花模様のハンカチ
バーベキューのあと、再びクラスごとにバスに乗り、御岳山の登山口で下り、ケーブルカーで山上に上がった。
なにも無い深い山中を上って山頂に到達した瞬間、目の前に御岳山神社の門前町と宿坊が密集した賑やかな街区が突然現れ、まるで空中都市のように思えた。
ここで再びグループ別行動となり、私たち4年生4名と黒田たち3年生4名が集まった。この山頂から大楢峠を経由して鳩ノ巣駅まで、山道を約2時間半程度歩いて下っていくことになる。教師たちからは、無理をせずに休息を取ること、そして、時間を決めて必ず水分補給を行うようにと、指示を受けた。
このルートは御岳山の登山ルートとして非常にポピュラーらしく、山道とは言うものの、ほとんど生活道路に近いほど整備されており、一部は舗装までされている。しかも、下り道が大半なので、あまりつらく感じることも無い。
私たちは自然と二人一組で連れだって歩くかたちとなり、私は千尋と、赤松は朱里と、それぞれペアを組むことになった。
少し風が強まっていたが、それでも天気は良く、抜けるような青空が頭上一杯に広がっている。杉林特有の清々しい香りと、どこか懐かしい感じがする土の香りがほのかに流れてくる。
大楢峠を過ぎて本格的な下り道に入るようになると、下山道は小さな渓流に沿うことになった。この数日間、雨が降っていないこともあってか、渓流の水量はかなり減っており、透明な水を通して川底や魚影まではっきり見える箇所が幾つもあった。
下山道はずっと川沿いに続いているわけではなく、杉林の中に入ったり、護岸工事の施された川岸のすぐ上を通ったり、あるいはコンクリートの橋で川を渡ったり、という具合に、渓流とはつかず離れずに走っている。
「こんな天気が良い日には、川に下りて、水遊びでもしたいね」
川岸のすぐ上に差しかかったとき、間近に見える、きらきら光る水の流れを眺めて、千尋が嬉しそうに呟いた。
「まったくだ。ここまで水が綺麗だと、ヤマメやイワナのような川魚が釣れるかもしれないな。まあ、川魚は臆病だから、なかなか素人には釣れないだろうけど。ちなみに両者とも焼き魚にすると、非常においしいらしい」
「また理紗は食べることに話を持っていく! これじゃ、理紗とは水族館に行けないよ、ねえ、朱里」
振り返った千尋からいきなり話を振られて、朱里は手で顔を仰ぎながら苦笑した。
「でも、水族館は冷房も効いているし、なにより水に直接触れていないのに、なんか涼しい気持ちになるよね。私はイルカショーが見たいなぁ。できることなら、イルカに乗ってみたいし」
「イルカに乗った朱里、か。なんかメルヘンだよねー。ちなみに個人的には、ウエットスーツではなく、白いブラウスに麦わら帽子を着用すること希望!」
千尋は、白い歯を見せて、にやりと笑った。
「どこだかの水族館では、観客をイルカに乗せるショーをやってたと思うな。こんど調べておくよ。あれって、やっぱり体重制限とかあるのかな? 重量オーバーの人はお断りされることになるんだろうなぁ」
私たちの話に加わる機会を掴めないらしく、赤松は黙ったままなので、私は彼女に水を向けてみた。私としては、黒田の努力に敬意を表して、せめて今日一日は緊張緩和の流れを維持するつもりだ。
「イルカにとっては、やはり負荷が掛かるから、乗せる人間の体重制限は必要だろう。ただ、イルカに乗ることを申請した観客について、その場で体重測定を行うことは現実的には難しいから、自己申告によるものとなる。そうなったとき、明らかに体重オーバーと思われる観客が、自分は制限をクリアしていると言ってきたとき、運営側として、それをどのように謝絶するか、というのは確かに大きな課題だな。下手に断れば、本人の面子を潰すことになって怒りだしかねないしな。やはり、遠回しに言うのだろうか。しかし、それで相手が気付いてくれなかったら・・・うーん、なかなか難しい問題だ・・・」
私があくまで笑い話のネタとして振ったにもかかわらず、赤松は腕組みをして真剣に考え込んでしまった。
(・・・赤松、お前、やっぱり堅すぎるよ。もう少しなんとかならんのかね。いや、真面目なのは良いんだけどさ、もうちょっと臨機応変に場の空気を読んでくれよ・・・やれやれ・・・)
私は心の中で大きな嘆息をつきながら、作り笑顔のまま朱里の方を眺めると、朱里は「あははは」と乾いた笑い声を立てながら、視線で「理紗ちゃん、話を合わせないと駄目よ」と伝えてきた。
(仕方ない。今日一日だけの辛抱だ。黒田たち下級生のために我慢するか)
「そ、そうだなー、やはり、お断りの例文を載せたマニュアルみたいなものがあるんじゃないのか? ファミレスとかハンバーガーショップとかには、そういう接客マニュアルみたいなものがあるって聴くしなぁ」
私は、心の中ではうんざりしながらも、にこやかな笑顔で赤松に返答した。詳しい事情を知らない者から見ると、傍目には会話を楽しんでいるように見えるはずだ。
事実、視線を後ろに外して、黒田の顔をちらりと眺めると、彼女はすぐに気付いて、「うんうん、先輩、よくできてますよ」と言わんばかりに、にっこりと微笑んで軽く頷いてみせた。
(なんか、この黒田って子には、いいように手玉に取られているような気がするなぁ。この子、私より25歳以上も年下なんだぞ。いいのか、私・・・)
私が赤松と話し始めると、朱里はこれ幸いとばかり、千尋の隣に移動してしまい、一瞬、ほっとした表情を浮かべた。
(あ、朱里、それはないんじゃないの! ちょっと勘弁してくれよ、おい・・・)
「なんと! そんなマニュアルがファミレスなどには存在するのか! 道理で、どこの店に行っても同じような接客態度なわけだ。いままで、従業員を研修所みたいなところに集めて合同訓練などを行っている成果だとばかり思っていた・・・。ところで、ハンバーガーって、幾らぐらいするものなのか?」
赤松は本気で感心したように、うんうんと深く頷いたあと、今度は私に向かって不思議そうに小首をかしげて見せた。
(こういうちょっとした仕草は可愛いんだけどなぁ・・・モトは悪くないんだから、もう少しプレゼンに配慮すれば、「不機嫌姫」なんて言われないのに・・・)
「え? ああ、ハンバーガーの値段ね、って、もしかして、ハンバーガーショップに入ったことが無いのか、赤松さんは?」
私が驚いて立ち止まると、赤松は少しだけムッとした表情に変わった。
「校則で、そういうところに一人で入店してはいけないことになっているだろう? それに私の家は、あまり外食などしないから、そもそもその手の店に入る機会が無いんだ」
「いや、家族で外食に行って、ハンバーガーショップに入るってのは、普通、無いだろうよ。まあ、校則で決められているだけじゃなく、そもそも私たちは自分の自由に使えるお金が少ないしな。うちなんか、夕食前に買い食いしたのが母親に知れたら、確実に嫌味のひとつも言われるだろうし・・・」
私は、夕食の食卓で、母親が「あら、今日は食欲がいつもより少ないわねえ。お外でおいしいものでも食べてきたのかしら? いつも同じようなメニューばっかりだと飽きちゃうものねぇ。ごめんなさいね。うふふふ」と、笑顔で、しかし、目だけは笑わずに、私をしっかり牽制する様子をリアルに思い浮かべた。
私と赤松の会話が聞こえたらしく、千尋が驚いて後ろを振り向いた。
「えっ、赤松さんも理紗も、ハンバーガー屋に入ったことないの? みんな学校の帰りとかに普通に寄ってるよー」
「それは親が緩いんだろ? うちは母親が働いてるからね。そんな中で夕食をちゃんと作ってくれているわけで、それに私が不満がある素振りを見せたりなんかしたら、まず間違いなく、ぎゅうぎゅうに締め上げられるね」
「子供の買い食いに良い顔をする家なんて無いよ」
「でも、外でお金を使えば、どこで何に支出したのか、たちどころに親に関知されてしまうだろ?」
「え、理紗、そんなことも知らないの? まあ、記憶の件もあるし、仕方ないかぁ。あのね、それは」
千尋がそこまで言いかけたとき、急に強い風が山から吹き下ろしてきた。そして、私たちの後ろで「あっ!」という、かなり大きな声が響いた。
私たちから少し離れたところを歩いていた3年生たちが、道の川岸側のほうに集まって、心配そうに川を見下ろしている。私は、状況を最も的確に把握していると思われる黒田を、咄嗟に目で探した。
黒田は、道に設けられたガードレールから身を乗り出して、かなり下にある河原を見つめていた。そして、少し離れた位置に立っている私でさえ、はっきりとわかるほど、みるみる顔面蒼白になって、そのまま茫然として立ち竦んでしまった。
「どうした? 何かあったのか?」
私が声を掛けると、黒田はハッと我に返って私のほうに向き直り、いつもの静かな口調で淡々と答えた。
「あ、いえ、私が汗を拭こうとしていたら、ハンカチが風で飛ばされて、下の河原に落ちてしまいまして・・・。河原に下りる道も見当たりませんし、あきらめるしかありませんね。仕方ありません」
そう言いつつも、黒田はやはり河原が気になるようで、ちらちらと視線をガードレールの方に動かしている。私もガードレールの際まで寄って下を見下ろしてみると、10メートルほど下の河原に、白地に花模様のハンカチが落ちていた。
「大事なものなんじゃないのか? あきらめていいのか?」
私が重ねて問うと、黒田は、彼女にしては珍しく、表情を少しだけ曇らせた。
「河原まで拾いに行く手段が無い以上、あきらめざるをえません。それに、ここでいつまでも足止めされているわけにもいかないでしょう。無くしたものは確かに残念ではありますが、形あるものは、いつかは失われる運命にあります。ここは諦めが肝心です」
「そうだな。確かに河原まで下りる方法は無いな。気の毒だが、諦めるしかあるまい」
私の隣で河原を見下ろしていた赤松がぽつりと呟くと、黒田は黙って頷いた。
「そうか。君がそれで納得しているなら、良いんだけど・・・。ハンカチなら、こんなこともあろうかと思って、私が何枚か予備を持ってきてるから、必要とあれば貸すよ」
私は、背負っていた小さめのリュックを下ろすと、未使用の青いハンカチを取り出して黒田に手渡した。
「ありがとうございます。うっかりして、今日は一枚しかハンカチを持ってこなかったので、先輩に貸して頂いて助かりました。あのハンカチも、家を出るときに持ち忘れてしまって、妹に頼んでタンスから取ってきてもらったものなんです。さて、それじゃ、そろそろ行きましょう! いつまでも、こんなところで油を売っていると日が暮れてしまいます!」
黒田は、私から受け取ったハンカチをスラックスのポケットに入れると、わざと明るい口調で私たちに呼び掛けた。
今回のお話で登場する御岳山神社の門前町には、私も実際に行ったことがありますが、本当にインカの空中都市のマチュピチュみたいなんです!
山頂付近に賑やかな町が開けていて、旅館も数軒ありますが、町の周囲は林と急斜面に囲まれていて、その景色が山の麓まで続いていました。
神社は、狼をお祭りしていましたね。
明治時代までは、東京都内にも、ニホンオオカミが生息していたのです。
さて、今回のお話では、赤松瑠花の新しい一面がみえてきています。決して性格の悪い子ではないようですが・・・(笑)。
引き続き、私の小説、どうぞよろしくお願い申し上げます!
きのみや しづか 拝