羞恥の境界
扉の外には廊下があった。部屋の中と同じような、よく磨かれた冷たそうな床が左右に延々と延びていき、その中央あたりに、階段かエレベーターへの入り口と見える通路が接続しているのが見えた。
俺は、相変わらず、お尻を床につけた姿勢のまま扉まで這いずっていき、そこから廊下に首だけ伸ばして、恐る恐る左右を見回したが、誰かが歩いてくる気配も無い。
こんな姿勢のままで廊下に這いずって出て行くのは、いくら何でもさすがに気が引けた。少しずつ、しかし、確実に強まってくる尿意の中で、俺は焦燥感に駆られながら、とりあえず誰かが通り掛かるのを待つことにした。
それはそうだろう。失敗したコサックダンスの姿勢のまま、どこかの施設の廊下に中年の男がパジャマで座り込んでいたら、大抵の人間は仰天するし、下手をすると、不審者とか変質者として警察に通報されかねない。
そんなことになれば、いくら裁判で無実を主張したって、最高裁で判決が確定するまで、俺は「起訴休職」という過酷な待遇に追いやられるし、当然、マスコミの「犯罪者決め付け型」の報道によって、妻まで世間から白い眼で見られることになる。私も妻も、両親は既に亡くなっていたのが、唯一の救いではあるが・・・。
万一、有罪が確定したら、懲戒免職は免れない。「やっと課長職まで昇進できたものの、それ以上の昇進はちょっと難しいだろうな」と自分でもわかっているが、こんなところで懲戒免職になったら、退職金も出ないじゃないか!
もう勧奨退職の慣行など、とっくの昔に無くなっているし、「天下り」なんて期待もしていないから、せめて65歳の定年まで勤め上げてやろうと思っているのに!
懲戒免職になったら、年金は出ないのかな。「定年から3年間は退職金と親からの相続遺産で食いつなぎ、68歳から年金を受給する」という人生設計が、ガラガラと音を立てて崩れていくような気がした。
様々な思いが脳裏に去来する。
ここはどこなんだろう、これからどうなるんだろう、職場にはきちんと連絡が届いているのだろうか。
部屋のカーテンから漏れる日の光から考えると、明らかに今は日中の時間帯だ。ということは、俺は、職場に出勤しないで、ここでコサックダンス状態で座っていることになる。無断欠勤ということになっていれば、それこそ懲戒処分を受けることになってしまう。とりあえず、スマホで職場か自宅に連絡してみるか。
スマホ? そういえば、目が覚めた時から、スマホどころか、自分の私物らしいものをまったく見ていない。もしかして、私物をすべて取り上げられて、この施設に放り込まれたってことか? 私物をすべて取り上げられる施設って、もしかして、刑務所?
いくら考えても解答が出ない中で、しかも、静寂の中で、独りで考えごとをしていると、どんどんと悪い方向に考えが転がっていく。そのうえ、ベッドの上から部屋の扉まで、僅か数メートルを這って移動しただけなのに、身体の疲れ具合が尋常ではない。俺は、部屋の扉を開けたまま、左膝に顎を置いて、自分でも気付かないうちに目を閉じて、浅くまどろんでいた。
ドサッ。
ずっしりとした重量感のある何かが、床の上に落ちた音を聴いて、俺は目が覚めた。目の前の床には、女性のバックが落ちて、色鮮やかな財布や丁寧に畳まれたハンカチが散らばっている。俺は、ふっ、と顔を上げた。
「理紗っ!」
俺と同じくらいの年齢の、そして、少しやつれた表情の薄化粧の女性が、目を大きく見開いて、いきなり甲高い声で叫んだ。いきなり近距離で、しかも渾身の力がこもった大声で叫ばれて、俺は飛び上るほど驚いた。実際、数センチ程度、床から飛び上ったかもしれない。
驚愕と、そして少しの恐怖が入り混じった表情のまま凍りついていると、彼女はいきなり近づいてきて、ガシッと俺の肩に手を掛けた。その女性とは思えぬような腕力に、俺の恐怖レベルはキュキューッと飛躍的に上昇した。
「理紗っ、理紗っ! 良かった、良かった! あぁっ!」
あとの言葉は続かない様子で、彼女は床の上に座り込むと、見開いた眼からぽろぽろと涙を零しながら、いきなり俺の身体を抱き寄せた。俺は、桃の花のような甘い香りに包まれた。
「あ、え、いや、その、あの、えーと・・・お人違いではありませんか? あと、ここ、どこですか?」
またもや女性とも思えぬ腕力で強く抱きしめられて、俺は激しく当惑しながら、たどたどしく問い掛けた。
「何言ってるのっ! ここ、病院よっ! しっかりして頂戴っ!」
抱きしめられたと思ったら、今度はいきなり引き剥がされて、彼女は俺の顔を両手で挟み込みながら、とても近くから、怖い顔で俺を見つめた。他人の顔をこんな近距離から眺めたのは、ずいぶん昔にあったことのように思う。おそらく、結婚当初だったに違いない。
(・・・ああそうか、病院なんて、ずっと来てなかったからなぁ・・・最近の病院はあの消毒液の匂いもしないんだな・・・でも・・・なんで俺、病院にいるんだ? どこかで倒れて運ばれてきたのか? しかし、自分と同年配の女性の顔というものは、こんなにあちこち、その、「支障」があるものだったんだな・・・「理紗」って誰だ? 近くに見当たらないぞ・・・・)
こんな状況下でも、一瞬、女性の顔の造作を冷静に観察して評価してしまうのは、俺も男性の端くれだからだろう。しかし、すぐにそんなことより、「理紗」という名前のほうに関心が移った。
まるで観察するように、俺の顔をじっと見つめている彼女に、それを問い掛けようとしたとき、忘れかけていた尿意が急に強まった。
激しく緊張したせいで、一気に「危機」のボルテージが上がったようだ。子供の頃から、試験直前とか、人前でレポートを説明するときとか、緊張すると必ずトイレに行きたくなる。そういえば、公務員試験の面接のときも、トイレに行きたくなった。しかも、自分の人生を決める「分岐点」だということをあまりに強く意識した結果、かつて無いほど緊張の度合いが強まったせいか、尿意ではなく、激しい神経性の腹痛、つまり下痢になった。お陰で心身とも消耗した状態で面接に臨むことになり、面接官、のちの上司によると、「良い具合に肩の力が抜けていた」ようだ。
まったく、うんざりするほど正確な身体反応が、42歳になった今でも、こうして再現されてくる。人の身体は正直なものだ。
「あの、実は、そのお手洗いに行きたいんですが・・・さっきから、ずっと我慢してて・・・そろそろ限界っぽいです・・・」
見ず知らずの他人、しかも年配とは言え、女性に「トイレに行きたい」と告白するのは、やはり決まり悪いものだ。
「えっ、あら、そうだったの? 大人用おむつだから、そのまましてしまっても大丈夫だけど・・・お洗面に行きたい? だったら、看護婦さん呼ぶから、ちょっと待っててね!」
(大人用おむつって、介護用のあれか! あれを履かされていたということは、もしかして、寝ている間に尿意等を催した際には・・・はうっ!)
なんという羞恥プレイだろう。いや、赤ちゃんプレイというべきか。世間には、そういうプレイの好きなカップルもいるらしいと聞くが、少なくとも、俺にはそういう趣味は無い。寝ている間、一体、何回、他人におむつを替えられたのかと思うと、羞恥心で泣きそうになる。もともと色白の俺の顔は、おそらく、今、真っ赤になっているのだろう。自分でも顔が熱いのが明瞭にわかる。
廊下を急ぎ足でパタパタと走って行った彼女は、やがて看護婦や医師らしい人々を伴って戻ってきた。医師と思われる白衣の人物は、どこか痛いところはないか、等々の質問をしたうえで、ようやくトイレに行くことを許してくれたが、俺はもう「限界」寸前だった。一人で歩くことはおろか、立つこともままならないため、看護婦らしき人が肩を貸してくれた。
看護婦らしき人は、あまり美人ではなかったが、普通レベルの容姿ではあった。男性の悲しいサガで、無意識のまま、胸元に視線が行ってしまったが、胸は大きいほうだった。そんな女性に肩を貸してもらって、身体を密着させられると、健康な男子としては、局部に「異常」が生じてしまう。それは、こんな中年のオッサンでも、一応、まだ「現役」である以上、男子高校生とほぼ同じリアクションが生じるはずである。
しかし、今日に限って、局部にそうした「異常」がまったく感じられなかった。
(もしかして、怪我のせいで、男性機能に深刻な障害が発生したのかもしれない・・・。いや、麻酔かかっていると、一時的にそうなるって聴いたこともあるし・・・いやいやいや、今は、そんなことを考えてる場合じゃない)
自分の右半身が機能しない、正確には、「機能していても、ギブスらしい何かで固定されていて動かせない」という状態は、予想以上にしんどかった。最初は、俺も二人三脚よろしく、看護婦の歩みに自分の身体の動き、というか、揺れを合わせようと努力していたが、自分の身体を自分の意思でコントロールすることがあまりに難しいことがわかり、結局、最後は看護婦に引きずられていく形になった。
大の男が女性に引きずられてトイレに連れて行かれるという構図は、さすがに屈辱的だったが、すれ違う人たちは、そんな俺たちの様子にちらりと一瞥をくれるだけで、あまり関心を示さなかった。
(まあ、病院だからな、ここ。俺みたいに身体の動かない男性がいるのは、別に珍しいことじゃないんだろうな)
俺はそんなふうに納得し、そのまま看護婦に引きずられて、トイレの前まで連れてこられた。さすがに、ここから先、つまり、男子トイレの中まで看護婦についてきてもらうのは、激しく気が引ける。さらに、用を足すときまで、傍についていられたりしたら、羞恥心で身体が溶けてなくなってしまうだろう。まあ、看護婦は、男性の局部なんて見慣れているので、なんとも感じないかもしれないが、こっちは看護婦に局部を見られるのは、生まれて初めてなんだから、仕方ない。
「あ、とりあえず、個室のほうに入れて頂ければ、あとは自分で用を足しますから。用が済んだら、お呼びすればよいですか?」
おずおず、といった感じで俺が切り出すと、看護婦は実に爽やかな笑顔で、こう言った。
「それじゃ、終わったら呼んでね。外で待ってるから」
そう言って、彼女は、ピンク色のトイレのドアを開けた。
「え、ここって!?」
トイレの中には、小便器がひとつも無く、個室しか並んでいなかった。
とりあえず、書き上げてみました。3連休というのは、こうした純粋にプライベートな作業をしっかり行えるのが嬉しいですね。明日も、一話程度アップして、その後は一週間に一話程度のペースで、息永く書き続けていきたいと思います。