扉の向こう
夏の黄昏は、薄明りの残る空がどこまでも続いて、いつまでも暮れないようにすら思えてしまう。
黄色く色づき始めた空の下、私は胸の中の靄を拭い去れないまま、超高層ビルの裾を俯き加減で歩いていた。七海の「会議」はまだ続いていたが、楽しそうに笑いあう彼女たちの間に、私が入る場所は全く無かった。
私の複雑な表情に気づいて、七海は何度も私に話題を振ってきたが、彼女に気を使わせること自体が辛くなってきたので、「用事があることを思い出した」と言い訳して、私は一足先に会議室を辞去した。帰り際に、ふと織田と目が合うと、彼女は、一瞬、驚いた表情を浮かべたあと、申し訳なさそうに、さっと視線を逸らしてしまった。
それが私の気持ちを、一層、重くした。
意図的にされた仕打ちなら、ただ戦って跳ね除ければ良いだけのことだ。しかし、織田が意図的に私を外していたわけではないのであれば、私の居場所がここには存在しない、ということを意味する。
同じ方向に向かって黙々と歩く人並みに身を投じ、新宿駅西口の改札に向かって歩き出したとき、ふと向かい側の歩道を人並みに逆らって足早に歩いてくる少女の姿が目に留まった。
(……陽英の生徒か……)
頭に浮かんだ名前がさらに私の心を暗く沈めた。いつもより重かった足取りは、ついに前に進むことを止めてしまい、私は歩道の隅に立ち止まったまま、制服姿の少女の後ろ姿を茫然と見送っていた。
(家に帰れば、綾乃の不機嫌な顔を見なければいけないんだよなぁ……。母親からは早く帰ってこいって言われてるけど……)
もう少しだけ、このまま流離っても、大して遅い時間になるわけでもない。このまま鬱屈した気持ちで自宅に帰って、さらに綾乃から追い打ちを掛けられるのは、さすがにしんどい。私は、どこへ行くという当てもないまま、ただなんとなく、少女の背中を視界に入れながら、ぼんやりと歩き出した。
通い慣れた道なのか、少女は真っ直ぐ前を向いたまま、ためらうことなく歩き続け、新宿中央公園を通り過ぎ、超高層ビル街のすぐ脇に広がる雑居ビルや住宅の密集地に入っていった。かつての花街の名残りらしく、所々に小さなホテルや既に廃業して久しい料亭らしい日本家屋が点在している。
この新宿中央公園より西側のエリアには、官僚時代も含めて、私は足を運んだことはなく、それがちょっとした昂揚感をもたらしていた。
(このあたり、たぶん、十二社から角筈だよな。だとすると、ちょうど、今歩いているところは、昔の十二社池の跡だな。この子、このあたりに住んでいるのか……)
少女は一車線しかない狭い生活道路を迷うことなく、住宅街の奥に入っていく。まるで彼女を尾行しているような気分になり、さすがに気が引けてきたので、私はそろそろ戻ろうかと思い、後ろを振り返ってみると、ひしめく家々の屋根の間から、都庁の二つのタワーと、上層階に高級ホテルが入っている、三角形の尖塔を乗せた超高層ビルが、暗くなりかけた空の中に光りを灯していた。
引き返す前に、もう一度だけ、彼女の後ろ姿に視線を移したとき、少女が、ある建物の中にすっと身を滑り込ませたのが見えた。両隣に普通の民家が隣接している、その二階建ての建物は、煉瓦をイメージした外壁で彩られていた。
そろそろと近付いて、門柱の外から、白い塀で囲まれた敷地内を覗き込んでみると、建物の一階部分、正面玄関らしきところに向かう通路と、二階部分へ上がる外階段への通路が、それぞれ低い塀で仕切られているのが見えた。正面玄関に向かう通路の入口には、さらに格子状の門扉が設けられており、インターフォンと監視カメラが据えつけてられている。私は、インターフォントの近くに取り付けられている、あまり目立たない小さなプラスチックのプレートに顔を近づけた。
(……ネイビス共和国大使館? こんな住宅密集地に大使館があるとはね。まあ、中米の小さな島ひとつで構成される国だし、一昨年独立したばかりだから、財政状態も苦しいんだろうなぁ……)
おそらく家賃支払いの節約を目的として、瀟洒な建物の一階部分にだけ大使館が入居し、二階部分は別の入居者が賃借しているのだろう。どうやら、少女はその二階部分に入っていったようだ。この二階部分に彼女の家が入居しているのかもしれない。
ただ、小国とはいえ、れっきとした大使館の前で、いつまでも一般民間人がうろついていると怪しまれる可能性があった。やむをえず、後ろ髪をひかれるような気持ちで建物から離れ、ゆっくりと道を戻り始めたとき、さらに3人の制服の少女たちが私とすれ違った。そっと振り返ってみると、彼女たちは楽しそうに談笑しながら、やはり、あの建物の敷地へと入っていく。
(あの二階には、一体、何があるんだ?)
先ほどすれ違った少女たちには、辺りを憚るような素振りは全くみられなかった。私は、しばらく足を止めて逡巡していたが、やがて辺りを見回し、誰も来ないことを確認してから、大使館の門柱の陰から再び敷地内を覗き込んだ。
門柱から外階段までの間は、まるで通路を示すかのようにタイルが敷き詰められているが、大使館の格子状の門扉のすぐ前のあたりだけ、およそ2メートル程度、帯状にタイルの色が異なっている。まるで、外階段に向かう通路を、大使館の正面玄関から延びる通路が大きく分断しているようなかたちになっている。
敷地内の様子をさらに詳しく観察しようとして、門柱の陰から身を乗り出した瞬間、トンと背中を叩かれた。心の片隅で恐れていた事態が現実化して、反射的に背筋がびくっと伸びた。恐る恐る、ゆっくり振り返るまでの数秒間で、私は必死に言い訳を考えたが、「あまりにきれいな建物だったので、つい覗き込んでしまいました」という、いかにも取って付けたような言葉しか思いつかなかった。
(大使館員、巡邏中の警察官、あるいは近隣の住民か、いずれにせよ厄介なことになりそうだな……母親に知られたら、今度こそ、夏休み中、自宅謹慎を言い渡しされるだろうな……)
錆びた鉄のドアをギギギッと開けるように、ゆっくりと振り向いたとき、私の視界に飛び込んできたのは、見慣れた顔だった。
「あれー、理沙じゃない!? あ、そーか、理沙もここ知ってたんだねー」
晴香は不思議そうな顔で私を見つめた後、いつもの笑顔に戻った。予想外の展開に、私は言葉を失って、ただただ晴香を見つめて立ちすくむだけだった。
「うちの制服の子がいたから、誰かなーと思って声かけたんだよ。うちの学校で、ここ知ってる子、すごく少ないから、誰かなぁって思って……。で、理沙は、いつから知ってたの?」
晴香は私の背中を軽く押して、ごく自然にタイルの通路に足を進めた。
「あ、いや、その、たまたま今日知ったんだ。西新宿のビルに用事があって、その帰りなんだけど、なんとなく家にまっすぐ帰りたくなくて、ぼんやり歩いていたら、ここに出て、そうしたら、女の子たちが何人もここに入っていくのが見えて……」
たどたどしい口調で説明すると、晴香は眼を大きく見開いたあと、当惑したように少し首をかしげた。
「じゃ、ここ、どういうとこか、全然知らないの?」
「うん、何も知らない。ただ、なんとなく、普通のところじゃないだろうな、とは感じてるけど……」
私が言いづらそうに答えると、晴香は、上目使いで顎に人差し指を軽く当てて、ほんの数秒間考え込んだあと、にやりと笑って見せた。
「んー、じゃ、ちょうどいい機会だから、私が、ここ、紹介するよ! 理沙もこういうとこ知らないままだと、この先いろいろ大変だからねー!」
「え、ちょ、ちょっと、私は別にここに入る気はなくて、外から眺めてただけなんだって! いや、いきなり入るのはまずいって!」
晴香が強引に手を引っ張ってくるので、私は慌てて足を踏ん張って抵抗していたが、大使館の門前近くで下手に騒ぎを起こすのはちょっとまずい、という考えが頭に浮かび、私は嫌々ながら歩みを進めた。
大使館の門扉前の色違いのタイルの帯を越えて、外階段まで来ると、階段の入口にプラスチック・プレートの白い表札が取り付けられていた。
「三好学習ゼミナール? なんだ、ここ、学習塾じゃないか。それならそうと早く言ってくれれば、別に心配しなくて済んだのに……」
不服そうに呟くと、振り返った晴香がまたしても、にやり、と笑った。
「ま、入ってみればわかるって! さあさあ!」
外階段を上がりきると、マンションの一室のようなドアがあった。晴香は、手慣れた様子でドアの脇のインターフォンをピンポーンと一度だけ鳴らし、そのすぐ下に設置されている長方形の機器に、右の掌をぺたりと押し当てた。
ガチャリと錠の開く音が聞こえると、晴香は何の躊躇も無くドアノブに手を掛けた。
扉の内側には人が2~3人しか入れないようなスペースがあり、開業医の受付のような小さな窓口と、その隣にさらに白いドアが設けられていた。窓口はかなり小さく、ガラス窓にはカーテンが引かれていたが、晴香はその前を通り過ぎ、いきなりドアの前に立ち、脇の壁に取り付けられている長方形の機器に、今度は左の掌を押し当てた。
カチッという小さな音が響くと、晴香はドアを開けながら、室内に向かって呼びかけた。
「こんにちわー! 今日は友達を連れてきたよー!」
晴香の肩越しに見えた室内は、学習塾とはほど遠いものだった。
来宮静香です。2か月間、更新が止まってしまい、大変ご迷惑およびご心配をお掛けしました。深くお詫び申し上げます。
リアルの世界の方で仕事がずっと忙しく、帰宅時間も遅く、疲弊しきっていました。年末年始の休みも、結局、自宅の書類整理や溜めてしまっていた新聞のチェックなどに追われて、実はゆっくりできませんでした。
ようやく2月に入り、仕事の繁忙期が終息しましたので、再び更新を再開いたしました。皆様におかれましては、引き続きご愛顧を賜りたく、何卒よろしくお願い申し上げます。
さて、今回のお話では、西新宿の角筈・十二社近辺の光景が描かれていますが、この住宅街には、実際に某国の大使館が置かれています。以前に仕事の関係で訪問する機会があったのですが、非常に驚かされました。小さな国の大使館の中には、普通の雑居ビルの一室を借りていたりするケースもありますね。
さて、春香が通い馴れているらしい「学習塾」、いったい、どんなところなのでしょうか? 次回をお楽しみに!
きのみや しづか 拝




