合理性
私たちが下山道を再び歩き出して数分間が経った。
私と赤松の後ろで、黒田は3年生たちと話しているが、時々、相槌を打つのが一瞬遅れる。黒田が明らかに別のことを考えているのは、誰にでも簡単にわかってしまうだろう。現に、私の隣では、先ほどから赤松が、表情を曇らせ、地面に視線を落として、考え事をしている。赤松の性格上、こういうときに自分が何もできないことがつらいのだろう。
(黒田は、ハンカチを無くしたのがよほど堪えているみたいだな・・・)
千尋や朱里も、時々、さりげなく後ろを振り返って、黒田の様子を心配している。3年生たちも、黒田を元気づけようと、敢えて明るい話題を持ち出しているが、黒田が無理に微笑んでいるのが判るだけに、彼女たちも内心、つらいところだろう。
(あの理性的な黒田が、ここまでこだわるってことは、量産品のハンカチじゃないな、あれは・・・なにか理由があるんだろう)
私は足を止めて、急に振り返って黒田の前に立ちはだかった。無理やり笑って友人たちと話していた黒田は、さすがに驚いて私の顔を見上げた。
「え、どうしたんですか? あの、私に何か?」
私は敢えて無表情のまま、数秒間、黒田を見つめたあと、静かに口を開いた。
「さっきから、君がそんな様子だから、みんな心配している。ハンカチの件を、君が気に掛けているのは、みんな気付いてるよ。立ち入ったことを尋ねて悪いが、あのハンカチ、大事なものだったんじゃないか?」
黒田は、一瞬、驚いて目を大きく見開いたが、すぐに眉間に皺を寄せて、私をキッと睨んだ。
「これは、私自身の問題です。先輩には関係ありません!」
「いや、関係、大ありだな。これから1時間近く、君がそんな様子のまま、私たちと道中を共にするっていうのは、みんな気が滅入って仕方ないし、ハンカチのことが気になって、周りの景色も楽しめやしない。言いたくないのはわかるが、だったら、そんなしょぼくれた顔なんか、一切みせるな。それができないなら、ここで洗いざらい言ってしまったほうが、みんなも君のつらい想いを分かち合える。一人で背負うより、8人で背負えば、つらさも8分の1になるってものじゃないか」
黒田は、周囲を見回した。私以外の6人も、みな、憂いを含んだ、そして、どこか優しい眼差しで、黒田を見つめている。黒田は俯いて、ほんの少しの間、逡巡しているようだったが、やがて意を決したように顔を上げた。
「わかりました。そこまでおっしゃるなら、お話します。でも、この話は、この場にいる方々だけの胸にしまっておいて頂きたいのです。お約束、頂けますか?」
私は6人の顔を順に眺めた。私と目が合うと、全員が深く頷いた。
「みてのとおりだ。みんな、約束すると言っている」
「・・・わかりました・・・。私の母は、3年前、私がこの学校に入る前に病気で亡くなりました。あのハンカチは、母の形見です。母が私のために買ってくれて、私の名前が母の手で刺繍されています・・・」
黒田の答えを聞いて、私は自分の額に瞬時に青筋が立ったのを自覚した。
「そんな大事なもの、なんでこんなところに持ってきたんだ? 無くすことだって、容易に予想できるだろう、君の頭でなら!」
私が声を荒げたので、黒田は反射的に少し後ずさりしたが、すぐに態勢を立て直して、私を睨み返した。
「私だって、なにも持ってきたくて持ってきたんじゃない! ハンカチ忘れて家を出そうになって、玄関から妹に、なにかハンカチ持ってきて、って言ったら、よりによって、あのハンカチをタンスから持って来ちゃったんです!」
私に負けないほど激しく声を荒げ、涙を滲ませながら黒田が抗弁するのを、3年生たちは驚いて眺めていた。おそらく、人前でこれほど黒田が取り乱したのは初めてなのだろう。
「でも、でもですよ、あれは母の形見であっても、ハンカチはハンカチなんです。所詮は、モノなんです! そんなモノにこだわって、みんなに迷惑かけちゃいけないんです、私はっ! 私は、裕未のためにも、早く大人にならなくちゃいけないんです! 私はしっかりしなくちゃ、いけないんです! だから、だから、こんなことで泣いたりしちゃいけないんです! なのに、なのにっ!」
言っていることとは反対に、堰を切ったように黒田の眼からは涙が次々と溢れて来た。普段は理性的な黒田だが、彼女はまだ中学3年生なのだ。言っていることの最後の方は、もはや話が飛んで、支離滅裂になりかかっている。
(今まで、ずっと、自分の気持ちを抑え込んで、無理を重ねて生きてきたんだろう。どうやら、心のダムを決壊させてしまったようだな、私は・・・)
「野暮用を思い出した。ちょっと、ここで待っててくれないか。担任が来たら、そこの林の中で用を足してるとでも言っといて欲しい」
私は、くるりと踵を返すと、下山道を走って登りはじめた。後ろで黒田が何か叫んでいるようだが、こうなった私の耳には、もはや何も届かない。
先ほど黒田がハンカチを落とした場所を通り過ぎ、私は杉林まで戻った。途中で、遅れて下山してくる生徒たちのグループ何組かとすれ違ったが、あまりに私が切羽詰まった顔をしていたのだろう。みんな慌てて、私に道を譲った。
(さっきの場所では、どうあがいても、川原には下りられない。いくらなんでも、垂直に近く切り立ったコンクリートの護岸を下りていくことは、私にも無理だ。ロッククライミングなんて、やったこともないしな。であれば、あの場所の脇、どこか護岸で固められていないところから、川原に下りていくしかない)
下山道から杉林に足を踏み入れると、私は近くに生えている雑木の少し太めの枝を、少し長めに折った。その枝で、自分の足元の少し先を軽く突きながら、地盤の硬さを確かめつつ、慎重に先に進んでいく。とくに灌木の葉が茂っている部分では、その下に崖が隠されていないか、よくよく注意して確かめるようにした。
傾斜に沿って歩いていくと、やがて岩で構成された低い崖に出た。ここを下りれば、とりあえず、川原、または川に出るに違いない。私は、岩場から、恐る恐る顔を出して、崖の下を眺めた。
幸いなことに、崖の下は川原になっており、あのハンカチを落とした場所まで続いているように思えた。私には、何の迷いも無かった。
(万一、落ちても、この程度の高さであれば、尻から落ちれば大事には至らないはずだ。足さえ捻らなければ、問題は無い)
私は、滑り落ちないように慎重に岩の狭間に足を入れ、少しずつ崖を下りて行き、数分かかって、ようやく川原に降り立った。下流に向かって川原を歩いていると、コンクリートで護岸が固められた、あの場所に辿り着いた。
「おーい、大丈夫ー?」
聞き慣れた声に、ふと上を見上げると、護岸の上のガードレールに生徒たちが鈴なりになって、心配そうに私を見下ろしていた。私たちのグループだけでなく、先ほど私とすれ違ったグループの生徒たちも混じっている。黒田は、胸の前で両手を合わせて、祈るような格好で、私をじっと見つめている。
私は、頭の上で両手を組み合わせて、「丸」というジェスチャーをしてみせた。そして、すぐに足元の川原でハンカチを探し始めたが、どこにも見当たらない。そのうち、また頭上から声が聞こえた。
「川の中! 石に引っ掛かってる!」
千尋の声につられて、川の中を見ると、川の浅瀬の岩にハンカチが引っ掛かっていた。大方、風にでも飛ばされたのだろう。
(まずいな。気をつけないと、とんだことになるぞ、これは・・・)
私は、川原にしゃがみ込むと、小石を幾つか拾い、これから進もうとしている川の中に軽く投げ入れてみた。いずれの石も、川に落ちると、バシャッと派手に水しぶきを上げた。
(思いのほか、水深は深くはないと見た。水流は速いが、なんとか辿り着けないものでもない)
私は、スラックスを膝まで捲り上げると、靴を脱いだ。水の中では、ゴム底の靴はただ滑りやすいだけで、文字通り、足を引っ張るだけの存在だ。このあたりは川の中にガラス瓶が捨てられていることはないだろうから、石の角にさえ気をつければ、足を傷つけることもなかろう。
先ほどの枝を川の中に突きいれて、川の深さと川床の状態を慎重に確かめつつ、私はゆっくりと川の中を進んでいった。渓流の水は、自宅の冷蔵庫に入っているミネラルウォーターよりも、ずっと冷たいように感じられた。足の裏からは、川藻のぬるりとした感触が伝わってきて、何度か滑りそうになったが、そのたびに姿勢を低くして持ちこたえた。
ようやく浅瀬の岩まで辿り着くと、ハンカチはもう流される寸前のようだった。慌てて手を伸ばして、布の隅を掴み、手元にしっかりと引き寄せると、頭上から歓声が響いてきたが、水流が速い中で、上を見上げる余裕は無かった。
川岸まで再び慎重にゆっくりと歩き、ようやくあと数歩で川原に上がれる、というところまで辿りついたとき、頭上から金切り声が響いた。
「吉川さんっ、あなた、何やってるのっ! 早く上がりなさいっ!」
咄嗟に頭上を見上げると、ガードレールから、担任の安国寺先生が怖い顔で睨んでいた。
(やばっ、見つかったか! これは、お小言、確定だな。親にも迷惑かけてしまうかもな)
でも、全く悔いは無かった。
私は、先生に向かって、さすがに申し訳なさそうに頭を下げて見せたが、その瞬間、足を滑らせ、派手な水しぶきを上げて、川の中で尻餅をついた。
頭上からは、「あぁー」という、ひときわ大きな嘆声が響いたが、髪も服もびしょ濡れのまま、私がよろよろと立ち上がると、今度は屈託のない笑い声が上がった。
笑われても、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。それだけでなく、なにか、心の枷のようなもののひとつが、音を立てて外れたような気がした。そして、私も上を見上げて、大きく声を上げて笑った。
下山道まで這い上がると、先生が待ち構えており、まず、怪我が無いか尋ねられたうえで、激しく叱責された。水難事故や転落事故にもつながりかねない、極めて危険な行為を仕出かした以上、今回は私に全面的に非がある。教師の監督責任問題につながるようなことをしたのだから、これはもう、平謝りに謝罪するしかない。
ひとしきり、叱責とお詫びの遣り取りが続いたのち、川原に下りた理由を尋ねられ、私は咄嗟に黒田を眺めた。黒田は、当惑したような顔で私を見つめていたが、やがて表情をきりりと引き締めて、口を開きかけた。
「ええと、今日はあまりに暑かったので、ハンカチを川の水に浸して、冷やそうとしたんです。それに、私、川の水に足を浸した記憶がまったく無いもので・・・。川の水って、冷たくてとてもとても気持ち良いものなんですね。生きていて、本当に良かった・・・」
黒田が声を挙げる直前、私は、にっこりと笑って大きな声で先生に答えた。機先を制されて、黒田は声を出すタイミングを逸したらしく、驚いた顔で少し口を開けたまま、私を見つめている。
私は、先生には申し訳ないと思ったが、「記憶が無いもので」と「生きていて、本当に良かった」という部分を意図的に強調した。少しでも同情を引き出して、情状酌量してもらおう、という算段が働いた。
案の定、「暑かったから」という理由を聞いたところで、先生の眉が一段と吊りあがったが、「記憶が無いもので」の部分で微妙に表情が変わり、「本当に良かった」という結びの部分で、先生は深い溜め息をついた。
「取り敢えず、タオルか何かで身体と髪を拭きなさい。気温が高いし、風もあるから、すぐに乾くとは思うけど、風邪ひいてはいけないから」
先生が自分のリュックからタオルを取りだすと、一部始終を見ていた生徒たち数人が自分たちも予備のハンカチやタオルをリュックから出して、私の身体を拭いてくれた。一度も話したことのない生徒たちだった。
「あ、ありがとう・・・」
まったく予想もしていなかった生徒たちの行動に、私は呆気に取られて、口ごもりながら礼を言うのがやっとだった。「よく頑張ったね」、「ちょっとは、いいとこ、あるじゃない」、「先輩、見直しました」・・・先生に聞こえないような小声で、彼女たちは口々にねぎらってくれた。
濡れた服やスラックスは十分に冷たかったが、彼女たちの声を聞くと、身体の奥から暖かいものが湧き上がって、手足の隅々まで拡がっていくような、そんな気持ちがした。
いつまでも立ち止まってはいられないので、先生の号令で私たちは再び歩き出した。気恥ずかしさもあって、私はグループの最後尾を歩いていたが、後ろのグループと十分に距離が離れたところで、黒田が私の隣に並んだ。私が勝手に差し出がましい行動を取ったのを怒っているのだろう。とても厳しい表情で、私を見上げている。
そして、彼女が口を開きかけた時、再び私は彼女の機先を制してやった。これでも、私は、この子よりも、四半世紀は長く生きているのだ。
「早く大人になろうとする必要なんか無い。放っておいても、みんないずれは必ず大人になってしまうんだ。だから、私たちは、子どもで居られる時間を楽しむべきだと思う。きちんと子どもしておかないと、よい大人にはなれないと思う。そして、君はもっと人に頼るべきだ。周りの大人や上級生に甘えたっていいんだ。巡る浮世は回り持ち。自分が他人に甘えた分は、いずれ後輩たちに返せば、それで良いんだ」
私の言葉に、黒田は一瞬大いに驚いたようだったが、すぐに再び厳しい顔つきに戻った。
「なんで、あんな危険なことしたんですか? もし、怪我でもしたら、どうするつもりだったんですか? 私、さっき、所詮はただのハンカチって言いましたよね?」
「形あるものは、いつかは必ず失われる。たとえ形が無くなっても、心の中で思い出が生き続けるようになってから、そういうことは言うんだな。半泣きの顔で、ただのハンカチ、なんて言われても、まったく説得力に欠ける。そもそも、私が川に下りたのは、君のためなんかじゃない。勘違いするな」
「え?」
突き放したような言葉に、黒田は少なからず面食らったようだった。いつの間にか歩くのをやめて、私を怪訝そうに見上げたまま立ち止まっている。
「まだ十分に世の中のお役に立てるハンカチがもったいなかったから、拾いに行ったまでだ。誰かのため、とかではなく、徹頭徹尾、この世の中のためだ。それ以上でも、それ以下でもない」
私が口を尖らせて必死に言い繕うと、黒田は「とんだ、ツンデレさんですね」と思わず笑いを洩らし、そしてすぐにまた怖い顔に戻った。
「先輩は、馬鹿です。自分が叱られるのわかってて、それでも、たった一日だけ同じ班になった、そんな赤の他人のために無茶するなんて、結局、自分が損するだけじゃないですか。そんなの、頭良い先輩らしく、ないじゃないですか・・・」
最後のほうは、涙で掠れて、もうよく聞き取れなかった。
「あのなあ、目の前で困ってる人がいて、その人を見殺しにするようであれば、人としてはポンコツなんだよ。強くなければ生きてはいけないけど、優しくなければ、生きていく価値なんか無いんだ。もちろん、さすがに自分の命が危ういとなれば、私も無茶はしないよ。でも、今回は、自分が注意すれば、きっと身の安全は保てると判断したんだ。私は、そこまで向こう見ずの勇み肌じゃない。ちなみに、教師に見つかって叱られるのは、端っから想定済みだ。ただね、叱られるデメリットより、困ってる誰かを助けるほうが、私に遥かに大きな満足感が得られる、というメリットがあるんだ。だから、自己満足だと言われるかもしれないが、私の中ではきちんと帳尻は合ってる。極めて合理的な行動だと思うが・・・」
黒田は、涙を手の甲で拭うと、まるで親が残念な子を見るかように、大仰に肩をすくめてみせた。どこか嬉しそうに顔をほころばせながら。
「まったく、先輩は頭良いんだか、悪いんだか、判りませんね」
私は、わざと大仰に首を振って見せた。
「私も未だに判らないよ。自分にも判らないものを、君に先に判られてたまるか」
私たちは顔を見合わせたあと、どちらからともなく、声を立てて笑った。
彼女のハンカチを飛ばしてしまった強い風が、今度は、私の濡れた服と髪を少しずつ乾かしてくれていた。
皆さんは、下山道から渓流に下りたりなさらないでくださいね。
実際には危険がいっぱいです!
ようやく生徒たちの誤解が解け始めた理紗ですが、まだまだ道は険しいですね。
おっかなびっくりですが、ツィッター始めてみました! どうぞよろしくお願いしますね!
お気軽に声を掛けてください! おそらく、すごく喜ぶと思います!
リアルではシャイなほうなので、ネットでは、むしろたくさんお話したいですね! アカウントは「@shizu_kino」、ユーザーネームは「来宮静香」です。
ちなみに「来宮」というのは、子供の頃、私が住んでいた神奈川県の地名です。宮家の詐称ではありませんので(笑)!
引き続きどうぞ、よろしくお願いします!
きのみや しづか 拝




