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ダブル・スタンダード  作者: 仁科三斗
第二章 「英霊」の帰還
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俺らしい少女

 カーペットに滲んでいる小さな血の染みを見て、俺は、気が遠くなりそうだった。


 「げ、下血してるッ! 腸のどこかが破れたんだ! どうしよう、お母さんっ! このままじゃ、死んじゃうよっ!」


 動揺のあまり、俺は、満身の力を込めて立ち上がると、母親にすがりついた。


 (せっかく、命が助かったのに、また死ぬのは嫌だ! もっともっと生きたい!)


 目の前に突然突き付けられた死の恐怖に、俺は恐れおののいた。どのような形にせよ、死の淵から生還したのに、こんなくだらない形で死ぬのは、どうしても我慢ならなかった。


 いつか死に臨んだときには、決して取り乱したりせず、従容として静かに臨終を迎えたい、と、俺はずっと思っていた。そして、そのようにできる自信があった。この世の中で、見るべきものは全て見た。もはや思い残すこともなかろう、と。


 しかし、実際には、生への強い執着があった。死にたくなかった。ただ、それだけしか考えられなかった。あまりに無様だった。


 少女とは言え、渾身の力ですがりつかれて、母親は少しよろめいたが、俺を優しく抱き締めて、そして小さく微笑んだ。


 「大丈夫よ。ただの生理だから、安心して」


 俺は、ばね仕掛けの人形のように、ピクンと顔を上げた。


 「え、生理?・・・・これが生理なのか?・・・・」


 その言葉を聴くと、母親は僅かな哀しみを瞳の奥に浮かべながら、それでも、俺の頭をゆっくり撫でてくれた。


 「生理のことも忘れちゃったのね・・・・でもね、別に病気じゃないから、安心して良いのよ。女の子は、みんな普通に経験することだから、心配しなくて良いのよ」


 (いや、そういうことは、さすがにわかってますから。でも、これは、「俺」が経験する初めての生理、つまり初潮か・・・初潮のとき、女の子も、みんなこんなに不安なんだろうか・・・・)


 食中毒や下血ではないことがわかって、取り敢えず俺は安堵したが、幾ら安堵したところで痛みが薄らぐわけではない。痛いものは痛いのである。腸というか下腹部というか、そのあたりが闇雲にギューッと締め上げられる。


 「でも、やっぱり痛いよ。痛み止めとか飲んだほうが良いの?」


 「以前は、ロキソトニンを飲んでたはずよ。あの薬が一番相性が良いらしかったから。私も、そろそろかなぁ、と思ってたのよ。前回はね、4月の頭で、あなた、まだ意識が戻ってなかったけど、前回からそろそろ1か月経つし、最近のあなたの食欲が増えてたし・・・」


 「食欲が増すと生理になるの?」


 「いや、その逆よ。生理が近くなると、無性に食欲が増えるの。人にもよるけどね。少なくとも、私もそう。綾乃は、さほどでもないみたい」


 (そういうものなのか? 生理が近づくとイライラするって話は聴いたことがあったけど、食欲が増えるってのは初耳だな。気持ち悪くなって物が食えなくなる、というのであれば、まだ理解できるが・・・・)


 「それはさておき、まずは下着を替えないとね・・・・あなた、アレの使い方、覚えてる?」


 母親は、いつもの言い方なのか、意図的に言葉をぼかした。


 「アレって、生理用品のこと? 使い方どころか、どういうものなのかすら、まったくわからない。そもそも生理っていう単語とメカニズムは知識として知ってるけど、それに関する実際の記憶は全くないよ・・・」


 (これはまったくの事実だ。嘘は言ってないぞ)


 予想通り、母親は「不憫な子」モードに入ってしまい、目頭を指で拭い始めた。


 「そう・・・初めてだったから、びっくりしちゃったのね。でも、大丈夫よ、少しずつ思い出して行こうね。それじゃ、着替えようか。あ、その前に・・・・」


 母親は、部屋のドアを少し開けると、階段の中ほどで待機している父親に向かって呼びかけた。


 「お父さん、理紗、病気じゃなかったから。あとで詳しく話すから、取り敢えず、階下したに戻ってて」


 父親が階段を下りていく足音が消えると、母親は、何の躊躇も無く、部屋の衣装箪笥の一番上の引き出しから生理用品を取り出すと、ティッシュをたくさん用意したうえで、俺に下着を脱ぐように指示した。おそらく、この引き出しに生理用品を自動的に充填しているのは母親であり、これが、このうちの女性たちが、父親から見えないように構築した「配給システム」なのだろう。


 母親から生理用品の使い方の手ほどきを受けるのは、俺にとって、このうえもなく恥ずかしいものだった。いい歳をした男性の俺ですら、めちゃくちゃ恥ずかしいのだから、「花も恥らうお年頃」の少女は、もっと恥ずかしいことだろう。女性はみんな、こうした「通過儀礼」を経てきているのだろうか。


 生まれて初めて経験する痛みには、さすがにすぐには慣れることができなかった。


 そのうえ、幾ら母親から大丈夫だと太鼓判を押されても、生理用品からの「漏れ」が心配で、俺は身動きが取れなかった。


 母親は、自分も大昔に経験済みのことだったのだろうか、俺の事情をすぐに察したらしく、代わりにダイニングに下りて行って、コップに入った水と消炎鎮痛剤「ロキソトニン」を持ってきてくれた。


 ロキソトニンは、風邪で発熱したり、喉が痛くなったときによく使っていた薬だが、生理痛にも良く効くものだったらしい。確かに、あの薬を服用すると、喉の痛みがかなり和らぐので、俺も風邪をひいたときには自ら医師にリクエストしていたものだったが、こんな用法もあったとは、ついぞ知らなかった。


 「これから、毎月、これが来るのか・・・・うんざりだ・・・オンナって、損だ・・・・」


 憂鬱そうに俺が呟くと、母親が優しく微笑んだ。


 「慣れれば、すぐにどうってことなくなるわよ。もともと、あなたは、そんなに重い方じゃなかったから。きっと、最近、いろいろあって、身体が本調子じゃなかったから、今回はひどくなっちゃったのね。辛い時には、我慢したりせずに、ちゃんと言ってね。言ってもらえれば、幾らでも対処方法があるから。約束ね」


 母親が再び俺を優しく抱きしめてくれたとき、痛みが少し和らいだような気がした。 


 そんなに速く薬が効くわけがなかったが、確かに痛みが少し薄らいだのだ。


 そして、身体がゆっくりと暖かくなり、そして、不安が静かに遠退いていった。俺は、自然に目を閉じて、母親の胸に頭を預けた。理由も無く、ただ、ただ、身体が、心が、暖かかった。


 厳格だった「俺」の母親は、俺に甘い態度を見せるのが躾の上で良くないとでも思ったのか、俺には、とかく厳しい態度で接した。それゆえに、物心ついてから、俺は母親に抱き締められた記憶が無い。


 結局、母親とは、見えない壁を作ったまま、お互いにわかり合うことも無く、俺が入省した翌年に死別することになった。


 自分がスキンシップに弱いのは、そうした幼少期の経験に根源的な原因がある、と、俺は自覚している。 


 妻は、性格的にさほど「母性」が強いわけではなかったが、それでも、時々見せる優しさを、俺はどこか眩しく眺めていた。俺は、妻に母性を求めていたわけではなかったが、それでも、感覚的に母性には弱かったのだ。


 そして、今、母親の鼓動を聴きながら、理由も無く、ただ安心している自分を、俺は自覚していた。


 (・・・・この人を悲しませるようなこと、しちゃいけない・・・・)


 (・・・・自分の眼の前にいる娘は、本当の娘ではない。自分の娘は消えてしまっていて、もう二度と戻ってくることはない。それを知ったら、この人は、どんなに悲しむだろうか・・・事実を話してしまえば、俺はすっきりするが、この人は、これから先、未来永劫、悲しみ、そして、苦しみ続けなければいけなくなる・・・・それは、あまりに不公平で、そして、理不尽な話だ・・・・)


 (・・・・消えてしまった理紗を、必要としている人たちが、確かに存在する・・・・しかし、理紗は、もう、どこにもいない・・・・それなら、俺が理紗になりきって生きていくことが、理紗を必要としている人たちのためになるのかもしれない・・・・しかし、俺は、理紗でないし、理紗にも「なれない」・・・・しかし、理紗に「なる」のではなく、「俺らしい理紗」として生きるのであれば、なんとかできるかもしれない・・・理紗のイメージを崩すのは申し訳ないが、俺は、俺なりのやり方で、理紗として生きる・・・・それ以外に、これ以上、泣く人を増やさない方法は、無い)


 かつての理紗としてではなく、「記憶喪失によって性格まで変わってしまった」新しい理紗として、この家で、そして、この新しい環境で、現実を受け入れて、逞しく生き抜いていってやろう。


 俺は、覚悟を決めた。

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