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ダブル・スタンダード  作者: 仁科三斗
第一章 目覚め
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不機嫌な少女

 俺が入れられたのは、女性用のトイレだった。


 論理的に考えれば当然だが、やはり室内に小便器がひとつも無い光景には、非常に違和感を感じる。さらに「非常にいけないことをしている」という背徳感と、あまりに非日常的な初体験に、当惑しつつも、胸の鼓動が速くなるのを嫌でも実感する。


 何かとんでもない間違い、勘違い、取り違えが起こって、俺は女性用トイレに入れられてしまった。このまま相手の錯誤に乗じて、女性用トイレに入ったままだと、仮に後から女性がトイレに入ってきた場合、確実に騒ぎになる。

 最悪の場合、覗き、あるいは盗撮目的の犯罪者として、俺は南関東州迷惑防止条例違反で摘発されることになりかねない。それは、人生の破局を意味する。


 何の躊躇も無く俺を女性用トイレに押し込んだ看護婦は、当然のように自分もトイレに入ってきて、個室のドアを開け、俺が入るのを待っている。


 「あの、私、本当にここに入っても良いんですか? ここ、女性用だと思うんですけど・・・」


 俺は「困った笑顔」を彼女に向け、「やはり、まずいですよねぇ。あなた、何か誤解されていますよねぇ」というニュアンスを濃厚に示してみた。

 

 「え、なんで? だから、女性用でしょ? ああ、私が待ってると、聞こえちゃうから嫌なのね。じゃ、外で待ってるから、終わったら、少し大きな声で呼んでね」


 (いや、音が聞こえるとか聞こえないとかいう次元の問題じゃなくてね・・・)


 看護婦が気を利かしてトイレの外に出てしまったので、俺は仕方なく個室に入った。右足は包帯で巻かれており、パジャマのズボン部分は右足だけ太腿から下がカットされている。とりあえず、便座に腰掛けて、体勢を安定させてから、ズボンを下ろした。


 怪我の治療の際に衛生上の観点から、脛毛を剃ってしまったらしく、包帯の巻かれていない左足には、まったく脛毛が見られなかった。自分の足なのに、妙に艶めかしくて、俺は不意に赤面してしまった。


 ズボンの下には、あの恐るべき大人用おむつが装着されていた。


 (とうとう、こういうもののお世話になってしまったか・・・)


 なんとも言えない寂寥感が心の中で吹きすさんだが、すぐに次の恐るべき問題に気がついて、俺は眉をひそめた。


 (もしかして、寝ている間に、おむつの中で用を足してしまっていたら・・・)


 考えるだけでも恐ろしい屈辱的な空想に、さすがに身が震えた。赤ちゃんは、羞恥心を持ち合わせていないから、おむつの中で用を足しても、水分がおむつに吸着されてしまえば快適なわけで、おむつ替えのときにも、にこにこ笑顔でいられるのだ。


 しかし、大人は違う。自分の「事後」を目の当たりにさせられれば、誰しも非常に複雑な心境になるというものだ。用を足した後、トイレットペーパーで拭くとき、それが自分由来のものであるという意識を意図的に持たないようにしているのは、一種の自己防衛本能によるものだろう。


 俺は、年甲斐もなく手を震わせながら、おむつを留めている紙製のマジックテープをペリペリと外した。そして、無残な光景が展開されていないことを祈りつつ、おむつをゆっくりと開いた。


 そこには、自分の「事後」など遥か彼方に吹き飛んでしまうほど、衝撃的な「現実」があった。


 端的に言えば、自分の局部が通常と大きく異なっていた。俺は女性経験もそれなりにあるし、結婚もしている。いまさら、女性の局部を見たとしても、恥ずかしいという気持ちはあるものの、正視できないほどではない、はずだ。


 しかし、自分の局部が女性仕様になっているのを見るのは、また別の話だ。体温が急激に下がり、指の先が冷たくなっていくのを感じた。血の気が引く、というのは、こういう状態を指すのだろうか。


 何が自分に起こっているのか、まったく理解できなかった。


 誰かの悪い冗談で、フェイクの局部が装着されていて、それを見て俺が驚愕しているのを、どこかでこっそり撮影しているんじゃないか、とすら思った。いきなり目の前に突き付けられた現実は、どうしても俺には受け入れられなかった。


 しかし、恐る恐る指で触れてみると、明らかに自分の皮膚としての感覚が伝わってきた。その瞬間、俺は、はっと気がついて、慌てて自分のパジャマの上着の中に左手を入れた。


 (・・・・ある・・・・)


 数年前から、職場の健康診断の都度、産業医から「少し太り気味」とか「軽度脂肪肝」とか指摘されてはいたが、さすがに手のひらに収まりきれないような胸囲にまでは「成長」していなかった。


 相撲取りの胸がいくら膨らんでいると言っても、それは自ずから女性の胸とは違うものである。俺の今の胸は、明らかに男性のそれではない。 


 半ば放心して、思わず天を仰ぐと同時に、俺は失禁した。腰の下から聞こえてくる水音も、まったく聞き慣れない、「水圧の低い」ものだった。


 (・・・・そんな馬鹿な・・・ネットで流れている都市伝説の「強制女性化」じゃあるまいし・・・・)


 そう思いつつ、それでも急いでパジャマの上着を捲りあげたが、俺の胸の周辺には、怪しい手術痕など、ひとつも無かった。


 何が起こっているのか、まったく見当もつかないまま、ただ自分の身体が女性化したという事実だけを目の当たりにさせられて、俺はしばらく便座に腰掛けたまま、立ち上がることができないでいた。


 (・・・どうしよう・・・こんな身体では、もう職場に出勤できないかもしれない・・・いや、医師の診断があれば、性転換は法律で認められていたはず。役所は裁判事案を嫌うから、「マイノリティの権利」を主張すれば、無理やり退職には追い込まれないかも・・・いやいやいや、俺自身の心性はあくまで男なのだから、医師の診断では性転換は認められないだろう・・・どうしたものか・・・)


 こんなときまで、職場のことを最初に考えてしまうのは、さすがに情けなかったが、この歳になってからの失業はあまりに厳しい。解雇されて官舎も追い出され、妻からも見捨てられ、再就職もできず、ホームレスになる、という「転落のフローチャート」が思わず頭の中に浮かんで、俺は身震いした。


 そのとき、ドアがコンコンコンと勢いよくノックされた。


 「大丈夫ですか、吉川きっかわさん? 大丈夫ですか?」


 トイレの外で待っていた看護婦が心配して様子を窺いに来たようだが、俺は、こんな状況下で間違った名前で呼ばれたことを、とにかく不快に感じた。


 (俺は平澤だろ。患者の名前くらい、きちんと覚えろよな。ったくもう・・・)


 「あ、大丈夫です。身体がうまく動かなくて手間取っちゃって・・・」


 さすがに女性用トイレの個室の中から相手の間違いを指摘しても何の意味も無い、と思い、咄嗟に俺はその場を言い繕ったが、今日初めて出した比較的大きな声に、なにがしかの違和感を感じた。どこが違うのかはわからないが、何かが確実に違う。


 これ以上、看護婦を個室の外で待たせるわけにもいかず、俺は急いでトイレットペーパーで局部を拭いたが、慣れていないせいか、強く押し付け過ぎたらしく、ペーパーがちぎれて局部に張り付き、なかなか取れなくて、さらにイライラさせられることになった。


 大人用おむつを再び着用することで、惨めさと不安感と焦燥感が混然一体となって高まり、パジャマのズボンを履き、トイレの水を流して個室を出た時には、俺はこの世の憂鬱を一手に取り集めたかのような暗澹たる気持ちになっていた。


 再び看護婦に肩を貸してもらい、トイレの洗面台まで辿り着いて、蛇口の下に手を伸ばすと、温水が自動的に蛇口から噴き出してきた。洗った手を温風乾燥機に近づけて乾かし終えた時、俺はふと洗面台の上に貼られている鏡を眺めた。


 鏡の中では、ひどく不機嫌な顔の少女が真っ直ぐ俺を睨みつけていた。

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