スコール
私は咄嗟に声を出せなかった。思いもよらぬ伊達の言葉に圧倒されて、かすれた声で「えっ?」と言うのがやっとだった。そんな私の狼狽振りを、伊達は全く表情を変えずに黙って見つめている。
「……えっ、あの、何をおっしゃっているのか、わからないんですけど……」
顔が紅潮するのを自覚しながら、なんとか声を絞り出すと、伊達は、ずいっと一歩踏み出して顔を近づけてきた。長い睫毛と漆黒の大きな瞳が、私の顔のすぐ近くまで寄せられてきた。
「……ふうん、そういうことなのね……。まあ、いいわ。そういうことにしておくね」
「何がですか? 私はこうして生きてるんですから、私の幽霊なんて出ようがないじゃないですか」
とにかく言葉を返そうとする私を軽くあしらうように、伊達はくるりと身を翻して素早く私から離れると、僅かに振り返って右顔だけ僅かに覗かせた。
「……雲行きが怪しいわ。一雨、来るわね。降られないうちに、駅まで行っちゃおうよ」
私に口を開かせる間もなく、伊達はすっと前を向くと、歩調を速めて歩き始めた。リズミカルに揺れる伊達の後髪を眺めながら、私は返す言葉を必死に探した。
(相手が話を変えているのに、ここで再び幽霊の話に戻したら、まるで私がこの話題に固執しているみたいじゃないか。それを逆手に取られて、今度は何を言われるか、わかったもんじゃないぞ。かといって、「そういうことにしておくわね」なんて捨て台詞をそのまま見過ごすのは、まるで伊達の言い分を半ば認めてしまっているみたいなものだし……。伊達の持っている選択肢の方が遥かに多くて、私にはあまりに分が悪い……)
私が逡巡している間、伊達は一度も振り返ることなく、少しずつ足を速めながら、新宿中央公園の脇を抜け、陸橋を渡って都庁の前に差し掛かった。伊達の言った通り、夕空は瞬くうちに真っ黒な雲で埋め尽くされ、妙にひんやりとした強い風が吹き始めている。新宿駅に向かう横断歩道の信号は赤になっており、南側の大きなシティホテルの入口に向かって延びる横断歩道では、青信号が点滅を始めた。
「こっちよ」
伊達は軽く振り返って、私がついてきているのを確認すると、躊躇することなく横断歩道に向かって足を進めた。青信号の点滅する間隔がかなり短くなっているのを見て、たまらずに私は伊達に声を掛けた。
「あのっ、信号、もう変わり始めているんですけど!」
「まだ大丈夫! 走るわよ!」
後ろを振り返りもせず、伊達はついに駆け出した。彼女の勢いに気圧されて、私も走らざるをえない。横断歩道を渡り切って、ホテルの入口に駆け込んだと同時に、バラバラバラッと大きな雨粒が歩道に叩き付けられる音が響き始めた。
「なんとか間に合ったね」
ようやく足を止めて、伊達が大きく溜め息をついたとき、バリバリパリドドーンと大きな雷鳴が響き渡った。
「信号が思いのほか長く点滅していたおかげで間に合いましたけど、もし、あそこであきらめて信号待ちしてたら、今頃はすぶ濡れでしたね。的確なご判断でした……」
エントランスの窓ガラスに激しく吹き付けられる雨粒を眺めながら、しみじみと私が呟くと、伊達は乱れた髪を直しながら苦笑した。
「ねえ、吉川さん、最近、青信号の点滅する時間がだんだん長くなってきているの、気づいてる?」
「そうなんですか、初めて聞く話ですけど……」
怪訝な顔で尋ね返すと、伊達は素早く辺りを見回したあと、声のトーンを僅かに下げた。
「お年寄りが横断歩道を渡り切れなくて、苦情を言ってくるケースが物凄く増えているんだって。お年寄りは時間の余裕があるから、ちょっとしたことでもガンガン苦情を言ってくるからねぇ。それで、青信号の点滅する時間を長くしてるらしいよ。10年前の約2倍の長さになってるんだよ」
「ああ、そういうことなんですね。でも、それじゃ、車にとっては、赤信号の時間が長くなるから、渋滞が増える要因になりかねませんね。あちら立てれば、こちらが立たず、というわけですか……」
私が天を仰ぐようにして呟くと、伊達は腰に手を当てて仁王立ちになり、ニヤリと笑ってみせた。
「ところが思ったより渋滞は増えていないみたいなんだよ。完全自動運転車が増え始めたせいらしいだよね。そこまで見込んだうえで、信号の点滅時間も調整されてるみたいだよー」
「伊達さんは、ずいぶん、信号にお詳しいんですね。もしかして、信号マニアとか……」
「そんなマニアっているの? まあ、種明かしをしちゃうとね、全部、三好さんの受け売りなんだよ。あの人、昔、信号機かなんかのメーカーに勤めてたんだって」
「ああ、そうなんですか……。どうりで信号に詳しいわけですね」
私は、心の中に引っ掛かる何かを感じながら、話の腰を折らないように、とりあえず相槌を打っておいた。とにかく伊達が饒舌になっている間に、うまくきっかけを作って、先ほどの意味ありげな発言の真相を探り出しておきたかった。
(……ここで雨宿りしているうちに、なんとか話の糸口を見つけられればベストだけど、相手はなかなかしたたかみたいだから、あまり無理押しせずに、同じ方向の電車に乗るようにして、道すがら追々聞き出すのもありか……)
「ところで、これからどうします? このまま、ここで雨が上がるまで待ちますか? どうせ、いつもの夕立だから、そんなに時間もかからずに止むと思いますけど……」
「そうだねー、今日のはとくに風が強いみたいだから、折り畳み傘は役に立ちそうにないね。あなた、普通の傘は持ってるの?」
この数年、夏になると、毎日のように夕方に激しい雨が降るようになっている。外出時に折り畳み傘を持ち歩くのは常識だが、強い風と激しい雨の前では、役に立たないことも珍しくない。そ今日のようにスコールみたいな夕立が降り始めたら、とにかく雨宿りに徹するに限る。
「いえ。今年も7月に入ってから猛暑日が毎日続いてますから、出掛けるときは荷物を少なくしておきたいですし……」
「そうだよねぇ……。でも、ここのホテル、新宿駅と地下道で繋がっているんだけど、あんまり使いたくないんだよね」
伊達は、ロビーの隅から地下に向かって伸びている階段を眺めて、僅かに眉をひそめた。
「ここは新宿の地下道の末端ですからね……。それに、そろそろホテルの地下の入口も閉鎖される時間だと思いますよ」
ロビーには他の客たちの姿も見えたうえ、フロントには従業員たちがいるので、私も敢えてその先を言わずに口を濁した。
(……新宿の地下道の末端では、すぐにLED電灯が盗まれるから、昼間でも薄暗くて人通りが少ない。夕方になるとまったく人通りが絶えて、治安が極めて悪化する。ネットでは、物騒な噂も流れているし……。ここのホテルはまだ地下道との連絡口を使っているみたいだけど、連絡口を常時閉鎖してしまったビルも増えてきている……)
伊達は、少し俯き加減で、エントランスのガラスに吹き付ける雨を無表情のまま見つめながら、下唇に人差し指を当ててトントンと軽く触れて考え込んでいたが、やがて意を決したように顔を上げて、私の方に向き直った。
「あなた、三好さんのとこに来たの、今日が初めてだよね。それじゃ、現金の持ち合わせは少ないよねぇ……。うん、わかった、それじゃ、私が家まで車で送ってあげるね。うち、松涛なのよ。車を使えば、どうせ富ヶ谷のすぐ近くを通ることになるから、遠慮しなくていいよー」
「あ、それはすごく助かりますね……。えっ、うちが富ヶ谷だってこと、どうして知っておられるんですか?」
喉の奥が急速に乾いていくのを感じながら、もはや警戒心を隠し切れずに硬い口調で尋ねた。
「それは、これから車の中で話そうか。面白いものも見せられると思うし……」
伊達は悪戯っぽくニヤリと笑うと、バッグからスマホを取り出して、タクシー会社のアプリを立ち上げ始めた。
2年ぶりの投稿となりましたが、これで正式に連載再開です!
2年前には、仕事の繁忙化で連載を中断しましたが、プロットはきちんと作ってあったので、再開は比較的容易でした。
8月は5話くらいは投稿したいですね!