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ダブル・スタンダード  作者: 仁科三斗
第三章 私の居場所
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体積のある空気

 生徒たちの好奇心と期待に満ち溢れた視線が私に集中する。


 ただでさえ、中高一貫校の高校一年、この学校の呼び方では4年生に編入生が入ってくることは希有なのだ。

 そのうえ、一学期の授業開始から約1か月間も登校してこなかったわけだから、彼女たちの間では、「まだ見ぬクラスメート」について、いろいろな噂や憶測が流れていたことは、想像に難くない。


 これまでに役所の会合などで説明に立つ機会は頻繁にあったが、自分の話そうとしている内容がこれほどまでに聴衆から期待されていることはあまり無かった。


 さらに、大人と少女の違いは、おそらく「感情の振幅の大きさ」なのだろう。「大人の期待」と「少女の期待」では、圧倒的に後者の方が放射エネルギーが大きいように感じる。一般的に、「大人になると感情の起伏が少なくなり、感動も減る」と言われるが、まさに今、それを私は強く実感している。


 今、私の前の少女たちは、おそらく最大限に感情のボルテージを上げているのだろう。大人相手に話すときと比べて、信じられないほどプレッシャーが強い。


 「体積を持った空気の塊」のようなものに、正面から身体をぐいぐいと押されていくような感覚にさいなままれる。

 

 (相手は、私より25歳近く年下なんだ。私のほうが人生経験は遥かに豊富で、「窮地の場数」も明らかに多く踏んでいる。一体、何を恐れることがあるって言うんだ。横綱と子供力士の対戦みたいなものじゃないか!)


 それでも、私は、電子黒板の前で立ちすくんだまま、なかなか口を開くことができなかった。脇の下から、冷たい汗が噴き出してくるのがわかる。固く握った拳の中でも、湿度が確実に増している。足も膝の辺りが少し細かく震えている。少女たち相手に、あまりに情けない体たらくだ。


 (このままでは、先に進めない。とにかく、体勢を立て直さねば・・・・)


 私は、一旦、目を閉じると、何も考えないようにして、深呼吸した。


 (えい、ままよ、どうとでもなれ! ここで失敗しようが、命まで取られるわけじゃなし! ドーンと行こうや!)


 私は、静かに目を開けると、なるべく生徒たちの顔を直視しないよう、最前列の机の上に視線を当てるようにして話し始めた。


 「はじめまして。吉川理紗と申します。4年生になって、この学校に編入してまいりました。事情があって、新学期の始めから今日まで登校できませんでしたが、やっと学校に来ることができるようになりました。その事情というのは・・・」


 (このたちは、記憶喪失の話をどう感じて、自分たちの中で、私をどのように位置付けるんだろう・・・)


 そう思った瞬間、急に舌がもつれた。正確には、もつれた、というより、痺れた感覚だった。声も出なくなった。息が止まるような感覚だった。


 動転した拍子に、つい視線を上げてしまい、教室全体が視野に入った。


 生徒たちは、私の次の言葉を待って、まるで息をするのも忘れたかのように、じっと私の顔を見つめていた。


 言わなければならないことはわかっていた。何をどのように言うのか、も、昨晩、何度も自室で練習したはずだった。


 それなのに、身体が言うことをきかなかった。焦れば焦るほど、身体が硬くなり、身動きもままならない。


 (と、取り敢えず、今日のところは、この程度にしておいて、記憶喪失の件は、また後日に・・・・別に、今に今、言わなきゃいけないことでもないんだし・・・・)


 私は、あっけなく意思を萎えさせて、救いを求めるような眼差しで、発作的に担任教師の方を見てしまった。


 私の窮状を心配そうに眺めていた教師は、憐れむような眼差しで、「もう、いいから、ね」と言うかのように、私に向かって、二、三度、手を軽く振って見せた。


 その憐憫の眼差しを見て、私は、猛烈に不愉快になった。自分の血圧が急に上がって、目がくらむような錯覚さえ感じた。

 

 誰かに憐れまれるのは、絶対に我慢ならなかった。憐れみ、とは、相手から自分の「価値」を低く評価されることに相違ない。仮に、いくら食に窮していたとしても、人から憐れみを施されるくらいなら、路傍で潔く餓死する方を、私は選びたい。


 私にとって、「誇り」とは、命と同じくらい、大切な矜持なのだ。私を私たらしめている、大切な拠り所なのだ。自らの行いのせいとはいえ、その「誇り」に僅かでも傷がつくことは、どうにも我慢ならなかった。


 (どんな結果になっても良いんだ。事実を話して、生徒たちに引かれてしまっても、ここで言わずに尻尾を巻いて引き返すことに比べれば、悪いことにはならない。ここで逃げてしまえば、私は、きっと、これからもずっと逃げ続ける人生を送ることになってしまう・・・・)


 口をつぐんだまま立っている私を案じて、助け船を出そうとして、教師が口を開き掛けた。それだけは、絶対にさせてはならないことだった。もはや一刻の猶予もならなかった。


 「・・・私は、3月4日に交通事故に遭いました。右手と右足を骨折し、そのうえ出血多量で一時的に心臓が止まりました。幸い、病院の方々の適切な処置のおかげで、心臓機能が回復し、骨折も治って歩けるようになって、今、ここにこうして立っています」


 交通事故と心臓停止という話を聴かされて、生徒たちは同情の眼差しに変わった。「骨折」という単語を聴いて、まるで自分が痛い思いをしているかのように、僅かに顔を歪める子もいた。


 「しかし、どうしても回復しなかった機能が、ひとつだけ、あります。私は、事故の時、頭を強く打ったようです。その結果、自分自身と、家族、友達、に関する記憶がすべて消えてしまいました。日常生活や勉強についての記憶は大部分残っているようなので、こうして学校に来ることに支障はないのですが、私は、自分が好きだったもの、大切にしていたもの、家族や友達との思い出、将来なりたかったもの、そして、何よりも、自分は何者なのか、何のために生きるべきなのか、という、生きる手掛かりを、失ってしまいました。お医者さんは、私の記憶が戻るか戻らないか、わからない、と言っています。私は、戻らないかもしれない記憶を、ただ座って待ち続けるのは、嫌です。記憶が戻るのを待つのではなく、私は、ここから新しい記憶を紡いでいきたいと思っています。これから、皆さんと同じクラスで過ごしていくにあたって、皆さんが当然知っていることを私は知らない、というケースが出てくると思いますが、そんなときには、どうかいろいろと教えて頂けると助かります。どうかよろしくお願い申し上げます」


 一旦、口から言葉が零れ始めると、後は練習してきた台詞が流れるように滑り出た。「新しい記憶を作る」というくだりでは、自分でも、声に力がみなぎっているのを強く感じた。


 (あぁ、また、こうして、私は、人を騙している・・・・でも、こうするしか、私がこの環境で生きていく方策は無い・・・それに、理紗の存在を生きがいにしている人たちのためにも、私は、この環境で生き抜かなればいけない・・・この環境にも、そして、自分自身にも、決して負けてはいけないんだ・・・・新しい記憶を作る、というのは、決して嘘ではない・・・・)


 初めて会ったばかりのクラスメートからの、あまりに衝撃的なカミングアウトを聴いて、生徒たちは、一瞬、息を呑んで静まり返った。


 そして、次の瞬間、教室は、文字通り、蜂の巣をつついたかのような騒ぎになった。

 

 目を見開いて友達とただ顔を見合わせている子もいれば、「あれ、ほんとなの?」と私をちらちら見ながら友達と話している子もいる。


 先ほどよりもさらに一段と気の毒そうな表情で私を見つめている子もいれば、教師のすぐ近くの子は、「先生、ほんとなんですか?」と個人的に尋ね始めている。


 肝心の私は、というと、なんとか「大任」を果たせた安堵感に包まれて、驚き騒ぐ同級生たちを観察する余裕さえ生まれていた。「言うべきことはすべて言った。あとは野となれ、山となれ」という、幾分、捨て鉢な気持ちも無くはなかった、

 

 騒然とした教室を眺める間に、私は、二人の生徒の様子にとくに目がとまった。


 教室の真ん中あたりの席に座っている子は、湧き上がる好奇心を隠そうともせず、これから巻き起こるであろう、滅多に経験できない出来事を想像してか、ひたすら目を輝かせている。


 くるくると表情を変える大きな目と、そして、ピンで留めている、少しだけ茶色がかった短めの髪は、厳しい校則の下では、決して染めているわけではないのだろうが、彼女の活発な性格を物語っているように見える。

 実際、彼女の隣席の子たちは、私の話が終わるや否や、すぐに彼女を囲むような形で集まって、私の話題で盛り上がっているようだ。


 (まあ、所詮、他人事だからなぁ・・・・私の記憶喪失の話なんか、彼女たちの無聊を紛らわせる話題のひとつくらいに過ぎないんだろうな・・・)


 窓側の一番後ろの席は空席だった。おそらく、私があそこに座ることになるのだろう。 


 その隣席に座っている子は、まるで私を値踏みするかのような鋭い眼差しで、じっと私を見つめていた。黒く艶やかな長い髪、切れ長の目、整った眉、小さな鼻と口、どれをとっても、確実に美人の範疇に入る。


 私の話を俄かには信じられないのだろうが、まるではなから私の言うことを全て疑ってかかっているような、やや挑戦的な表情は、率直に言って甚だ不快に思えた。


 (一体、なんなんだ、アイツは。人を犯罪者みたいな眼で見て・・・・イチャモンつけたいなら、幾らでも相手になってやる。びた一文、値切らずに、言い値で喧嘩買ってやる)


 私の心の中まで探ろうとするかのように、じっと私を見つめてくる彼女に対して、私は、意図的に全ての感情を消した視線で見つめ返した。そんな私の行動に、彼女は少しだけ驚いた様子を示したが、すぐにまた、今度はさらに厳しい視線で、見つめ返してきた。


 社会人の間では、こうした視線での牽制合戦は決して珍しいものではなく、当然、歳を経た私に一日の長があった。

 

 だんだんと険しさを増す彼女の視線に対して、私は、徹頭徹尾、全く感情を込めない乾いた視線で応じ続けた。


 数秒間の睨み合いの後、彼女は、はっきりと表情を曇らせると、視線を逸らしてしまった。

 

 (なに、他愛のないものだ。そんなに私の話が信じられないなら、信じなければいい。こんな小娘に負ける私ではないが、とりあえず、最初に先制パンチを喰らわせておかないと、後で舐められかねないからな・・・)


 そろそろ頃合い、と判断したのか、教師が電子黒板の前まで歩いてきて、私のすぐ隣に立ち、私の肩に軽く手を掛けた。


 「今の吉川さんのお話は、私だけでなく、校長先生や教頭先生も、吉川さんのご両親から詳しく伺っています。学校を替ったばかりで、さらに記憶の面で、いろいろと戸惑われることも少なくないと思うので、みんな力になって助けてあげてね」


 私は、神妙な面持ちで、生徒たちに向かって深々と頭を下げてみせた。


 「それじゃ、吉川さんの席は、窓側の一番後ろね。背が高いから、一番後ろで良いわね?」


 教師に促されて、私は自分の席に向かって歩き出した。足といい、胸といい、私の身体中に無遠慮に注がれてくる、クラスメートの品定めするような視線を感じながら。


 先ほどまで私を睨んでいた少女は、視線を合わせようともせず、頬杖をついて、廊下側に顔を背けていた。

ようやく主人公が活躍できるようになります!

書いていて、私も嬉しいです!


ご評価を頂けますと、さらに前進する気力を頂けますので、何卒よろしくお願い申し上げます!

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