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ダブル・スタンダード  作者: 仁科三斗
第三章 私の居場所
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禅問答

 広尾の有栖川宮記念公園の中にある東京市立中央図書館は、さすがに蔵書が豊富だった。私の探している経済や国際関係の専門書も多く、久しぶりに充実した時間を過ごすことができた。


 ただ、母親に見つかった場合に説明が面倒なので、本を借りて帰ることができず、その場で斜め読みしなければならず、その点は残念だった。


 実は、もうひとつ残念だったことがある。


 図書館内には、ここから少し離れた場所にある名門女子校の生徒の姿が多くみられた。セーラー服の線の色に特徴があるので、私にもすぐにわかり、「最近の高校生も、実は意外と勉強熱心なんだな」と感心していたが、帰りに通り掛かってみたら、どうやらすぐ近所の男子校の生徒との待ち合わせのために利用しているらしい、という事実が判明した。


 別に彼女たちがどのような用途で図書館を使おうが、他の利用者の迷惑にならない限りは何ら問題はない。実際に彼女たちはマナーをよく守って静かに利用しているので、何ら非の打ちどころは無かったが、学生時代にそうした「名門校の彼女との待ち合わせ」に図書館を利用した経験など無い私には、とにかく無性に不愉快に感じられた。これは、言うまでもなく、嫉妬であろう。


 (・・・それこそ、大人げないな・・・。取り敢えず、うちに帰って、さっさと夕食でも食べよう・・・)


 「同じ空間で同じ時間を共有しているだけで幸せ」的オーラを醸し出している図書館デートの高校生たちを一瞥しながら、私は、平静を装いつつ、図書館を出た。


 (デートするんだったら、金のかからない図書館とかじゃなくて、カフェとかに連れてってやれよな。それくらいするのが、男の甲斐性なんじゃないのか・・・)


 明らかに見当違いの文句を心の中で呟きながら、公園内を歩いていったところ、来訪時に通ったところとは異なる出口に着いてしまった。人間、冷静さを失うと、本当にろくなことにならない。


 (まあ、どの出口を出たって、公園の外周に沿って坂道を下っていけば、最終的には広尾の駅前に出るから、とくに問題はないな。さて、そろそろ日傘でも差すか)


 折り畳み式の日傘を取り出そうとしてカバンを開けたとき、出口のすぐ外の道を、見慣れた制服の少女が通り過ぎた。


 (あ、あれ、うちの制服だ。ほう、このあたりから通っている子もいるんだな)


 単なる興味本位で、公園の出口から顔だけ覗かせて少女の後ろ姿を眺めていたところ、何か気配を感じたのか、不意に少女が立ち止まった。


 別に逃げ隠れする理由は何も無かったが、私は反射的に首を引っ込めて、公園の出口脇の石柱の陰に身を隠してしまった。私の視界が石柱に遮られる前の一瞬、こちらを振り向こうとしている少女の横顔が見えた。


 (あれ、赤松じゃないか!? へえ、あいつ、この辺りに住んでるんだ。それにしても、こんな姿を見られてたら、学校から尾行してきたんじゃないかって疑われるところだったな)


 私は、身じろぎもせず、息を殺したまま、石柱の陰で立ち尽くしていた。時間にすると1分も経っていないはずなのに、私には5分間も過ぎたかのように感じられた。やがて、遠ざかっていく小さな足音が聞こえ始めたので、私は、ほっと安堵して、そうっと石柱から顔を出してみた。


 赤松と思われる少女は、いつものように背筋を伸ばしてアスファルトの舗道をゆっくりと遠ざかっていき、100メートルほど離れたところで右折して、坂を下っていった。

 

 (君子危うきに近寄らず。さて、私も帰るとするか)


 私は日傘をカバンから出す作業に復帰しようとしたが、そのときになって、私のすぐ後ろで、他校の生徒数名が立ち止まって、不審そうに私を凝視しているのに気付いた。確かに物陰に隠れて外の様子を窺っている女子高生の姿は、尋常なものではない。


 「ええと、日傘、日傘っと」


 私はその場を取り繕うように慌てて声を出すと、取り敢えず公園の出口から外の道に歩み出した。


 私が歩き出したのを見て、ようやく後ろの生徒たちも外の道に出てきて、広尾駅の方に向かって南部坂を下りはじめた。


 (あ、しまった! このままじゃ、彼女たちの後ろを歩くことになってしまう。また不審がられるかもしれないぞ、これは)


 案の定、彼女たちは、私から遠ざかりつつも、時折、後ろを振り返って、私の様子をそれとなく観察している。


 (まずいなあ、これじゃ、広尾駅の方には行けないよ。しょうがない。ちょっとの間、その辺をぐるっと歩いて時間を潰して、あの子たちが完全にいなくなってから、広尾駅の方に向かうとするか。まあ、赤松が行ってしまってから少し時間が経っているし、よもや鉢合わせすることも無かろう)


 私は、彼女たちの進行方向とは逆に、つまり赤松の歩いて行ったのと同じ方角に向けて歩き出した。


 万一、赤松に追いついてしまうと最悪なことになりそうなので、私は意図的にゆっくりと住宅街の中の道を歩いていった。

 赤松が右折して下って行った、その坂の上に立ってみると、麻布台から古川に向けて下っていく緩やかな傾斜地にマンションが立ち並び、その合間に、木立に囲まれた寺院らしい建物の屋根が幾つも点在していた。


 (ああ、ここは南麻布、四の橋のあたりか。坂の下の交通量の多い道路は明治通りだろう。このあたりの傾斜地は、おそらく古川が長い時間をかけて浸食して作った谷なんだろうな)


 図書館に行く前、念のために自宅のパソコンで周辺の地図を確認しておいたので、私は、だいたいの位置関係を頭の中で推測できた。


 坂の上から、眼下に広がる景色を眺めていると、このまますぐに踵を返してしまうのが、多少惜しく思えてきた。そして、坂道の先には、もう既に赤松の姿はなかった。


 (まあ、ちょっとだけなら、坂を下りて行っても問題ないだろう。すぐに引き返せばいいんだ)


 それでも、私は、用心深く辺りを窺いながら、人影の無い坂道をゆっくりと下り始めた。


 麻布の高台から谷に向かって吹き下ろしていくそよ風が心地よい。背筋を伸ばし、日傘を差し掛けて、のんびりと坂を下っていると、まるでタイムスリップして、明治時代の女学生になったような気がした。


 (そろそろ引き返すか。いや、もうちょっとだけ歩いて、あのお寺の門の前まで行ってみよう)


 私は、坂道の途中に見える寺院の門まで足を伸ばしてみることにした。正直なところ、この贅沢な独りだけの時間を手放すのが、ひどく惜しくなっていたのだ。


 (この辺りの寺は、江戸時代から続いているところが多いと聞いている。ここも、そうした由緒を持つ寺院のひとつかもしれないな)

 

 制服を着たまま寺院に立ち入るのは、さすがに気が引けたので、私は、日傘を閉じて、門の前から境内を眺めるだけにとどめることにした。寺院の境内は、門から本堂または庫裏と思われる建物までの間、石畳と玉砂利が敷かれ、塵ひとつ無く掃き清められた石畳には打ち水がされてあった。


 (決して大きくはないけど、きちんと手入れがされている寺だな)


 境内には、石燈籠などの装飾物は何もなく、背丈のあまり高くない松が数本、玉砂利の間に植えられていた。そうした簡素で質実な佇まいは、住人の気質を表しているような気がした。


 (あまり覗いていると、さっきみたいに不審者と間違えられかねないからな。そろそろ退散しよう)


 私は、そっと門に背を向け、坂道を上り始めようとした。


 「そうか、やめるのか」


 しわがれた低い声が耳に届いた。呼び止められたのかと思い、私は、びくっとして、足を止めた。

 

 「・・・うん・・・。もう剣道やってる理由がわからなくなったんだ・・・。私にとって、剣は何のためのものなんだろう。自分の身体からだを鍛えるためだけのものだとしたら、それはボディビルと大して変わらないんじゃないの? では、試合で勝つためのものなの? あるいは、楽しむための娯楽や趣味なの? どちらにしても、それは、結局、自己満足に過ぎないんじゃないの?」


 間違いなく、この声は赤松のものだ。おそらく、寺院の塀を挟んで、向こう側にいるようだ。先ほど私が門の外から覗き込んだとき、ちょうど死角になっていた場所だ。


 教師の質問に答える場合を除いて、赤松が誰かと話す声を、私は初めて聴いた。


 私は、どうしても自分の好奇心にあらがえず、足音を忍ばせて寺院の塀にぴったりと身を寄せた。


 「自分から言い出して始めたことなのに、勝手に投げ出して、ごめんなさい・・・。でも、このまま惰性で続けていくのは、どうしても、私にはできないんだ・・・。おじいちゃん、わがまま言って、ごめんなさい・・・・」


 「私に詫びる必要など無いさ。自分が納得できないなら、しばらく離れてみるのもよかろうて。迷いがあるまま竹刀を振り続ければ、いつか怪我をすることになる。お前はまだ若い。私と違って、考える時間は、まだまだ、たくさんある。得心するまで考えてみるといい。ただし、答えを見つけようとしてはいかん」


 「意味がよくわからないよ」


 「そう簡単にわかられてたまるか。私だって、若いころに何年も掛かって、ようやく悟ったんだからな。それが臨済禅というものだ。まあ、祐一郎は、今に至るまで、何もわかっていないようだがの」


 「だから、お父さんはお寺を継がなかったの?」


 「そういうことになるな。しかし、瑠花、お前は、おそらくわかるようになるだろうな。お前は、幼い時分から、私と通じる何かを持っているからな」


 「でも、私、ミッションスクールに通ってるんだよ。臨済宗とは全然違う環境だし・・・」


 「教会と寺、何の違いがあろうや。人を幸せにするのが宗教の目的というものじゃて。宗教や宗派の違いは、所詮、方法論の違いに過ぎん。しかし、人は、その方法論の違いに執着し、あるいは安住し、それが束縛となって、自由を失う」


 「よくわからないよ。私、お父さんと大して変わらない凡人だし・・・」


 「はっはっは、安心せい、凡人大いに結構! 私は、お前にこの寺を継いでもらおうなどとは思ってないわ。ただ、何事も執着し過ぎれば、大局が見えなくなり、道を踏み誤る。それだけは覚えておきなさい。ところで、剣道を辞めるということは、インターハイも諦めるということになるが、先生方には早く話しておかないと、迷惑がかかるぞ。お前たちの話では、学校の先生方は、かなり期待していらっしゃるようだったからな」  


 「うん、そうだね・・・。今は、休み時間も放課後も、剣道場を自由に使わせてもらってるよ。剣道部は、部員がいなくなって2年前に廃部になってるから、私、道場を使い放題だし・・・。それに、騒々しい教室にいるよりも、遥かに居心地が良いしね。私の周りの子たちは、今、この瞬間の自分の楽しいことだけしか考えてないよ。私は、そういう浮わついた刹那的な生き方、好きじゃないから、みんなと話が合わないんだ・・・」


 「それでは、瑠花は、今、自分が何をするべきだと思うのかね?」


 「・・・わからないよ・・・。でも、自分が楽しいこと以外にも、考えなきゃいけないことはあるはずなんだよ、きっと・・・。具体的にそれが何なのか、今はまだ、わからないけど・・・」


 赤松の不可解な行動の謎が、少しずつ解けていく。


 息をするのも忘れたかのように、身じろぎもせず、私は、ただ塀際に立ち尽くしていた。

いよいよ、「不機嫌姫」の素性が少しずつ明らかになっていきます。


今回のお話の舞台となっている南麻布は、私が学生時代によく足を伸ばしたところです。南麻布は、私の高校からはかなり遠かったのですが、自宅への帰宅ルートの中間ぐらいに当たっていたので、途中下車して、定期試験の前には、この図書館をよく利用しました。図書館での高校生たちの光景は、そのときの記憶から描写しています。もっとも、誰かと待ち合わせるために利用したことは一度もありませんでしたが(笑)

ちなみに、ここに出てくる南麻布周辺の高校は、私の通っていたところではありません。私は、そんなに優秀ではなかったので(苦笑)


昨日アップしたお話について、複数の読者の方から、ご評価を頂きました。非常に嬉しく、ありがたく思っております!! この場をお借りしまして、御礼を申し述べさせていただきます。本当にありがとうございました。


ご評価、どうぞ何卒よろしくお願い申し上げます。

私も、頑張って、書き進めてまいります!!


 きのみや 拝

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