静謐の城鎮
物音ひとつ聞こえない、静まり返った長い長い廊下を、教師から半歩ほど遅れて、私は歩いている。
廊下の窓からは、澄みきった青空と、その下に聳えている近隣のビルの上層階が、まるでスナップショットのように見えている。
初登校日であるため、つい先ほどまで、校長室で校長、教頭、担任教師、両親、そして、私の6名から構成される「六者協議」が行われていた。
私の入院中に、両親、とくに母親が何度か学校を訪れ、学校サイドへの事前に十分な「根回し」若しくは「認識の摺り合わせ」を行っていたようだが、今日はその「最終セレモニー」として、私を同席させたうえで、「合意事項の最終確認」を行うことになった。
学校サイドからは、私に対して、自分の体調、とくに記憶喪失の程度についての詳しい説明が求められたが、この話はもう何度となく繰り返されたことなので、私は淀みなく、しっかりとした口調で説明を行い、学校サイドは、とりあえず安心したらしい。
事前に両親から詳しい説明を受けていたにもかかわらず、やはり、自分たちの目の前で、本人の口から何が語られるのか、きちんと最終確認しておく義務が、学校サイドにはあるのだろう。
自分の社会人としての長い経験に照らして考えると、仮に自分が同じ立場だったら、やはり同じように行動すると思うので、私には、こうした学校サイドの対応について、何の違和感も不満も無い。
本日の「六者協議」のメインテーマは、私の記憶喪失について、「他の生徒たちに告知するのか否か」、「仮に告知するのであれば、誰が行うか」、「仮に告知するのであれば、どこまで踏み込んで説明するのか」、という点だった。
前日、日曜日の夜に話し合った際、この問題に関する私と両親の考えは既に固まっていたが、予想通り、学校サイドは、「そちらのご判断を最優先したいが、仮に告知するのであれば、ご本人ないしご家族が説明すべきである」と言ってきた。
私の「個人情報」の取扱いに関する非常にセンシティブな問題であるため、リスク回避の観点から、学校サイドがこうした反応をすることは、完全に想定の範囲内だった。
学校、とくに私立学校は「経営体」である。建前上、営利を目的としていないことになっているため、マクロ経済的には「対家計民間非営利団体」と呼ばれる「経済主体」のカテゴリーに属している。
営利を目的としようがしまいが、「経営体」である以上、自分の組織を守るため、リスク回避的な行動を取るのは、ごく自然の振る舞いである。
「教育者だから」とか「聖職者だから」というフィルターを通して見るから、人は、学校に対して、つい道義的責任を求めたくなるものだが、「経営体」という角度から見れば、民間企業と同様に、私立学校がリスク回避的な行動を取ることに、何の不思議もない。
私立学校は、何らかの原因で巨額の赤字を出せば、あるいは、非常に好ましくない風評が流布されれば、ただちに存続が危うくなる、という点で、民間企業とほぼ同じ行動原理で動いて然るべき存在なのだ。
私は、かねてから私立学校という存在をそのように見ていたので、今回の学校サイドの対応にも、別に不満も違和感も感じなかったが、母親は、「学校側がこちらに責任を一方的に押し付けてきている」と感じたらしく、言葉の端々に不満を滲ませていた。
結局、「六者協議」の結果、記憶喪失についての説明は、私に一任されることになった。要するに、「言いたくないことは言わなくて良い」ということらしい。
協議中に、「母親が教室に同行して、母親から生徒たちに告知する」という案が、一瞬、浮上しかけたが、そんなことをされれば、私は「痛い子」としての存在が確定してしまい、これから先、学校内で身の置き所が無くなるのは明白なので、はっきりと「それだけは、やめてくれ」と主張しておいた。
昨日の夜、両親と話し合った時から、告知の件に関する私の方針は固まっていて、全く揺らいでいない。
「全てを包み隠さず話す」という一点に尽きる。
何か少しでも隠し事をしていると、将来、それが表に出るようなことがあった場合、「他にもまだ隠していることがあるのではないか」と疑われ、私に対しても、そして、学校サイドに対しても、生徒たちの信認は、確実かつ大幅に低下する。
そして、それは、少なくとも私にとっては、学校内での孤立に直結し、場合によっては、生徒たちによる「明示的な疎外行為」のターゲットにされかねない、危険この上ないことだった。
私は、他人と馴れあって群れるのは全く好きではない。
他者の行動を観察したり、独りで努力して自分のスキルレベルを黙々と引き上げていく、「自己研鑽という名目の単独行動」の方が遥かに好きだが、かといって、「明示的な疎外行動」の対象にされるのは、真っ平ご免だった。
単に「放っておいてもらいたい」だけであり、攻撃されるのはうんざりだった。いちいち対処するのが面倒だし、何よりも、そういうくだらない「足の引っ張り合いゲーム」を楽しむ「低レベルの子供たち」と関わりを持つ自体が、「大人」である私にとっては、耐えがたいほど憂鬱だった。
いざとなれば、「お嬢さん学校の生徒たちが、記憶喪失の同輩を寄ってたかっていじめて、不登校に追い込んだ」という「反社会的行為」を、映像・音声などの証拠付きで、週刊誌など、その手の話が大好きな各種のメディアに持ち込んで、疎外行為の首謀者の社会的生命を抹殺することは、いともたやすいことだったが、そうした強硬手段は、なるべくなら使わないに越したことはない。
自分を取り巻く環境が一変した現在、そういうことに労力を使う余裕は無かったし、そもそも面倒くさいし、後味も良くない。
ネットの普及によって発行部数や視聴率の低下に見舞われている新聞やテレビも、読者や視聴者へのアピールを狙って、最近は、意図的にセンセーショナルな報道を行う傾向が強まってきており、こうした「いじめネタ」は、彼らにとって格好の餌だった。
所詮、テレビや新聞も、企業から広告掲載料やCM料を受け取って経営が成り立っている営利企業である。発行部数や視聴率が低下して、こうした収入が減少すれば困るわけであり、読者や視聴者を引き付けるような過激な報道に傾くのは、これもまた経済合理的な行動である。
もうひとつ、初登校に当たって、固く決意したことがある。
これまで、いろいろと考え事をする際に「俺」という一人称を使っていたが、これから長い時間を過ごすことになる、このお嬢さん学校の同輩たちの中で、つい、うっかり、この一人称を口走ってしまうことがあると、さすがに品位的にまずいのだ。
世の中では、「ボクっ娘」までは許容されるだろうが、少女が「俺」という一人称を使えば、確実に品位を疑われるだけでなく、そこはかとなく「ヤンキー臭」が漂うことなり、このお嬢さん学校の中で、誰も自分に寄り付かなくなることは、火を見るより明らかだ。
このようにリスクが高いと考えられる以上、今後は、どのように場合でも、「俺」という一人称で物事を考えるのは控えるべきであり、常に「私」という言葉を使うことにした。
ちなみに、「私」という一人称を使うことに、全く抵抗感は無い。
職場では、自分を含めて、職員のほぼ8割程度が「私」、残りの2割程度が「僕」という一人称を使っていたし、自宅では、妻と二人暮らしなので、いちいち主語を言う必要が無かった。
せいぜい、職場の後輩と飲みに行ったときに、ちょっと格好をつけて「俺は・・・」という程度であり、そもそも、そのような「後輩と飲む」という機会が激減した今日では、もはや口語としては「俺」という一人称は殆ど使わなくなっていたようだった。
そんなことを、つらつらと思い出しながら、私は教師に随って、長い廊下を黙って歩いている。
登校中の少女たちから好奇の目で眺められるのはご免被りたかったし、「六者協議」に相応の時間を要することも予想されたため、始業時間より1時間も早く登校したにもかかわらず、結局、今は始業時刻を僅かに過ぎており、廊下は既に静まり返っている。
理紗の部屋で見つけた現金や事故現場の謎、私の刺傷事件の際のUSBを巡る謎、妹との緊張関係・・・未解決の問題は山積しており、そのうえ、学校生活が始まれば、精神年齢では遥かに年下の少女たちとの交友関係や勉強などの悩みもまた増えてくるだろう。
(・・・・少なくとも、当面は、何も明るい材料は無いな・・・・)
私が配属された「4年A組」を示す「4-A」という教室表示板が、だんだんと近づいてくる。
私が思わず小さな溜息を吐くと、担任の若い女性教師が振り返って、心配そうに私を見つめた。
「大丈夫? 記憶のこと、言いたくなければ、無理に言わなくて良いからね。これから、幾らでも話す機会はあるから、今日、無理する必要は無いわよ」
(まあ、普通、そういうふうに誤解するよなぁ・・・・いや、記憶の件は、もうとっくの昔に肚を固めてるから、別に良いんだけどね・・・・)
私は、心の中で、さらに一段と大きな溜息をつきながら、努めて柔和に微笑んで見せた。
「ええ。でも、今日、ここできちんと話しておかないと、言う機会を逃して、言いづらくなってしまう気がするので・・・これから、同じクラスの人たちには、大なり小なり、いろいろと迷惑をかけると思うから、早めにきちんと事実を話しておきたいんです・・・・」
「そう・・・わかったわ。それじゃ、私が名前を呼んだら、教室の電子黒板の前に出て、自己紹介してね」
「4-A」の教室のドアの前で、教師は、一旦立ち止まると、「いいわね? いくわよ!」という意思を込めて、私に軽く頷いてみせた。
私も、間髪をいれず、強く頷き返した。
教師の到着が遅れたせいか、教室の中からは生徒たちの話し声がそれなりに賑やかに聞こえていたが、教師がドアを開けた次の瞬間、教室の中は静まり返った。
教師に続いて、私が入室すると、生徒たちの視線が一瞬にして私に集中した。中には、明らかに「あの子、誰?」という会話を、視線で交わしている生徒も見受けられた。
私は役所の会議や民間団体との会合などで説明する機会が多くかったので、人前で話すことには慣れていた。
しかし、こんなにも純粋な好奇心と期待のこもった、多くの目で一斉に見つめられたのは、ほぼ初めてと言っても良い。
私が、自分の手のひらがじっとりと汗ばんでくるのを実感していた。無意識のうちに固く握ってしまっていた拳を開こうとして、自分の手が微かに震えていることに気付いた。大臣説明や省議の際にも、ここまで緊張したことは少ない。
教室のドアの脇に立っている私と着席している生徒たちを交互に眺めながら、担任教師が話し始めた。
「4月に4年生に編入して来られて以来、体調不良でずっと欠席していた吉川さんが、今日から登校できるようになりました。吉川さんは、まだこの学校には慣れていないと思うので、みんな、いろいろと面倒をみてあげてね。それでは、吉川さん」
教師に促されて、私は、電子黒板の前に進み出た。