表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ダブル・スタンダード  作者: 仁科三斗
第一章 目覚め
5/58

口頭試問

 子供の頃から、「人を騙すのは良くない」と言われ続けてきた。


 大人になってからは、「嘘も方便だが、人を傷つける嘘はついてはいけない」と思うようになった。


 今、俺は、最低の嘘をついている。


 それは、自分で非常によくわかるし、胸も痛む。


 官僚になってから、「良心の呵責」なるものを感じることは殆ど無かった。


 単にそういう場面に出会わなかったからに過ぎず、それは「国益のためにぎりぎりの決断を強いられる」という、そんな重要な部署に配属された経験が無かったからだろう。こんなに憂鬱な嘘は、20年ぶり以上だろうか。


 母親の娘に対する無償の愛情を知ったうえで、その母親を騙す、というのは、さすがに気が重い。


 さらに、とりあえず「記憶喪失」を装うことで、まず、この「理紗」という少女の日常生活を把握することにしたが、果たして自分が「少女」を演じ切ることができるのか、甚だ心もとない。


 社会人になってから、「少女」というものを至近距離で見たことはない。俺には娘がいないうえ、電車の中でも、意図的に「少女」の近くに立つのを避けてきた。

 万一、痴漢と間違われるようなことになれば、それで俺の官僚としての、いや、社会人としての人生は、奈落の底に転落する。そんなことはごめんだった。


 高校も男子校だった。少子化が進む中で、生き残りのために男子校が次々と共学校に変わっていく中で、俺の高校は敢えて男子校というコンセプトを貫くことで、希少性を高める戦略を取っていたのだろう。

 それは、俺の卒業の翌年、系列校として女子高を開設し、経営体としては、男女両方を取りこむ方針を明確にしていたことからも、よくわかる。


 このように、「少女」なる生き物と縁遠い人生を送ってきた俺にとって、「少女を演じる」ことは、至難の技であることは、あまりにも明白だった。

 しかし、とにかく必死で演じ切らないと、俺は、おそらく病院から出られず、あるいは、「自宅療養」という名の「体の良い自宅軟禁」を強いられることになるはずだ。


 母親が表情を変えて、病室から走り出て行ったのを見て、さすがに気が咎めたが、もはや後戻りはできなかった。


 (・・・・やるからには、徹底的に記憶喪失を演じ切ってやる・・・・)


 この瞬間から、俺の苦難の日々が始まった。




 俺が1か月ぶりに目を覚ました日、母親から連絡が届いたらしく、夕方には、俺の家族が病室に勢揃いした。


 父親は年齢はちょうど俺と同じくらいだが、苦労しているせいか、はたまた体質のせいか、「俺」よりも痩せて白髪が多く、ちょっと気の毒になる。夕方まで病院に来られなかったところをみると、会社員か公務員といったところだろう。少なくとも自営業ではなさそうだ。


 父親は厳格そうな感じで、口数もあまり多く無かったが、それでも娘の容態を深刻に案じていることは、俺にもすぐわかった。

 

 母親は、何かパートらしいことをやっているようだ。娘が事故に遭ってから、パートを休んでいたようだが、ようやく娘が目覚めたと思ったら、今度は「記憶喪失」になっていることが判明し、当面、パートを休まざるをえないと言っている。


 妹は中学生らしい。髪が長く、やや丸顔で目鼻立ちがはっきりしており、姉、つまり俺よりも、遥かに美人だ。「学校で、お姉ちゃんの話を聞かれたら、もう少し入院が長引きそうだ、とだけ言っておいてね。それ以外の話はしないでね」という母親の言葉から推察すると、理紗と妹は同じ一貫校の女子校に通っているようだ。


 妹は、俺にはあまり近づいてこなかった。当然、事態のあまりの急展開に当惑し、「記憶喪失」の姉にどう接して良いかわからない、という部分もあるのだろうが、彼女のあまりによそよそしい態度は、姉妹の仲が微妙であることを感じさせた。


 両親も、そんな妹を敢えて俺の傍に連れてこようとせず、好きにさせているようだった。


 家族が一堂に会したところで、医師が俺の容態についてブリーフィングを始めた。


 「脳神経科の山名と申します。先ほど第二外科からの連絡を受けて、理紗さんの担当医となりました。よろしくお願いします。さて、ご家族が揃われる前に、理紗さんにいろいろと質問させて頂きましたが、記憶に混乱が見られるほか、一部の記憶が欠損している模様です。具体的には、まず、自分自身に関する記憶、つまり、自分が誰なのか、何歳なのか、といったものですが、そうした記憶が全面的に欠損しているようです。また、ご家族や友人など、理紗さんの人間関係、また、学校に関する記憶にも、大幅な欠損が認められます。一方、社会常識や勉強などについての記憶は概ね良好だと思われますが、今後、欠損している部分が現れてくる可能性があり、予断を持たずに見守っていく必要があります」


 実は、先ほどの専門医からの質問には、俺は非常に緊張していた。ここで演技を見破られたら、すべてが水泡に帰すことになる。実際、専門医の目から見ると、やはり整合的ではない点があるようで、山名は、時々、ウーンと唸って首を傾げていた。


 自分や家族・友人に関する質問には「わかりません」を連発すれば良かったので、さして難しくはなかったが、社会常識や勉強についての質問については、高度な判断が必要だった。下手に「こいつは社会生活が困難」とでも診断されてしまえば、俺は病院から出られなくなってしまうからだ。 


 山名は、「今年は西暦で何年ですか」、「今の日本の総理大臣は誰ですか」、「信号が赤の時、横断歩道を歩いてよいものですか」、「電車に乗るときには、何をする必要がありますか」、「買い物をするとき、何が必要ですか」、「円周率を知っていますか」、「江戸幕府を開いた将軍は誰ですか」、「フランス革命を知っていますか」、「主語と述語という言葉を知っていますか」、「英語で、おはようございます、と言えますか」といった質問を、俺に投げかけてきた。


 当然だが、こんな質問にはすべて回答できるが、あまりにもすべて正確に回答することにも何がしかのリスクがあるような気がしたので、「総理大臣という仕事は知っているが、誰が総理大臣なのかは、知らない。よく変わるから覚えられない」、「フランス革命は知っているが、詳しい内容は覚えきれていない」と答えておいた。


 結果的に、この判断は正しかった。


 質問の結果を山名から聞かされた母親は、「この子、人文系の勉強はあまり得意ではなかったから、総理大臣の名前やフランス革命の細部を知らなくても、何ら不思議はない」と言っていたからだ。

 逆に、俺がすらすら答えていたら、娘の知らないことまで正確に回答していたわけで、母親は確実に怪しんだだろう。


 山名の質問を切り抜けた感慨に酔っていると、母親が核心に触れる話を切り出した。


 「この子は、怪我が治ったら、学校に行っても良い、ということでしょうか? 3月の初めに事故に遭いましたので、転校してから、まだ一度も新しい学校に行っていないんです」


 (え、転校? この子、転校したのか。引っ越しでもしたのか。それじゃ、妹も転校したってことか。3月の初めに事故に遭った、ということは、今は4月の初めか、半ば頃、というところか)


 「うーん、怪我のほうは4月末には回復して、歩けるようになるとは思いますが、学校に通う際には、事前に十分に学校側と相談なさったほうが良いと思います。私も学校のことは必ずしもよくわかりませんので、どのような不都合が起こるか、あるいは、起こらないか、までは申し上げかねます。私が申し上げられるのは、とりあえず、社会常識と中学校程度の勉強の知識はクリアできているようだ、というところまでです」


 (ほほう、山名の奴、責任を親と学校に丸投げしたぞ。まあ、一般的な医師としては、極めて無難な発言だな)


 山名から「丸ともバツとも言えませんね」というような回答をされて、両親は顔を見合わせて言葉を探している様子だった。

 俺としては、外の世界に出ない限り、俺の身体に入っている理紗とも接触できないわけであり、とにかく、なんとかして早く病院や家から出たい。


 「・・・・私、学校、行きたい・・・・いろいろ大変なことがあるかもしれないけれど、外に出れば、記憶が戻るかもしれないから・・・・」


 今までずっと俯いて黙っていた娘が、いきなり顔を上げ、両親を真っ直ぐに見つめて、小さな声ながら、こんなことを言い出したので、両親は驚いたようだった。


 こんなことを言っている自分が非常に恨めしかった。俺はまた、人を騙そうとしている。こんなことを言われたら、それこそ藁にもすがる思いの両親は、首を縦に振らざるをえないじゃないか。

 案の定、母親は不憫な子を見る眼差しで、もう目を潤ませ始めている。


 「先生、この子の記憶は戻るものなんでしょうか?」


 病室に入ってきてから、殆ど口を開くことが無かった父親が、俺の顔をじっと見つめ返しながら、山名に尋ねた。


 「戻る、とも、戻らない、とも申し上げられません。これまでの症例をみると、記憶が戻らなかったケースもありましたが、記憶が戻ったケースもあります。ただ、何が原因となって記憶が戻ったか、という点は、人それぞれであり、あまり共通性がみられません。ただ、いろいろな刺激を与えたほうが、そうでないケースよりは、記憶が戻る可能性が幾ばくかは高まるかもしれません」


 (要するに、「学校に行かせて、いろいろ刺激を与えたほうが良いに決まっている。でも、万一、学校でトラブルが起こった場合には、自分は責任を持たない」ということか)


 「わかりました。もうひとつ、お伺いさせてください。記憶喪失が頭部の打撲によるものなのであれば、今後、脳の他の部分に予期せぬ後遺症が出てくる可能性はありますか」


 さすがに父親の質問は的を射ている。この人は、ちょっと信頼できそうな気がした。いわゆる「駄目なオヤジ」ではないようだ。


 「記憶喪失が起こるメカニズムは、いまだに十分には解明されていません。脳内で記憶を司る機関は海馬という部分ですが、この海馬の働きそのものがまだ解明の途上なのです。海馬の機能が完全に解明できれば、物忘れや認知症の治療や予防にも大きな進展が見られるはずです。現時点では、お嬢さんの脳のスキャン画像を見る限り、海馬には、まったく異常は見受けられません。従って、海馬の打撲が記憶喪失の原因とも言いきれません。また、脳の他の部分についても、事故による大きな出血がみられた部分では、既に止血が成功しており、血管の再生も順調に進んでいます。再度の大出血の可能性は小さいものと判断しています」


 山名の回答は、父親の質問に答えているようでいて、核心部分は上手にはぐらかしている。こういう回答スタイルは、国会答弁や記者会見などで役所が使う常套手段だが、今回は山名ばかりを責めるわけにもいかない。


 なぜなら、俺の記憶喪失は演技によるものであり、専門医が幾ら海馬の画像をみたところで、正常としか判断できないはずなのだから。おそらく、山名は、本心から「この症例はよくわからん」と思っているに違いない。


 「先日の心臓の件については、もう心配が無い、と考えてよろしいですか?」


 父親は、娘の前であることに配慮して、さすがに「心停止」という刺激的な言葉を避けたが、この点は俺も大いに関心があるところだ。


 「下肢の傷は既に縫合されており、順調に回復しておられますし、血液量も平常時とほぼ同レベルまで回復しています。もはや大きな心配はない、と考えて良いと思います」


 (そうか、事故で足に大きな傷を受けて、そこから大出血してショック状態に陥った、ということか。本当に極めて重篤な容態だったんだな。命が助かったのは奇跡に近い・・・。しかし、一体、どんな事故だったんだ?)


 「・・・・あの、私は、どんな事故に遭ったんですか? きちんと聴いておいたほうが良いと思って・・・自分の身体の傷のことも、いずれ自分で面倒をみなければいけないから・・・・」


 俺の発言は、確実にその場を凍らせた。医師は露骨に困った表情になり、母親は心配そうにオロオロと医師と父親の顔を交互に見比べ、父親は腕組みをして目を瞑ってしまった。


 そんな大人たちの当惑した様子を、妹は表情ひとつ変えず、静かに眺めていた。


 沈黙の中で数分間、非常に重い空気が流れたが、やがて意を決したように父親が口を開いた。


 「先生、話しても、差し支えありませんか?」


 「専門医としては、諾否を申し上げる立場にはありません。あくまでご家族のご判断です。ただ、あまりにお嬢さんの負担になるようでしたら、途中で止めたほうがよいでしょうね」


 父親は山名に向かって黙って頷くと、俺の方に向き直った。


 「これから言うことを、落ち着いて、そして、最後まで聴いてほしい。また、こんな事故は、二度と起こらないから、もうお前は何も心配することはない。いいな?」


 父親の重々しい言葉に、俺は思わず唾を呑み込んだ。そして、一瞬だけ、躊躇した。なにか、聴いてしまったら、もう後戻りできないような、そんな匂いを本能的に感じたからだ。


 しかし、このまま封印しておいても、誰にも良いことは何も無いはずだ。俺と、この人たちが前に進むためには、どうしても必要なコストなんだ。  


  俺は、小さく、でも、しっかりと頷いた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ