紅茶と珈琲
「私は、そんな話は聞いていません! どうして相談して頂けなかったんですか?」
ガタンと派手な音を立てて、織田咲良が椅子から立ち上がった。
これまで遠くから彼女を眺めたことしかなかった私は、あまりの勢いに思わず目を見張った。切れ長の美しい眼に長い睫毛、やや面長の彼女は、青いリボンで束ねた長い黒髪が、その抜けるような肌の白さを引き立たせていて、どこかお姫様のような印象だった。そんな彼女は、いつも毛利の傍らに控え目に佇んでいて、彼女が前面に出て何かする場面を、私はこの学校に来てから殆ど見たことが無い。
当然、彼女が声を荒げている場面など、全く見たことはない。
「あなた、あのときはイタリアに行っていたじゃないの、修学旅行で・・・。携帯で電話をかけたら、通話料が幾らかかると思ってるの? それに、時差があるから、あの緊急時に連絡なんてできなかったのよ」
生徒会長席にゆったりと腰かけながら、毛利七海は、口許に運びかけていたティーカップをテーブルに戻した。静まり返った室内に、カップとソーサーの触れ合う音が微かに響いた。生徒会室の窓から差し込んでくる午後の陽射しは、彼女を後ろから眩く照らしていて、私は少し目を細めながら、彼女の表情を窺おうとした。
「それはそうですが・・・。でも、騎馬戦の後であれば、幾らでも連絡を下さる時間はあったはずではありませんか? どうして、私には何もご相談なさらずに、こんな大事を決めてしまわれたんですか?」
一瞬、口ごもりながらも、織田は毛利を睨んだまま、なおも大声で難詰を止めなかった。
「この人数で、一体、どうやって運営を行っていくつもりなの? どうにかして、私たちの考え方に近い生徒を迎え入れない限り、生徒会が維持できないのは、前期の実状をみても、もう明らかでしょう? それは、次期会長として、あなたもよくわかっているわよね?」
いつもと変わらぬ声音で、毛利は静かに答えると、ティーカップを口許に運んだ。室内の気流の加減のせいか、少し遅れて、芳しいアールグレイの香りが漂ってきた。
毛利が織田に事前に何も話していなかったというのは、全く意外だった。あの慎重な毛利にしては、あまりに迂闊であるように思えたのだ。それほどまで、林間学校後半で、彼女は追い詰められていたのかもしれない。
「それは、私もよく存じています! でも、何故、この人たちなんですか? もっと他に適任者がいるかもしれないじゃないですか? 前期にいろいろと問題を起こしていた方たちを、こうしてわざわざ選ばれた会長のお気持ちは、私には全く理解できません!」
立ち上がった姿勢のまま、織田は、テーブルにドンと大きな音を立てて手を突くと、向かい合って座っている私を、恨めしそうな眼で睨んだ。そのテーブルの上には、6枚の入会届が無造作に置かれている。
「咲良、とにかく座りなさい。お客様が座っているのに、お迎えする側が立ったまま話すというのは、あまりお行儀が良いことではないわね」
毛利は、先ほどと全く変わらない静かな声で織田を諭すと、再び紅茶を口に含んだ。
「私は、生徒会長です。生徒会の運営について、最終的な結果責任を負っているのは、この私です。民主的ではないと批判されることは、最初から覚悟のうえよ。でもね、咲良、あなたなら、この厳しい現状を変えられる、その現実的な手段を持っているとでも言うの? 前期の間、あなたたちは、生徒たちにいろいろとアプローチしてみたけれど、殆どの場合、色良い返事は得られなかったじゃないの。そのうえ、私たちの考え方に賛同してくれる子をようやく見つけても、生徒会で誰かが反対したりして、結局、意見がまとまらなかったわね。誰にも人の好き嫌いはあるわ。とくに、女子校では、生徒の間にグループがあるから、そういう傾向が強いのよ」
毛利に促されて、織田はようやく椅子に腰かけたが、不機嫌な表情を隠そうともせず、腕組みをしながら、毛利を睨んでいる。
「私はね、あなたたちが、自分でなんとかする、と言い張るから、前期の間、敢えて手出しをせずに見ていたのよ。でもね、いつまでも座って眺めたままでいることはできないの。どんな物事にも、潮時、というものがあるわ。さすがに、後期もこんな片肺飛行みたいな体制のままで活動していくことはできないでしょ? 後期からは、私もそろそろ受験モードに入るから、これまでみたいに生徒会の活動に全力投球というわけにはいかなくなるわ」
「でも、でもっ、それなら、夏休み中に、私が誰か探してきます! 生徒会で反対が出るなら、私がみんなを説得して、納得させます! だから!」
必死に食い下がってくる織田に向かって、毛利は優しく微笑んだ。
「それでは、あなたがみんなから批判されることになるわ。こんな大事な時期に、次期会長が人心を失うのは、絶対にあってはならないこと。いかなる批判も、すべて私が引き受けます。そういう役回りは、半年後に確実にいなくなる人間が担うべきものなのよ。わかるわね、咲良?」
「そんな、そんな、いなくなるなんて言わないでください、お姉さま! 私たち下級生の能力不足でご迷惑をおかけしていることは、重々、承知しています。非常に申し訳なく思っています。でも、あと少し、あと少しだけ、時間を頂ければ!」
「くどいわよ、咲良。あと少し待っても、事態が劇的に改善する、そんな魔法みたいな手段があると言うの? これは、生徒会長として決定した事項です。私が全ての責任を負います。だから、お願い、私を支えて、後期から新体制で頑張ってもらえないかな? それ以外に、もはや私たちに残された、現実的な選択肢は無いのよ。聡明なあなたなら、わかるわよね?」
「お姉さまは、ずるい! いつまでも、そうやって、私を子供扱いするっ!」
織田はみるみる顔を紅潮させると、こみ上げてくる涙を乱暴に拭い、そのまま席を立って室外に駆け出していった。
明らかに当事者の一人でありながら、全く口を開く機会が無かった私は、さすがに気まずくなって、「どうしましょうか?」という眼で、毛利を見つめた。
「やっぱり、怒って出て行っちゃったわね」
事もなげに呟くと、毛利は、ふう、と小さな嘆息を洩らした。
「やっぱりって、事前に予想されていたんですか? それなら、なぜ・・・」
当惑しながら恐る恐る尋ねる私に向かって、生徒会長は、静かに微笑んで見せた。
「私と咲良は、もう5年もの長いつきあいなのよ。どういうシチュエーションになれば、あの子がどういう行動をとるか、なんて、私にはすべてお見通しなのよ。そして、咲良も、それがわかっているだけに、ああいうふうに反抗するの」
「それはそうなんでしょうけど、事実上の副会長、かつ、次期生徒会長が反対しているなら、私たちが生徒会に入るのは、さすがにまずいんじゃないでしょうか?」
「咲良は賢い子よ。私の前では、あんなふうに強く反対しているけれど、それは、ある種の、私への甘えなの。冷静になってみれば、今回の私の選択がどういう意義を持っているのか、きちんと理解できない子ではないわ。咲良があんなに強く反対しているのは、生徒会の分裂に責任を感じてるからなの。自分のせいだと思い込んでいるからこそ、自分でなんとかしたい、って、頑なに思い込んでいるのよ。でもね、あの子自身、自分の力だけではどうにも打開できないことを、もう薄々感じ始めていると思うわ。さっき、私が潮時って言ったのは、そういう意味も込めているのよ。それがわかるからこそ、あの子は、理性と感情の狭間で激しく揺れて、自分に相談が無かった、という形式的なことに固執して、あんなふうに反対しているの。まあ、今回、咲良がいつもより激しく反応しているのは、ごく個人的な理由もあるんでしょうけど・・・」
言い掛けた言葉を断ち切って、毛利は椅子から立ち上がると、窓際に立って、校庭を見下ろした。おそらく、今の時間、校庭には、清々しい顔で下校している生徒たちがたくさん歩いていることだろう。みんな、明日からの夏休みを心待ちにしているはずだ。
ただ、私にとっては、夏休みは決して楽しいものではないうえ、終業式の後に毛利に連れてこられた生徒会室で、こんな修羅場を見せられてしまったため、率直に言って、憂鬱このうえもなかった。
「個人的な理由って、何ですか?」
何気なく尋ねた私の声に、毛利は振り返りもせずに応じた。
「それは、あなたが自分で考えることよ」
毛利の、どこか突き放したような言い方は、少なからず、私の気に障った。
「お言葉ですが、私は、生徒会の方々、とくに織田先輩との接点は、これまで皆無だったんです。話したことはおろか、会ったこともない人の心のうち、なんて、わかるはずがないじゃないですか!」
少しだけ怒気を孕んだ声に、ようやく毛利は振り返った。そして、どこか寂しげな眼差しで、それでも毅然とした口調で応じた。
「今は、わからないことがあれば、私が教えてあげられる。でもね、半年後には、あなたに教えてくれる人は、誰もいないのよ。そして、おそらく、2年後には、あなたは、自分で考え、自分で決断し、自分で行動しなければならないわ。人は、自分の気持ちを素直に言わないことが多い。そんなとき、相手が本当はどう思っているか、それを的確に見抜けなれば、生徒会長なんて勤まらないわよ」
「ですから、私は生徒会長になりたくて、生徒会に入ったわけでは」
「今の生徒会をご覧なさい。誰も4年生がいないのよ。現時点では、2年後の生徒会長に最も近いのはあなたでしょ? いつまでも、そうやって言い逃れしているわけにはいかないわよ。生徒会に入ると自分で決めた以上、その先に待っていることも覚悟なさい。それが生徒会の一員としての、責任ある行動だと思うわ。生徒会に入った以上、私と駆け引きしようなんて思惑はもう捨てて欲しいの。これからは、とにかく力を合わせていかないと駄目なのよ。私たちの相手は、それほど大きいものなの、わかるわよね?」
彼女には珍しく、私の言葉を遮って、毛利は美しい眉をひそめ、私を真っ直ぐ見つめながら、1オクターブ低い、少しだけ苛立ちを含んだ声で答えた。
遙か歳下の少女に言い負かされて甚だ不愉快ではあったが、今回は毛利の言うことに理があるように思えた。確かに、組織内部で意思が統一されていない状況では、相手に付け入る隙を与えることになる。大内の背後に学校関係者の影がちらほら見え隠れする以上、いつまでも毛利と距離を置き続けるのは確かに良策ではなかった。
ただ、あっさりと彼女の言うことを肯定してしまうのも、我慢がならなかった。
「生徒会が一枚岩にならなければいけないのは、私も理解しています。でも、それなら、なおさら、織田先輩にきちんと納得して頂かなければならないのではないでしょうか? 織田先輩には、先ほど私を睨みつけたような眼で、私の仲間たちを見ないで頂きたいです。そうでなければ、せっかくうまくいくはずのことも、ご破算になってしまいますから・・・」
毛利は、先ほどとは打って変わったような穏やかな表情に戻ると、ゆっくりと椅子に腰を下した。
「別にたいして心配は要らないわ。あの子は、私と違って、根っからのお嬢様なのよ。公私の区別をきちんとつけられるように育ってきているの。今日は、私とあなたしかいない、プライベートな席だったら、ああいう駄々をこねたような態度を見せただけ。あの子自身は、明日から自分がどのように振る舞うべきか、帰りの電車の中で、自分の感情と折り合いをつけていると思うわ。さすがに1時間半も経てば、あの子の頭も冷えるわよ」
遠くを見るような眼差しで、毛利はふっと小さく微笑むと、少し冷めかけた紅茶に手を伸ばした。
「アールグレイ、お好きなんですね」
毛利のそんな様子に毒気を抜かれてしまい、私は次の言葉を探そうとして、とりあえず紅茶に話題を向けた。
「本当に好きなのはダージリンよ。でも、あの繊細な香りを楽しむには、ここはあまりにストレスフルなの。だから、自分を奮い立たせるためにも、香りの強いアールグレイよ。いずれわかるわ、あなたにも。あまりわかりたくもないだろうけど・・・。あ、ちなみにここの紅茶もティーセットも、生徒会のメンバーが自分で持参してきているものよ。学校から支給されている生徒会の活動費で買っているわけじゃないから、誤解しないように」
頬杖をついて疲れたように笑う毛利に、私は、ふっと、かつての自分の姿を重ねていた。役人時代、私も、仕事の合間にはコーヒーばかり飲んでいた。陳情、面会、根回し、会議、部下の書いた報告書の添削、部下たちの賞与査定に昇格申請・・・、ほんとにカフェインでも摂らなきゃやってられない、そんな気分だった。
(この子も、厳しい環境の中で、それでも逃げずに頑張ってる、ってことか・・・。私は、こんなふうに部下たちひとりひとりと、きちんと向かい合うことができていたんだろうか・・・)
ふと蘇ってくる苦い記憶に、私は反射的に顔をしかめた。深夜まで残業している間、部下の些細な言動に腹を立てて、机を叩いて怒鳴ってしまったことが、何度もあった。毛利のように、一段高い目線で、部下たちを優しく、そして、厳しく見つめて、成長させていくことは、かつての自分にはできていなかった。
少し俯いて黙ってしまった私を、毛利は不思議そうに見つめていた。
「あなたは、紅茶より、コーヒーが好きなのかしら? それなら、コーヒーもあるわよ。遠慮せずに使ってね。コーヒーを飲む人は、もう誰もいないから・・・」
「もう、っていうことは、以前はどなたかいらしたんですか?」
私の何気ない問い掛けに、毛利は気まずそうに視線を伏せて呟いた。
「夏帆、そう、大内夏帆はコーヒーが好きだったのよ。私と咲良はいつも紅茶、夏帆はいつもコーヒー。酸味の強いキリマンジャロが好きだったわ、あの子は・・・。自分の性格と同じように、ね・・・。あんなことさえ無ければ、今でも三人で学校帰りにカフェに寄り道していたはずなのに・・・。私は、あの頃、こんな楽しい時間が永遠に続くものだと思っていた・・・」
「林間学校で、大内先輩が生徒会を辞めた理由について話されたとき、先輩は、次期生徒会長の座を巡る確執が原因ではない、とおっしゃってましたよね。私も、これから大内先輩と向き合っていかなければならないんですから、その理由だけはお聞きしておく必要があると思うんですが、駄目でしょうか? いきさつ、というか、事実関係だけは、客観的かつ正確に知っておきたいんです」
先ほどのように軽くいなされることも覚悟しながら、私は意を決して毛利に尋ねてみることにした。おそらく、こんなふうに二人だけの場でないと、彼女が答えてくれることは決して無く、今後、いつ、そんな機会が到来するかわからなかった。
「そうね。でも、聞いてしまったら、もう足抜けできなくなるわよ。その覚悟はある?」
テーブルに片肘をつき、小さな白い顎を乗せて、毛利は、いかにも気乗りしない様子で尋ねてきた。
「乗りかかった舟ですし、もう入会届も出してしまいましたから・・・。先行き、生徒会を辞めて、局外中立なんて宣言しても、そんな寝返り者は、誰にも信用してもらえないでしょう。私なりに、もはや退路を絶っているつもりです」
「わかったわ。それじゃ、きちんとお話ししないといけないわね。でも、そろそろ紅茶にも飽きてきたから、ちょっと場所を変えたいわ。このあと、何か用事ある?」
安堵したような微笑みが毛利の端正な顔に一瞬浮かんだが、彼女はすぐに表情を引き締めて、素早く周囲に視線を走らせると、意味ありげに片目を瞑ってみせた。
「ええ、どうせ、家に帰るだけですから。それに、家に早く帰っても、折り合いの良くない妹が、なんでこんなに早く帰ってきたんだ、的なオーラを出しまくると思いますし・・・。姉さん元気で留守が良い、ってことですよ」
最近、ようやく慣れてきた綾乃の仏頂面を思い出しながら、私は、もううんざり、といった調子で、苦笑した。
「私や咲良は一人っ子だから、姉妹が欲しいって、ずっと思っていたけど、姉妹がいればいたで、それなりに苦労があるのね。それにしても、あなたのそんな困った顔を見たの、初めてねー。あなたにも、苦手なものがあるのね! ふふっ!」
悪役俳優が実は恐妻家だった、そんなエピソードを聞かされたかのように、毛利は声を上げて楽しそうに笑った。
「先輩は、私のこと、妖怪かなにかかと思ってらしたんですか? 私にだって、苦手なものや怖いものの、ひとつやふたつはありますよ」
「あら、それは失礼したわね。じゃあ、妹さんのほかに、苦手な人はいる?」
椅子から立ち上がりながら、悪戯っ子のようなきらきらした瞳で、毛利は嬉しそうに尋ねてきた。
「取りあえず、私の目の前にいる人が、目下、妹の次に苦手です。なんでも見透かされてしまっていますからね。これはもう、どんなに足掻いても、絶対にかなわないですよ。いくら抗ってみても、所詮、手のひらの上で転がされているに過ぎないような、そんな恐るべき高校3年生です」
ドアノブに手を掛けながら振り向いて、私は、最大限の笑顔を返して見せた。
「それは光栄ね。理沙に恐れられるなんて、先輩として最大の褒め言葉として受け取っておくわ」
にっこりと微笑む毛利の後ろで、夏空が少しだけ赤みを漂わせて始めていた。
こんばんわ、来宮静香です。
先週は偏頭痛に悩まされて更新ができず、ご迷惑をおかけしました。
今週は、極めて元気、快調です。仕事のほうも金曜日(11月2日)に大きなヤマ場を越えまして、気力も充実しています!
さて、お話は、いよいよ謎解きに突入しています。
次話では、生徒会分裂の真相が語られることになります。
織田咲良は、本当に理沙を受け入れることができるのでしょうか。
 




