生きている幽霊
「幽霊? それ、ほんとなの?」
晴香は急に眼を輝かせると、伊達ににじり寄った。
「うーん、本当かどうかは確かめようがないけど、でも、そういう噂が広まってるのは事実だよ。ここ3か月くらいで、急に広まったんだけどね」
「へぇー、で、どんな話なの?」
ますます身を乗り出してくる晴香を、伊達は苦笑しながら眺めていたが、ソファーから少しだけ身を起こして、私たちに視線を向けた。
「少しずつ内容の違った噂が幾つか広まっているんだけど、一番良く聞くのは、女の子の幽霊の話だよ。3月に北池袋で交通事故があって、私たちくらいの歳の子が亡くなったらしいんだけど、その子の幽霊が事故の現場に出るんだって。ネットで調べてみたんだけど、実際に現場に行って幽霊らしきものを見たっていう話が掲示板に書かれてたし、スマホで撮った写真も載ってた。顔は、はっきりとは映っていなかったんだけどね」
私は、固く握りしめた手のひらから、生温い汗がじんわりと浸み出してくるのを感じていた。エアコンの風音や他の少女たちの話し声がだんだんと遠くなり、静かな部屋に伊達の声だけが響いているような錯覚に陥っていた。
「ネットに載ってた写真って、どんなだったの?」
人の生死に関わる事故の話とあって、さすがに晴香も声のトーンを下げた。
「事故現場のすぐ近くに、誰も使っていない古いビルがあるんだけど、その2階の割れた窓から、白い霧みたいものが漂っていて、額から血を流した髪の長い女の子が、自分の事故現場を見下ろしているんだよ」
伊達は部屋の窓に視線を移しながら、僅かに表情を硬くした。
「それって、誰かがそのビルに入り込んでただけじゃないの? 使われていないビルって、ちょっと訳ありのいろんな人たちが集まってくるし……」
「でもね、ビルの1階のドアや窓には鉄板が打ちつけられていて、管理人がときどき出入りするためにドアが1か所だけ使えるようになってるけど、もちろん鍵がかかっていて、しかも3種類の違うタイプの錠が取り付けられているし、警備会社のセンサーも置かれてるから、勝手に誰かが入り込むことなんてできないんだってさ……」
数秒間の沈黙が続いた後、晴香は小さく「キャッ」と叫んで、伊達に抱きついた。
「いつも言うことだけどさ、ホラーが苦手なのに、怖い話を聞きたがるなよ……」
「……詳しく聞かないと、本当に怖いかどうかわからないもん……」
くぐもった声で呟く晴香の髪を撫でてやりながら、伊達はゆっくりと視線を上げた。
「吉川さんは、こういう話、苦手?」
「そんなことないよ! 理沙は徹底した合理主義者、リアリストだから、そもそも幽霊なんて信じないよ!」
「いや、晴香に聞いてるんじゃないんだけどさぁ……。で、どうなの? さっきから表情が硬いように見えるけど……」
確かに私の表情は硬くなっていたのかもしれない。伊達の話を聞く限りでは、事故の時期と場所は、理沙の事例と極めて酷似しているが、辻褄が合わない点も多いのだ。
(……少なくとも理沙の「身体」が事故で死んでいないからこそ、私がこうしてここにいるわけなんだが……。それなのに、死亡事故として噂が広がっているのは何故なんだ……。そんなことは、新聞や警察で少し調べれば、すぐに事実関係が確認できるはずなんだが……。とにかく、この件はもっと調べてみたい……)
ただ、私まで幽霊話に強い関心を持っているように思われるのは危険だった。ここで、怖いもの見たさから、「それじゃ、現場に行ってみようか」とかいう話の流れになった挙げ句、幽霊の「本人」が私であり、しかも、妹が言っていたように「いかがわしい場所」で事故に遭っていたことが露見したら、友人たちの信頼を失う恐れがある。
この4か月で実感したことだが、女性は、「いかがわしい場所」で働く同性に対して、実は驚くほど冷たい。みんな頭では「彼女たちは生活のために仕方なくやっているんだ」と理解しているものの、感情では「見ず知らずの男性と親密な関係を持つなんて、気持ち悪い」と直感的に嫌悪しているのだ。もちろん、すべての女性がそうだとは言わない。ただ、「浮世の辛さ悲しさ」を知らない、恵まれた家庭の若い女性ほど、こうした傾向は強いように思う。さらに悪いことに、理沙は経済的には何ら問題が無いから、「仕方なく」という部分すら適用されなくなってしまうのだ。家で綾乃が時折ぶつけてくる棘々しい視線が、何よりも雄弁にそれを語っている。
かといって、ここで「幽霊なんて!」と一笑に付して、この話を終わらせてしまうのも、少しためらわれた。もう少し状況を詳しく知りたいし、ここで完全否定しておいて、後からこそこそと調べ回るのは、それこそ相手の好奇心を刺激することになりかねない。
私は、考え込む振りをして、しばらく「うーん」と唸ったあと、ようやく重々しく口を開いた。
「幽霊は存在しない、とは、簡単に断定できないと思います。世の中、『存在すること』を証明するよりも、『存在しないこと』を証明する方が何倍も難しいはずです……。あらゆる可能性をひとつひとつ潰していかなければならないわけで、気の遠くなるような手間と時間がかかりますから……。それに、今、私たちの知っている科学的なロジックやエビデンスから考えて、『幽霊は存在しない』という結論を出したとしても、実は、私たちには見えていない未知のロジックやエビデンスも存在するかもしれませんし……。ロジカルに考えれば考えるほど、幽霊の存在を完全否定することは一段と難しくなります」
伊達は、何度か瞬きを繰り返した後、「ふーん、そうなんだ、キミは……」と小さく呟き、表情を消したまま、私の足元から頭までゆっくりと視線を這わせていった。まるで心の奥底まで深く探ろうとするかのような瞳の動きに、私は思わず身体を硬くした。
ただ、私も口から出まかせを言ったわけではない。以前は、「幽霊なんて絶対に存在しない。あれは、『死後の永遠の暗闇』を恐れる人間が創り出したフィクションだ」と確信していたが、こうして実際に自分に「魂の入れ替わり」が起こってみると、幽霊を一概には否定できなくなったのもまた事実だ。
伊達はしばらく私を見つめていたが、やがて、睫毛を伏せて、ふっ、と微笑んだ。
「……確かに『非存在の証明』は難しいわね……。人は目に見えるものを簡単に信じるけど、目に見えないものはなかなか信じようとしない。世の中には、目に見えない真実もたくさん存在するのに、ね……」
その翳りのある微笑みにどこか引っ掛かるものを感じつつも、私は、彼女から、この幽霊話の周辺情報を引き出そうと試み始めた。
「伊達さんは、幽霊の話にお詳しいんですか?」
「香織ちゃんはね、東京市の東側や北側の女の子たちに知り合いが凄く多いんだよ。だから、いろんな情報がクチコミでたくさん集まって来るんだ。ネットに流れないような話もたくさん知ってるんだよ! 表も裏も知り尽くしているみたいな!」
晴香はようやくいつもの元気を回復したようで、伊達の胸の中で、顔だけこちらに向けて、にかっと笑ってみせた。
「まあ、玉石混交っていうところかな。実際は、石の方が遥かに多いけど……。ほら、秋霜女学校って九段にあるでしょ? あのあたりは女子校が集まってて、通学路や電車で他校の人と一緒になることが多いのよ。私、あんまり人見知りしないから、すぐ話し掛けちゃったりして、それでどんどん知り合いが増えていったっていうわけよ。東京の西の方のことは、薫子、えっと、聖ルカ国際女子学園の上杉薫子が詳しいよ」
「薫子姉さまは、香織ちゃんと違って、エレガントでお淑やかなんだよ。本物のお嬢様なんだよ!」
「はいはい、アタシはエレガントでも、お淑やかでもなくて、ごめんなさいね! ああ、それから、私のことは、香織って呼んでいいよ。私も、あなたのこと、理沙ちゃんって呼びたいけど、いいかな?」
いつまでも抱きついたままの晴香を「そろそろ暑いだろっ!」と引き剥がしながら、香織は屈託のない笑顔を見せた。
「はい、これからよろしくお願いします。ところで、その幽霊の写真って、その端末からも見られますか?」
「ああ、簡単に見られるよ。ちょっと調べてあげるね」
無造作に置かれているタブレット端末を取り上げると、香織は手慣れた様子で画面を素早く操作して、私に向けて見せた。
画面に表示されているのは個人ブログのようで、「東京ホラースポット探訪」というタイトルでアップされている写真には、くすんだ外壁と錆びた扉を持つビルの2階で、割れたガラス窓にそっと手を添えて、少女が外を見ている光景が映っていた。 少女の周囲には白く霞がかかっているようであり、確かに存在が儚いようなイメージだ。長袖のセーラー服を着た少女は少しだけ俯いており、長い髪に覆われて顔立ちはほとんどわからないが、右の額から、一筋、赤いものが頬に垂れているようにも見える。
画面をじっと見つめていると、晴香が近寄ってきて、私の後ろから恐る恐る画面を覗き込んだが、たちまち「ヒッ!」という短い奇声を上げて飛びのいた。
「……確かに幽霊にとって必要な条件を満たしていますね。見る者を怖気づかせるだけの迫力があります……」
「そうでしょ? この話、結構広まってるみたいで、ビルの持ち主さんも凄く気にしてて、時々、関係者の人たちが、昼間だけでなく、夜もビルに入って調査してるみたいなんだけど、そういうときに限って出ないんだって。最近は、お坊さん呼んでお経をあげてもらったり、お札を貼ったり、いろいろやってるみたいだよ」
「まあ、幽霊ビルだっていう噂が広まれば、転売時の売却価格が大きく下がりますからね。それに、もし、自社で建て替えた後でも幽霊話が続くようだと、テナントも入らなくなるから、オーナーにとって死活問題ですよね」
自分で話しながら、私は、はっとした。
(……もしかして、それが狙いなんじゃないか……。このビルは中規模クラスの雑居ビルだ。単体で建て替えるより、隣接するビルを巻き込んで大型化すれば、それだけ賃料も高くできる。隣接するビルの売却価格を下げて安く買い叩くためか、あるいは、持ち主にビルを早く処分させるように仕向けるため、わざと幽霊話を流しているんじゃないか……。自社の保有ビルに『幽霊』を出すことなんて、オーナーであれば、いとも簡単なことだ。理沙の事故の話は、単に利用されているだけかもしれない。実際、あれは「死亡事故」ではなかったんだからな……)
私は、端末の「画面拡大」ボタンを押し続けて、写真を200%に拡大してみた。
(やはり、これは陽英の冬服じゃない。タイの形が微妙に違う。個人情報保護の観点から、事故に遭った少女の学校名なんて、マスメディアは公表しないだろうし、警察に照会しても教えてくれないはずだ……誰も確かめようがないんだから、「少女」であることさえ明示できれば、別にどこの学校の制服でも構わないんだ……)
取り敢えず、理沙の幽霊ではないことが判明して、私はひとまず安堵した。そうとわかれば、こんなリスクの高い話はさっさと切り上げてしまうに限る。
「いずれにせよ、あまり気持ちの良いものじゃないですね。もう、この話はやめませんか。晴香もまた顔色が悪くなってきたみたいですし……」
「この子、臆病なくせに好奇心だけは人一倍強いんだから……」
隣で顔面蒼白で震え始めている晴香を眺めながら、香織は溜め息を洩らし、何気なく時計を眺めた。
「あ、もう、こんな時間なのね。そろそろ私は帰ろうかと思うんだけど、理沙ちゃんも一緒に駅まで行かない?」
「夏は遅くまで明るいから、つい、うっかりしてしまいますね。はい、喜んでご一緒させて頂きます」
「あ、晴香は、少し休んで落ち着いてから帰った方が良いよ。そんな不安定な精神状態じゃ、本当に夜道で幽霊に出会っちゃうかもしれないからね」
晴香がこくこくと黙って頷くのを見ると、香織はゆっくりとソファーから立ち上がった。香織が玄関ドアに向かって歩いていくと、室内に残っている少女たちが「失礼します!」、「さよなら!」と口々に挨拶を送ってくる。先ほど三好が去り際に残した言葉を思い起こしてみても、この組織での香織のステイタスの高さが容易に推察できた。
外階段を下りて、あの色違いのタイルが敷かれている場所に出ると、香織は立ち止まって、タイルを指差した。
「ここから大使館に向かって延びているタイルは、ネイビス大使館の敷地を示しているの。三好学習ゼミナールに辿り着くためには、この大使館の敷地を踏み越えなければならないというわけ。三好さんはネイビスの政府関係者と特別に親しいらしくて、歴代の大使から、ゼミナールの生徒たちが大使館の敷地に立ち入ることを特別に許可してもらっているけど、生徒ではない人たち、例えば、役所の人たちは、なかなか入って来れないのよね。もちろん、正式に大使館に申請すれば、全く入ってこれないわけでもないんだけど、下手をすると外交トラブルになりかねないようなことには、自然とみんな慎重になるのよ。好き好んで火中の栗を拾いたい人はいないからね」
タイルを踏み越えて路地に出ると、香織は再び足を止め、にっこりと微笑んで、私にだけ聞こえるような小さな声で囁いた。
「あなたの幽霊じゃなくて、良かったわね」
こんばんわ、来宮静香です。
2週間空いてしまいましたが、ようやく今話を投稿できました。
仕事も確実に落ち着いてきて、これから9月までは毎週末に投稿できそうです。
これまでずっと温めていたお話を思い切り書けそうです!
皆様におかれましては、引き続きなにとぞよろしくお願い申し上げます。
来宮しづか 拝




