キックバック
ドアの向こう側には、まるで草原のように、薄いグリーンのカーペットが床一面に敷かれている。毛足の長いカーペットの上には、部屋の壁を背にして、大きな黒い革張りのソファが4脚置かれており、部屋の中央には少し丈の低いガラスのテーブルが鎮座している。部屋の隅にはノートパソコンが2台載せられた机が置かれている。机は、たぶんマホガニー製で、決して安くはない代物だ。
エアコンの効いた室内では、ソファやカーペットの上で、少女たちが足を伸ばしてのんびりと座っており、中には靴下を脱いで素足になっている子や、カーペットにうつ伏せに寝て、スマホの画面を眺めている子もいる。結果的に私が尾行する形になってしまった、あの陽英の生徒は、カーペットの上にぺたんと女の子座りをして、友達と楽しそうに話している。彼女が軽く右肘を乗せているガラスのテーブルの上には、生クリームらしい痕跡が僅かに残った皿や、封を開けたスナック菓子の袋などが散らかっている。
(……まるで、大学のサークル棟の部室みたいだな、これは……)
私は部屋の入口に立ち尽くしたまま、学生時代に見たことのある景色を思い出しながら、思い思いの姿勢でくつろぐ少女たちを眺めていたが、ふと、軽い違和感を感じて、ほんのわずか、表情を曇らせた。何かが普通の景色と違うのだが、何が違うのかまでは、わからない。
「……えーと、ここって、一応、学習塾、なんだよね?」
部屋の入り口で靴を脱ぎ始めた晴香の背中に向かって声を掛けると、入口に最も近いソファに座っていた少女が、スマホの画面を操作しながら、私たちの方に顔だけ向けて、にやりと笑った。
「晴香、またお友達連れてきたんだー。まあ、遠慮せずに靴脱いで上がってよ。むさ苦しいところだけどね」
「むさ苦しいとは、ご挨拶だなぁ。ここは香織の家じゃないだろうが……」
ソファの少女に晴香が答えようとしたとき、隣室に通じるドアが開いて、男がぬっと顔を覗かせて苦笑した。薄いブルーの縞が入った半袖の開襟シャツにスラックスという、とりあえずは会社員と言っても通用しそうなクールビズの服装だ。
(……この男が学習塾の経営者か講師か……。ざっと見たところ、30代後半というところか。)
「でも、むさ苦しいことは事実だよねー。三好さん、もっと儲けて、オフィスを広くしてよー。あれあれ? 晴香が早く説明してあげないから、この子、わけがわからず、目を白黒させてるよ!」
ソファの少女は、男に向かって無遠慮にビシッと指を突きつけると、再び私たちに視線を戻し、なにか面白いものでも見つけたかのように無邪気に笑った。
「香織ちゃんが機関銃みたいに喋り続けるから、説明する間もなかったんだよ、もう! えーとね、この子は同じクラスの吉川理沙ちゃん」
晴香は、ソファの少女に向かって軽く口を尖らせてみせると、ようやく私を紹介し始めた。
「で、この元気の良い人が伊達香織さん。秋霜女学校の5年生、帰宅部。それで、このおじさんがここの塾長の三好秀行さん」
とりあえず軽く頭を下げて会釈すると、伊達が柔らかく微笑んで見つめていた。
「ここ、学習塾っぽくなくて、びっくりしただろう? でもね、ここは、学校じゃ勉強できないような、とにかくいろんなことを学べる場所だから、とりあえず、まあ学習塾には違いないな。ま、せっかくご縁があって来たんだから、楽しんでいってくれよ!」
「あ、はい、ありがとうございます……」
事情が理解できずにまだ当惑していると、間髪を入れずに三好がA4版の書類1枚を手渡してきた。
「注意事項なんかを書いてあるから、浦上や伊達に説明して貰いながら読んどいてな。そのうえで、入塾するのであれば、そこのパソコンからデータを入力して、帰り際に浦上たちに教えてもらって、入口のセキュリティ装置で手のひらの静脈認証を登録しといて。そうすれば、次回から、入口のセキュリティロックを自分で解除できるようになるから……。それじゃ、ちょっと俺は出掛けてくる。伊達、火の用心、くれぐれも頼むな」
「りょーかい!」
三好は必要事項だけ話すと、小型のスーツケースを持って部屋から出て行った。外からドアが閉まるのを、私は何気なく眺めていたが、ドアが完全に閉まりきる直前、三好の眼がすっと細くなり、表情が少し険しくなったのが見えた。
(……あれは一介の学習塾教師の顔じゃないな……一体、何者なんだ……)
セキュリティロックのカチャッという施錠音を聴きながら、再び視線を書類に移すと、晴香が隣から書類を覗き込んできた。
「えーとね、まず、ここは、自習塾っていう建前なんだよ。基本的には自分自身で勉強するところだし、わからないところは、ここに来ている上級生の人たちが教えてくれる仕組みなんだ。たとえばね、ああ見えて、香織ちゃんは学年トップを取ったこともある秀才だったりするんだよ。だから、ちゃんとわかりやすく教えてもらえるよ」
「あの三好さんって人は勉強を教えないのか?」
「三好さんは、ここの経営者であって、先生じゃないよ。言うならば、家主とか地主?みたいな立場かなぁ。私たちは、三好さんから場所を借りているだけ、みたいな関係なんだよ。だから、普通の塾に比べて、ここって授業料がすごく安いでしょ?」
「確かに、月額千円っていうのは、信じられない安さだよなぁ。でも、これでビジネスとして成り立つのか? 赤字なんじゃないのか?」
「結構たくさんの高校生が会員登録してるんだよ。時々来て、ほんの数分利用するだけの人もいるから、そういう人も含めると、三百人くらいになるんじゃないかな。それに副業もやってるし、っていうか、実は副業の方がメインなんだけどね」
「副業?」
「ほら、ここ、書類の一番下の欄にすごく小さい文字で、その他事業内容って書いてあるでしょ?」
三好から渡された書類を改めて読んでみると、この「学習塾」のその他の事業内容として、飲食店、書店、古物商、質屋、物品賃貸業、貸金業といった文字が並んでいる。その中には、都道府県や所轄警察署から許認可を受けないと営業できない業種も含まれているが、公的機関から正式な許認可を得ていることを証明する許認可番号が書類に明記されている。
「確かにいろいろ書いてあるけど、本も売っていないし、飲食物も提供していないように見えるけど……」
晴香は我が意を得たりと言わんばかりに大きく頷くと、近くのソファーを指さして座るように促すと、自分は隣室に入っていき、シルバートレイの上にアイスコーヒーの入ったグラスを1つ載せて戻ってきた。
「はい、これでコーヒー代、600円」
「ええっ、だって、これ、冷蔵庫で冷やしておいたペットボトルのアイスコーヒーをグラスに移し替えただけじゃないか。それで1杯600円はありえないんじゃないか!?」
思わず大きな声を出そうとすると、すかさず晴香に口を押さえられた。
「1杯じゃなくて、これは4杯分の金額なのよ」
「え、だって、グラスは1つしかないじゃないか」
「あとの3杯は飲んだつもりにしておくの」
「つもり? なんだそれは? 詐欺じゃないのか?」
「売り手と買い手がきちんと正確に事実認識しているなら、詐欺じゃないでしょ? ここに来てる子たちは、みんな仕組みを理解してるから、別に詐欺なんかじゃないよ」
「だって、どう考えても、飲んでない分まで代金を請求されるのは変だろ? ぼったくりの違法バーじゃあるまいし……」
「そうだよ。飲んでないことが重要なんだよ。つまりね、スマホで決済すると、私たちのお小遣い口座から600円が瞬時に引き落とされて、親のところには、月末にまとめて、コーヒー代600円っていう引き落とし実績の報告が届くよね?」
「ああ、その報告システムのおかげで、私のお小遣いの使い道は、全部、母親に筒抜けだよ。まあ、コーヒー代くらいなら、いちいち文句言われることないだろうけどさ……」
「でも、もし、その600円って金額が間違ってて、正しくは150円だったとして、その間違いに店員さんが送信直後に気づいたとしたら、どうなるかな?」
「それは、慌てて差額の450円を現金で戻してくれるだろ?」
「そうだよね。でも、その現金での返金分については、親に報告が行かないよね」
「あっ!」
思わず小さく声を上げて絶句すると、晴香は嬉しそうに笑いながら、私を真っ直ぐ見つめた。
「……そうか。これは、親に知られずに自由に使える現金を捻り出す仕組みなのか……。でも、店の銀行口座には600円が入金されてて、それはユニークナンバーで管理されてるから、税務署は600円の売り上げとして税金を掛けてくることになると思うよ。年度末の申告時にレジの打ち間違えが不自然に頻発してるなんて説明したら、意図的に売り上げを少なく計上してるって思われて、下手したら、脱税容疑を掛けられるかもしれないぞ」
晴香は目を細めてニヤリと笑うと、軽く腕組みをして、ウンと頷いた。
「さすがは理沙ね。私、三好さんから細かく説明して貰うまで、税金のことなんて気が付かなかったよ……。それじゃあ、今度は、私が600円の本を買って、その本をその日に読み終えてしまって、翌日に同じ本屋さんに古本として550円で売ったら、どうなるかな?」
「晴香のお小遣い口座から600円が引き落とされて、月末に親に報告が届く。一方、店の口座には600円が入金されるけど、翌日に店主が銀行のATMから550円を引き出して、晴香に現金で支払い、代わりにその本を受け取る。現金での支払いについては、親に報告は届かないし、もし、税務署が実際に査察に来ても、店内には本当に古本が存在しているから、古本の仕入れに550円を使ったと説明しても、嘘にならないし、疑われることもない……あぁ、そうか、中古物品の買取りをビジネスとして行うようにすれば良いんだな。古物商や質屋の免許を取っているのは、そういうわけか……」
「そういうこと! だから、ここは何ひとつ法律に違反していない、完全に合法的な現金ビジネスの場なの。私たちは、ここで勝手に勉強するだけじゃなくて、自由に使えるお金が必要になったときに、ここに来るっていうわけなんだよ」
まるで自分が考案したシステムであるかのように、目を輝かせて胸を張って説明する晴香に向かって、思わず私は苦笑を洩らした。
「お上に政策あれば、下々に対策あり、っていうことか……。それはそうとして、晴香は、ここ、どうやって知ったんだ? 300人も利用してるって言ってたけど、そんなシステムがあるなんて、ネットにも流れてないし……私もさんざん現金を捻り出す方法を探して、ネットをいろいろ検索したことがあったけど、ここのことは全く出てなかったけど……」
「ここに来てる子たちは、ここのことを絶対にネットに流さないようにしてるんだ。こういうシステムがあるって世の中に広く知られたら、すぐに潰されかねないからね。だから、ここの存在は、完全にクチコミなの。自分が絶対確実に信用できるごく少数の友達にしか、ここの話は教えない、っていう暗黙のルールが徹底されてるんだよ。みんな、ここが無くなっちゃったら本当に困るからね」
晴香は、それまでの笑顔をさっと消して、真剣な眼で私をじっと見つめた。
(「知ってしまった以上、お前もそのルールを守れ」という意味か……晴香のこんな顔、初めて見たな……それだけ、ここが大事ってことか……)
「ここのこと、教えてくれてありがとう。私も、自分で自由に使える現金を創り出す方法を探してたから、本当に助かるよ。大いに利用させてもらうよ。月千円の『授業料』なんて安いくらいだ」
にっこり微笑んで大きく頷き返すと、晴香はようやく表情を緩めた。
「それにさ、お金のことだけじゃないんだよ。ちょっとついてきて」
フロアの奥の方にある、もうひとつのドアを開けて隣室に入ると、縦10センチ、横20センチくらいの扉がずらりと並んだロッカーが置かれていた。そのひとつに手を伸ばすと、晴香は左の人差し指を認証装置に当てて、扉を開いた。
「これ、ここで預かってくれるんだ。みんな、朝、ここに寄って、これを預けてから学校に行くんだよ。持ち物検査で見つかると、始末書か、親の呼び出しになっちゃう学校が多いからね」
晴香はロッカーからスマホを取り出すと、誇らしげに私に見せた。それを見た瞬間、この「学習塾」のフロアに入ったときの違和感がようやく理解できた。普段の学校で全く見かけることのないスマホを、このフロアの少女たちがごく当たり前のように平然と使っていることが原因だったのだ。
「それに、ここでは、ロッカーに入れてる間、ワイヤレス充電も自動でやってくれてるから、バッテリー切れになる心配もないしね」
「えっ、でも、ワイヤレス充電器って、一昨年くらいから、スマホ用も売られ始めたけど、まだ凄く高いんじゃないのか? もともとは電気自動車用だったのを無理に小型化したものだし……」
さすがに驚いて目を見張ると、晴香は少し困ったように首をかしげた。
「うーん、確かに安くないとは思うんだけどねー……。でも、三好さんが、去年、ここに導入したのは事実だし……どうやって調達してきたのかわからないけど、このワイヤレス充電器がロッカーについているから、私たちはすごく助かってるんだよね。でないと、誰かにいちいちスマホを手渡しで預けて充電してもらわなきゃいけないけど、それはそれで、いろいろ心配だし……プライバシーとかね……」
「使えるものは最大限活用しないとね。この料金も授業料に含まれているわけだからね。まあ、屋上のソーラーパネルのおかげで、電気代は殆どタダみたいなものだけど……」
すぐ後ろから聞こえてきた声に思わず振り返ると、伊達香織がロッカーに手を伸ばそうとしていた。
「そうですね。ここは、いろいろ設備も整っていますし、確かに使い勝手は良いようですね。それに、生体認証が使われていますから、ICカードみたいな『形のある物体』から、親に知られる心配もないですし、いろいろ工夫されていると思います」
端正な横顔を眺めながら答えると、伊達はふと手を止めて、私をまじまじと見つめた。
「晴香のお友達は、たいした観察力の持ち主だ……。毛利七海が惚れ込むだけのことはあるね。そして、咲良にとっては、さぞかし気に障る存在でしょうね」
「毛利さんや織田さんをご存知なのですか?」
思いがけない人物の名前を聞かされて、私は反射的に尋ねてしまっていた。
「何度か会ったことはあるわ。彼女たちは自分の自由にできるお金が多いらしいから、ここには滅多に顔を出さないけどね。あなたのことは、晴香からいろいろ聞いていたよ。千駄ヶ谷通り魔事件のこととか、林間学校での一件とか……。ここはね、単に設備が整っているだけじゃなくて、いろんな情報が集まってくるところでもあるのよ。本当に重要な情報は、ネットには決して流れない。完璧にリアルな世界で、フェイス・トゥ・フェイスでしか得られない情報だからこそ、価値が高い。聡明なあなたには、わかるわよね?」
私が黙って頷くと、伊達は花の咲くような笑顔を浮かべた。
「それは結構! 面白い子が増えて、お姉さん、とても楽しみだわ!」
伊達に手招きされるままフロアに戻ると、晴香は一足先にカーペットの上にぺたんと座り、先ほど自分が持ってきたアイスコーヒーに口をつけつつ、香織を見上げた。
「香織ちゃん、最近、何か面白い話、聞いてる?」
彼女の「定位置」らしいソファに深々と腰掛けると、伊達は、細い顎に白い人差し指を軽く当てながら、「うーん」と小さく唸って、目を閉じた。
「そうねぇ……そういえば、愛応の子が話していたんだけど、最近、北池袋に幽霊が出るっていう噂があるらしいのよ」
北池袋という地名を聴いた瞬間、私の心臓が大きな鼓動をひとつ刻んだ。
プライベートが壊滅的に忙しく、今話の投稿まで時間が空いてしまいました。
大変申し訳ございません。
これから9月末まではたっぷり時間が取れるので、安定的に更新していけると思います。
引き続きご愛顧を賜りたく、何卒よろしくお願い申し上げます。
きのみや




