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ダブル・スタンダード  作者: 仁科三斗
第三章 私の居場所
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敵役

「敵役」と書いて、「カタキヤク」と読みます。

 6月も第三週に入ると、梅雨も真っ盛りとなる。


 この数年、6月に台風が本土に上陸することが珍しくなくなっているが、今年も台風5号が九州から四国、東海、関東、東北と、日本をほぼ縦断し、各地で豪雨による被害が相次いだ。とくに山間部の傾斜地で、山の頂上付近から大規模な地滑りが始まる「深層崩壊」が随所で観測され、いわゆる「限界集落」で大きな被害が出ていた。


 私が役人だったときにも、政府部内でこの問題が取り上げられており、補助金を出して、山間部の限界集落を中核都市に丸ごと移転させる「コンパクト・シティ計画」が検討されていた。急速な高齢化と地方財政の悪化が同時並行的に進む状況下では、地方政府は、もはや周縁部の限界集落の維持・保全まで手が回らなくなっている。


 山間部の小集落については、上下水道の更新時に、もはや管路を取り払って、給水車による水道水の定期配水や、浄化槽や浸透桝による汚水処理に切り替える事例も増えてきている。地方政府の財政状態の悪化から、こうした小集落のインフラ更新にかける費用が、もはや捻出できなくなっているのだ。


 しかし、実際に甚大な被害に遭って悲劇に直面するまで、人は、自分にとって都合の悪いことを考えようとせず、「自分のところは大丈夫」という根拠無き見通しに縋りがちなのだ。

 そのうえ、限界集落の住人は高齢者が多く、彼らは、都市部に移転して新しい環境に適応できるか、非常に不安に思っており、「ここで山崩れで最期を遂げても本望だから、先祖伝来の土地から移転したくない」と言い出してしまう。こうした反対論の続出で、この計画は事実上、頓挫してしまっている。

 

 今回の台風では、河川の堤防決壊こそ無かったものの、荒川をはじめとする一級河川で、水が堤防を越えて溢れだすケースが幾つか発生していた。


 テレビのニュースでは、今年3月に発覚した荒川破堤テロ計画が、この台風のさなかに実行されていたとしたら、東京都心や上野以東で甚大な被害が出たであろう、と、繰り返し報道し、改めて「身命を賭して東京を救った英雄・平澤洋一」を顕彰していた。


 夕食の食卓で、そのニュースを聴きながら、私は非常に複雑な思いだった。この計画を発覚に導いたUSBの問題について、私は、いまだに解明の糸口すら掴めていない。

 今は学校生活に慣れることが最優先とはいえ、私の代わりに消えていった理紗のことを考え、そして、テーブルの向かい側で食事を摂っている母親の顔を眺めると、とても平常心ではいられなかった。

 

 さらに、最近、気になっていることが、もうひとつある。


 私が寝ぼけているだけかもしれないが、時折、明け方、誰かが私のベッドの近くまで入ってきているような感じがするのだ。もちろん、目が覚めると、誰も部屋にはいないし、部屋の扉や窓の施錠も解かれていない。


 私は、幽霊とか妖怪といった類のものは全く信じていない。これらは人の創造物であり、社会の倫理維持に一定の役割を果たしているものの、その実態は存在しない。

 従って、私の部屋に入ってきているものは、こうした幽霊などの類ではなく、生きた人間か、あるいは、私の被害妄想のどちらかだ。施錠が解かれていないことから考えると、私の被害妄想である可能性が高い。おそらく、まだ学校生活に完全には慣れておらず、気付かないうちにストレスが溜まっているのだろう。


 今朝も、人の気配を感じて目が覚めた。登校時間より著しく早い時間に目が覚めるので、必然的に睡眠時間が短くなり、寝不足気味で気分が盛り上がらないまま、一日を過ごすことになる。そして、そのことを予想するだけで、早くも私は憂鬱な気分になった。


 (・・・あと少しだけでも寝ておこう・・・)


 完全に寝てしまうと遅刻しかねないので、目を閉じて横になる程度にとどめざるをえないが、全く寝ないよりはマシである。私は再びベッドに戻ると目を閉じた。階下から、妹の「行ってきます」という声と玄関の扉が閉まる音が聞こえる。


 (・・・夏休みになったら、綾乃と一緒に、一日中、ずっとこの家で過ごすことになるのか・・・。たまらないなぁ・・・。なんとかして「家から離れる時間」を作る算段を考えないといけないな。なんか部活でも入ってみるか・・・)


 ベッドの中で、コロンと寝返りを打って、窓のほうを眺めてみると、カーテンの隙間から、もう夏の強い日差しが差し込んできていた。



 ようやく少しだけまどろんだところで、枕元に置いたスマホのアラームが鳴り、私は、恨めしい気分のまま、ベッドから離れた。


 浴室でシャワーを浴びると、少しだけ意識がはっきりしたように感じた。昨日から、ひんやりと感じる夏用シャンプーに替えたのが効を奏したのかもしれない。


 ダイニングルームで朝食を取り、父親から読み終えた経済新聞を受け取る。当初は、おそらく、私がきちんと新聞を読んでいるのか、あるいは、正しく内容を理解しているのか、を試す目的から、この新聞授受の際に父親が幾つか質問してくることがあったが、いずれも、私にとっては難なく回答できる程度の内容だったので、最近では、父親も安心したらしく、質問を控えるようになっている。


 今朝も、質問は無いだろう、と思って、洗面所に歯磨きに向かおうとすると、父親から呼び止められた。


 「最近、少し原油価格が上がっているな。何が原因だと思うか?」


 私は、立ち止まって腕組みをしながら少しだけ考えると、食卓についている父親の顔を見下ろした。


 「うーん、原因はいろいろと考えられるけれど、一番大きなものは、南沙諸島での中国とベトナム・フィリピン連合軍の軍事衝突だと思うね。ベトナム沖の石油掘削も一時停止に追い込まれているし、なによりも周辺海域が戦争海域に指定されたから、タンカーが航行できなくなって、東アジアでの原油需給が逼迫してきているからね。でも、天然ガスを中心に、世界的にエネルギー供給が増えているから、この原油価格の上昇は一時的なものに終わると思うなぁ。ユーロエリアの景気が本格回復しないと、原油価格は力強く上がらないよ」


 私の回答を聴き終わると、父親は母親と満足そうに顔を見合わせた。


 「じゃ、学校に遅れるから、私、歯磨いてくる」


 さらに追加質問を受けると面倒なので、私は素早くダイニングルームを出たが、部屋から出た直後に、母親が父親と話している内容のほんの一部が耳に入ったので、一瞬だけ足を止めた。


 「前よりずっとしっかりしてきて、先が楽しみね」


 「災い転じて、という言葉があるが、本当にそうかもしれんな」


 「今じゃ、綾乃よりも成績が良くなったし、あと心配なのは記憶だけね」


 (理紗は、よほど両親から心配されていたんだろうな。しっかり者で成績優秀な妹といつも比較されて、さぞ、しんどかっただろうな。気の毒に・・・)


 私は、理紗を不憫に思いながら、洗面所に向かった。



 身支度を整えて、玄関を出ると、外は台風一過の青空で、目が痛いほどの陽射しで輝いていた。早速、日傘を差して代々木八幡駅に向かい、小田急線の電車に乗った。いつもながらの超満員状態で、ぐったりしたが、すぐに新宿駅に着くので、なんとか我慢できる。


 参宮橋駅の近くの乗馬クラブでは、こんなに朝早くから、もう馬を走らせている人がいる。背筋を伸ばした美しい騎乗姿勢に見とれたが、残念ながら、理紗の運動神経は、私よりは良いものの、人並みでしかないので、私には馬術などは到底無理だろう。


 新宿で中央線に乗り換えて、代々木の次が千駄ヶ谷だ。駅前の横断歩道では、同じ制服の少女たちが日傘を差して所狭しと佇んで、信号が変わるのを今や遅しと待っている。


 私も、その集団の中に加わって、ぼんやりと国立競技場の方を眺めていたが、信号がようやく変わったので、歩き出そうとした。


 その瞬間、私の日傘の後ろに、コツッと誰かの傘が当たった。


 狭い場所に生徒が密集するので、この場所では、時折、傘の接触「事故」が起こる。大して珍しくもないことなので、言い争いに発展したりすることは無く、通常は、「あ、ごめんなさい」、「いいええ」という、ごく短い遣り取りで、事案は容易に解決する。


 私も、傘が当たったくらいで機嫌を損ねる理由など何も無かったので、とくに表情を変えないまま、ゆっくりと後ろを振り返った。


 「も、申し訳ありませんっっ。決してわざとじゃないんです! 本当にごめんなさい!」


 私に傘を当ててしまったのは、どうやら後輩らしかった。後輩たちの間で有名な、あの「ワンコ」に傘をぶつけてしまい、可哀相なほど狼狽して、血の気の引いた顔で何度も頭を下げ、その子の友達までも一緒に「申し訳ありません」と頭を下げ始めた。


 あまりに必死に謝罪されるので、私は咄嗟にどう言葉を掛ければよいかわからず、困惑した表情のまま、黙ってしまったが、相手には私が憤っているように見えたらしく、さらに震えあがって、顔面蒼白で半泣きに近い表情で、「ごめんなさいっ」を連発している。


  横断歩道の直前で立ち止まっているので、脇を通り過ぎるたくさんの生徒たちがこの光景を眺めることになり、「何、どうしたの?」、「傘が当たっちゃったんだって」、「そんなことで怒らなくたっていいのに」という声が洩れ始めている。

 

 (なんだよ、これじゃ、まるで私が後輩に因縁をつけてるみたいじゃないか。勘弁してくれよ)


 こういうとき、にっこりと微笑んで、「いいのよ。心配しないでね」などと優しく声を掛けることができれば、先輩として実に理想的なのだが、生憎、私はこうした予想外の突発イベントに遭遇すると、まず臨機応変な対応ができず、硬い表情のままで固まってしまうのが常である。そのうえ、今日は、寝不足で、頭がうまく機能していない。


 それでも、「このままではさすがにまずい」と思い、ようやく声を絞り出そうとしたとき、人垣の後ろから、誰かが声を掛けた。


 「どうしたの? こんなところで立ち止まって、他の人たちの迷惑になるわよ」


 人垣を作っていた生徒たちは、後ろを振り向くや否や、一斉にさあっと左右に分かれて道を開け、私と後輩、そして、彼女、すなわち生徒会長の毛利七海が、真っ直ぐ向き合うことになった。

 

 私に傘を当ててしまった後輩は、先輩の「ワンコ」に粗相をして怒らせてしまっただけでなく、畏れ多い生徒会長まで登場してしまい、もはや生きた心地もしないようで、ぶるぶると小刻みに震えている。 


 「わ、私が、せ、先輩に、か、傘を当ててしまいましてっ・・・」


 緊張のあまり、上ずった声で話し始める後輩を、そっと優しく片手で制しつつ、毛利は私を真っ直ぐに見つめた。


 「で、あなたは、後輩の粗相を怒っている、というわけなのかしら?」


 怯えきっている後輩を宥める必要もあってか、毛利は、表情こそ変えないものの、やや厳しい口調で私を質した。つい先ほどまでざわめいていた生徒たちは、今やしんと静まり返って、この光景を眺めている。傘に当たる風の音と車のエンジン音だけが、この場に響いている。


 私が後輩の些細な失態を咎める狭量な人物であるかのような毛利の言葉は、どうしても看過できなかった。ただ、あくまで冷静な毛利を前にして、怒りで取り乱すのは、まるで彼女の言葉を肯定しているかのようにも思えた。


 「・・・怒ってなど、おりません・・・咄嗟のことで、声が出なかっただけです・・・それが私の落ち度であるとおっしゃりたいのでしたら、甘んじてお受けします・・・遅れますので、ほかにおっしゃりたいことがおありでしたら、いつでも学校でお聴きします。では、失礼します」


 私は、毛利の目を真っ直ぐ見つめ返しながら、まったく感情を込めない声で答えると、くるりと背を向けた。私の後ろで、固唾を呑んで事態の推移を眺めていた生徒たちが、慌てて左右に分かれて、私に道を譲った。


 横断歩道の信号は既に2回ほど変わっており、今また、青信号が点滅を始めている。 


 毛利や生徒たちの視線を背中に感じながら、私は、背筋を伸ばして真っ直ぐ前を見つめながら、ゆっくりと横断歩道を歩き出した。誰も、私の後ろを歩いて来ようとしなかった。


 横断歩道を渡り終える直前に信号が赤に変わったが、私はそのままゆっくりと歩いて、横断歩道を渡りきった。信号待ちしていた車がクラクションを鳴らしたが、威嚇に過ぎないのは火を見るより明らかだったので、私は全く動じなかった。


 道路を挟んで私をじっと見つめている毛利と、ようやくざわめき始めた生徒たちの姿が、視界の隅にちらりと見えたが、私は顔を向けることも無いまま、学校に向けて歩いていった。


 (・・・またやってしまったか・・・しかし、今回は私に何の落ち度もない。むしろ、私は被害者なんだ。それなのに、私を咎めるような言い方をした彼女にも、大きな責任があるはずだ。だから、彼女が私に直接、手出ししてくることはないだろう。ただ、私は、また、生徒たちの評判を落としただろうな・・・なんせ、「後輩を庇う憧れの生徒会長さま」に正面切って盾ついたんだからな。やれやれ、まったく、つまらないことに巻き込まれたものだ・・・もう朝からうんざりだ・・・)


 ただでさえ、さして楽しくも無い学校生活が、さらにもっと面白くなくなりそうな予感を感じて、私は歩きながら、天を仰いだ。


 抜けるように澄んだ青空が、ちょっとだけ、悲しかった。

今回のお話は、自分に非が無いのに誤解を受けてしまう、という内容で、ちょっと切ないですね。


普段から愛想良くしていれば、こんな誤解を受けることもないのでしょうが・・・。


生徒会長は、今後、理紗に対して、どのような態度に出てくるのでしょうか?

乞うご期待です!

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