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ダブル・スタンダード  作者: 仁科三斗
第一章 目覚め
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偽りの自我

 その少女は、女性にしては不自然に髪が短く、いわゆるベリーショートに近い状態だった。


 真っ直ぐ俺を見つめる眼は長い睫毛で縁どられ、瞳は黒く、そして澄んでいたが、「不機嫌」という言葉を体現しているかのように、眉をひそめ、眉間に深い皺を寄せていた。顔立ちは少し面長で、顔色はやや白く、鼻と口はやや小さかった。


 俺がこれまでに至近距離で見たことのあった少女の中では、明らかに美人の部類に属していた。


 そして、静かな怒りを滲ませながら俺を見つめている、その少女の隣には看護婦が立って、少女に肩を貸していた。


 俺は、自分の左頬に左手を当てた。微かに震えていた。


 少女は、右頬に右手を当て、僅かに怯えを含んだ表情で、俺をじっと見つめている。


 「う、うわあー! あーー! あーー!」


 俺は、心の底から込み上げてくる恐怖に、全身の筋肉がギューッと硬直するのを感じながら、辺りを憚らない咆哮を上げた。


 左足から力が抜け、驚いている看護婦に体重を預けたまま、目の前が暗くなった。



 「意識が戻ってから、あまり時間が経っておられようですから、気持ちがやや不安定になっておられるだけでしょう。身体の怪我も順調に回復しておられますし、包帯が取れるようになったら、すぐにでもリハビリを開始した方が良いと思います。リハビリは早く始めるほど、効果が大きいですし、お若いので回復も早いのではないかと考えられます」


 俺は、眼を瞑ったまま、医師の冷静な声を聴いていた。ベッドの傍らから中年の女性が俺を見下ろしている気配がする。


 「でも、トイレで、いきなり叫び出して暴れたんでしょう? 大丈夫なんですか? 今まで、そんなことをする子じゃなかったんですよ」


 (いや、暴れてはいないと思うが・・・)


 俺は、だんだん話が誇張されていく嫌な予感を感じつつ、それでも寝たふりを続けていた。5分ほど前に目が覚めていたが、自分でも頭の中が激しく錯綜していて、とにかく一人になって落ち着いて情報を整理したかった。 


 「これほどの身体の怪我を見れば、平気でいられる人はいませんよ。それに、もしかしたら、事故の記憶が急に甦ってきたのかもしれませんね」


 医師は、他人事ひとごとのように、何の感情も込めず、事務的に説明を続けている。


 (事故? なんだ、それは? 俺は、何かの事故でこんな怪我を負ったということか?)


 「先生、あのときは、本当にありがとうございました。先生方のお陰で、娘は助かったんです。本当にありがとうございます」


 シュという、軽い衣擦れの音が聞こえる。大方、女性がお辞儀でもしたのだろう。


 (娘? 俺は、この人の娘ということになってるのか?)


 「一時は、かなり重篤なご容態でしたね。ただ、頭は強く打っておられましたが、内臓系へのダメージが少なかったのが幸いでした。先日ご説明したように、脳内の出血部分の血管再生も無事に終わりましたし、身体のほうは、これから順調に回復していくと思います。ただ、メンタルのほうは、これから手厚くケアをされていく必要がありますね。しばらくは、事故のことがトラウマとして残る可能性もありますし・・・」


 医療用携行端末でカルテを見ているらしく、医師が画面を指でタッチする微かな音が聞こえている。


 「今は、こうやって笑って話せますが、心臓が止まったと先生から言われた時には、私も主人も、本当にもう駄目かと思いました。それが、意識も戻って、きちんと話せるようになって・・・。本当に先生のお陰です。なんとお礼を申し上げてよいか・・・」


 (え、俺、心停止したの? 臨死状態じゃないか、それは)


 「お嬢さんの生命力も強かったんだと思いますし、ああいうシリアスな状態では、生きたい、という本能的な潜在意識の強弱が、身体にも大きな影響を及ぼしてくるものです。医学がこんなに進んでも、人の心と、それが身体に及ぼす影響というのは、まだ十分に解明されていない部分も多いんです」


 「この子は、そんなに精神的に強いほうではなかったんですよ。むしろ、おとなしくて、どちらかと言うと、引っ込み思案で、お友達の後についていく感じでしたし・・・でも、土壇場で踏みとどまってくれたということは、芯は強かったということかもしれませんね」


 (実の親だと容赦ないなぁ。これ、目の前で言われたら、相当、凹むぞ)


 「ところで、お嬢さんは、まだしばらくは歩けませんので、車椅子を使われますよね? 病院から一時的にお貸しすることもできますが、利用されますか?」


 医師は、他人の娘のメンタルにコメントするのを避けて、巧みに話題を切り換えたようだ。


 「はい、お願いします。でも、先生、これからずっと車椅子の生活、ということにはなりませんよね?」


 母親の声のトーンが下がった。


 「骨折部分の接着が進めば、普通に歩けるようになると思いますよ。筋肉の断裂などは見られませんので。ただ、長く寝ておられたので、筋肉自体はさすがに弱っておられます。まずは歩行練習などが必要ですね」


 「今日まで1か月間、ずっと眠り続けていましたからねぇ。もう二度と目が覚めないんじゃないかって、心配していたんですよ、私も主人も・・・。それが、さっき、私がトイレから戻ってきたら、この子が扉のところまで這ってきていて・・・そういえば、あのとき、この子、変なこと言ってました。私が名前を呼んだら、『人違いじゃないか』とか・・・」

 

 「確かに意識が戻られるまでの期間は、他の患者さんに比べると、ちょっと長かったですね。しばらくは、記憶の混乱など、何らかの影響が残るかもしれませんので、少し様子をみてください。ただ、脳機能自体は相当程度回復しておられますので、運動機能などには、おそらく深刻な後遺症は残らないと思います。お嬢さんの目が覚めたら、手足の指を動かして頂いて、麻痺などが残っていないか、確認してもらってください」


 「はい、わかりました。いろいろありがとうございます」


 「では、失礼します」


 ベッドから、医師の靴音がゆっくりと遠ざかっていき、ゴロゴロと部屋の引き戸が動く音が聞こえた。


 「理紗、よく頑張ったね。もう大丈夫だからね。安心して、少し休みなさいね」


 女性の手が俺の頬に当てられ、そっと撫でられた。ただ、ただ、暖かく、そして、優しい。ずっとずっと、遥か昔に感じたことのあるような感触だった。


 寝たふりをして、この女性の様子を窺っていることを、少し心苦しく感じた。それと同時に、今後、自分がどのように振舞うことが、俺にとって、そして、この人にとって、ベストなのか、俺は真剣に考え始めていた。


 (いろいろな話を整理すると、俺は、現在、少女の姿になっている。信じられない話だが、鏡に映った容姿、周囲の人々の話、そして、なによりも、自分の身体を見ると、そう考えざるをえない。声も女性のようだ。目が覚めたときは、怪我や、尿意や、そもそもここがどこなのか、ってことに気を取られていて、それどころじゃなかったけど、この声は明らかに俺よりも遥かに高い感じがする)


 (そして、この人は、その少女の母親だろう。少女の名前は理紗、だいたい中学生か、高校生くらいか。父親は健在らしい。俺、というか、この理紗って子は、1か月前に何かの事故に遭って、今日まで昏睡状態が続いていた・・・)


 (この理紗って子と俺の心、魂というべきか、それが入れ替わってしまった、と考えるのが、最も整合的だな。到底信じられない話だし、今でも確信は持てないが、そう考えると、話の辻褄が合う。仮に、この想定が正しいとすると、俺の身体に理紗の魂が入っているということになる。魂をなんとか交換できれば、お互い元に戻れるけど、その方法はわからない・・・)


 (事態正常化の目途が立つまで、このことを誰かに話すのは望ましくないな。自分でも十分に信じられていないことを、他人が信用してくれるわけがない。記憶障害とか夢で片付けられれば良い方で、下手をしたら、メンタル面の障害を疑われることになる。そうなると、今後、何を話しても信用してもらえなくなる・・・)


 (とは言うものの、これから、俺はどう振舞ったらいいんだろう・・・。理紗の性格や日常生活をまったく知らないんだから、理紗を演じても、すぐに化けの皮が剥がれるだろう。そうなると、さらに事態がややこしくなるのは、火を見るより明らかだ。またまたメンタル面の障害を疑われることになってしまう・・・いや、待てよ、最初から障害が残っていることにしてしまえば良いんじゃないか?)


 俺は、できる限り自然に見えるように、ウゥンという声を小さく漏らして寝返りを打つと、左手だけで伸びをして、目を開けた。


 「ああ、目が覚めたのね。どこか痛いところは無い? 喉は乾いてない?」


 女性が優しく微笑んで、俺を見下ろしている。さすがに、胸がチクリと痛んだ。しかし、とにかく、今は事態の正確な把握が先決だ。それが、理紗と俺の「魂の正常化」を早めることになり、ひいては、この人の幸せにもつながる。


 「・・・・あの、どちら様ですか?・・・」


 女性の笑顔は、一瞬、固まったあと、すぐに心配そうな表情に変わった。


 「それに、ここはどこなんですか? 私は、なぜ、ここにいるんですか? 」


 「あなた、本当に私のことがわからないの? 冗談を言ってるんじゃないのよね? 理紗、あなた、本当に私のこと、わからないの?」


 女性は、無意識のうちに私のベッドにさらににじり寄ってきた。当然のリアクションだが、実際に見ると、ちょっと怖い。


 「理紗って・・・私のことですか? 私、理紗って名前じゃないですよ、私は、ええと・・・・」


 俺は不思議そうな表情を作ると、女性に向かって、首を傾げてみせた。


 「・・・ええと、ええと、ええと・・・名前、ちょっと度忘れしてしまったようです・・・少し待てば思い出すと思います・・・ええと、ええと・・・」


 少しずつ焦燥感を強めた表情に変えていく。もともとそんなに表情豊かのほうではないので、きちんと効果的に演出できているか、非常に不安だが、とにかく、ここまで来たら、演じ切るしかない。


 女性は、そんな俺の様子を見て、いまにも泣きださんばかりの表情に変わっている。


 今だ!


 俺は、顔を俯けると、すべての動作を止めた。そして、僅かに間をあけたあとで、やにわに顔を上げ、最大限に不安そうな表情で、瞳を潤ませて、女性を見上げた。


 「・・・・名前・・・思い出せません・・・全然・・・わからないんです・・・」


 女性は、「えっ」と、口の中で小さく呟くと、そのまま固まり、俺の顔を見つめながら、言葉を反芻していたようだが、はっと我に返ると、「先生呼んでくるからっ!」と叫ぶと、病室から走り出て行った。

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