成り上がり者
まだ帰宅ラッシュの時間には少し早いせいか、高輪駅の改札口は閑散としており、私は、条件反射的に毛利の後ろに身を隠した。
「どうしたの? 並んで歩けば良いじゃないの?」
ふと足を止めて、毛利が怪訝なそうな顔で振り返った。
「あ、いえ・・・妹の学校の最寄駅なんですよ、ここ・・・。それに、私が聖マルコ学園に編入するまで通っていた学校ですし、知り合いに会うのもちょっと気まずくて・・・こっちは覚えていないわけですし・・・」
やや伏し目がちに答えると、毛利は非常に申し訳なさそうに顔を曇らせた。
「あぁ、そうだったわね・・・。私が無神経だったわ。ごめんなさい・・・。あなたがうちの学校にすっかり馴染んでしまっているから、つい、大切なことを忘れてしまっていたわ・・・。許してね・・・」
「いえ、そう思って頂けるのは、私にとっては、むしろ嬉しいことですよ・・・。でも、なんで、わざわざ高輪を選ばれたんですか? やはり、うちの学校の生徒に見られるとまずかったんですか?」
毛利は、細い指で長い髪の先に軽く触れながら、北口の階段のほうに向けて、一瞬、視線を滑らせたあと、満足そうに笑ってみせた。
「まぁ、それもあるけどね・・・。ここは、私のホームグランドなのよ。今にわかるわ」
毛利は、くるりと踵を返すと、逆方向にある南口の階段に向けてゆっくりと歩き出した。幸いなことに、陽英女学院の生徒たちは、終業式の後、すぐに下校してしまったらしい。中等部の生徒らしい、まだ幼さの残る顔立ちの少女が、北口の階段を上がりきって、のんびりとこちらに向かって歩いてくる姿が見えただけだった。それでも私は警戒を緩めず、毛利のうしろをやや俯き加減で歩き出した。
高輪駅の構内は、どこもまだ真新しい。理沙にとっては見慣れた光景だったかもしれないが、私が高輪駅で降りたのは初めてだった。ふと視線を上げて駅構内を眺めると、「地下鉄 泉岳寺駅」と「アジアHQ特区」を指し示す赤い標示が目に入った。
(そうか、理沙が陽英に通い始めた頃は、まだ高輪駅は無かったんだな・・・。山手線最後の新駅として開業してから、まだ1年経ってないからなぁ・・・。それまでは、理沙はたぶん首都メトロの泉岳寺駅を使っていたんだろう・・・)
英語に混じって、インドネシア語やベトナム語のアナウンスが流れる中、南口に広がるアジアヘッドクオーター特区に向けて、毛利は背筋を伸ばして真っ直ぐ歩いていく。やがて南口の階段を下りきって、駅舎の外に出ると、茜色に染まりかけた空に向かって、高層ビルが幾つも聳え立っていた。
「ここが、つい13年前までJRの品川車両基地だったなんて、もはや信じられませんね・・・」
湧き上がってくる感想を思わず声に出すと、毛利はくるりと振り返って軽く微笑んだ。
「私が幼稚園の頃は、ここには本当に何も無かったのよ・・・。JRに乗るためには、首都メトロの泉岳寺駅から三田か品川に出なければならなかったし、泉岳寺の駅前は国道一号線が走っているだけで、お店なんか殆ど無かった・・・。高輪駅ができて便利になったのは良いけれど、すっかり騒々しくなってしまったわね・・・。駅から少し離れた私の家の近くまで、繁華街が進出してきたし・・・」
「さっき、ホームグランドっておっしゃったのは、そういうことですか・・・」
やっと納得して私は軽く頷いたが、毛利は、ニヤリと意味ありげに笑い、人差し指を立てて、自分の顔の前で左右に軽く振って見せた。
「それだけじゃないのよ。まあ、すぐにわかるわ」
毛利は、駅前のコンコースを真っ直ぐ突っ切ると、眼前に聳え立つ高層のオフィスビルではなく、その麓に密集している比較的低層の商業ビルに足を向けた。ビルの外壁には、カラオケボックスや居酒屋などの派手な看板が幾つも取り付けられている。
エレベーターでビルの2階に上がって、朱を基調とした東南アジア風のカラオケボックスに入っていくと、受付カウンターに立っていた店員が毛利に向かって深々と頭を下げた。
「先ほどはご連絡ありがとうございました。いつものお部屋、お取りしておきました」
「いつも、ありがとう。助かります」
毛利は、学校で見せたことのないような柔和な笑顔で軽く会釈すると、案内も頼まず、店内をゆっくりと歩いて、フロアの一番奥にある紫檀のような瀟洒な木の扉を開けた。
「さ、入って」
「で、でも、いいんですか? 学校帰りに制服のままカラオケボックスなんかに入ってしまって・・・。もし誰かに見られでもしたら・・・」
私はさすがに躊躇して立ちすくんだが、毛利は事もなげに室内に入ると、大きなソファーに鞄をポーンと軽く投げ込んで、悪戯っぽく笑ってみせた。
「誰かに見られでもしたら、こう言ってやるわよ。私はここの会社に書類を届けに来たのよ、ってね。ほら、とにかく座って、まずは何か飲みましょうよ。今日暑かったから、私、もう喉がカラカラなの。話はそれからよ」
「でも、ここって、明らかに会社のオフィスじゃないですし・・・」
困惑した表情で入室を渋っていると、スーツを着た白髪の男性が笑顔を浮かべて近寄ってきて、毛利に向かって恭しく一礼した。
「お嬢様には、いつも当店をご利用頂きまして、誠にありがとうございます。店員一同、身に余る光栄です」
「最近、ますます業績が上がっているようで、本当に喜ばしいことです。これも、ひとえに社員の皆さんのお陰です。父も、この一号店のことは、とりわけ大切に思っていますし、私も子供の頃からの思い出がたくさんありますので・・・」
受付の店員に向けたビジネスライクな笑顔とは対照的に、毛利は男性に向かって心の底から懐かしそうに微笑んだ。
「本当に・・・本当にいろいろなことがありましたね・・・。思えば、随分と遠くまで来てしまいました・・・。あの小さかったお嬢様がこんなに立派に成長なさったわけですから・・・。私も歳を取るわけです・・・」
男性が僅かに俯き、眼鏡をずらして目頭を指で拭うと、毛利は彼の腕にそっと軽く触れて、微かに声を震わせた。
「私が、いま、ここにこうしていられるのは、おじいのお蔭なのよ。いつまでも、父を支えて、会社を盛り立ててね。おじいあっての、毛利グループなのよ」
「そんな、もったいないお言葉を・・・。あと4年半、お嬢様が大学を卒業なさって、会社にお戻りになる日まで、私は首を長くしてお待ち申しております・・・」
男性がさらに何度も目頭を拭い始めたとき、ドアがノックされて、受付にいた店員が顔を覗かせた。
「お取込みのところ、申し訳ありません。総支配人、出発のお時間です。外に車を待たせてあります」
男性はようやく顔を上げると、腕時計を一瞥して、少し慌てたように声を上げた。
「おおっ、もうこんな時間か。お嬢様、私は、本社で会議がございますので、これにて失礼させて頂きますが、本日は、ゆっくりとお楽しみになられてください」
毛利に向かって再び恭しく一礼すると、私にも丁寧にお辞儀をして、男性はその場からゆっくりと立ち去って行った。
「これで、だいたい察しがついたでしょ? 誰に見られても、何の問題もないのよ。だって、ここはは父の会社のお店なんだから!」
毛利は私の背中に軽く手を当てて、部屋の中にそっと押し込んだ。
「私は、ココナッツジュースにするわ。理沙は、何を飲む?」
とりあえず危険ではなさそうな雰囲気を感じて、ようやく私もソファーに腰を下ろすと、毛利はテーブルの上にメニューをさっと広げて、こちらに押しやった。
「私は、とりあえず、無難にジンジャーエールにしておきます。えと、な、七海さんは、そんな濃厚な飲み物がお好きなんですか? あとで、さらに一層、喉が乾くんじゃないですか?」
毛利が私を名前で呼ぶようになったので、私も毛利を名前で呼んでみたが、やはり、それなりに緊張する。そんな苦労など感知しないかのように、毛利は、我が意を得たり、とでも言うように、目を輝かせた。
「ココナッツジュースは、スポーツドリンクよりも電解質が多く含まれているし、バナナよりもカリウムが多くて、実は理想的な健康飲料なのよ!」
「へえ、そうなんですか。じゃあ、私も、それにしてみます。知らないことをひとつでも減らして、できるだけ経験値を上げておきたい性分なので・・・」
「あなたのそういうところって、とても良いと思うわ。うちの学校の子はとにかく臆病で、知らないものには近づこうとしないでしょ? 確かにそうしていれば、リスクは全く無いけれど、でも、それじゃ、何もわからないままなのよ・・・。真実の多くは、本だけでは理解できないわ。実際に、見て、聞いて、そして、触れてみて、それでも、ようやく半分くらい理解できたかどうか、という程度だと思うの。温室の中にいれば、冷たい雨に打たれずに済むけれど、春のそよ風も、秋の高い空も、そして、冬の夜空に瞬く星たちも、決して知ることはできない。それって、もったいないことだと思わない?」
ふと気が付くと、七海はローファーを脱いでソファーに深々と身体を沈め、眼を軽く閉じて、手足をだらりと伸ばしていた。学校で見せている姿とのあまりの違いに、私は言葉を失った。当惑して、次の言葉を必死に探していると、七海は薄目を開けて私を眺め、そして小さく笑った。
「驚いた? これが、私のもうひとつの姿。正真正銘のお嬢様の咲良と違って、私は、成り上がりのお嬢様なの。父と一緒に、天国も地獄も見て来たわ・・・。だから、咲良と夏帆、二人の気持ちがわかるのよ。ちょっと幻滅しちゃった?」
七海が私をわざわざここまで連れてきた意味が、今、少しだけわかったような気がした。
「幻滅なんてしてませんよ。誰でも、いくつかの姿を持っていて、きっと、そのひとつひとつが全て本物なんだと思います。もし、ひとつの姿しか持ってないシンプルな生き物だったとしたら、人間はここまで繁栄してないと思いますよ。それに、私は、生徒会長としての七海さんも、ここでリラックスしている七海さんも、どちらも嫌いじゃありません」
真っ直ぐ七海を見つめて静かに言い切ると、私も靴を脱いで、ソファーに身体を沈ませた。七海は黙ったまま目を細めて、そんな私を嬉しそうに眺めていた。
「そういえば、先ほどの男性の方、支配人さんですか、こうしたお店にはやや不似合いのお歳のように見えましたが・・・。七海さんのことも、子供の頃から知っているような言い振りでしたよね」
「ああ、来島さんね。彼は、ここの支配人じゃなくて、このビル全体とその中に入っているテナント8店舗の総支配人よ。このお店のマネージャーはもっと若い人。父は、もともと大手商社に勤めていたんだけど、私が小学校1年生のときに独立して、この会社を創ったの。そのとき、父の下で働いていた来島さんを引き抜いて連れてきたの。それ以来、あちこち飛び回って不在がちな父に代わって、来島さんが私を育ててくれたようなものよ。ちなみに、父は私には頭が上がらないから、こんな高いお部屋でも、私は自由に使えるのよ」
備え付けのタブレット端末に手を伸ばすと、七海は慣れた手つきで画面操作を始めた。
「頭が上がらないっていうのは、何か理由があるんですよね?」
「・・・創業当時、この会社は中国ビジネスが中心だったのよ。カラオケボックス、フィットネスクラブ、エステサロン、中でも一番収益が上がっていたのが結婚式場だったわ。事業が順調に立ち上がったのを見て、気を良くした父は、融資先を探していた銀行から多額の借金をして、事業を一気に拡大したけど、その矢先、日中関係が悪化して、中国事業の売り上げは大幅に減少。あっという間に会社は経営危機に瀕したわ」
ふと手を止めると、七海は遠くを見るような眼差しで液晶画面を見つめた。
「父は、なんとか事業を続けようと金策に走り回っていたけれど、その間に固定資産税や健康保険の保険料を滞納していたのよ・・・。やがて、ある日、突然、税務書の人が家にやって来て、家具からテレビに至るまで、何もかも差し押さえて行ったわ。ただ、父も覚悟していたらしくて、遠くの銀行に貸金庫を借りて、その中に現金を隠しておいたの。そして査察が入ったとき、私が咄嗟に機転を利かせて、その貸金庫の鍵をナプキンの中に隠して、差し押さえを免れたのよ。プロの査察官の人も、さすがに小学生の女の子の股間までは調べなかったわ。下手したら、強制わいせつで逆に訴えられちゃうかもしれないしね・・・」
僅かに自虐を込めて笑うと、七海は軽く目を瞑った。
「それだけじゃないわ・・・。なんとか事業の継続に必要なお金を借りるために、母に連れられて、私も親戚中を回ったのよ・・・。そして、大人の顔色を見て、愛想笑いしたり、泣いて見せたり・・・。あのときは、ほんとに必死だった・・・」
しばらく言葉を止めると、七海は静かに目を開けて、私を真っ直ぐ見つめた。
「父はね、いよいよ会社が危なくなったとき、母と離婚して、私の親権も放棄して、自分の借金の取り立てが私たちに回ってこないようにしようとしていたの・・・。あなた、個人保証って知ってる?」
経済官僚だった私が知らないはずは無かったが、その場の空気を読んで、私は黙って首を振って見せた。
「会社が借金を返せなくなったとき、経営者は自分の個人財産で借金を肩代わりする、そういう契約を融資元、つまり銀行とかと結んでいるケースが多いのよ。つまり、会社が潰れたら、会社の借金が経営者本人とその家族にそっくりそのまま回ってくることになるの。だから、家族を借金の取り立てから守るため、父は、母や私と絶縁しようとしていたのよ。もし、あのとき会社が潰れていたら、一家離散は免れなかったし、最悪の場合、父は自分の命と引き換えに、生命保険金を最後の支払いに充てていたかもしれなかったわ・・・。実際には、そこまで至る前に売り上げが回復して、会社は間一髪で潰れずに済んだけどね・・・。今は、ベトナムやインドネシアにも進出して、リスク分散しているから、経営は順調だけど、あのとき、私たちは、確かに地獄をみたのよ・・・」
「・・・苦労をなさったんですね・・・」
小学生の七海が陥ったあまりに深い苦境を想像して、私は小さな声で、ごくありきたりの言葉を呟くことしかできなかった。
「そうね・・・。親たちの会話を聞いて、子供まで保証なんて言葉を知っていたんだから、本当に末期的な光景だったと思うわ・・・。でもね、その苦労が、今の私を作っているの。だから、私は、当時の自分を否定したくないし、誰も恨んでいない。世の中には、無駄なことなんてひとつもない。私は、そう信じてるから・・・」
にっこりと微笑み、少し胸を張って言い切った七海は、少し眩しく見えた。
七海がタブレット端末からドリンクの注文を終えたとき、私は、ソファーの上で少しだけ居ずまいを正した。
「そういえば、さっき七海さんは、織田先輩と大内先輩の両方の気持ちがわかるって、おっしゃってましたが、お二人のバックグラウンドはそんなに対照的なんですか?」
「咲良は、明治から続く箱根の高級旅館の娘で、私なんかと違って、生粋のお嬢様なのよ。華道、茶道、香道、お能と、一通りの習い事はしているし、礼儀作法も完璧。そのうえ、あなたもいずれわかると思うけど、あの子はいずれ家業を継ぐことを期待されているから、立ち振る舞いにきちんと公私の区別をつけられるように、厳しく躾けられてきたの。一方、夏帆は、学費を免除されている特待生。お父様は、4年前まで自動車部品工場を経営していらしたけど、取引先だった大手の自動車メーカーが、工場の大半を海外に移したときに、まだ余力があるうちに、と決断なさって、会社を廃業されたの。ただ、その後、なかなか新しい仕事が見つからなくて、相当苦労なさっていらっしゃるみたいで・・・」
七海がそこまで言い掛けた時、部屋の扉がノックされて、ドリンクが運ばれてきた。七海がジュースに口をつけたのを見て、私も初めてココナッツジュースを飲んでみたが、あまり甘さがしつこくなかった。やや意外そうな私の表情を見て、七海は嬉しそうに頬を緩めた。やがて、隣室の客が歌い始め、東南アジア特有の巻き舌訛りがある中国語が微かに聞こえて来ると、七海は再び表情を引き締めた。
「あなたをここに連れてきたのは、私のことをもっと知って欲しかったからだけど、これから話す内容を他の人には絶対に聞かれたくない、という現実的な理由もあったの。カラオケボックスなら、普通に話している分には防音は完璧だし、それに、ここなら盗聴器は仕掛けられていないし、誰かが後をつけてきたとしても、さすがに制服のままでは入店できないでしょ、さっきのあなたみたいにね」
もう一口、ジュースを飲むと、七海はグラスの中の氷に視線を落とした。
「夏帆には妹がひとりいる。その子は夏帆よりも頭が良くて、来年、うちの学校を受験するらしい、と聞いているわ。ただ、夏帆の家の経済事情では、到底、入学金も授業料も払えない。学費免除の特待生の資格は、入学後1年目の成績を見てから与えられるのよ。だから、夏帆は、学校の許可を得て、コンビニやクリーニング店でのバイトを幾つも掛け持ちして、お金を貯めているの・・・」
しばらく口を閉じた後、七海は意を決したように顔を上げ、私をじっと見つめた。
「今年に入ってすぐ、私は夏帆をここに呼んで、次の生徒会長を引き受ける気はないか、って尋ねたの。私はね、夏帆と咲良、どちらが生徒会長になっても、きちんと立派に責務を果たせる、そう思っていたわ。ただ、本人たちにその意思があるかどうか、事前に確認しておきたかった。そして、夏帆の答えは、ノー、だった・・・。生徒会長は校内での拘束時間が長いから、自分のバイトに支障が出る。だから、会長は辞退したい。副会長なら喜んで引き受ける、そして、自分は咲良を支えていきたい。あの子はそう答えたわ。私も、あの子は、きっとそう答えるだろうと思っていた・・・」
私は驚いて、飲みかけのグラスを慌てて、テーブルに上に置き、思わず身を乗り出した。
「それじゃ、大内先輩は、自分が次期生徒会長になることを望んでいなかったってことですか? 私が今まで聞いていた話とは正反対ですが・・・」
「それは、あなたの聞いていた話が単なる噂、ゴシップに過ぎないからよ。夏帆と咲良、そして私の間には、強い絆があったの。三人とも、これまでの生き方は大きく異なるけど、相手の良いところも悪いところもきちんと受けとめて、これまで5年間、一緒に生徒会で苦労してきたのよ。そんな間柄なのに、この期に及んで、咲良と夏帆が足の引っ張り合いなんかするわけないじゃないの。でもね、そうだからこそ逆に、愛憎のもつれ、あるいは、破局みたいなことを妄想すると、興味が掻き立てられるのよ、私たちの関係を恋愛としておもしろおかしく勘繰りたい人たちはね・・・」
七海は、一瞬だけ露骨に不愉快そうに眉間に皺を寄せたが、敢えてすぐに表情を消した。
「ただ、生徒会を辞めてから、夏帆の行動に変化があったの・・・。ここからは、自分の憶測を一切入れずに、事実関係だけを話すから、あとの解釈はあなたが自分でなさい。いいわね?」
一切、口調を変えていないにも関わらず、七海から漂ってくる凄まじいまでの迫力に思わず気圧されて、私は反射的に頷いた。
「かつて、あれほどバイトを幾つも掛け持ちしていた七海は、放課後は、生徒会の仕事が終わると、すぐに下校していた。でも、生徒会を辞めてから、あの子は放課後もずっと学校にいて、新しく立ち上げた部活の指揮を執っている。何故、あの子の時間的余裕が増したのかしら?」
「・・・よほど割の良いバイトを見つけた・・・たとえば、水商売とか、あるいは報酬は桁違いに高いけど、その代償が心身ともに大きいこととか・・・。もしくは、第三者からの資金援助によって、バイトの必要がなくなった、ということも考えられますね。最も無難な線は、外部の公益財団やうちの学校から奨学金を受給している、というケースですが、最もリスクのあるケースは、男性との、その、なんというか、交際によるものです・・・。もちろん、大内先輩については、背後に学校関係者の影が見える以上、後者の可能性は完全に否定できると思いますが・・・」
さすがに言いづらそうに答えると、七海は黙って静かに頷いた。
「そういう憶測が出かねないから、この話を誰にも聞かれたくなかったのよ・・・。ただ、少なくとも、あの子は、うちの学校法人からは奨学金を受けていない。学校法人の経理は、生徒や親など利害関係者には公開されているから、ヤミで奨学金を支給することは難しいし、仮にそんなことをしているのが露見したら、政府から是正命令を受けて大騒ぎになるわ。それに、高額報酬を得られるバイトは、明らかに高校生ができるものじゃないから、これもまた露見したら、夏帆は退学、妹の入学も吹き飛んでしまう。そんな危ない橋を渡るとは考えられないわね」
「・・・とすると、残りは、学校以外の誰かからの正規ルートでの資金援助、ということになりますが、殆ど無名の一介の高校生に対して、そんな支援をする組織なんてありうるんでしょうか? 大内先輩は確かに優秀ですが、全国レベルでみれば、スポーツや学業で目覚ましい実績を上げているわけでもありませんし・・・」
「そこが私にも全くわからないのよ・・・。ただ、生徒会を辞める直前、夏帆がすごく悩んでいたのはわかったわ。でも、その理由は、結局、私にも咲良にも話してくれなかったけどね・・・。今から思うと、誰かに強く口止めされていたのかもしれないわ・・・・。夏帆が何も言わずに生徒会を去ったことで、咲良は自分が毛利七海の後継者として選ばれたことに原因があるんじゃないか、と責任を感じているわ。夏帆が私の打診を辞退した、という話は、咲良にも伝えてあるんだけど、私が咲良を庇うために、そういう話にしているんじゃないか、実は噂話のほうが真実なんじゃないかって、あの子は心のどこかでそう信じているフシがあるのよ。こう疑心暗鬼になっちゃうと、もうどうにもならないわ・・・」
七海は天を仰ぐと、深い溜息を洩らした。
ようやく更新できました! 来宮静香です!
いよいよ謎解きが始まりました。毛利が世慣れている理由が、今回のお話で明らかになりましたが、日本では、経営者による個人保証が一般的慣行とされているため、一旦、事業に失敗すると、もはや再起できないケースが多く、それが最近の新規開業率の低下の一因になっているのではないか、と言われています。また、事業に失敗すると、自分の自宅まで取り上げられて競売にかけられてしまうため、経営者は、自分の事業が傾いてきても、早期の廃業や事業譲渡に消極的になりがちであり、そのうち本当に事業が破綻してしまう、というケースが少なくありません。
起業を増やすために、こうした個人保証の問題点を見直す動きが、最近になって少しずつ出てきているようですが、まだ大きな動きにはなっていません。




