殊勲賞
いま、私は、身じろぎもせず、じっと前を見つめている。
先ほどまで騒がしかった体育館も、試合の開始時間が近づくにつれて、一気に緊張感が高まって、今はしんと静まりかえっている。
私は、小さな赤旗を持って、高さ80センチほどの簡易ステージの上に置かれたパイプ椅子に腰掛けている。軍師は騎馬には乗らず、この簡易ステージの上から味方に指示を出す決まりになっており、指示用の道具として、私は赤旗、相手方の軍師は青旗を持たされている。もっとも、毛利に聞いたところでは、この旗はほんの「お飾り」にすぎず、これまでに効果を発揮した場面はなかったようだったが・・・。
両陣営とも、1・3・4・6年の各学年ごとに3騎ずつ造られた騎馬と軍師1名から構成されている。各学年のA・B組は赤軍、C・D組が青軍に振り分けられているが、今年はたまたま毛利が6年A組、大内派の河野が6年D組なので、否応なく毛利・大内両陣営が正面から激突する形となった。
もともと騎馬戦は、教師が参加者を決めるのではなく、各クラスで話し合って参加者12名ずつを選ぶことになっている。当然、A・B組にも大内派の生徒はいるだろうし、C・D組にも毛利派の生徒はいるはずだが、さすがに今回の対立構図に配慮して、彼女たちは今回の騎馬戦には参加していない。
私が在籍する4年A組からも12名が参加しており、瑠花はもちろんのこと、千尋や朱里も含まれている。千尋や朱里は毛利派でも大内派でもないが、実際のところ、校内には彼女たちのような中間派も多く、むしろどちらの陣営への所属を明らかにしている生徒はあまり多くないらしい。両陣営に所属している生徒たちだけでは頭数が足りないため、今回の騎馬戦には中間派の生徒たちが参加させられているのだ。ちなみに、3年A組からは、凛、千鶴、莉子の3名も参加している。
私のすぐ眼下には、毛利の後ろ姿が見える。他の騎手と同じように赤い鉢巻を締めた毛利は、長めの髪を白いリボンで束ね、大将を示す赤い腕章を両腕に着けている。威信が低下したとはいえ、現役の生徒会長である毛利からは相応のオーラが出ているようで、通りすがりの彼女から「頑張ってね」と声を掛けられた下級生たちが、緊張してぴりっと表情を引き締めるのが、手に取るようによくわかった。
そして、体育館の反対側の端には、大内派の青軍が集まっているのが見えた。青い鉢巻を締めた生徒たちに混じって、青い腕章を両腕に着けたショートの少女がじっとこちらの陣営を凝視している。あれが河野遙なのだろう。河野の厳しい視線の先には、おそらく毛利の姿があるはずだ。
かつて同じ志を抱いていた彼女たちが、いま、どのような気持ちで向かい合っているのか、私には察するべくもない。
不意に視線を感じて、その方向に顔を向けると、不安そうに表情を曇らせた莉子が、すがるような眼差しで私を見つめていた。許されることなら、すぐにでもステージを駆け下りていって、言葉を掛けて安心させてやりたかった。しかし、軍師が特定の少女を特別扱いすれば、他の少女たちの士気を落とすことにつながる。私は、莉子を見つめたまま、小さく頷いてやることしかできなかった。
15時58分、試合開始の2分前になった。フィールドのすぐ外側に立っている教師が右手を高く上げたのを見届けると、私は赤旗を左に振った。相手陣営でも、軍師の青旗を振っている。騎馬の組み立て開始の合図だ。3人1組で騎馬を組み、他の1人が騎手となる。騎馬があらかた組み終えられた頃、両陣営と観戦者たちからほぼ同時にどよめきが湧き上がった。
これまでの慣例では、騎馬は各クラスごとに組むことになっている。ただ、そうしたルールが明示的に定められていたわけではなく、親しい者同士が集まるので、自然とそのような形になっていたに過ぎない。「あの子」は、そこに目をつけたのだ。
この戦術を聞かされた時、最も反対したのが凛だった。「この試合を正々堂々と戦って勝つことこそが、毛利先輩の威信を高めることになるのです」と、ひときわ険しい顔で反対する彼女に向かって、あの子はこう言ってのけた。「正々堂々と戦って、それで負けちゃたら、すべて終わりだよ。どんな勝ち方でも、とにかく今は勝たなきゃねっ!」と、すがすがしいほど割り切った微笑みを浮かべながら。
大半の騎馬はクラスごとに組まれていたが、ただひとつ、そうではない騎馬があった。前に瑠花、左に千鶴、右に千尋、そして、騎手は莉子。3・4年生混合で騎馬が組まれたのは、長い伝統の中でも初めてだった。
大内陣営と観戦者は、引っ込み思案で運動神経もいまひとつの莉子が騎手をつとめていることにも驚いているようだった。どの騎馬でも、運動神経の良さで名の通った少女たちが騎手をつとめており、そんな中で、血の気の失せた顔色で少し震えている莉子は明らかに異端の存在であり、観戦者たちから、そして、相手陣営からも期せずして失笑が漏れた。そして、それもまた、「あの子」の計算通りだった。
「あれって、一番弱い莉子と一番強い赤松先輩を組ませて、プラマイゼロにしてるってこと?」
「どう考えても、千鶴とかが上に乗ったほうが良いのにねー。あれじゃ、まるで馬の上にネコ乗せてるみたい」
観戦者のおそらく3年生たちから、心無い言葉が容赦なく浴びせられ、莉子はますます身体を固くして、いまにも泣き出しそうな顔で俯いた。
こうなることは最初からわかっていた。しかし、私たちの想定通りだということを、誰にも悟られてはならなかった。私は、内心は落ち着き払っていたが、敢えて、少し慌てたような表情を浮かべて、おろおろと辺りを見回してみせた。もし、大内陣営や観戦者たちが半泣きの莉子にばかり注目していなければ、毛利陣営の他の騎馬にあまり動揺が広がっていないことに気付いたに違いない。
情報漏れを防ぐため、試合開始の直前まで引き付けておいてから、私から赤軍の参加者たちに、莉子の騎馬が伝令役に徹することを説明しておいたのだ。いかに莉子が騎手であろうとも、戦闘に直接参加しないのであれば、何ら問題はない。だからこそ、赤軍は動揺していないのだ。
16時、フィールドのすぐ外に立っている教師がホイッスルを吹くと、試合が始まった。
毛利陣営は、これまでと同様に動かない戦術を採っているかのように見えたが、大内陣営が一気にこちらに攻め寄せてきた。だんだんと間を詰めてくる青軍を眺めながら、私はあの子の戦術の巧みさに改めて舌を巻いていた。
大内陣営が攻め寄せてきたのは、あの子が自分の友人関係のネットワークを通じて、噂を流したためだった。「大将の威信に傷がついたことで、毛利陣営は意気消沈して統制が乱れており、とにかく動かないことでなんとか引き分けに持ち込みたいと逃げ腰になっている」などとという話を聞かされれば、誰でも追い討ちをかけて相手を壊滅させたい誘惑に駆られるだろう。
青軍が中央ラインを越えたとき、私は予定通り赤旗を大きく2回、右に打った。私をじっと見つめていた毛利は、攻め寄せてくる青軍から逃げるような素振りをみせつつ、フィールドの右端に向けて動き始めた。青軍からもこの動きは見えるわけで、彼女たちは一斉にそちらに向かって進路を変えていく。
青軍の軍師もこの動きを傍観しているため、右翼の騎馬がどんどん左に寄せてきて、そこに後続の騎馬が突っ込んでくることになり、隊列が横一列から縦長の団子状に乱れた。
頃合いを見計らって、私は赤旗を大きく左に何度も振った。これを見た毛利はただちに自陣の左翼の騎馬に声を掛けて、攻め込んでくる青軍を横から包み込むような陣形に変えさせた。そして、莉子の騎馬だけがこの陣の後ろ側にぽつんと取り残される形となった。
いざ両軍が接触すると、事前に毛利から伝えられていた通り、なかなか凄惨な戦いになった。騎馬側では、当たり前のように蹴り合いが始まっているうえ、騎手同士が相手の髪や体操服を引っ張ったりしている。試合に先立ち、自宅から持って来させられた軍手の装着を教師から指示された理由が、いま、ようやく私にも判り始めていた。爪で相手に怪我をさせないための予防策なのだ。
莉子の騎馬は、伝令役という名目で前線の後ろに配置されていたため、こうした戦闘に巻き込まれずに自由に動ける状態が続いていた。それは青軍にも判っていたはずだが、「騎手が莉子だから、何もできはしないだろう」と多寡を括って、この騎馬を完全にノーマークにしてしまっている。
赤軍の騎馬はあまり移動していない一方、青軍はフィールドの端から端まで全力疾走してきたわけであり、当然、騎馬をつとめる少女たちはさすがに疲労しており、機動性は低下している。そのうえ、赤軍の騎馬との戦闘が佳境に差し掛かり、青軍の騎手の注意は、自分の目の前の赤軍の騎手にだけ向けられている。騎手どうしの叩き合いに限れば、さほど戦闘能力に差があるわけではないので、当然、戦線は膠着する。
敵の大将である毛利がすぐ目の前にありながら、毛利の前で防御する6年生の騎馬に阻まれて、なかなか青軍の騎馬は到達できない。青軍の大将の河野は、このままでは時間切れで一回戦は引き分けになりかねないと焦ったのだろうか、自分も中央ラインから前進して前線に向かっている。安全な後方から指揮を出していては埒が明かないので、自分も戦闘に加わるつもりなのだろう。
河野の騎馬が前進して、青軍の前線のすぐ後ろに追いついた瞬間、私は赤旗を激しく上下に振り始めた。これを合図に、逃げ腰を装っていた毛利が、一気に反攻に出て、自らも敵の騎手に組みついた。青軍の注意が毛利周辺に一斉に集中する中、莉子の騎馬が赤軍の前線の後ろから左翼を回って全力で駆け出した。
莉子の騎馬は、騎手である莉子自身の戦闘力はまるで高くないが、機動性は赤軍の中で最も高い。瑠花、千鶴、千尋といった体育会系の少女たちを意図的に集め、そして、参加者の中では最も体重の軽い莉子が騎手をつとめているのだ。
あっという間に、莉子の騎馬は河野の騎馬の後ろに回り込んだ。その頃になって、ようやく青軍の軍師や観戦者たちが騒ぎ始めたが、青軍の騎馬たちは戦線の全体像を俯瞰的に把握できていないため、事態の急展開に誰も即応できない。軍師がめった青旗をめちゃくちゃに振って注意喚起しているが、前線の騎馬たちは後方で何が起こっているのか、誰も判らないようだ。
そのまま莉子の騎馬はスピードを上げて、河野の騎馬に後ろから体当たりした。不意を突かれて河野が前のめりにバランスを崩したところへ、莉子が必死の形相で手を伸ばして、河野の鉢巻の端を思い切り引っ張った。
観戦者たちが総立ちになり、喚声がひときわ高くなったのを感じて、青軍の騎馬たちは後方での異変に気付いたようだったが、すべては手遅れだった。
振り返った彼女たちが目にしたのは、満面の笑顔で「やったー!」と叫ぶ瑠花たちと、その上で青い鉢巻を握りしめて半泣きになっている莉子、そして、ただ茫然とたたずむ河野の姿だった。
青軍の大将が討ち取られてしまったことで、1回戦は、赤軍の鮮烈な勝利に終わった。これで勝ったかのようにあちこちで万歳を叫んでいる赤軍の騎馬たちを眺めながら、私の心中は複雑だった。
(2回戦では、相手も警戒を強めるだろうから、こうした奇策はもう二度と通用しないだろう。次は、お互いに全力を尽くしての総力戦とならざるをえないな・・・)
1回戦の終了を告げる教師のホイッスルが鳴り響くと、両陣営の騎馬はその場で解体し、参加者たちは歩いて自分の陣営に戻っていった。
あまりにあっけない幕切れに、青軍の参加者はむしろ憤っているようで、「後ろから回り込むなんて汚い」とか、今頃になって、「3・4年生の混合チームなんてルール違反だ」などと言い出しているが、そんなことは想定内のことだった。
こちらは、念のため、混合チームの適法性を教師にきちんと確認しているのだ。それにクレームがあるなら、騎馬を組んだ時点で言うべきだろう。彼女たちは、莉子を甘く見て嘲笑し、そのまま異議を申し立てなかったのだから、混合チームを容認したと受け取られても仕方ないだろう。
そして、莉子は、敵の大将を単騎で討ち取るという「殊勲賞」によって、初めて自信を持ったに違いない。自分だってやればできるのだ、と。
「あの子」は、莉子を騎手に抜擢することによる効果を、これほどまでにきちんと事前に読み切っていた。
フィールドから私たちの陣営に歩いて戻ってくる4年生たちの中に、彼女はいた。
いつものように明るい笑顔で、そして、心の底から嬉しそうにぴょんぴょんと軽く跳びはねながら、彼女、浦上晴香は、いつまでも私に向かって、ぶんぶんと手を大きく振り続けていた。
1週間振りのアップです。ようやく3連休になって、ほっとしている来宮です。
毛利が連れてきた参謀は、浦上晴香でした!
この物語の中で、今後、彼女は重要な役回りを担っていきます。
世慣れていて機智に富んだ晴香が加わったことにより、「吉川派」は随分とバランスが良くなりましたね。
もうひとりの参謀格である凛とは、今後、どのような関係になっていくのでしょうか。
次話では、いよいよ2回戦で展開されます。ご期待くださいませ!!




