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ダブル・スタンダード  作者: 仁科三斗
第三章 私の居場所
31/58

蝶の言伝

「言伝」(ことづて)とは、自分の想いを他の誰に託して大切なひとに届けてもらう、そういう意味だと、私は思っています。

 予想通り、屋上には誰もいなかった。人工芝の敷かれた床は、もうすっかり乾いて、雨粒の欠片も残っていない。


 (これは、けるな)


 雲ひとつない青空の下、遮蔽物の無い屋上は、夏の砂浜と大して変わらない。放課後とはいえ、夏の夕方はまだまだ明るく、私は咄嗟に日焼けを心配して、日陰を求めて歩き回った。


 屋上に通じるドアのある小さな建屋の脇に回り込むと、西日を避けることができたので、私は建屋に背中をもたれさせて、床に腰を下ろした。


 眼下に広がる校庭では、部活の無い生徒たちが三々五々、校門を通り抜けて、駅に向かってのんびりと歩いていく。


 この屋上とあの校庭の間には何万マイルもの距離があって、自分は、どうやっても、あの校庭に決して辿り着くことはできない。ふと、そんな気がした。


 寝不足のうえに、なかなかハードな出来事が立て続けに起こったのは、やはり、高校生の身体にとっては少し負担が重かったのかもしれない。私は、その態勢のまま、軽く目を閉じたつもりだったのに、そのまま意識が遠のいた。




 「ごほっ、ごほっ! ふぅ・・・・」


 気管に唾が誤って入ったらしく、私は激しくむせて、目が醒めた。壁にもたれるという、やや不自然な態勢で寝てしまったので、いつの間にか、身体が前に傾いて、頭が深く下がってしまっていたらしい。


 西日はかなり弱くなり、ようやく夏の薄明るい黄昏が迫ってこようとしていた。


 (どのくらい寝たんだろう?)


 時計を見ると、2時間近く経過していた。まさに黄昏どきに差しかかっている。眼下の校庭では、部活を終えたと思われる生徒たちが下校を始めていた。


 (そろそろ頃合いかな。屋上の扉が施錠されて、締め出しでもされたら、また話題のネタを提供することになってしまうし・・・)


 私は、うーん、と伸びをひとつすると立ち上がり、スカートの腰の部分を軽くはたいて、埃を払った。そして、屋上にある建屋の扉を、音を立てないようにそうっと開けて、階下の様子を窺った。幸いなことに、辺りには人影も見えないし、足音も聞こえない。


 (これで、ようやく帰れるな。やれやれ、「お尋ね者」の身は、なにかとつらいね)


 自分に非が無いのに逃げ隠れしなければならないのは、甚だ不服だったが、これ以上、面倒事に巻き込まれるよりはマシだろう。私は、足音を立てないように注意しながら、ゆっくりと注意深く階段を下りていった。


 往きと同じように剣道場の脇を抜けるルートを歩こうかと思ったが、万一、再び赤松と出くわすようなことがあると、気まずいこと、この上ない。仕方なく、そのまま階段を下りて、ワンフロア下の、小さい屋内運動施設の脇の廊下を通ることにした。

 この施設は、バスケットやバレーのような球技を行うほど広くはないが、卓球、フェンシング、ダンスなど、球技ほどはスペースを必要としないスポーツで使用されている。私も、体育の授業で、何度か利用したことがあるが、防音施工のなかなか立派な施設だ。さすがに新しい校舎だけのことはある。


 部活でも使用されるので、誰かが残っているか、と、入口の扉の上部に嵌め込まれている覗き窓から、恐る恐る室内の様子を眺めてみたが、部活は既に終わったらしく、室内は無人だった。隣の更衣室からも、人の気配は全く感じられない。


 私は、ほっと安堵して、廊下をゆっくりと進み始めた。廊下を端まで歩いて、その角を曲がれば、私の教室の近くに続く階段に出ることができる。


 人気ひとけのない廊下は、独りで歩くにはあまりに広すぎて、それだけで私は気が滅入った。


 廊下の角を曲がった瞬間、すぐ先の廊下に生徒がしゃがんでいるのが見えた。 


 予想外の展開に、私の鼓動が急に激しくなった。部活終了後とはいえ、まだ誰かが廊下を歩いてくる可能性があることは事前に想定していたが、廊下で人がしゃがんでいる、という光景に遭遇することは、さすがにまったく予期していなかった。


 こうした予想外の事態に遭遇すると、私は、いつも立ち竦んでしまい、声も出せずに突っ立ったままになるのが常だ。ただ、体調を崩していると思われる生徒を、そのまま放置しておくわけにはいかない。


 私は、幾分ぎこちない動きで歩き出すと、彼女に近づいて声を掛けた。


 「どうした? 大丈夫か? 気分が悪いのか?」


 よほど驚いたのだろう。彼女は、びくん、と身体全体を震わせると、慌てて後ろを振り向いた。


 そして、少し虚ろな眼で、私を見つめながら呟いた。 


 「・・・蝶が・・・」


 再び彼女が視線を戻した先には、羽の傷んだ、小さな揚羽蝶が廊下に横たわっていた。


 「・・・死んでいるのか・・・」


 「・・・はい・・・」


 彼女は、蝶の亡骸を見つめたまま、小さな声で答えた。


 「昨夜ゆうべの嵐をどこかで凌いで、校舎の扉が開いた頃に、残っていた風を避けて、ここに入ってきたんだろうか」


 「ええ。でも・・・」


 「・・・ようやく風の来ないところまで翔んできて、安心して、力尽きてしまったのかもしれないな・・・こんなところで、たった一人で、さぞ心細かっただろうな」


 「・・・・はい・・・」


 私は、彼女の隣にしゃがむと、ポケットからティッシュを取り出し、一枚を床に敷き、もう一枚で丁寧に蝶のはねを摘まんだ。そして、床の上のティッシュに蝶の亡骸を乗せると、翅が傷まないように注意しながら、ティッシュをふんわりと軽く折り畳んだ。


 「その子、どうするんですか? 捨てるつもりですか?」


 彼女は、あからさまに非難するような眼で私をじっと見つめながら、今までとは打って変わった強い口調で尋ねた。


 「このまま寝かせておいたら、いずれ遠からず、誰かに踏まれるか、ゴミと一緒に捨てられることになる。それは、あまりにも可哀想だ。だから、この子が還るべきところに還す」


 彼女は、表情を和らげると、私の横顔を見つめて、黙って、コクン、と頷いた。


 私は、蝶を丁寧に包んだティッシュを手のひらに乗せ、しばらく見つめたあとで、ぽつりと呟いた。


 「ひとたびしょうを得て、めっせぬ者の、あるべきや」


 「お経ですか? 一応、ここ、ミッションスクールですよ。せめてお祈りの言葉にしておかないとまずいんじゃ・・・」


 初めて、彼女が微かに苦笑したような気がした。


 「これは、室町時代に流行った幸若舞こうわかまいという舞楽の演目『敦盛』の一節だ。信長がとても好んでいたという。誰でも一度生まれたからには、どうしても死は避けられない。だからこそ、悔いの無いように、日々を懸命に生きよう。という意味だと、私は勝手に解釈している。この蝶は、蜘蛛などの天敵にも遭わず、車に轢かれることも、また、人の手に掛かることもなく、日々を懸命に生きて、こうして天寿を全うしたのだ。だから、この言葉を、私からのせめてもの向けとして捧げた」


 「ひとたびしょうを得て、めっせぬ者の、あるべきや、か。私は、毎日、懸命に生きてられているのかな」 


 「自分が懸命に生きているからこそ、懸命に生きて生を全うした蝶の最期にも、こうして心動かされるのだ。そうでなければ、『あっ、蝶が死んでる。気持ち悪い』とかいう言葉を残して、この場を立ち去ってしまっていたはずだろう」


 「そうなのかな。そうだと、いいな」


 「そうだとも。そろそろ、行こうか」


 私は彼女を促して立ち上がらせると、ティッシュを持って、階段を下りて行った。誰かと会うのを恐れる気持ちは、もう欠片も無かった。


 校舎の出入口のすぐ脇に小さな花壇がある。校舎からあまり距離が離れていないので、私は、思い切って上履きのまま校庭に出た。彼女は、一瞬、躊躇したようだったが、すぐに意を決して、私の後に続いた。


 私は、花壇の付近に石やコンクリートの破片が無いかと見回してみたが、それらしいものは見当たらなかった。


 花壇は昨夜の雨で土が湿っていたので、手を傷つけることもあるまいと思い、私は素手で土を掘りはじめた。


 「手、汚れますよ」


 「あとで洗えば雑作ぞうさも無いこと。一度広まった悪評を拭い去るほうが、何倍も難しい」


 彼女も私に倣って土を素手で掘り始めた。


 「悪評が立っているんですか?」


 「君は知らないようだな。ま、いずれ、わかることだ。半分は、私の身から出た錆、によるものだがな。自業自得というものだ」


 「私、噂とかにあまり興味なくて・・・自分がこの眼で見たことだけが真実だと思うから・・・」


 「変わってるな、君は」


 「あなたほどではありませんよ」


 「よく言ってくれるな。ま、事実、私は人の何倍も変わっているが、な」


 私たちは蝶を手厚く弔うと、そのまま校庭の隅の水道の蛇口で手を洗った。


 「じゃあ、ここで別れよう」


 私が手をハンカチで拭きながら告げると、彼女は少し驚いたようだった。


 「校舎に戻らないんですか?」


 「私は、ここで少し時間を潰してから、教室に戻ることにするよ」


 「どうしてですか? 一緒に戻れば良いじゃないですか!」


 「君は、さっきの更衣室あたりに用事があったんだろ? 私は、4年生の教室に戻るから、行き先は自ずから別方向だ」


 「確かに、部活のあと、更衣室に忘れ物をしちゃって、私だけ取りに戻ってきたんです。でも、4年生の教室と更衣室は途中までは同じ方向ですよね?」


 「私と一緒だと、君に迷惑が掛かる。さあ、行ってくれないか。私は、これ以上、誰かを巻き込む気はさらさら無いんだ。だから、わかって欲しい」


 彼女は、怪訝な顔で、しばらくじっと私を見つめていたが、やがて、「わかりました。では、失礼します」と頭を下げると、校舎の出入口に向かって歩き出していった。


 出入口に入る直前、彼女は一度だけ私を振り向いて、深々と頭を下げた。


 そのあまりに実直な様子に、私は思わず微笑みながら、軽く頷いた。

職場の納涼会で、飲めないお酒を飲まされて、気分が悪くなって、帰宅してから、しばらく横になっていた来宮です。。。。


前話にありがたいご感想を頂いたにも関わらず、この本文のアップだけで力尽きてしまいました。明日、帰宅しましたら、必ずコメントのお返事を書かせて頂きますので、どうかお許しください。


明日、休みたいよう。。。。

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