サステナビリティ
俺が病室で目を覚ましてから、1か月が経った。
目を覚ますまで1か月も寝ていたこともあって、もう骨折部位の固定は十分なくらいであり、目覚めた翌日にはギプスを取り外してもらえた。
ギプスを取ってみて驚いたのだが、右足と左足の太さが全く違っていた。ギプスで固定していた右足は、物の見事にやせ細っており、見るも無残、という有様で、それを見た母親がまた涙ぐみそうになった。
ただ、俺自身は、ギプスを取った瞬間の、えも言われぬ臭気に卒倒しそうになった。「人間の肌というものは、定期的にきちんと洗わないと、こんな悲惨な状態になるのか。これが人の業ってものかな」と、しみじみ思った。
以前、中国の古典笑話集の「笑府」を読んだとき、昔の中国で女性の足に一日中ずっと堅く布を巻きつけていた「纏足」という習慣について、足の臭気のきつさを揶揄する話がいくつか収められていたが、こういうことか、と初めて実感した。
もちろん、女子高生は「笑府」なんて読むはずもないので、こんな話は誰にもしなかったが。
ギブスを取った当初は、まだ歩くのも頼りない状態だったので、引き続き車椅子を使わせてもらった。
車椅子に乗ってしまうと、それなりに楽なので、どうしても依存しがちだったが、「このままでは本当に筋肉が衰えて歩けなくなってしまう」と医師たちから脅され、俺も早く病院から外に出たかったので、リハビリを始めて2週間目に、意を決して車椅子を病院に返却した。
病院でのリハビリはそんなに簡単なものではなく、人が歩くという行為は、重力に反する偉大なものであることを、俺はつくづく実感させられた。
小さな子供の「つかまり立ち」のように、病室や廊下の壁を伝ってトイレに行けるようになったが、いまだに男性用トイレに入りかけてしまうことがある。実際に、うっかりドアを開けてしまい、先客たちがびっくりして俺を見つめる、というアクシデントが何度かあった。
骨折というのは、病気ではないので、ベッドで安静に寝ている必要はなく、むしろ、動け動けと急き立てられる。
毎日、母親が病室にやってきて、なにかれとなく世話をしてくれるのはありがたいが、こちらが面倒臭がってベッドに寝ている時間が長くなると、途端に母親の表情が曇りがちになり、ともすると涙ぐみそうになるので、俺も仕方なく日中は可能な限り院内を歩くことにした。
1か月も病院に滞在していると、嫌でも病院のシステムに精通するようになる。廊下でうろうろしている「新入りさん」に検査室の場所を教えたり、母親の目を盗んで院内のコンビニに行き、「お父さんに頼まれちゃった、テヘ」的な作り笑顔で「ホタテの貝ヒモ・唐辛子風味」を買ってきたり、「少女の特権」をフル活用して、馴染みの看護婦に後ろから抱きついたり、病院ライフを満喫した。
「少女」になって最も不便なのは、母親に自分のお小遣いの使途を完璧にトレースされてしまうことだった。以前の生活では、電子マネーの利便性を謳歌していた俺だったが、いざ「少女」になってみると、利用金額に制限のある家族カードをスマホに組み込まれて、お小遣い分をチャージされる仕組みが普及しており、しっかりと資金使途を親に管理されてしまうことに気付いた。
以前の生活でも、電子マネーの利用履歴を確認するシステムがあることは知っていたが、自由に使える金額がそれなりに大きい社会人にとっては、細かく家計簿でもつけている人以外は、こんなシステムを利用する者は殆どいなかったはずである。
「ホタテの貝ヒモ」をコンビニで買った時には、こうした利用法に気付いていなかったので、後で俺のカードの利用履歴を調べた母親から、笑顔のまま、「これはなあに?」と尋ねられた時には、大いに肝を冷やした。とりあえず、「間違って購入した。本体は食べずに捨てた」と言い張ったが、母親がどこまで信じたか、やや心配だ。
こんな形での「親の管理」が浸透しているなら、現金がまだ広く利用されていた俺の少年時代のほうがマシだったような気がする。
ほぼ毎日、顔を合わせている母親との関係は比較的良好だと思う。ただ、母親は顔には出さないものの、すっかり性格が変わってしまった娘のことを非常に心配しているようだ。
両親から根掘り葉掘り聴き出した話を総合すると、理紗は、「おとなしく、引っ込み思案で、臆病で、いつも友達の後からついていくような、やや主体性や積極性に欠ける」少女らしい。
得意科目は数学で、試験前には、一人で問題集を黙々と解いていることが多かったらしい。スポーツは不得意で、球技大会の日には必ず胃が痛くなるタイプ。休日には、少女マンガやラノベをこよなく愛し、母親からチャージされたお小遣いは、その大半を電子書籍に注ぎ込んでいたらしい。
同級生の友達との仲も良好で、よく家でお菓子を焼いて、密かに学校に持って行って友達と休み時間や放課後にこっそり楽しんでいたらしい。
この1か月間のうちに気付いたのだが、母親は涙もろく、情に厚く、「うふふ」とにこやかに笑うのが好きな暖かい女性であるが、締めるべきところはしっかりと締める、結構、しっかりした人でもある。当初、母親を甘く見ていた俺は、すぐに何度も彼女の鋭い指摘や質問に冷や汗を流すことになり、早々に彼女に対する認識を改めた。
ただ、腑に落ちないのは、学校へのお菓子密輸の件と言い、電子書籍への傾倒と言い、理紗の必ずしも歓迎すべからざる点についても、母親が咎めた形跡があまり窺われないのだ。
両親にとっては、理紗は従順で扱いやすい娘であった反面、「ちょっと将来が心配な子」でもあったようだ。それゆえに両親とも、理紗をやや甘やかしていた様子が感じとれる。
そういう「扱いやすい娘」だったからこそ、理紗が事故に遭い、その「現場」について警察から知らされた時、両親の驚愕と当惑は測り知れないほど大きかったのだろう。
病室で母親または両親と一緒にテレビを見ているとき、ニュースなどで「池袋」という地名が出てくると、非常に気まずく、そして重苦しい沈黙が流れる。
俺のほうは、「理紗的少女」を演じ切るのは、自分には到底無理だ、と早々に悟ってしまった。かといって、以前の俺のように振舞うのは、さすがにまずい。どうすべきか思案していた時、記憶喪失の症例について、たまたま担当医の山名に尋ねる機会があった。
山名は、最初に会った時に直感した通り、非常に「世渡り」の巧みな人だった。患者やその家族に決して言質を取らせない、その巧みな話術は、官僚だった俺からみても尊敬に値するレベルに達している。
ただ、惜しむらくは、高名な医師によく見られるように、女性に対するガードが甘い。さすがに患者には手は出していないと思うが、看護婦とは「そういう関係」になっている形跡がある。
担当医である以上、何かと親密になっておいた方が安全だと思い、俺が山名に少しなつく素振りを見せたら、たちまち看護婦の一人から視線で瞬殺されかけた。その看護婦が不在の折に、山名の執務室を訪れて、記憶喪失の症例について聴き出したのだ。
普段はそれなりに明るい「少女」が、自分を頼ってやってきて、目の前でシュンと俯いて、「もう記憶が一生戻らないかもしれない。私はどう生きたら良いんでしょうか。以前の性格と今の性格がかなり違うということに、両親は心を痛めているようです。今の私は、本当は存在してはならないものなのでしょうか」などと、儚げに悩みを告白している。
そんなにシチュエーションは山名を自己陶酔させたようで、書棚の奥から英字の分厚い学術書まで出してきて、記憶喪失についてこまごまと説明してくれた。
そんな話の中に、2017年にデンマークで得られた記憶喪失の症例が含まれていた。人間関係についての記憶が全面的に欠損した男性のケースで、以前は陽気で社交的だった人物が、記憶喪失後は、人が変ったように寡黙になり、家に引きこもるようになってしまった、というものだった。
「こういうケースは珍しくないと思うよ。性格というものは、幼い頃からの経験、言い換えると記憶の積み重ねで形成されているんだ。過去の記憶が白紙に戻ってしまうことがあれば、そうした記憶の積み重ねもキャンセルされるわけだから、性格が大きく変わったとしても、何ら不思議なことではないよ。現代の医学では、人の記憶を抹消することまで可能になっていて、実際に過去のつらい記憶を消してほしい、と申し出てくる人たちが少なからずいる。それでも医者が記憶の抹消などを行わないのは、本人の性格までが大きく変わってしまいかねないからなんだ」
山名の言葉に、思わず俺は表情を明るくした。山名も、自分が「悩める少女」に一条の光明を示すことができた、と思ったらしく、非常に良い笑顔で微笑んだ。
そして、俺が病室に戻ろうとしたとき、その帰り際にこう言った。
「過去は終わってしまったことだから、もはや変えられるものじゃない。しかし、将来は、自分の努力によって作り出されるものだから、やり方次第で、幾らでも変えられる。過去の自分に囚われず、今の自分の思う通りに一生懸命に生きてみて、それで結果的に自分も家族も幸せになれるのであれば、すべて丸く収まるんじゃないかな」
山名は、抜け目なく狡猾で、そして、女性にもルーズなところのある、決して褒められた奴ではないけれど、それなりに懸命に努力して、名医と言われる医者になったんだ。そんな気がした。
理紗の生き方をそのままトレースすることは到底できそうにないが、両親を過度に心配させない範囲内で、自分なりの生き方をしてみよう。事態を正常化できたとき、理紗には怒られるかもしれないが、あまりにも演技づくめの人生っていうのも、堅苦しくて、無理があって、持続可能とは言い難い。
その日から、俺は、「少女」らしい言葉遣いにこだわることを、やめた。