ターバンを巻いた猫
自分たちの部屋に引き揚げる途中で、朱里と千尋は私たちと別れて、3年生たちの部屋に向かった。彼女たちに同行をすることを禁じられた私と瑠花は、すごすごと自室に直行し、私はまた靴を脱ぎ散らかして瑠花から叱られた。
自室に戻ってしまうと、せいぜいスマホでいろいろなサイトを眺めることくらいしかすることが無い。そのスマホすらあまり使わない瑠花は、手持ち無沙汰そうに、私の隣でベッドに背中を持た掛けさせて、テレビをつまらなそうに見ている。私は、スマホをいじる手を止めて、同じようにベッドに背中を持たれかけて、顔だけ瑠花の方に向けた。
「そう言えば、瑠花って、家に帰ると何してるの?」
「アタシ? アタシは、宿題、読書、そして、竹刀の素振りだ。とくに、素振りは毎日欠かさずにやらないと、すぐに腕が落ちるからな」
「最初と三番目は納得だけど、読書って、一体、どんな本を読むのさ? 剣豪小説なんて、今は新作なんか出ないだろ? もう、あらかた読み尽くしちゃってるんじゃないのか?」
「え? あ、ああ、まあ、いろいろだな。うん、いろいろだ、いろいろ」
何気なく振られた話題に、瑠花は落ち着きなく視線を宙で彷徨わせ、明らかに言葉に詰まっている様子だった。誰が見ても、この話題には触れられたくない、という態度なのは、一目瞭然だ。
(まあ、人の読書ジャンルは、最高ランクの機密情報、って言われるくらいだからな。どうせ、剣道関係の本とか時代小説ばかりなんだろうけど・・・。可哀想だから、このくらいにとどめておいてやるか・・・)
「そう言う理紗は、家では何してるんだ?」
瑠花は視線を泳がせながら、必死に話題を逸らそうとしている。
「私はね、宿題が終わったら、テレビのニュース見て、取り敢えず、寝る」
「寝るって・・・。それじゃあ、毎日、結構早く寝てるのか?」
「ああ。だいたい11時には確実に寝てるよ。毎日、夜になると、ほんとに眠くて眠くて堪らないんだ。ベッドに入ると、バタン、キュー、で寝てしまう」
「・・・古い擬態語だな・・・」
「ほっとけ!」
早く寝る、というのは、まったくもって嘘ではない。この身体にはだいぶ馴れてきているが、それでもまだ精神的な負担が大きいらしく、往復の通学時間、学校での滞在時間、家族、とくに妹との緊張感あふれる夕食時間、宿題消化時間、テレビのニュースや新聞からの情報収集時間、入浴時間など、一日のうちの「義務的時間」を過ごし終えると、まるでロボットが「エネルギー切れ」になったかのように、私は眠くなってしまうのだった。
おそらく精神的な負担だけではなく、毎朝早く、決まって眠りが浅くなることも、幾ばくか影響しているに違いない。今もって、その原因は不明なのだが。
最初の頃は、余暇の時間に理紗が集めた本を読もうとも思ったのだが、正直なところ、まったくそんな余裕が無い。
「毎日を大過なく過ごす」というのは、案外、人間にとって大変な作業なのだ、ということを、私はひしひしと思い知らされていた。こんな状態だから、部活など、夢のまた夢、もいいところだ。
テレビの画面では、すっかり老境に入った総白髪の司会者が「それでは、みなさん、ガッテンですか?」と出演者たちに尋ねている。そんな様子をぼんやりと眺めていると、朱里と千尋がようやく部屋に戻ってきた。
「お待たせー。じゃ、お風呂、行こうか」
「一仕事終えました!」というふうに、にこにこと微笑んでいる朱里に向かって、私は首を傾げて見せた。
「でも、まだ9時になってないよ。こんなに早く行くのか? さっき食事したばかりだろ?」
「10時過ぎると、大浴場がめちゃくちゃ混むんだよ。毎年、そうなんだ。みんな考えることは一緒で、食事して、部屋に帰って、お話して、それから、お風呂、ってことになると、結局、10時過ぎに大浴場に人が集中するわけ。そうなると、大浴場の前で順番待ちみたいになるし、洗い場も混んじゃって、隣の人に水が掛ったとか掛らないとか、そういうトラブルも起こりがちなんだ。それで、もし、その隣の人が先輩だったりしたら、やっぱり気まずいじゃない。この間の理紗と波多野さんみたいにさ」
苦笑交じりに千尋に言われると、私も返す言葉が無い。
「なるほどね。まあ、ロビーでしっかり食後の休憩もとっていたたから、時間的にはとくに問題は無いよなぁ」
納得して深く頷く瑠花を眺めながら、私は、心の中では、迷っていた。もちろん、彼女たちの言うとおり、時間にはとくに大きな問題は無い。しかし、私には、どうしても答えを出さなければならない、大きな問題が残っていた。そして、それは、決して彼女たちに言ってはならないことでもあった。私が、彼女たちと一緒に入浴する時、どのように行動すべきか、について、である。
自分たちのバッグからタオルや旅行用の小さな詰め替えシャンプーなどを取り出して、入浴の準備を整えると、靴ではなくスリッパを履いて、私たちは部屋から出た。
廊下を歩き、階段を下り、地下の大浴場の近くの廊下の曲がり角まで来ると、珍しく監視カメラが、それも一見してわかるように設置されていて、ご丁寧に「浴場をご利用いただくお客様の完全確保のため、監視カメラが作動しています」という貼り紙まで付けられている。
この監視カメラは、おそらく浴場への不法侵入の防止を目的としているのだろう。確かに異性の侵入はこれで防止できるだろうが、最近は珍しくなくなった同性による盗撮は抑止できないだろう。とくにメガネタイプのウエラブル端末を持ち込まれたら、防ぎようがない。生活の苦しい女性が報酬目当てに同性を盗撮し、そのデータが規制の緩い某国の有料サイトに大量にアップされていることが最近になって判明し、ウエラブル端末の規制が厳しくなりような雲行きになってきている。
浴場前まで来ると、既に同じように考えている「林間学校馴れ」した生徒たちが、三々五々、集まってきていた。そして、躊躇なく浴場の扉をガラリと開ける千尋の後ろで、私だけが緊張していた。
扉が開いた瞬間、私は反射的に目を瞑った。
しかし、そこはまだ脱衣場ではなく、生徒たちが脱いだスリッパが整然と並んでいる小さな玄関があり、その先に、もうひとつ木の引き戸が設けられていた。廊下に続いている扉を開けたとき、廊下を歩いている人から脱衣場が丸見えになってしまうのを避ける工夫だろう。
取り敢えず、ほっとしつつ、隣で自分の脱いだスリッパを揃えている朱里に向かって、私は、小さな声で尋ねた。
「一般のホテルとかと違って、みんな丁寧にスリッパを並べてるよね。うちの生徒、さすがに行儀が良いね」
「そうでもないのよ。丁寧に並べておかないと、後で上級生から変に言いがかりをつけられるかもしれないからよ。学校と違って、ここって監視が弱いでしょ? そうなるとね、途端に小姑みたいなことを言い出して、後輩にちょっかいを出す人が出るの。さもしい話よね」
辺りの様子を素早く窺いながら、私だけに聞こえるような小さな声で、朱里が囁いた。
引き戸を開けて脱衣場に入ると、私は、咄嗟に視線を自分の足元に落とした。
学校の更衣室で、クラスメートたちの下着姿を見る機会はあったが、ここでは、みんな基本的に一糸纏わぬ姿なのだ。いかに理紗の身体であっても、「中の人」が男性である以上、私は、彼女たちの裸身を見てはならないはずなのだ。
彼女たちは何の疑問も持たずに、周囲の同輩たちの視線を気にしつつも、服を脱いでいくが、それを私が凝視するのは「覗き」行為そのものであり、彼女たちを裏切ることになるように感じられた。
隣で服を脱いでいる瑠花の身体が目に入らないように、私は、意図的に脱衣場の籠だけを見つめるようにして服を脱ぐと、再び自分の足元に視線を落としたまま歩いて、浴室の扉を開けた。
一瞬、洗い場の椅子に腰かけて、思い思いに身体や髪を洗っている生徒たちの姿が見えたが、すぐに私は視線を足元に落として、足早に空いている蛇口に向かった。
隣の蛇口を使っているのは、おそらく後輩だろうと思われるが、そもそも顔すら、よく見ていないので、誰ともわからない。もし先輩だと、後で難癖をつけられても嫌なので、私は、取り敢えず、先に声だけ掛けておくことにした。
「失礼します。お隣、使わせて頂きますが、よろしいでしょうか?」
その子は髪を洗う手を一瞬止めてから、「はい、どうぞ」と、くぐもった声で答えると再び手を動かし始めた。私もそうだが、長い髪を洗うのは容易な作業ではないのだ。
私は、ボティソープや湯の飛沫が隣に飛び散らないように細心の注意を払いながら、身体と髪を洗い、そして、さらに一層の注意を払って、シャワーから湯を出した。
幸い、私がシャワーを使い始めて間もなく、隣の子は洗い場から浴槽に移動したので、私は、心の底からほっとした。
小説やアニメの世界では、温泉で女の子同士が胸の大きさなどについて話したりする場面が、あたかも定番のように描かれるが、実際には、そんなことは無い。
友達同士で隣り合って椅子に腰かけている場合でも、基本的にみな黙って身体や髪を洗うことに専念している。ここは家族風呂ではないので、そもそも見ず知らずの他人の目があるうえ、この年頃の子は、たとえ同性であっても、自分の身体をオープンに見せるのはやはり躊躇するようだ。
それは、私にも容易に察することができた。
教室での世間話でも、「なんとか先輩の百合疑惑」といった噂話をよく聴いていたからだ。とかく娯楽に乏しい、学校という閉鎖社会では、この手の噂話は、少女たちの無聊を慰める、格好の「ネタ」なのだ。そうした環境の中では、相手の身体、とくに裸身について話すといった行為は、周囲に「ネタ」を提供しかねないリスクの高い行為だと、認識されているのだろう
さて、すっかり洗い終えて、さあ、湯に入ろうか、と振り向いたとき、私は、こうした温泉での女性の入浴マナーを初めて思い知らされることになった。
湯に浸かって気持ち良さそうに目を閉じたり、腕を軽くマッサージしたりしている彼女たちは、ターバンのように髪をタオルで巻いているか、あるいは、クリップやゴムで髪を束ねており、湯に髪が入らないようにしている。
一方、私は、自宅の風呂では、そんなことは全くしていなかった。もちろん、母親はそんなことまで教えてくれなかったので、私は、いつも髪を下ろしたまま、ざぶん、と浴槽に浸かっていた。従って、私は、今、手元にクリップもゴムも持ってきていない。
やむをえず、私もターバンを巻くことにしたが、初めての作業であるうえ、もともと手先が器用ではなく、さらに、周囲の同輩たちの視線を気にしながらなので、なかなか思うようにしっかりと巻けない。
何度もやり直して、それでもすぐにほどけてしまうターバンに焦っていると、「大丈夫? 良かったら、お手伝いするけど・・・」と、すぐ後ろから声を掛けられた。慌てて振り返ってみると、隣の子が浴槽から上がって、上がり湯を浴びるために洗い場に戻ってきていた。
振り返って顔を上げた拍子に、相手の身体が一瞬だけ見えてしまい、私はまたもや慌てて視線を足元に下ろした。
「す、すみません! 私、不器用なもので・・・。本当に助かります。ありがとうございます!」
何度も頭を下げると、その子は「いいのよ。気にしないで。じゃ、ちょっと後ろ向いててね」と優しく答えて、私の顔を洗い場の鏡の方に向けさせると、頭の上に不格好に乗っているタオルに手を掛けた。
浴槽に入るときには、タオルを湯に入れないようにするため、みなタオルを身体に巻いていないが、浴槽から上がると、髪からタオルを下ろして、しっかりと身体に巻いている。同性だからと言っても、やはり、自分の裸身を他人に見せるのは、恥ずかしいのだ。この点は、男湯とはまったく様相を異にしている。
先ほど一瞬だけ相手を見上げた時、隣の子はしっかりとタオルを身体に巻いているようなので、私は取り敢えず安堵した。助けてくれた相手の裸身を、やむを得ないとは言え、いささかでも見てしまうのは、あまりに申し訳なさ過ぎる。
それでも、馴れないシチュエーションの下で、両手を膝の上に置いて身体を固くしていると、隣の子はいとも簡単にタオルを巻き終えて、私の肩をポンと軽く叩いた。
「できたわよ。これで良いかしら?」
彼女が巻いたターバンは、しっかりと巻けており、申し分ないものだった。私は、後ろを向いたままでは非礼だと感じて、振り返って深く頭を下げた。
「ありがとうございます! ほんとに助かりました! 何とお礼を申し上げて良いか・・・」
頭を上げ、相手の顔を見て、思わず私は絶句して、さらに身体を硬くして、相手の言葉に身構えた。
「あら、あなた、吉川さんなのね。こんなところでお会いするとは、ご縁があるわね」
あのときとは全く違う、優しい声だった。私は、少し拍子抜けして、おずおずと、生徒会長の顔を見上げた。
「そんな怯えた顔されるなんて、ちょっと心外だな。別に取って食いはしないから、心配しないで」
毛利七海は、少しおどけた口調で、私を笑って見下ろしていた。
「あの・・・あのときは、失礼なことを口走って、本当に申し訳ありませんでした。私、すぐに頭に血が上ってしまう性格で・・・」
毛利は私の隣の椅子に腰かけると、私から目を逸らして、自分の正面のシャワーに手を伸ばし掛けたが、そのまま少し手を止めた。
「そうらしいわね。でも、あのときは、私にも非があったわ。だから、お互い、これで貸し借り無しってことにしましょう。ところで、あなた、今も、頭に血が上ってるでしょ?」
言っている意味がわからず、私が「え? えぇ、まあ・・・」と言葉を濁すと、毛利は、シャワーに向かって伸ばしかけていた手を戻して、手のひらを口のあたりに軽く当てて、くすっと笑った。
「だって、さっきから、あなた、身体が丸見えよ。タオル無いんだから、ちゃんと手で隠さないと、ね」
優しく諭すように言われて、私は、慌てて自分の胸とおなかに手を当て、顔を真っ赤にして俯いた。
(そんな習慣、まだ身に着いてません・・・)
隣でシャワーを使い始めた毛利を、ちらり、と横目で見ながら、私は、「オンナノコって、いろいろ大変なんだなぁ・・・」と、心の底で盛大に溜め息をついていた。
体調が回復し、ほっとしている来宮です。ご心配をおかけしました。
ただ、まだまだ暑いので、油断できません! 今週もあと一日! なんとか頑張ります!!
さて、今回のお話はお風呂メインです。私は、身体に関する露骨な表現がとても苦手なので、アニメで湯気がかかりまくったような書き方になってしまっていますが、そこはどうかご容赦ください。
温泉における女性の行動については、私の数少ない経験に基づくものなので、必ずしも一般的ではないかもしれません。温泉では、深夜になってから大浴場に行って、誰もいない中で、のんびりとお湯を堪能する、というのは、私だけでしょうか。。。だって、恥ずかしいんですよ、そんな他人に誇れるような身体ではないので・・・。
ちなみに、私はクリップ派です。ターバンは、母親がよくやっていたので、なんとなく中高年齢者っぽいイメージがありまして。。。
毎年、姉と一緒に箱根へ一泊旅行に行くのを、とても楽しみにしている来宮でした。今年は、11月には行きたいなぁ。