郭公
ネットで新聞記事などを調べた結果、事件の詳細がようやく把握できた。
2025年3月4日(金)16:30頃、俺は経済財政産業省の正面玄関から出て、観光省と総合開発省の間にある首都地下鉄の入口方面に向かって歩いていた。
役所の入り口付近で待ち構えていた男は、俺が役所から出たとき、守衛が挨拶をしたことで、俺が役所の職員であることを確認したうえで、後を尾行して、地下鉄入口に入る直前の、歩行者通路が少し狭くなっている場所で、後ろから俺をナイフで刺した。
俺の記憶は、この地下鉄入口が徐々に近づいてくる場面で途切れているので、おそらく、その直後に刺されたのだろう。
倒れた俺に馬乗りになって、犯人が止めを刺そうとしたとき、複数の通行人に押さえつけられて身柄を拘束された。俺は、重傷を負っていたものの、まだ息はあり、ただちに救急車で搬送された。
つまり、俺は、即死ではなかったのだ。よって、刺傷はかなり痛かったと思われる。
犯人は、消費税増税(税率20%→30%)に反対して抗議デモを行っていた若者グループの一員であり、法案が衆議院を通過し、運動が下火になり掛っていたことで、焦燥感を強めていたらしい。
そして、経済財政産業省の職員であれば「誰でも良かった」と供述しているらしい。
(誰でも良い、という勝手な動機で刺された、こっちの身にもなってくれ!)
失業した若者たちによる抗議デモが暴徒化して逮捕者まで出しており、コアメンバーの名前などの個人情報がネットで晒され、彼らが社会的にも追い詰められていたことは事実だ。
しかし、自暴自棄になって、こんな事件を起こせば、世論の支持が雲散霧消するのは、あまりに自明だ。おそらく既にリーダーが統率能力を失って、運動自体が崩壊寸前だったのだろう。
病院に搬送された俺は、ただちに集中治療室に送られて、なんとか一命を取り留めた。かのように見えたが、3日後の3月7日に、容態が急変して死亡した。手術部位からの感染症が原因で、腹膜炎を発症したらしい。
ここまでは、とくに違和感が無い話である。正確に言うと、不愉快極まりない内容だが、整合性のある話だ。
しかし、事件翌日からは、俺の知っている事実とは大きく異なる内容がどの新聞記事にも書かれていた。
「刺された平澤さんは、前夜、仕事帰りに立ち寄った池袋のインターネットカフェで、犯人グループが置き忘れたUSBを拾った。その中に都心水害テロ計画の計画書が格納されていることに気付き、内務省の治安担当部署に届け出ようと役所を出たところで、たまたま犯人に襲撃された」
「身を挺して国民をテロから救った平澤さん、無念の逝去」
「政府、故平澤さんの国民葬を検討。野党は前例無しと強く反対」
「故平澤さんに従四位を叙位、勲二等瑞宝章を死亡叙勲」
俺は、いつの間にか、自分が「英雄」に祀り上げられていることを知って、大いに驚愕した。
(従四位って言ったら、公家、殿上人だよ、これ・・・・なんだ、こりゃ?)
明治まで、従五位以上の貴族は御所の正殿である紫宸殿に上ることを許され、彼らを「公家」とか「殿上人」と呼んでいた。死亡叙勲にせよ、俺は従四位なので、「公家」には間違いないのである。
そのうえ、野党の反対を押し切って、武道館で国民葬まで行われていた。
妻は「悲劇のヒロイン」としてマスメディアで同情的に報道されていたが、警戒心の強い彼女は、いずれ週刊誌などが「粗探し」に動くことを予想して、早々に官舎を退去し、どこかに隠棲してしまったらしい。
聡明な彼女らしい行動だが、これで彼女とコンタクトを取ることは、ほぼ不可能となった。マスメディアから身を隠している人物を、一介の女子高生が見つけられるわけがない。
まあ、「俺」の生命保険金と労災の遺族年金が受けられるだろうから、取り敢えず生活には困らないだろう。労災が下りているから、犯罪被害者給付金は支給されなかっただろうが、葬儀の費用は公費負担になるから、その分は助かったはずだ。俺の実家の墓地を使ったはずだから、墓地の購入費も発生していないはずだ。
(子供がいないことが、こんなところで幸いするとはなぁ・・・)
俺は、思わず溜息をついた。
そんなことよりも、最大の問題は、USB云々の話である。
そもそも俺は、事件前日は池袋のインターネットカフェなどに行っていない。あの夜に行ったのは、讃岐うどんチェーン店「花びしうどん」の新宿西口店だ。
釜揚げうどんに「いか天」をトッピングして食べて帰ったが、USBなど拾わなかったし、さらに事件当日、俺が行こうとしていたのは、内務省ではなく、日本産業会議所だった。両者の建物は隣接しているものの、一方は役所、一方は民間団体であり、明らかに違う施設だ。
ましてや、犯人グループが水害テロ計画を準備していたことなんて、昨日、病院から帰宅する車内で母親から知らされるまで、俺は何も知らなかった。
(一体、なんなんだ、これは・・・・誤報もいいところじゃないか。当日の俺の行き先なんて、調べれば簡単にわかることじゃないか。どうして、経済財政産業省は、こんな誤報を放置してるんだ?)
そこまで考えて、俺は、何かに弾かれたように、ハッと顔を上げた。
(放置しているんじゃない。むしろ、積極的に煽っているのかもしれない、これは・・・・)
確かに、俺の事件を契機として、消費税率引き上げ反対運動は完全に雲散霧消しただけでなく、参院での審議も非常にスムーズに進んだらしい。
今や、「消費税率引き上げに反対する」と公言しただけで、テロリストと同類視されかねない空気が世の中に横溢しているようだ。
(こういうの、逆に困るんだよなぁ。消費税率引き上げの必要性は、きちんと説明すれば、国民は誰でもわかってくれるはずだ。出ていく社会保障費と入ってくる税収の間の、ごく簡単な「引き算」の話なんだから・・・・まあ、政府が幾ら冷静に説明しても、もはや聞く耳を持たなくなっていた若者の失業者グループの方が悪いんだろうけど・・・・)
もはや「死んでいる」俺が当惑する必要は全くないが、政府が俺の事件に便乗して、実に効果的なキャンペーンを展開したのだろう。
まあ、それで、長年の政策課題がとりあえず解決し、妻も政府から相応の見舞金をもらったりしているはずだから、俺自身には、政府の対応への不満は無い。強いて言えば、「うまくやりやがったな」という、財政部門への軽い嫉妬ぐらいだ。
ただ、USBの件は全く根も葉もない話であり、一体、どこからそういう話が捏造されたのか、心当たりが無かった。
少なくとも、政府が自ら進んでこの種の捏造を行うことは、まずあり得ない。白地に絵を描くような大きなシナリオを捏造しようとすれば、当然、内部告発が出るリスクを覚悟しなければならず、このコンプライアンス全盛のご時世に、官僚は、決してそんな危ない橋を渡ろうとはしない。
あんなに厳重に秘匿されてきた外交機密の「沖縄密約」だって、結局は外部に洩れることになったのだ。世の中への影響が大きい機密ほど、隠し続けることが難しくなるものなのだ。
政府絡みの「陰謀」を描く小説は少なくないが、実際には、官僚のこうした「リスクを嫌う心性」をきちんと理解していない作家の創作に過ぎない。
(しかし、俺のスーツからは、実際にUSBが発見されている・・・・誰が俺のスーツにUSBを入れたんだ?)
さらに、新聞記事によると、「俺」は、事件の直前に内務省の治安担当部署に電話を入れており、「これからUSBを届けに行く」と告げたらしい。
当然、そんな事実は無い。
あの日、俺は役所を出る直前にトイレで用を足しており、出掛けるのが遅くなってしまったため、役所内を走るようにして玄関に向かっており、どこかに電話を入れる余裕なんて全く無かった。
(とにかく、俺が刺された経緯と死亡した理由は、それぞれきちんと確認できたけど、USBの件は腑に落ちないし、非常に気になる。USBについては、もう少し時間が経って、俺の生活も落ち着いたら、調べてみる必要があるな・・・・)
俺は、パソコンをシャットダウンすると、ベッドに仰向けに横たわった。事件以外の、2か月間分のニュースをチェックする気力は、もはや残されていなかった。
(俺と理紗の「魂」が入れ替わったのは、俺が刺されてから病院で死亡するまでの3日間のいつか、だろう。もし、俺が即死だったとしたら、こんな入れ替わりが起きることはありえず、理紗が消えることも無かったはずだ・・・・)
理紗の魂が消えたことは、少なくとも俺の責任ではない。現代医療の限界であり、不可抗力だ。「英雄」の命を守るため、医師も万全を尽くしてくれたに違いない。しかし、俺との入れ替わりが起こらなかったら、理紗が消えることもまた、ありえなかったはずなのだ。
刺された俺が責任を感じる必要性など、あるはずが無かったが、理紗に対して、何か後ろめたい気持ちを感じて、深い溜息をついた。
(これから、一体、どうやって生きていったらいいんだ・・・・もう、ずっと「少女」を演じないといけないんだぞ。そんなこと、俺にできるのか? 学校で他の少女たちとも接しなければならないし、この家でも両親やあの妹とずっと暮らしていかなきゃいけない・・・・ずっと演じ続けることなんて、どう考えても不可能だ。いつか必ず馬脚を表すことになる・・・・)
(取り敢えず、学校の勉強とか試験は、まあ、なんとかなるはずだ。忘れている部分もあるだろうが、俺の高校時代と基本はそんなに変わっていないはずだから、努力次第でカバーできるだろう。問題は、やはり、人間関係に集約されるなぁ・・・)
(それに、だ。無事に大人になったとして、俺は誰かを好きになるかもしれないが、現状の精神状態のままだと、相手は確実に女性だ・・・・これは、いろいろな障害が待ち受けていることを意味するぞ・・・・日本では、同性婚とかまだまだあり得ないしな・・・・)
(今から、いろいろと考えて悩んでいても、どうしようもないことばかりだ。とにかく、まずは、目の前に出てきた問題を、ひとつひとつ着実・堅実に処理していくしかないだろう。中長期的な課題について考えるのは、そうした目先の問題に一段落がついてからだ・・・・場当たり的な対応かもしれないが、現時点では予見できないことがあまりに多すぎる・・・・)
これが現実だとは、いまだに信じられない。あまりに呆気なさ過ぎて、実感が湧かない。
病院で「入れ替わり」に気付いた時も、「いずれ理紗とコンタクトを取れば、なんとかなる可能性があるはずだ」と思っていた。
もし、事態解決の糸口がすぐには見つからないとしても、理紗という「秘密を共有できる相手」がいてくれれば、なんとか心の平衡を保って頑張っていけるのではないか、という期待が、心の片隅にあったのも、また事実だ。
しかし、そうした希望が悉く潰えた今となっては、俺は、この秘密を独りで抱えながら、生きていかねばならなくなった。
(少なくとも、両親、とくに母親を騙し続けるのは、辛いよなぁ・・・・あの人、本当に娘のことを愛してるしなぁ・・・・)
母親の心配そうな顔、そして、俺が自力で歩けたときの嬉しそうな顔、時折見せる「不憫な子」モード・・・・母親のいろいろな表情が脳裏に鮮やかに甦ってきた。
(やっぱり、母親には、きちんと言った方がいいな・・・・メンタル面の異常を疑われてしまうかもしれないけど、そうでもしないと、俺の神経が持ちそうもない・・・・母親を騙して「偽の娘」を育てさせ続けるのは、郭公の托卵と、何も変わらない所為だ・・・・)
母親に事態を説明することには、とてつもない困難が待ち受けていることは、容易に想像できた。しかし、母親に事実を話さない「不作為」のほうが、今後、遥かに強く俺を苦しめ続けるに違いない。
(今すぐは無理だろうし、今後も極めて慎重にタイミングを選ばないとな・・・・やり直しが決して利かない、一度きりの大勝負になる・・・・)
腰の痛みが少し強まってきたので、俺は腰を庇って、仰向けから横向きに姿勢を変えた。
(なんか腹もますます痛くなってきてるな・・・まあ、心労を要する事案が一気に押し寄せてきたもんなぁ・・・・今夜はトイレに通わないといけないかもな・・・・やれやれ・・・・取り敢えず、早めに胃腸薬をもらっておいたほうが無難だな・・・・昼の件で、いろいろ両親に尋ねられるのも憂鬱だけど、体調不良のほうがもっと精神的に良くない・・・・)
俺は憂鬱な気持ちでベッドから起き上がると、ドアに向かって歩き出そうとした。
その瞬間、内臓をギュッーと締め上げるような強烈な痛みが腹に走り、俺は立っていられなくなり、自然とその場にしゃがみ込んだ。
今まで経験したことの無いような激痛だった。
(これ、ただの腹痛じゃないぞ。きっと食中毒だ! 家族が騒いでいないところを見ると、午前中に自販機で買ったペットボトルの茶飲料が傷んでいたのに相違ない! 型式の古い自販機だったから、現金が使えたんだけど、中の品物まで古いとは思わなんだ・・・・一生の不覚・・・・)
カーペットの上で四つん這いになっていると、少しは痛みが和らぐことに気付いた。
さらに、思い切ってカーペットの上に寝てしまうと、さらに痛みが薄らぐ気がした。いっそのことベッドに上がって横になれば良い、ということは、頭では十分に理解しているが、身体の奥底から湧き上がってくる激しい痛みを、取り敢えず弱めることに成功しない限り、下手に動いて、さらに痛みが増すのは、どうしても避けたかった。
(・・・・うー・・・・痛い、痛い、痛い・・・ああ、またしても、病院か・・・・今年は、高額医療費控除制度を利用するように、母親に進言しておこう・・・・ぐぅー、胃腸が引きちぎられそうだ・・・・)
カーペットの上に横たわったまま、俺が激しく煩悶していると、階段を上がってくる足音が聞こえた。
(これが妹でなく、母親だったら、助かるんだが・・・・この痛みのまま、自力で階下に降りるのは、ちょっと無理かもしれない・・・)
俺の期待は聞き届けられたようで、やがてドアをノックする音が聞こえた。
「理紗、起きてる? 入るわよ?」
「うー、起きてる。けど、死にそう・・・・」
全く予想もしていなかった娘の返事に驚いて、母親は勢いよくドアを開け、カーペットの上で身体を「く」の字に曲げて煩悶する俺を見て、仰天して駆け寄ってきた。
「一体、どうしたの? 何かあったの? どこか痛いの?」
(あ、自販機で飲み物買ったのは、母親には内緒だった。まずいな、どう答えるか)
「散歩のとき、喉が渇いたから、公園の水道で水を飲んだ。たぶん、それが悪かったんだと思う。猛烈におなかが痛い・・・・腸がちぎれそう・・・・あと、気持ちも悪い。吐きそう・・・・」
「ええっ、ちょっと、あなた大丈夫? とにかく、床じゃなくて、ベッドに寝ないと駄目よ! ええと、今日は土曜だから、近くのお医者さんは午後から休診だし、どうしましょう!? とにかく、立てないくらい痛いのね?」
「立てないかどうかはわからないけど、とにかく猛烈に痛い。激しく痛い。身体の底から痛い。こんなに痛いのは、吐血する前兆かもしれない。うぅー、無念・・・・」
「えええっ、吐血!? お父さん! ちょっとお父さん! 理紗が、理紗がぁっ!」
母親は部屋から飛び出して、ダイニングのいるであろう父親を、階段の上から大声で呼んだ。すぐに、父親が階段を駆け上がってくる足音が大きく響き始めた。
その間も、痛みは続いているうえ、今度は嘔吐感も急速に強まってきた。横になっているのすら、しんどくなって、俺はよろよろと身体を起こし、ベッドの縁に背中をもたれさせるような態勢に変えた。
そんな俺の姿を見た母親は、一瞬、動きを止めて、すぐに階段のほうに顔を向けて叫んだ。
「お父さん、ちょっと部屋に入ってくるの、待って! そこでそのまま待ってて!」
そして、俺の方に向き直ると、小さな声で問い掛けてきた。
「あなた、最近、胸が張ってない?」
「退院する2、3日前から、なんか胸が張ってる。食べすぎで、少し太ったからだと思う」
「そうじゃなくてね、いや、それも、あれの影響ね、きっと」
「あれって?」
母親は、少し前まで俺が寝そべっていたあたりのカーペットを、黙って指差した。
俺の腰の下に位置していたカーペットが、血で汚れていた。