


 そんな状態だったから、いまさら病気休職でミソがついたとしても、たいして影響は出ないはずである。しかし、そんな事情をまったく知らない理紗は、自分が迷惑をかけている、と自らを責めている可能性がある。


 俺に比べて自由が利くはずの理紗から、今まで何もコンタクトが無いのは良い兆候ではなかった。電話ができない監視下に置かれているか、心身の健康を崩して電話すらできないのか、いずれにせよ、理紗の身に良くないことが起こっているのは、容易に想像できた。


 俺が気になっていることの三番目は、病室で目覚める前の記憶が本当に欠損していることだった。


 理紗が事故に遭ったのは3月4日、そして、俺が病室で目覚めたのは4月5日だ。社会人としての俺の「最後の記憶」は、3月4日の夕方に、役所の外に出たところで途切れていた。


 その日は、中小企業の大量廃業問題について、日本産業会議所で対策会議が開催されることになっていた。俺は、「戦略的構造転換支援資金」の担当課長として受給資格の緩和内容を説明するため、その会議に参加する予定だった。


 経済財政省の正面エントランスから出て、観光省と総合開発省の間にある首都地下鉄の入口に向かって歩き出したところまでは覚えている。昨日まで2日続いていた雨も昼過ぎには上がって、美しい夕焼けが霞が関をオレンジ色に染めていた。


 その夕焼けの記憶の後が、病室で目覚めたときの記憶にすぐつながっている。


 俺に何が起こって、事故に遭った理紗と心が入れ替わったのか、その原因をなんとか解明しないことには、俺と理紗の「魂の正常化」は期待できない。


 病院での最後の夜、俺は、これから待ち受けているたくさんの難題を想像し、カーテンから薄い光が差し込んでくるまで、なかなか眠れなかった。

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